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■05 「――となりますので、孫子は優れた兵法書と言う側面だけでは無く、どの様な場面にも幅広く応用出来る内容です。人生とは極端に言ってしまえば『何事も勝負事』と言えますから、そう考えれば当然の事かも知れませんね」 「は、はい」 「だからと言って、熟考せずに言葉の表面だけを読み取っただけで、付け焼きの刃で戦闘へ応用しようと知恵を巡らせても駄目です。韓非子曰く『巧詐は拙誠に如かず』とも言いますし、勉強した全てを鵜呑みにするのでは無く、春蘭の持ち味を活かす為の言わば『一摘みの花椒』だと考えて下さい」 「……はぁ」 華琳達に伝えるべき事を伝えた後、家を出て待ち合わせ場所に向かい始めてから少々時間が経った。 現在、護衛の任に猛然と立候補してきた春蘭に、道すがらにつらつらと春蘭が放り投げていた課題範囲の『孫子』を教えながら歩く。 勉強は大事なのです。春蘭にとっては特に。 「さて、前置きはここまでにして、今回は勝負事に関しての問題です。勝負は生き物とは言え何事にも基本理念と言うものがありまして、戦場での進退の基本と言うべき考えの一つとして孫子曰く『勝つべからざるは守るなり。勝つべきは攻むるなり』と言いました。では、この文を如何様(いかよう)に解釈すべきでしょうか?」 「え、えぇと『勝ちたいなら守るな!勝ちたいならば攻めろ!』では?」 「違います」 きっぱりと否定をすると、如何にも自信があったのか「がーんッ」と口にしながら春蘭は衝撃を受けている。随分と古典的な。 確かに孫子は『兵は拙速を貴ぶ』と言っては居るが、僕が思うにこれは『攻め』の言葉だけではなく、むしろ『退き際』の事を示していると感じる。 戦に於いて何よりも長期戦は『百害あって一理無し』とされる。 例えば『兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを賭ざるなり』と言う文章は 『多少手際が悪くても、素早く勝負を付けた方が良い。戦術が優れていても、それが長く続くと言う保証は無いのである』 と言う短期戦を臨む攻めの発想ではなく、 『戦争には拙速――つまりは、不味くとも素早く切り上げると言う事はあるが、巧くて長びくと言う例はまだ無い』 と言った、戦況の見極めによる撤退を表しているように解釈も出来る。 攻めるにも退くにも戦況を見極める眼力と、素早い判断力が必要だ。そう言った意味では両方の解釈は間違ってはいないと思うのですが、如何にも『前者』のみしか理解せずに臨機応変に対応する事が出来ない人間が多過ぎる。 撤退と言うのは思った以上に勇気の要る事であり、また優れた判断であります。 解っていながらプライドがそれを良しとしないのも人情の自然ではあるのかも知れない。そう言った人間は、曰く『難に臨んでは苟(いやしく)も免れんとするなかれ』と言って、突撃こそが勝利への近道だと盲目し、困難に猪突猛進に突き進むが、それこそ春蘭に何度も言っているように「熟考せずに言葉の表面だけを読み取っただけの典型的な例」と言えるでしょう。 この言葉のくだりには『義を傷(やぶ)らんが為なり』と書かれて居るのを見落としてはなりません。 なので、この文章を正しく解釈するならば 『困難にぶつかったならば、逃げても良い、遠回りしても良い――その時の状況を見極めて柔軟に対処すれば良い。何も正面突破だけが能では無い。 然し、自分が正しいと信じた事に関してはおのずと別である。ここで困難にたじろくようでは、人間としての根幹に関わってくる為だ』 と言った『仁義』の教えであって、暴走機関車を育成する為の物では無いのです。 思考が大分逸れてしまったが、この説明に関してはもう一度機会を見て説明すべき箇所ではありますね。 「……確かに『座して死するよりは』と攻めの姿勢で死中に活を求めて運良く勝つ事もあります。また、春蘭にはそれを実現出来るだけの力が秘められているのも解ります――が、この場合の意味合いは『勝つだけの条件が無いならば守りを固めよ。そして、勝つ為の条件があるならば攻撃する事である』と解釈します」 今後の教えるべき内容を頭の隅に留めながら、歩みを止めずにちらりと隣を歩く春蘭を窺うと、眉根を寄せながら「むむにゅ」と唸っている。 理解しているかはさて置き、理解しようとする姿勢は見られたので言葉を続けましょう。 「全てが計算出来る物ではありませんが『算段多きは勝ち、算段少なきは勝たず』と言う言葉は、目安としては非常に優秀です。大局での開戦や撤退の判断は軍師の庭ではありますが、局地的な判断は武将に委ねられていますので、一つの参考として覚えていても損は無いかと思いますよ」 そこまで話し終えると、首を捻りながらも春蘭は一度頷いた。 余り理解出来て居ない事が解る表情ではありましたが、今はほんの僅かしか理解出来なくてもいずれはきっと糧になるでしょう。 「……あの、鵬仙殿?」 その後、少しだけ伺い見るような表情で春蘭は小さく声を掛けてきた。 アレです。中身は如何であれ、気の強そうな美女がおどおどとした表情で、上目遣いで覗いてくるのには心にグッと来る物がありますね。 何と言えば良いのだろうか、一つの達成感とでも表現すれば良いのでしょうか。 「ん、何でしょう?」 そんな思いとは裏腹に、努めて平素を装いながら春蘭に言葉を返す。 少しでも弱みを見せたならば負けかと思うのです。 「鵬仙殿、私は何故に道すがらに勉強を教えて貰っているのでしょうか?」 「それは、春蘭が良く御存知では無いでしょうか?」 「いや、その……確かにそうなのですが」 如何にも春蘭は歯切れ悪く言い淀む。 確かに街を歩くと言うのに、これでは無粋でしたかね。 とは言え曹仁さんを迎え終わった後では、僕発案の歓迎会が控えているので学んで頂ける時間はココしか無い訳で――まぁ、大まかな概要は話しましたし、良しとしましょうか。 「ふむ……そうですね、今日はこの辺で終わりにしましょう。僕も勉強の話だけではなく、折角二人で歩いている訳ですし春蘭の話も聞かせて貰いましょうか」 「は――はいッ!任せて下さい!」 「はっはっは、御任せしますよ。最近は色々と立て込んでいて話も出来ませんでしたし、出来るならば月を肴に一献、と機会を設ければ良かったのですが」 「そ、そそれならば、次の機会に是非ッ!」 「では、その機会の時にでも勉学に励んでいる御褒美に、先日手に入った『とっとき』の酒があるのでそれを開けましょうか」 教鞭を振るう際に身に付ける『真面目』と言う表情を外しながら僕は腕を組み替えて、出来るだけ気楽な装いで春蘭に答えた。 「やった、ありがとう御座います!鵬仙殿っ!」 「やれやれ……今からそこまで喜ばれると振舞うのが怖くなりますねよ。これは気を入れて摘む物を用意せねばなりませんね」 「そんな滅相も無いッ!鵬仙殿と共に献を勤しむ事が出来るだけで嬉しいですよ!」 眩しい。 何でしょう、純粋な眼差しに見詰められると湧き上がるだろう気持ちは。 子供の夢を壊してはいけないと思い、クリスマス等のイベント事で頑張る親御さんの気持ちと言えば良いのでしょうか。 これで気合を入れるな、と言う方が無理です。 「して……話は変るのですが、どちらに向かわれるのですか?このままだと通りを抜けてしまいますが……」 「ええ、そうですね。ほら、こないだ華琳達と行ったじゃないですか、杏仁豆腐が美味しいと言う評判を聴いて、この先の通りの角を右に曲がった場所にあった喫茶店に」 まさかこんな異国の遠い時代で『喫茶店』と言う単語を使うとは思いもしませんでしたね。 もう諦めましたが、この世界の技術力は呆れるほどに時代背景を無視している。 僕としては便利なだけなので不満な点は無いのですが、根本となる時代背景は変わらない事は理解しつつも昔――と言うか前世の感覚で『デザート』や『インク』等の言葉を使ってしまう。 個人的には『ブーツ』や『ビキニ』と言った物が当て字で存在しているのに、何故か『メモ』と言う言葉が伝わらないのは納得が行かないのだが如何でしょう。 きっと僕と同じ様な稀有な境遇の人間が居たならば「大いに解るがね」と、間違い無く同意してくれると確信しています。 「あぁ、はいっ!解りました!確かにあそこの杏仁豆腐は美味しかったですねッ!」 「ええ、あれは本当に美味しかったですね」 「……」 「春蘭……口元」 「――はッ!?思わずッ!」 「はっはは、涎が零れそうな程に気に入って貰えたならば、料理人名利に尽きるのでしょうね……気持ちは解らなくありませんが、僕も甘い物には眼が無い性質ですからね」 口元を拭きながら少しだけ俯くように照れつつも、春蘭は小さく相槌を打つ。 その姿が微笑ましく、癒されながら僕は思い付いた提案を述べた。 「春蘭を見ていたら食べたくなってきましたし……待ち人が来て居ないようでしたら、食べて待ってましょうか」 「えッ、本当ですかっ!?それは良い考えですねっ!!」 まるで万華鏡のように眼を輝かせる春蘭と、そんな他愛も無い話をしながら目的地まで通りの角を曲がって後少しと言う所で、不穏な笑い声が聞こえた。 一言で言うならば、頭の天辺からラッパが吹いているような高笑いです。 二言で言うならば、先ほどの言葉の頭に『物凄く聞き覚えのある』と付く訳ですが――。 「……」 「……鵬仙殿」 「いや、言わなくても解っていますよ。僕も一人だけ心当たりがありますから」 先程の弾むような足取りから一変、明らかに歩みが鈍っている春蘭が「何で奴が……」と呟いているのを背中越しに聞きながら、覗くようにして通りの角を曲がる。 「――おーっほっほっほ!おーっほっほっほ!!」 背を隠して扇のように伸びる金髪――よりも印象深い、明らかに重力に逆らっている螺旋を描く髪型。それは何と無く、子供の頃に階段等の段差で遊んだ『レインボースプリング』を彷彿させられる。 その横には何とも言えない――いや、正確に言えば『何も言えない』表情を浮かべた御供の美女が二人。 それだけでも唯でさえ目立つと言うのに、三人が揃って金色の重そうな鎧を着込んでいるのだから、否が応でも周囲の視線を集めている。 「やっぱり、あれは……麗羽君ですね」 「そのようですね」 「……取り敢えず向かいましょうか、目的地ですし」 「正直、気が進みませんが……仕方ありません」 歯に衣着せずはっきりと言う辺りが実に春蘭らしい。 隠そうともせず、あからさまに嫌そうな表情を浮かべて渋々頷く春蘭に苦笑を浮かべながら近付いていく。 「わざわざ道を案内して頂いて、本当に有難う御座います」 「おーほっほっほ、良いって事ですわ。庶民の助けをするのは三公を輩出した名家である袁家の人間として当然ですわ!」 「なるほど、それは実に御立派な考えですね」 「宜しくてよ、宜しくてよ!もっと褒めて称えても宜しくてよ!!」 誰と話しているのか解らないが、相変わらず打っ飛んだ会話です。然も、微妙に話が噛み合って居ない所が何とも言えません。 「……」 僅かに逡巡。 どのタイミングで声を掛ければ良いものやら。 余り話の腰を折るような真似はしたく無いのですが、声を掛けなかったら掛けなかったで言われそうなので、先に挨拶をして居た方が無難ですかね。 「相変わらず元気そうですね、麗羽君」 「ッ!!誰ですのッ!私の真名を軽々しく呼んだのッ――は?」 僕に声に釣られて、憤怒の表情を浮かべて振り返った麗羽君は、僕を視界に入れると呆けた(ほうけた)表情を浮かべて瞬きを繰り返す。 「おやおや、悲しい事を言うじゃないですか。僕の事を忘れたのですか?」 「え、え?あ、あら?」 思考が追いついて居ないのか、麗羽君は随分と可愛らしい表情になっている。 最後に会ったのは一年程前になるが、この歳になるとたった一年でも顔付きが変わるもので、また美人になられたようだ。 目元が印象に残る整った容姿に、女性的な豊満な身体つき――陳腐な言い回しではあるが、優れた彫刻家が彫った女神像の様だと言えるでしょう。 漢字で表せば、やはり『豪奢』と言う表現が適切ですかね。雰囲気で言えば華琳達が『鋭さ』を内包しているのに対して、麗羽君は全体的に『曲線』を描いているようにも感じますので、女性的な魅力で言えば違うタイプになりますが。 「お、鵬仙の旦那じゃないッスか!」 「御久し振りです、鵬仙さん」 「いやはや、変わらず振り回されていますね、御二人さん」 思考回路がショート寸前の自分達の主人を気にも留めず、御声を掛けてきた御二人。 肩に掛からない程度に短く切り揃えられた若葉色の髪の上から、冴えた藍色の鉢巻を巻いている女性を猪々子。 少し青味が掛かった黒髪をおかっぱに切り揃えた女性を斗詩さん。 猪々子は口の端に常に残る笑みが印象的で親しみ易い雰囲気を持ち、斗詩は気立ての良さが優しげな目元に見える女性で、共に『美女』と言って遜色無いでしょう。 「ちょっと鵬仙さん、私に挨拶も無しに二人に挨拶するとは如何言う事ですの!?」 「いや、挨拶はしたではありませんか」 「まぁっ!何たる言い草ですのっ!あのような不意打ちでは挨拶になりませんわッ!確りと私の目を御覧になって言いなさい」 そう言って不機嫌そうに胸を張り、背を反らして僕を見る姿は堂に入った見事な物だが、実に偉そうだ。 とは言え事実、麗羽君は偉いのだから仕方が無いだろう。 個人的にはその踏ん反り返った姿が、へんに魅力的に見えるので嫌いではないです。 麗羽――先程、自身で大々的に宣伝して居たが四世三公の名門『袁家』にして、三国志初期の転換期『官渡の戦い』で有名な河朔の王者であり、姓を『袁』、名を『紹』、字を『本初』と言う。 そして両脇を固める猪々子と斗詩さんの二人が、袁家の二枚看板である猛将『文醜』と『顔良』に他ならない。 曹操や劉備に負けず劣らず、三国志の物語では有名な方々である。 とは言え、こちらも例に漏れずに性格の方は随分と変られていますが。 猪々子に関しては、史実や演義に書かれている文醜像と大幅には違わないが、顔良である斗詩さんに関しては、随分と文官向きの苦労人と言った性格になられたように思う。 麗羽君に関しては――演義等々の創作物関係では、華が無い立場に甘んじている事が多いとは言え、何と言えば良いのやら。言葉に困る性格です。 敢えて言うならば『歌舞伎者』と言えば良いのか、普段の言動は今まで出会った三国志に名を連ねる面々の中で一番の異彩を放っています。 「これは大変申し訳ありませんでした」 「解れば宜しいのですわ」 「では、改めて――袁本初殿、ご無沙汰しております。変わらずのご健勝、ご多幸を心より喜び申上げます」 礼三息の立礼を行い、美しく誠実なお辞儀をした。我ながら惚れ惚れするような調和の取れた動きでしょう。 「……」 求めていたもののような、求めていなかったもののような、何とも表現し難い表情で麗羽君は返答に詰まった。 意趣返しにと思ったのですが、少々度が過ぎたようです。 傾いていた上半身をゆっくりと戻して、なるべく笑みを口元に浮かべながら三度目の正直で求められている挨拶をする事にしますか。 「と、言った挨拶が宜しいかと思いましたが、形式ばった挨拶と言うのも他人行儀な気がしますので、またまた改めまして――御久し振りですね、麗羽君。一年も見ない内に、随分と見違えましたよ」 「ふ、ふん!最初からそう言えば宜しいのですわッ!」 「おやおや、それは随分じゃないですか。こちらが挨拶したのにその物言いはあんまりじゃないかな?」 「ッ……鵬仙さんこそ、その物怖じしない言動は相も変わらずですこと。本当に御久し振りですわね……ご壮健の由で何よりですわ」 ご機嫌麗しく、胸を張りながら満足そうに頷きながら言った麗羽君の表情は、やはりへんに魅力的だった。 その所為だろう。 物事には限度があるかも知れないが、それでも僕は昔も今も変わらず、麗羽君は『威張りんぼ』な方が『らしい』と思ってしまう訳です。 |