■ 小説(SS)TOP ■

Cross Flick Online

 




 ゆらりゆらりと、炎が揺れている。
 ゆるりゆるりと、鼓動に合わせて。
 領土を奪い合う黒色と橙色の世界が囁く。
 ぬるりぬるりと、僕の心が濡れていく。
 くるりくるりと、押しては引いて両手を繋いで回っている。
 夜の影が、移ろう闇が、優しい光が、錯覚の赤が。

 これは夢なのだろうか。ああ、きっと夢なのだろう。
 リズムに僕の身体を委ねる。
 泡沫カタカタ。儚さカサカサ。鼓動トカトカ。
 リズムが息衝く、理屈が躓く。
 とても心地が良い。僕と言う境界線が世界に深く深く浸透していく。

 ――コトリ、と何かの音で僕の世界(リズム)は崩れた。
 融けて消えていた僕の身体が、世界にまた輪郭を作り始める。
 ざわざわと森の葉達が啼く様に揺れる空気を通して何かが動いているのが解った。
 僕は視線を這わせる。
 大岩が座っていた。
 違う、アレは原始の器を持ち生きる蛮勇の民――野蛮なる者(リザードマン)だ。

 誰だろうか。
 買われた記憶も無い。バラした記憶も無い。それ以外なら何だろう。
 どちらにしろ、あんな奇妙な姿をしているのならば忘れる筈は無いのだが。
 不思議だ。不自然だ。何にせよ不可解は不愉快だ。
 虚ろでまばらな感覚のまま見つめる。

 テーブルの上に置かれた、精霊によって灯りを揺らめかすランプの炎が、橙色の光を広げて闇を侵食する。その横の小さく簡素な椅子に大岩と思えるソレは膝を組みながら鎮座している。
 記憶に覚えの無い巨躯を持ち、大きいと言う印象はあるが『太い』と言う感じではない。
 逆に細く『たおやか』に見受けられるのは服を着込んでいるからだろう。彼等は服を着る事を嫌がる人種である筈なのだが、胸元を緩めているとは言えベストスーツ――いや、一度だけ見た事が在る、アレは執事服だろう。
 巨躯を窮屈そうな執事服に詰め込み、眼鏡を掛けて居る姿は精巧な人形のようにも見える。
 静かに本を読み進める姿を見て、子供には人気は無さそうだが絶妙で――とても理知的だと思った。
 知性の薄い野蛮なる者とは思えない、実に『さま』になる。

「――大丈夫か?」
「……あぁ」

 ページが捲られる擦れた音と、低音の掠れた声で空気が震える。
 硬くて重い小石を投げ付けられたような声だったが、はっきりと聞こえる声だった。
 彼等特有の聞き取り難い、文章では無く単語を並べただけに近い独特の喋り方ではない。
 きっと夢だからだろうが、お蔭で少し驚いてしまい返事をするのが遅くなってしまった。
 僕に言っているのか解らなかったが、僕の夢なのだから僕が返事しても問題無いだろう。
 思考が澄んでいる。
 意思を持って僕は言葉を返せる――久しぶりだ、会話をするのは一ヶ月振りだ。

「僕は……大丈夫だ、野蛮なる者」

 言葉が思考に付いてこない。
 天使が通り過ぎるのを待ってから僕はそう答えた。
 何が大丈夫なのかは解らないが、この僕の何処を探して見ても大丈夫な所なんて一つも無いのだ。だからこれ以上如何なろうが、これ以下が無いのだから大丈夫。
 大丈夫では無いから大丈夫。矛盾しているが矛盾していない。
 実に愉快な結論である。
 理論的な発想だ。そう言えば、理想的は何処だ。

「野蛮なる者とは……随分な言い草だな」

 僕は如何やら言葉に振り回されてしまったようだ。
 野蛮なる者は侮蔑用語でもあったのを失念していた。
 如何やら彼の気分を害してしまったようだ。
 これは僕の夢だと言うのに面倒な話だ。
 現実がままならないのだから、夢ぐらいはままなってくれないのだろうか。
 いや、いやいや、いやいやいや、夢に甘やかされたら現実に殺される。
 必要なのはバランスだった。
 しかし、夢が終わってしまうのは困る。
 久々の会話なのだからもう少しぐらいは喋らせて貰いたい。

「改めよう、叡智を秘し人よ――して、何者だ?」

 ページの捲る音。

「何者と言われてもだな……私には化物としか答えられんよ」

 ページを捲る音。

「そんな筈は無いだろう。僕の眼には山岳をただ独り歩くメリクウスの様に見える」

 ページを捲る音。

「それは……何とも言えんな。学が無いのでメリクウスが何者なのか知らんのでね」

 ページを捲る音。

「僕で無ければ危く騙される所だろうけど、それは許さないよ」

 ページの捲る音。

「随分と不穏な発言だな。何やら誤解が生まれていそうだ」

 ページを捲る音。

「誤解では無い、僕が見つけるのは事実だけだ。君は学が無いと言われたね」

 ページを捲る音。

「言ったな」

 ページを捲る音。

「ソレさ。僕が言いたいのは学が無い人間はそんなに速く小説を読む事は出来ないと言う事さ」

 ページを捲る音――が止まった。

「くっくく……君は一つ失念している」

 声を出さずに喉を震わせて笑いながら、愉快そうにページを見せてくる。
 遠目で見ても解る。

「コレは小説じゃない――絵本だ」

 開かれたページには可愛らしい絵柄の猫が描かれている。

「なるほど、前提条件が根本的に違っていたか」

 僕が見つけたのは事実だけだ。
 などと大言壮語を吐いて置きながら、至極簡単と騙されてしまったようだ。
 顔から火が出る思いとはこの事だろうか、と羞恥を感じて見るが、今更僕の人生の汚点が一つ増えた程度で如何と言う事は無いだろう。この身は既に恥辱と汚辱に、僅かに残したプライド以外は大概売り払ってしまっているのだから。
 と、僕自身に言い聞かせて見たが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいらしい。
 顔が火照り、意識が朦朧としてきた。
 羞恥の極み――と言う訳では無さそうだ。思考に段々と靄が掛かってくる。

「学が無さ過ぎて文字が読めないのでね」

 目が霞み見えないが、穏やかな笑みを浮かべているのが解る。
 浮かべていて欲しいと言う願望かもしれないが、そのような気がした。
 ――なんと心地良い音を奏でる打てば響く会話だ。
 僕の後ろで誰かが囁いているのではと錯覚する程に言葉が淀み無く溢れ出る。
 これほどまでに温かみの在る会話は何年振りだろう。
 現実ではこうはいかない。
 僕から求めれば何度か機会は在ったのかも知れないが、会話中に隙を見せるのは自殺行為。ましてや、鎧を脱ぐなど考えられない。
 夢だからこそ安心出来る。涙が出そうなほどだ。
 悔しいものだ――夢を忘れる事も、覚えている事も。
 しかし、夢から覚めたその時には出来れば忘れていたい。
 光を見た後の裏路地は暗過ぎる。
 足元も道の先も見えずに要らぬ隙を作ってしまう。
 何より――孤独で死にたくなるだろうから。

「ただひたすら水を手で掬い上げる日々。道がぬかるむ所が特に気に入っている」

 嘴(くちばし)から迸る(ほとばしる)言葉を口走る。唇から朽ちた言葉で口火切る。
 外に零れる音も、内に沈む思考も、全てを混濁の渦に流し込む。
 優しき夢は綺麗に畳み小瓶に詰めて思考の海へと投げ捨てる。
 やはり――些か悲しい気分だ。

「物悲しいな。こう言う時には何と言えば良いのだろうか、詩人が残した名言が良いのだろうか」

 他人の意など汲む事無く、僕は自己完結を持って世界を終わらせようと準備を始めながらも、自分勝手に意見を求める。

「……ふむ。そうだな、そんな御大層なのは額に嵌めて飾っておけ」

 僅かに戸惑いを含めた答えが返ってくる。
 僕は会話を続ける。

「ならば僕は何と言えばいい」
「逆に私は何と言葉を送ればいい?」
「僕に言葉を送ってくれるのかい。ありがとう」
「むぅ……」

 唸り声。意識が薄れる。
 淡々と喋る。段々と消える。
 靄に抱きしめられる。
 あぁ――やはり名残惜しいな。
 
 するりと意識が落ちるその時に声が聞こえた。



「――ボン・ボヤージュ?」



 ――なんだい、ソレは。





『Cross Flick Online(クロス・フリック・オンライン)』
Error03『油に水銀、火に炎』





 自分は常々食べ物に対して、もっと敬意を払うべきだと思っている。
 誰が、と言う訳ではない。
 あえて言うならば、食事をする不特定多数の人に対してと言えば良いだろうか。
 元々燃費の良い人間では無く、格闘技等で良く動いて事もあって、昔から人一倍食べる人間だった。
 なので、朝昼晩の三食は出来るだけ欠かさぬ様にし、食事を楽しみながらとっていた。
 自分にとって食事とは、何物にも変えがたい魅力がある行為だった。
 些か(いささか)大袈裟かも知れないが、食事の後の満腹感に心地良く包まれていると、心底そう思ってしまう。
 特に空腹の時には、この世で一番真摯な愛を持って食べ物に対応していると断言出来る――例えば、今の自分のように。

「――ッ」

 慌てて唾を吸うように飲み込んだ。
 食事に魅入り過ぎて危なく口から唾が零れる所だった。
 人とは違う口の構造のせいか、少しでも気を抜くと零れてしまう。
 それ位までに空腹の身である自分には、目の前に鎮座している肉の塊は魅力的だった。
 きっと自分自身――ガラと言う存在は、元々が肉好きだったのだろう。その影響もあってか、ガラの存在に引き摺られる形で肉を前よりも好むようになってきた。
 また、本来ならば焼肉でも少し焦げている位が好きだったのだが、今では表面が多少焼けて、中は余熱で火が通っているぐらいの『レア』が好みになった。
 詳しい設定が定められている訳では無いが、リザードマンは『本能』に忠実で『肉食』と言うイメージがある。
 ガラにもそう言う傾向があったのだろう。
 流石に生肉は抵抗が在るが、出来れば生肉に近い状態の方が今の自分には好ましい肉の焼き加減だ。

 生肉に抵抗が在ると、人間らしい思考を持っているとは言え、人が食べる量では満足出来ない身体の構造をしているらしく、目の前に置かれて在るのは常人が食べる事が出来る量の『それ』ではない。
 肉の塊――その名に恥じぬ量で、キロ単位で在るだろう。
 元々量を食べる人間だったが、ここまでは流石に食べれなかった。
 そもそもコレだけ分厚い肉を調理する術を知らない。
 見る限りでも、一度表面が焦げるまで熱して中まで出来るだけ火を通し、その後で焦げた部分を削ぎ落として、もう一度火に当てて味付けをしたのが解る。
 それでも十数センチの厚みが在る肉に、完全に火が通すのが無理なのは日頃の食事で確認済みだ。
 もっとも、何度も繰り返すが今の自分にはソレぐらいが非常に好みの肉の焼き加減なのだが。

 この世界の食文化なのか、それとも地域なのか、自分が住んでいる宿の料理のせいかは解らないが、様々な香辛料が振りかけて在るステーキは、見た目通り大雑把な味付けで、若干だが味が濃い。
 端的に名前を付けるとしたら『原始風・漢のステーキ』と言うべきなのだろうか。
 ガラとなってから肉であれば大概は美味く感じるようになったので、大雑把な味付けだろうが、同じ味付けだろうが食べ飽きないと言えば飽きないのだが、それでもより美味い食べ方を模索するのが、料理を食べる人間としての義務だと自分は思うわけだ。
 四角く長い50p前後の、表面だけではなく中まで硬い『ブシュケット』と言うパンと、様々な果汁を絞ったらしいミックスジュースの入った小樽の他に一緒に用意して貰った、20cm四方程度の大きさの麻袋の中から、おもむろに黒い殻に包まれた胡桃(くるみ)に似た実を三個程取り出し、鷲掴みのまま手の中で砕いていく。
 細かく砕いた実の中身と殻をそのまま肉に掛けると、食欲を誘う香ばしい匂いが鼻の奥を刺激する――この実は『ナユタの実』と言う名前らしい。

 中々手に入りにくい物らしく、時折宿で仕入れる際に金を払って幾分か恵んで貰っているのだが、一週間程前に仕入れる機会が合ったらしく、その際に頭を下げて二十個程だが手に入ったのだ。
 調味料としてはそれなりに貴重なだけあって、味の方もステーキ本来にされている味付けを崩さずに、コショウに近い辛味と匂いを引き立て、一段上の美味さにしてくれる。
 ナユタの実と空腹の二つの調味料が交わりあっている、目の前のステーキは今の自分には言葉にするのが難しい程に魅力的な料理と言える。

 ただでさえこの肉体になってからは今まで以上に燃費が悪くなったと言うのに、昨日は久々の連戦をこなしただけではなく、『ダ・ヴェルガ』の助けがあったとは言え、一人抱えたまま全力で町に逃げ込んだのだ。
 その後に数少ない知り合いでもある宿屋の店主に理由を話し、そこから疲れた身体に鞭打って看病と初めての解毒魔法、それと回復魔法の重ね掛けを行った。
 闘士になる過程で僧兵を修めているので、初歩的な回復魔法や補助魔法は使えるとは言え、肉体関係のスキルならば日頃から使っており、また身体を動かす事なので勝手が解っても、魔法関係は早々滅多に使わない上に、感性に訴えるモノであり、霧を両手で形にするような非常にあやふやで掴み所が無いものなので大変な苦労だった。
 内を巡っている『モノ』は大して減ってはいないのだが、解らず、慣れず、操れずの三拍子が揃った事をしたせいで、非常に精神的に来るものがある。
 普通に渡る分には問題無い狭さの幅の道を、手摺りも無い同じ幅の橋を何百メートルの高さで渡らされているような――渡れるのは解っているが、様々な感情に心乱されて何十倍も疲れるような感覚と言えば良いのだろうか。
 やはり、自分は魔法関係のスキルと相性が悪いようだ。
 そんな不得手な物を、何度も重ねて掛けたのだ。
 ステータス的にもINTが低いので効果が薄いのは解っていた事もあり、出来るだけ連続で重ねなければ不安で、体力面、精神面ともに疲労が溜まってはいたが、安心出来ない間は掛け続けた。
 この身体は睡眠に関してはそこまで必要に感じ無いのだが、食事に関しては別なようで、ろくに食事を取っていなかった事も在り朝方から空腹に苛まれ(さいなまれ)――先程運ばれて来た、目の前に置かれているこの肉の塊が、神から承った褒美の如く輝いて見える。

「これは……堪らない物があるな」

 肉だ。
 肉を食わせろ。
 喰らわせろ。
 喰らい尽くさせろ。
 無意識に咽の奥で呻いてしまった。
 馬鹿な事を考えている自分に対して軽く咳を吐いてから、気を取り直して両手で得物を掴み、構える――と言っても構えるのは料理に使うナイフやフォークの類では無い。
 短剣である。
 姿のみならず、ますます人間離れしてきた感はあるが、食事に関しては人間であった時のままでは色々な面で足りないのだ。自分の両手には人間サイズのナイフやフォークは小さ過ぎて使い勝手が悪い。
 故に、手に馴染みやすいサイズの短剣を愛用させて貰っている。

 右手に持つのは通常のナイフよりも大振りで、全長30cm程で若干の厚みがあり、柄の幅に見合わない程に刃の幅が広い、先端部分が矩形になっている狩猟等に適した俗に言う『ハンティングナイフ』と呼ばれる大振りなナイフ。
 何処と無く刃形状は『鉈』に近い印象を受ける。
 左手に握るのはフォーク代わりに使う短剣で、長さは全長30cm程だろう。
 刃は厚いが幅は狭く、両刃で直身であり、特徴的なのは柄の部分だろう。握りの部分が十字の形をしており、人差し指と中指を鍔に掛けて、挟み握りこむようにしながら持つ形になっている。
 『テレク』と言う短剣らしく、フォークとしての使い勝手はあまり良くないのだが、ハンティングナイフを買う際に、形状が面白いと言う理由で買ってしまった。
 衝動買いに近いモノがあったが気に入った物は仕方が無い。
 多少使い勝手が悪いと言っても、正しい使い方をしている訳では無いのだから、文句を言っては短剣が不憫だ。

 申し訳の無さを幾分か感じながらテレクで肉を刺し、右手のハンティングナイフで一口の大きさに切っていく。
 切った分の肉を持ち上げると、テレクの先端にはっきりと重みを感じる程に分厚い肉がぶら下がっている。
 普通の洋食店で頼めば出てくるステーキと同じサイズだろう。
 肉の中央部はやはり赤みが残っており、内側の筋を通って肉汁が滴り落ちる。
 口の中に溢れてきた唾を飲み込む前に『ソレ』を堪らずに齧り付いた。

 ――生まれて来て本当に良かった。

 租借を繰り返しながら、何処の誰とも知れない神に感謝した。
 分厚い肉は歯応えがあり、一噛みする毎に肉汁が口の中に広がり、大味だった味付け加減が肉汁と共に口の中に馴染んでいく。
 そして『ナユタの実』の辛味の絶妙な事と言ったら「堪らない」の一言である。
 この世界に来て良かったと、少しばかり思うのは料理の美味さだ。
 肉ならば美味く感じる――とは言え、味の良し悪しが解らなくなった訳では無い。
 少々濃い目の味では在るが、自分が御世話になっているこの宿屋の料理は美味い飯を作ってくれる。他にも何軒か食べさせて貰ったが、不味いと思う料理には今の所は出合っていない。
 その内の一軒は、所謂(いわゆる)『高級料理店』と呼ばれる場所だったので、当然と言えば当然なのだが――この世界に来て精神的に余裕が無かった時、美味い物でも食べて気分転換をしようと思い、ゲーム中でかなりの金額を貯め込んでいた事もあったので、知り合いに無理を言って料理屋に頼んで貰い、宿まで持って来て貰った事が一度だけ在る。
 舌の感覚が昔と変っているかと思っていたが、繊細な味も昔と変らず楽しめたので喜ばしかったのだが、食べる量が量だけに目も当てられない金額になった。
 貯めていたのを考えれば微々たる物ではあったが、それでも浪費を余り良しとしない自分には眼が眩むほどの金額だった。
 ただ――あの肉質の堪らない牛タン煮込みのような料理は、是非とももう一度食べたい所だ。とても絶妙で間違いの無い一品だった。
 あれならば多少の金は惜しまずに食べたい所だが――しかし、あの料理をもう一度頼むとなると少々骨が折れそうだ。

「やはり、文字が読めないのは厳しい物があるな……」

 肉を頬張りながらしみじみと呟いた。
 他人に聞けば済む話なのだが、電話などの通信機械が無いので、人伝てで聞いて行くのは些か手間だ。それに人種的な部分もあるのだろうが、大概の相手には疎まれているらしく、その点も理由に挙げられる。
 捉え様によっては、そのおかげで文字が読めない事を早く知る事が出来たのだが――当時の自分は、その事実を知って思わず天を仰いだものだ。
 元がゲームと言うのが理由なのか、魔法が発達している為なのか、この世界は生産力や技術力が出鱈目な所が在る。ゲーム中を思い出して見ても、場所によっては近未来と表現しても良い程に、元の世界よりも技術力が高い地域も在ったのだから、それを忠実に再現しているならば地域によっての技術的な格差も激しい事だろう。
 まさしく御都合主義。
 言ってしまえば自分がこの場に居るのも、そもそもその御都合主義の影響なのかも知れない。
 なので、その御都合主義の恩恵を多少なりとも授かれるだろうと思っていたのだが――どうもその見通しは甘かったらしい。

 この世界の文字は基本として『英語』でなりたっているらしい。

 英文と言う事実に気が付いた後で思い出したが、考えればゲーム中のステータスボードや武器屋等の店に使われていた文字は全て英語だった。
 簡単な単語であり、また片仮名で書かれていた事もあって、コレと言って意識していなかったので見落としていた。
 ゲームの影響を受けていると言う点を考えると、会話が何故日本語かと言うと恐らくは『チャット』――会話に使われていた言葉が日本語だったからだろう。

 言葉が通じるだけでも御都合主義だと思うべきなのだろうが、非常に残念な事に――自分の英語力に関しては人に自慢出来ない程に悪い。
 高校時代は常に赤点組の常連だった。
 かろうじて文法の作り等は解る範囲も在るのだが、一番の難題は『単語』である。それも二通りの単語だ。
 一つは、単純に英語として解らない単語。
 授業で『煮込む』等と言う単語を学んだ記憶が無いように、色々な単語が解らない。もしかしたならば習ったのかも知れないが、ただでさえ一月から十二月までの単語を書けるかどうかも危ぶまれる程の知識量なので、その辺りは御察し頂きたい。
 そして一番厄介なのは――この世界独自の単語。
 それらは総じてローマ字読みで書かれているので、逆に読む事は出来るのだが意味が解らない。
 例えば、肉の合間に口に運んでいるパンの名前である『ブシュケット』や、『ナユタ』と言う植物の名前。
 流石は魔物が普通に闊歩するファンタジーの世界だと言えば良いのかも知れないが、心境的には専門用語飛び交う研究室に放り出されたようなものだ。見覚えの無い言葉ばかりである。
 いや、元の世界でも解らない単語は思い出すのも馬鹿らしい程にあった。
 花の名前の分類や、蛇の細かい区分された種類の名前、それらは普通ならば自ら学ばなければ解らない単語だろう。
 『ブラックマンバ』と言うアフリカに生息する蛇を知っている人は少ないだろう。
 しかし『それはそれ、これはこれ』である――この世界の解らない単語と言うのは、その大本である『花』や『蛇』にあたる使用頻度の高く、重要性が段違いに高い物ばかりだ。
 一つ間違えれば場合によっては、死活問題に関わるモノもある。

 無知の知――何も知らないと解っているからこそ、知ろうとする努力をする気が起きる。
 遠い昔の哲学者が言った名言だ。
 本来の意味は如何言う意味なのかは良く解らないが、取り敢えず言葉だけは有り難く頂いている。
 この世界で無知を自覚している自分は、そのまま無知で居るのも世界観を考えると恐ろしい想像しか過ぎないので、少しずつではあるが自主的に勉強をしている。
 娯楽の少ない事も手伝い、暇潰しも兼用で比較的解り易い絵本で英語や見慣れない単語の学習に精が出る。
 一緒に辞書も手に入れたのだが――とてもじゃないが、今の自分には使い物にならない。
 辞書には英語とこの世界独自の単語が一緒に載っているので、一つずつ単語を調べようと思ったのだが、ローマ字読みの単語は読めるとしても、当然の様に説明文に使われるのは日本語では無く、英単語とこの世界の単語で説明されているので、いちいち難解過ぎて見るのも嫌になった。
 単語の説明を読む為に、説明文の単語をまた辞書を引いて、その単語の説明文を――と永遠に繰り返す嵌めになったのは嫌な記憶だ。

「まぁ、これだけ印刷技術が発達している時点でおかしい話では在るのだがな」

 活字印刷が発明されたのが15世紀前後だったような――いや、考えるだけ無駄だろう。
 この世界では矛盾点を見付けるのは容易いが、それを説明するのは実に難解だ。
 考えるだけ無駄に近いのだから『それはそう言うものだ』と受け入れるしかない。
 そう解っていても色々と物事を深く考えてしまう辺り、この世界に大分馴れて来たとは言え、やはり完全に馴染んでいる訳では無い証拠だな。
 そんな事を考えながら最後の一切れを口の中に詰める。

「――大変御馳走様でした」
 
 小樽の中身を飲み干して、一息を吐きながら両手を合わせて食事に対して礼をする。
 充実感と言う名の暖かく透明な丸っこい生き物が、腹の中でほっこりと笑いながら居座っているようだ。
 非常に満足な食事だった。
 やはり肉質が良い。
 脂身の少ない良質な牛肉に近い肉なのだが、この肉はゾルディアと言う生き物の肉らしい。文字で書くと『ZORUDIA』になる。
 以前、図鑑を見させて貰ったのだが、ずんぐりむっくりした馬の様な生物だった。体型的には牛に近いような気もしなくも無い。
 この世界にも牛や馬は居たと思うのだが、今の所は食卓に並んでいるのを御目に掛かっていない。
 ゾルディアの肉も美味いので構わないのだが、やはり慣れ親しんだ牛肉や豚肉を食べたい時がある。
 いや、もしも願いが叶うならば――

「……白米が食べたい」

 ――それが正直な願いだ。
 場合によっては『切実』や『痛切』と言い換えても良い。
 この地域の食文化のせいか小麦と肉が主な原料となる料理が多く、大抵の場合がパンかパスタ、それとゾルディアの肉が食卓に並ぶ事が多い。
 自分は肉も好きではあったが、好物が『白米』と『刺身』の和食好きである。
 ガラの好みに引っ張られているとは言え、自分の好みまで変る訳では無く、無性に白米と刺身が恋しくなる時が在る。

 ゲーム中に『アマテラス』と言う江戸時代を外人が間違った方向に認識して、その上から余分なものを付け足したようなマップが存在する。
 そのマップではアイテムとして『寿司』等が売っていたので、そこに行けば食べる事が出来ると思うのだが――ゲームであれば簡単なのだが、今の自分では様々な要因が絡み合って、死地に赴くような心意気でなければ足がもつれて正しい意味で致命傷を負う事になるだろう。
 だからと言って、この町で米を手に入れようとするのは至難の業と言える。
 禁断症状が出るまでには、絶対に食べると心に決めているのだが――今はまだ遠い夢のようだ。

「――ん?」

 木の乾いた音が響いた。
 聞き慣れたベッドが軋む甲高い音だ。
 食器類を右手の長机の上に置いた後、振り返りながら並んで置かれているベッドを見る。
 ――起こしてしまっただろうか。
 自分が使っている手前側のベッドの奥に、サイドテーブルを挟んでもう一つのベッドが在るのだが、普段は使われる事が無いそのベッドの上には、今は珍しくなだらかな山が広がっている。
 その山が呼吸をする様に動いている。
 『なんたらかんたら』と言う、はなから名前を覚える気の無い『葉』の液を染み込ませたタオルで、手早く短剣から油や肉汁を拭き取り、簡単な手入れを行った後、奥のベッドに近付き覗き込む。

「……ふむ」

 まだ寝ているようだ。
 小さく寝息を立てている。

「――」

 それにしても――息を呑む美人と言うのは、小説や雑誌の上でしか存在しない想像上のものだと思っていたが、実際に居るものだと感心してしまう。
 やはり、エルフは男女関わらず愕くほどに美しいと言うのは変らないらしく、絶世の――と言う形容詞は個人の美的感覚があるので、この場合は自分の好みでの話しになってしまうが非常に美人である。
 褥(しとね)に就きしは麗しき眠り姫――などと言う戯言が恥かしげも無く頭に浮かぶ程にだ。

 寝息を立て、穏やかな表情を浮かべている女性の容姿は整っており、女性的でありながら凛々しい顔立ちをしている。
 また、穏やかな寝顔の中にも鋭さが僅かではあるが見え隠れしており、鞘に収められた刃が鯉口から時折覗いているような印象すら覚える。
 惚れ惚れする容姿も特徴的と言えるのだろうが、それ以外にも眼が惹かれる所が多い。
 特徴的なのは『チョコレートブラウン』と言えば良いのだろうか、黒人女性の肌の色とは違った、どちらかと言えば健康的に日焼けしたような鮮やかな、決め細やかな黒みの強い褐色の肌。
 砥いだ刃を彷彿させる鈍い輝きを持つ銀髪は短く、寝ているので良くは解らないが肩に掛かる程度の長さだろう。そして何よりも銀髪から自らを主張するように伸びている、葉のような形をした長く尖った耳。

 容姿が整っているので何と無く受け入れてしまいそうになるが、改めて見ると何とも言えない妙な違和感を覚える。
 ゲーム中では町に行けば良く見掛けていたエルフだったが、この世界に来てからとんと見ていない。宿と森の往復が殆どだったとは言え、半年近く滞在していれば町にエルフが居るのならば一度ぐらいは御目に掛かっているだろうが――大概の小説等のように人とあまり関わらない生活をしているのだろうか。
 そんな事を考えながら僅かに溜息を零す。
 つくづく思うのだが、こんな事になるのであればゲーム設定としての世界事情や種族間の対立等、もう少し興味を持っておけばと後悔をする。

 如何言う理由が在るにせよ、この世界に来てからエルフを半年の間では見た事が無かったので、目の前に居る彼女が初見なのだが――まさか相手がただの『エルフ』ではなく『ダークエルフ』で、それも自分が厄介事も一緒に抱え込んで助けるとは思わなかった。

「全く、何と言うイベントなんだか……」

 苦笑を浮かべながら先程動いた際に払ったらしく、身体の半分しか掛かっていない薄手の毛布を直してやる。
 女性らしい曲線のみで構成された艶やかで線の細い身体付きなのだが、肉付きから柔らかさの中にしなやかな筋肉が隠されているのが解った――その鍛えられた鋭さを、エルフらしいと言うべきなのか、らしくないと言うべきなのか、いかんせん判断が難しい。

 しかし――こんなインナーを着せんでも良いだろうに。 

 思わず溜息を吐いた。
 彼女の身体付きが何と無くではあるが把握出来ているのは、別に彼女を着替えさせたり、何かやましい事を行ったからではない。
 宿の人間に頼んで髪や身体の汚れを拭いて貰い、ついでに上着を取り替えて貰ったのだが――タートルネックでノースリブと言う構造の、何故か身体にラインを強調する肌との隙間が殆ど無いような黒色の肌着を着せられているのだ。
 裸であるよりも見ようによっては男心をくすぐる格好だ。
 妙な色気に、否応無しに眼が吸い寄せられる。

「――」
 
 妖艶美と言っても過言ではないほどに艶かしい――のだが天は二物を与えず、と言うか二房を与えずと言うべきか、非常に自己主張に乏しい慎ましい胸である。
 凹凸注意の標識は必要無さそうな、例えるなら醤油皿を引っ繰りかえしたと言った――っと、いやいや、自分は何を考えているのだ。
 寝ている相手に心の内でとは言え、何と失礼な――もう少し自重せねば。
 
「とは言え、何と言えば良いのか――持て余す」

 理性と言う枷を引き千切って何かする気は全く無いとは言え、食い入る様に女性を凝視したのは欲求不満のせいだろうか。
 ゲームの影響なのか、町の人間はエルフ云々を横に置いても美男美女の割合が高い。
 美女に関しては大手を振っての大賛成なのだが、美男子に関してはやっかみ半分で思い切り殴りたくなる衝動に駆られる――そもそも自分は、美形とかそう言う概念以前の存在になってしまっているのだから、八つ当たりの一つぐらいは許されよう。
 そんな世界の補正で、女性は美人が多いのだが今まではコレと言って気に留めていなかった。
 理由としては知り合いには女性として見る対象が居らず、町で擦れ違っても大概の相手が避ける様に横切って行くのでそこまで意識しなかったと言う事が挙げられる。
 自分の事で殆ど手一杯だった、と言うのが一番の理由なんだろうが、戦闘中の感覚だけで勝手に闘争本能のみ強まっていると思っていたが――もしかしたら『雄』的な方向でも色々と影響を受けているのかも知れない。
 運んできた際や、治療の際は必死だったので何とも思わなかったが、昨晩、彼女が気を取り戻した際の会話の後から、妙に意識してしまう。
 話をした際、独特の口調ではあったが好感の持てる相手ではあったのは認める。
 また、これまでの人生で御目に掛かった事が無い美女である事も認めるが、ここまで雄的な部分を燻らせているのは初めてでは無いだろうか。
 好きな女の子を横目でちらちらと見ている初心な小学生でも、神社の境内裏に落ちているエロ本を友人と一緒に遠巻きに見ながら興奮する程に餓えている中学生でも在るまいし、自制が利かぬ程に切羽詰っていると言う訳では無いのだが、非常に手持ち無沙汰で、何かに意識を向けていないと気になってしまう。
 朝方になるにつれ、食欲の方に意識が移って行ったのは在る意味幸いだったかも知れない。

「まぁ、『自主トレ』も行っていないと言う事もあるのだろうが」

 もちろん、雄的な意味でだ。
 妄想――改め、想像のみでは出来ない人間なので、手元に何も無い為に自主的な訓練は行っていない。
 何よりもこの『ガラ』になってから、自身の相棒の凶悪さに引いてしまい、行えずに居るのも原因であるのだが――人間では滅多に御目に掛かれない程に、御立派なのだ。
 目が覚めたら凶悪な『何か』がビザの斜塔のように立っていたので、寝ぼけていた自分は何を思ったのか大蛇にでも襲われていると勘違いをし、僅かに悲鳴を上げてしまった。
 その声が未だに脳の裏側に張り付いて、如何しても忘れる事が出来ない。
 まさしく一生の不覚、末代までの恥。人生の汚点。
 そんな事があってか――それ以来、若干のトラウマが残っているのだ。

「ん――」

 あまり思い出したくない出来事を忘れようと頭を軽く振っていると、ダークエルフの女性は目が覚めたようで、焦点の定まらない眼を天井へ向けている。
 鋭い眼――と言う言葉を、額面通りの人間を始めてみた。
 釣り上がった眼は猛禽類を彷彿させ、黒目は上方寄りで白目の部分が多く――『三白眼』と言う奴なのだろう。
 刃を鞘に収めている――寝顔を見て、そう印象を覚えた理由が何と無く解った。
 あながち間違いでは無い。
 開かれた両目の鋭さには、鞘から抜かれた刃が確かに宿っている。
 絶世の――と称する程に整っている顔の造形のおかげか、眼つきの悪い三白眼が独特な色気を醸し出しているが、万人に好かれる雰囲気では無く、ひどく癖のありそうな美人だ。

「……目は覚めたか?」

 一瞬の間を空けた後、脳が働かないのか状況を把握出来ずに『ぼんやり』としている彼女に対して声を掛ける。
 誰かに声を掛けられるとは思っても見ていなかったのか、驚愕に満ちた表情を浮かべてこちらを見ると――間髪を入れず、寝ていた上体を捻りながら下から上へ突き上げる様に右拳を繰り出してくる。

「なっ――!!」

 虚を衝かれた予想外の右拳を、咄嗟に右手で内側に流しながらかろうじて捉えた。
 寝ている状態からの攻撃なので軽く、自分に届く範囲だったとは言え、身長差もあって打ち込むには距離が開き過ぎていた。
 何よりも、自分が反応出来る程度の速さだったと言うのが一番の理由では在るが、彼女の攻撃は不用意と言えるものだった。
 しかし、反応が遅ければ軌道は確実に自分の咽に届いていただろう。
 本人にとっても咄嗟に出てしまった一撃だったらしく、不味い、と言う表情をありありと浮かべながら舌打ちを一度すると、首と肩を基点にネックスプリングの要領で全身のバネを使って、掴まれた腕を引き戻しながら跳ね起きようとして――眉根を顰めながら力無く崩れ落ちた。

「おいおい、無茶をするな」

 嗜めながらも、相手の右拳を離さない。
 この捉えた右腕は、自分にとっては人質のようなものだからだ。
 相手の実力が如何程のものかは解らないので、体調が万全ではなく武器の類を持っていないとは言え油断する何て事はしない。してはならない。

「脹脛の傷が完治したとは言え、多少なりとも出血をして居たせいで体力も低下しているんだ。急激に動けば、身体への負担は大きいぞ」

 言葉に嘘は無い。
 致死量で無いにしろ血を幾らか流しており、今まで横になっていた者が目覚めと同時に急激に動いたのだから、身体が付いて行かず貧血か、それに近い症状が起こったのだろう。

「――何者だ」
「そう睨み付けんでくれ。それと、質問の答えはただの『化物』だ。その質問は二度目だな」

 非常におっかない表情をしている。
 三白眼と言う理由だけでは無く、完全に眼が覚めたらしい彼女の眼には並々ならぬ力が込められていた。
 視線で心臓を射抜かれる、と比喩すべきか、抜いた刃の刃先をこちらに突きつけられているようだ。
 幾ら恐ろしい凶眼の持ち主に睨まれて居るとは言え、視線程度で印籠を見せられた下手人の様に怯む事は無いが、非常に居心地が悪い。

「二度目?……僕を馬鹿にしているのかい」

 昨日の穏やかな会話は、自分が起きながらにして見た夢だったのでは無いかと錯覚してしまう。
 随分と雰囲気が違う――それが正直な感想だった。
 奏でるような朗々とした口調ではなく、端的で言い捨てるような喋り方をし、その言葉や視線の全てに刃物忍ばせている。
 ただ、餓えた獣の様に形振り構わず噛み付いてくる印象では無い。
 どちらかと言うと鷹のような印象を覚える。
 隠していた爪を光らせながら、こちらの隙を窺い、自分のリズムを整えてタイミングを虎視眈々と見計らっている――そんな感じだろう。全く持って性質が悪い。

「馬鹿になんてしていない。昨晩、話したのを覚えていないのか?」

 そう言うと彼女は眼力を緩めずに、こちらの一挙手一動を注視しながら記憶を掘り起こしているようだ。
 十数秒の間を置き、僅かに引っ掛かりが掴めたのか、おもむろに自分の顔へと視線を動かす。
 妙な間を残した後、片眉を動かして微かに驚きの表情を浮かべた。

「……夢じゃなかったのか?」
「夢に思われていたのか?」

 憮然とした声色で問い掛けた。
 別に彼女の物言いが癪に障った訳では無い。
 ただ、助けて看病をしたと言うのに、随分と荒っぽい感謝をされたのでは流石に口調も強まってしまうのはしょうがないだろう。自分は良くも悪くも普通の人間で、聖人君子ではないのだ。見た目は兎も角として。
 状況を正確に把握は出来ていないのだろうが、何か思い当たる所が幾つか頭に浮かんだようで、彼女は表情を変えずに小さく咽の奥を鳴らし――

「失態だな。僕とした事が」

 ――首を一度だけ振ると、彼女自身に対して悪態を吐いた。
 それだけで、睨み付けてくるのは変らない。
 何とも釈然としないものを感じるが、彼女にとっては何か感じる所が合ったのかも知れない。そう考えて無理矢理納得する。または自分に対する説得と言い換えても良い。

「むぅ……」

 呼吸を数回繰り返すと幾分か冷静になり、彼女にここまで辛辣な当たり方をされる原因があるのではと思い始めた。
 思い当たる節は――と考えて居ると、先程彼女を目の前に色々と失礼な事を考えて居た事を思い出した。
 
「……私は何か気に障るような事をしたかい?」

 人間、少しでも負い目や後ろめたさを感じると、急に真っ直ぐ伸びていた気持ちの腰が折れるもので、少々弱気になりながら問い掛けた。
 ――繰り返すが、自分は良くも悪くも普通の人間なのだ。

「そう言う訳ではない」
「そう……か。ならば、出来れば睨むのを止めてくれないか?こちらとしては出来れば現状に至るまでの経緯を丁重に説明したい所なんだが……」
「そちらが僕の持っていた一切の持ち物全てを返した上で、体の前面を壁に当て、両手を頭の後ろで組み、両膝を付いたならば考えよう」
「――」

 ――中々無茶を言い張る。
 辛辣な発言。または、新型の暴言。
 時と場合によっては、こちらを揶揄しているのではと勘繰ってしまいそうになるが、如何やら彼女は本気で言っているようだ。
 淡々と、それも睨み付けている以外の表情を浮かべずに言われてしまった。
 如何やら容姿が飛び抜けている癖の強い美女の中身は、想像以上に捻り曲がっており、螺旋を描きながら予想の斜め上を行く性格らしい。

「一応言って置くが……この場で優位に立っているのは私の方なんだが?」
「身を持って実感知っている。だからこそさ――僕は他人よりも優位に立っていないと不安になる性格なのだよ」
「……随分と難儀な性格だな」
「性分だ。僕はそう言う生き方しか知らないのでね、仕方が無い事だと受け入れているよ」

 どの様な生き方をすれば、この状況で臆面も無く断言出来るのだろうか。
 嘆息を吐きながら、このままでは互いの主張は交わる事が無く終わってしまいそうだったので、妥協点を見出そうと提案する。

「互いに知性を持ち、解り合えるかの判断は話し合いから始まり、話し合いに終わる――妥協点を見出そうじゃないか。まずは、掴んでいる君の手を自由にし、私の後ろにあるベットを挟むように距離を置こうじゃないか」
「元より、そちらの意思で如何とでも出来る状況なのだ。その心遣いに僅かながら感謝する」

 異論も討論も無いようで、こちらの提示した妥協点にすんなりと同意してきた。
 なるほど――思った以上に遣り難い相手だ。
 彼女の思う所が解らないので、言動に翻弄されっ放しだ。
 何よりも表情が読めないのが一番厳しい。
 リザードマンになって表情云々と言う話では無くなったが、人間であった時は自分も表情が乏しいと言われる人間であった。当時は余り意識していなかったが、今となっては申し訳の無い気持ちで一杯である。
 心の内で友人達に謝りながらも、意識を彼女に集中させて反撃を警戒しながらゆっくりと手を離すと――『ギュゥ』とも『グゥ』とも聞こえる馴染み深い音が聞こえた。
 簡単に言ってしまえば――腹が鳴った音だ。

「――」
「――」

 こちらの提案通りに、取り敢えず右手を放したのだが、予想外の音に戻す事が出来ずに右手が如何すれば良いのか解らずに宙に彷徨っている。
 何とも言えずに彼女へと視線を移す。

「あぁ〜……随分と寝ていたからな、身体が食事を要求しているのだろう」

 ゆっくりと、慎重に、言葉を選びながら喋る。
 変な話だが、自分の言葉に自信が無いのだ。
 単純に考えれば自分と彼女しか居ないこの部屋で、自分で無ければ彼女しか腹を鳴らした人間は居ないのだが、全くと言って良いほど動揺していないのだ。
 普通ならば赤面してもおかしくない場面なのだが、些か眼力に衰えが見られるものの、彼女の表情は変らず。
 まるで精巧で美しい人形を見ているような気分で、彼女が腹を鳴らしたと言う想像が浮かんでこない。

「……否定する。その様な事実は無い」

 僅かな間があって、彼女は淡々と言葉を返してきた。

「……ならば君の腹から鳴った音は何だ?」
「その前提条件が間違っていると言うのだ」
「ほう?」
「鳴ったのは僕の腹ではない」
「……」
「……」
「流石に無理があるだろう」
「些かの無理も――」

 無い――と喋ろうとしたのだろうが、自らの腹から漏れてしまった可愛らしい猫の泣き声に言葉を掠め取られた。
 ここまで見事に墓穴を掘る人間も珍しい。

「……羞恥の極み」

 か細く聞こえぬように言ったのだろうが、自分の耳には確りと聞こえてしまった。
 聞こえぬ振りをしてやるのが優しさかと思い、自分は何も言わずに彼女の表情を窺う。
 どの様な状況でも感情を表に露にしないのは変らずに、毅然とした表情を浮かべているが、褐色の肌と言う事もあり気が付かなかったが、恥じらいからか、僅かに頬を染めているようだ。
 本来ならば「愛らしいな」等と思うのだろうが、ギャップに胸を高鳴らせるには些か凶悪な目付きで――どうも、愛らしいと素直には言えそうには無い。
 逆に、人と同じ様な感覚は兼ね備えては居るのだな――そんな失礼な発想が浮かんでしまった。

「腹の音は……まぁ、良い。それは置いて置いても、私もそろそろ小腹がすいてきた所だ。一人で食べるのも味気無いので共に食べていただけると、華やかで嬉しいのだが如何だろう?」

 自分の方へと流れを変える切っ掛けになればと提案すると、僅かに逡巡するように彼女は視線を小さく巡らせる。
 そして結論が出たのか、小さく頷くと――

「謹んで御受けしよう」

 ――今までよりも少しだけ小さい声で彼女は答えた。
 その様子に安堵すると、ゴツゴツとした未だに感触の馴れない頭を掻きながらひっそりと呟いた。



 やれやれ――自分が思っている以上に、相当な厄介事を抱え込んだようだ、と。





前へ << 小説(SS)TOP >> 次へ