裏方稼業(ネギま×GS美神×ラブひな) 投稿者:毒虫 投稿日:05/21-00:33 No.569
タイトル:裏方稼業(ネギま×GS美神×ラブひな)

作品傾向: クロスオーバー・ギャグ・ラブコメ・シリアス・バトル

注意点:・一部暴力描写あり・一部15歳以上推奨
    ・セクハラや軽い性表現等、人によっては不快な表現が入る可能性大
    ・この場で明記されていない他作品のキャラが出る事はありませんが、セリフなどネタとして登場する部分が出て来ると思います

原作:魔法先生ネギま! GS美神 ラブひな(ごく一部)

彼がそこに至るまで(0) 邂逅 投稿者:毒虫 投稿日:05/21-00:37 No.570
師匠譲りの小細工を一通り仕掛け終え、その結果として悪魔は両腕を失っていた。
ここに至って『貴様、よくも俺様の腕を…!』と、月並みと表現するのも憚られる台詞を臆面もなく言い放つそれに、横島は疲れたように息を吐き出す。
その言葉回しから窺い知れるが、この悪魔はそれこそ典型的な、どこに出しても恥ずかしくないほどの、ベタな悪役だった。
魔力それ自体は世間でも一流とされているGSでも太刀打ちできない程のものを持っているのに、それを全く使いこなせていない。
しかもその上、人間を嘗めきっていて、油断も隙もあり放題。宝の持ち腐れとはまさにこの事。
横島としては、ちょこまか立ち回って、挑発しいの、罠仕掛けえの、と手馴れた作業ばかりで、まあ楽と言っちゃあ楽だったのだが…
いかんせんこの悪魔、あまりにもタフすぎたのだ。腕を切り落としたのだって、最高出力まで上げた霊波刀で何度も何度も同じ所を斬りつけて、それでやっとである。
それでもって、その間ずうっとベタな悪役的な台詞を延々と聞かされ続けていれば、心身ともに疲弊してしまうのも無理はない。
かてて加えて、最近、所長がようやく一人の仕事を回してきてくれるようになったのはいいものの、効率を重視して、横島だけ無茶なスケジュールを組まされていて、ここ数日、休む間もロクになかった。
更にその上、毎朝、バカ犬が遠慮もなしに、散歩と称した耐久マラソンに連れ出してくる。
もう踏んだり蹴ったりだ。いかに人間離れした体力を持つ横島といえど、さすがに疲れはピークへと達しつつあった。

この疲労が、油断を招いてしまった。

「ク、クククククッ……! 流石は『魔神殺し』、横島忠夫と言った所か! まさかこの俺様ともあろう者が、こうまで手酷くやられてしまうとはな…。
 しかしッ! このまま大人しく調伏される俺様ではないぞ!! 死なば諸共!! 貴様を道連れに、壮絶な最期を遂げてくれるわッ!!」

そう叫ぶと、悪魔は己の生命の火を燃やし、限界を超えて魔力を練り始める。
自爆する気だ。横島は考える。最期までベタな野郎だ…。いや、そうじゃない。これにどう対処するべきか。
霊波刀でトドメを刺す。いや、そこは頑丈な奴の事、一撃では仕留めきれまい。
ならば文珠で、と考えるが、残念ながら完全に準備を怠っていた。今から文珠を作り出し、文字を込め、投擲しても……まず間に合わないだろう。
悪魔の魔力は、いつ暴発してもおかしくないほどまでに膨れ上がっている。やけに早い。最初からこうするつもりだったのかもしれない。

霊波刀では殺しきれない。文珠では間に合わない。
では、どうしろというのか?その判断の遅れが命取り。気がつけば、悪魔は得意げに笑っている。今まさに自爆する気だ。
結局横島は、右手に霊波刀を伸ばし、左手に何の文字も込められていない文珠を持つ、という中途半端な格好になってしまった。

「フハハハハハッ!! これで俺様の名は歴史に刻まれる! 感謝するぞ、『魔神殺し』!!」

「ちょ、マズ―――――」

慌てて文珠を発動させようとするが、咄嗟に何を入れていいのか思いつかない。
通称『アシュタロス核ジャック事件』の英雄が不恰好な様を見せている中、遂に悪魔の術式が完成する。

一瞬の空白。

次の瞬間には、凄まじい閃光と熱量が爆風となって押し寄せる。
しばらくし、破壊の波が通り過ぎた後、周囲には何も残されていない。

この日、世界は英雄を失った。






午後には裏の山へ足を向ける。それが彼女、青山鶴子の日課だった。
初秋の緑に朱の袴が映える。その手に持った刀といい、とても現代の風景には見えない。
しばらく適当に歩くと、足を止め、目を瞑る。それだけで精神が研ぎ澄まされる。
一呼吸し、剣を抜いた。緩く、何度か振る。感触を確かめているかのように。
この行為は修行の類ではなかった。剣の稽古なら道場ですればいい。父が相手を務めてくれるだろう。
気晴らし。散歩。それぐらいのものでしかない。が、それはそれで必要なものだ。

鶴子の日常生活は、ほぼ剣の修行に占められる。
幼い頃からの習慣なので、それを苦と感じる事はないが……それでも、息抜きぐらいはあってしかるべきだろう。
剣を納めると、鶴子は目を瞑った。考える事は色々ある。これからの事、これまでの事、妹の事、剣の事……。

…気がつけば、結構な時間が過ぎていた。どうやら、思考に没頭しすぎていたらしい。
そろそろ帰ろうかと踵を返したその時……ふと、異様な気配を感じ取り、立ち止まる。

(なんえ、この違和感は…?)

嗅ぎなれた魔の気配、ではないと思う…。
しかし、では何か?と問われても答えられない。
雰囲気が一瞬にして変容したのは確か。強いて言うなら、山が怯えているような……

「!!」

説明できない衝動、言うならば第六感に衝き動かされ、咄嗟にその場から飛び退く!
流石と言うべきか、鶴子が元居た所から4,5メートルほど離れたその場所に……突然も突然、何の前兆もなく、大きな爆発が起こった!
閃光が一瞬視界を奪うと、次に吹き付けてくるのは爆風と、これまで感じた事のない、強い強い瘴気。
爆風が木々を薙ぎ倒し、瘴気が倒木を腐らせる。突然の破壊が通り過ぎた後、その森は、見るも無残な姿になっていた。
爆発が起きた瞬間に、更に遠くへと退いていた鶴子の顔が不快に歪む。

(森が死んでしもとる……。こら、只事やありまへんなぁ)

いや、そんな事を考えている場合ではない、とかぶりを振る。原因を探らなければ。
まず一番初めに思いついた可能性は、何者かの襲撃。青山という組織が持つ性質上、いつあっても不思議ではない事だ。
しかし、ここは青山神鳴流の総本山、その敷地内にある森。そうそう容易く侵入できる場所ではない。
それに、そもそも、あの爆発は本当に唐突なものだった。予兆を感じ取ったのは、あくまで鶴子の直感。事前に何者かの気配など、微塵も感じ取れなかった。
地雷のような罠が設置されていた可能性も考えられるが、しかしあれほど強力な瘴気を何らかの形で留まらせる技術など聞いた事もない。
それに、もし罠だとしたら、仕掛ける場所があまりにも不自然だし、仕掛ける罠が一つだけ、という点も腑に落ちない。
かと言って、まさか自然発生するという事もありえないだろう。言うまでもなく、森に火の気はなかった。
…考えても結論が出ないのならば、現場を調べるより他ないだろう。そう思い、爆心地辺りに歩を進める。
強力な瘴気に汚染されている一帯、普通の人間が一秒でも留まれば、命の危険さえ伴う。そんな地も、鶴子にかかればどうという事もない。

爆心地は、それはもう酷い有様だった。瘴気が森に清められる事もなく漂ってい、大気さえ若干の黒味を帯びる。
鶴子は鼻と口を袖で覆った。彼女なら吸い込んでも平気かもしれないが、汚染されきった空気をそのまま吸い込もうとはとても思えない。
一歩足を踏み出すごとに、ぐじゅ、と地面に足裏がめり込む。見ると、土が奇妙に汚れた色合いをしている。どうやら、瘴気は一帯の土壌までをも侵してしまっているようだ。
腐った倒木も、爆心地まで近付くとその様相を変える。黒ずんだ表面が粉を吹いているのだ。少しの衝撃があれば、木としての形を崩して塵に還る。
鶴子も、若年ながら様々な戦地を渡り歩いた剣士だ。悪しき術に汚染された土地も見た。が、こうまで惨い有様は見た事がない。
幸い、爆発的に汚染が拡がるという最悪の事態は避けられているようだが……それでも、じわりじわりと腐食は進んでいる。
今頃、下では大騒ぎしている頃だろう。彼女は目に見える敵と戦うのが専門で、それ以外の事はあまり得意ではない。ここまで汚染された土地を清めるのは不可能だ。
お気に入りの場所が穢され尽くした事に憤りを覚えるが、原因も見当たらず、これ以上自分が出来る事は見当たりそうにない。
大人しく引き返すかと思ったその時……視界の端で、動くものが。
よくよく見ると、既に砂と化した倒木の中に混じって、人間……のようなモノが倒れている。強い瘴気に騙され、不覚にも気付けなかったようだ。

「……………」

一層警戒を強め、それの元へ歩み寄る。
鞘に収められたままの愛刀を振るい、堆積した塵芥を取り除くと、倒れているのが男と判った。
男は意識を失っているようだ。先程微かに動いたのは、最後の力を振り絞ったからか。
警戒を乱さぬまま、男の息を確かめる。

「あれ、まぁ……生きたはるわ」

果たして、男は生きていた。
あの爆発の中、そして溢れ出す瘴気の中、一体、どうして生き延びる事が出来たのか。
体中に酷い火傷を負っているようだが、不思議と呼吸は安定している。今すぐにでも危ない、というほどのものではなさそうだ。
ともかく、犯人にしろ、巻き込まれたにしろ、当事者の一人には違いあるまい。そして、怪我をさせたままにしておくのも気が引ける。
例えこの男が何者であろうと、やる事は一つだ。完全に意識を失っているのを改めて確認し、鶴子は謎の男を背負った。連れて帰らねばなるまい。






青山邸の一室に、体中包帯に巻かれた男が寝かされている。
脇には、その寝顔を何とも言えない顔で見詰めている鶴子の姿。

謎の男が担ぎ込まれてから、既に数日が経過していた。
その間、男に意識が戻った事はない。
何かあるといけないので、なるべく鶴子が面倒を見る事にしているが……一体、いつまでこうしていなければならないのか。
怪我人の世話を診るくらい苦でもないが、それも相手による。この男は、山を穢した者かもしれないのだ…。

「ん……」

「!」

やる事もなく寝顔を眺めていると、初めて反応が見られた。
誰かを呼びに行った方がいいかと思ったが、その間に何かあるといけない。
食い入るように見詰めていると、男の瞼が薄っすらと開かれる。

「あ……?」

「…もう何日も眠ってはったんえ。お体のほうはよろしおすか?」

寝起きの、何も映されていない瞳に、徐々に、薄ぼんやりとだが、意識らしいものが光り始める。
男は鶴子の声に反応し、首を微かにそちらに傾け、緩慢な動作で鶴子と目を合わせ……

「う、う………」

呻く。苦しんでいるのだろうか?
やはり誰か呼んで来ようと、鶴子が立ち上がりかけたその時……大火傷を負い、動かす事もできない筈の男の手が、鶴子の手首を掴んだ。
驚いて振り返ると、男はしっかりとした目で、鶴子の瞳を射抜いていた。

(え……?)

とくん……。何故か鼓動が跳ねる。
鶴子は、男の、真摯でいて、不思議な光を放つ瞳に魅入られる。
そして、ここでようやく、男が何か言おうとしているのに気が付いた。

(こ、この人……何を言いはるんやろか…?)

期待する。鶴子は何故か期待していた。
それに応えるかのように、ゆっくりと、しかし確かに、男の口が動く……

「う……生まれる前から愛してましたぁーーーーーーーーーッ!!」

「きゃあああああああぁぁぁぁっっ!?」

男は、唐突に元気になって鶴子に飛びかかった!
鶴子は相手が怪我人だという事も忘れ、つい反射的にその顔面に肘を落とす!

「げばあッ!?」

珍妙な声を上げ、男は倒れ伏した。
呼吸を乱し、頬を桜色に染め、少し乱れてしまった衣服を整える。鶴子は混乱していた。

(さ、さっきまで意識を失のうとったのに、なんで突然……!?
 ……で、でもうち、あんなこと言われたん、初めてどすなぁ…)

…混乱の末、妙な所に落ち着いてしまったようだ。
確かに、鬼のように…むしろ、鬼よりも強い鶴子に言い寄って来るような男は、彼女の人生の中では皆無だったが…。
鶴子の悲鳴を聞きつけ、廊下が騒がしくなって来る中、鶴子はただ、布団を血に染め上げる男の事を、ぼんやりと霞がかった瞳で見詰めていた…。



これが、横島忠夫と青山鶴子の出逢いだった。

彼がそこに至るまで(1) いきなり新天地へ 投稿者:毒虫 投稿日:05/21-00:53 No.571

―――7年後。

道場へと赴くと、待ち人は既にそこにいた。
静謐な雰囲気を湛える道場の真中に正座し、目を閉じ、ぴくりとも動かない。
まるで道場の一部かのようにしているのは、7年前のあの日より、ますます女ぶりを増した青山鶴子。
横島が現れたのを察すると、鶴子はすうと片目を開けた。

「来はりましたか」

それだけ言うと、座るように視線で促す。
待たせちゃってスンマセン、と謝るも、反応はない。
しばらく、少々気まずい沈黙が続き……ようやく、鶴子の口が開く。

「忠夫はんがウチに来はってから、もう7年になるんえ……。時の流れちゅうのは、早いもんどすな」

「7年……。もうそんなになるんですね。あっと言う間でしたよ」

7年。長いようで短い。その間、今に至るまで、色々な事があった……と、横島は過去を反芻する。
魔族の自爆に巻き込まれた際、文珠の暴走によって、ここ……異世界へと跳ばされ。
鶴子を始めとする、色々な人と出会い、また別れ。
元いた世界へ戻る手段を探しながら、青山の仕事の手伝いもした。
始めの方こそ、異世界に跳ばされたなんて突拍子もない出来事を信じる事などできなかった。
自分が本当に、似て非なる異世界へと迷い込んでしまった事に気付いた時は、それはもう、アゴが外れる程に驚いたものだ。
…いくら探しても、元の世界に帰る手段が見つからないのには絶望を感じたが……7年も経てば、新しい絆が生まれる。
元いた世界と、こちらの世界。どちらの絆が大切かと問われても、答えなど出ない。
しかし、今すぐにでも帰れるとなっても、迷ってしまうだろう。こちらの世界にも、それなりの執着というものを持ってしまった。
この7年という期間は、実に濃密なものであった。そういえば、あの時も……と、感傷に浸りかけた横島の耳に、鶴子の声が響く。

「忠夫はんも今では、立派な青山の一員、うちの家族も同然どす」

「つ、鶴子さん……」

感動する横島。
鶴子の言葉は嘘ではないが、さりとて真実でもなかった。彼女自身はそう思っているが、青山での横島の立場は微妙なものだ。
当の鶴子も、最初の内こそ、素性の知れない横島を警戒していたが……横島と接する度に、隠された彼の内面に惹かれていった。
今ではもう、鶴子は横島にすっかり心を開いている。多少、開きすぎの感があるほどに。

「そんな忠夫はんにしか、任せられへん仕事があるんどす。……聞いてもらえますやろか?」

「当ったり前じゃないですか! 鶴子さんの頼みとあらば、もう何だって聞いちゃいますよボク」

そうどすか、と軽く溜息をつく。
横島が自分を信頼してくれているのは喜ばしい事だが、これから彼に切り出す話は、鶴子にとって残念な事なのだ。
そして恐らく横島は、目先の事実に囚われ、寂しがっている自分の事など気付きもしないだろう。
腹立たしくもあるが、もうそこらへんは諦めの境地にある。横島とはそういう男なのだ、と。

「実は、麻帆良に行ってもらいたいんどす」

「麻帆良? 麻帆良っつーと……確か、魔法協会の理事の爺さんが学園長だか何だかをやってるってアレですか?」

「そのアレでおうとりますなぁ」

どこかで聞いた情報を思い出す。
麻帆良学園都市。街の根幹である学園から都市全体の運営までを魔法使いが取り仕切っている、とんでもない所だ。
学園長が、極東にその人ありと謳われたほどの魔法使いなので、色々と事情があるそうで。時たま、突拍子もない噂を聞いたりもする。
高位の魔道書が収められている図書館があるとか、森で魔法生物が繁殖しているとか、額に稲妻状の傷痕がある少年が在籍しているとか……。
実際に行ってみた事はないが、何となく、ハチャメチャで面白そうな所だなあ、とは思っていた。
しかし、青山が属するのは、関東魔法協会と対立している形を取っている、関西呪術協会である。つまり、導き出される結論は一つ。

「要するに……スパイですね?」

「…はぁ?」

ぽかん、とはしたなく大口を開ける鶴子。
作法に反しているが、仕方がない。横島の答えは、完全に鶴子の予想外だった。
物凄い論理の跳躍に、ただ呆気に取られるしかない。

「大丈夫、どーんと俺に任しちゃってください!
 スパイにはちょいと自信がありまして……。なあに、見事にミッションインポッシブってやりますよ!」

ぐっ!とサムズアップ。
ぷっ…と、鶴子は思わず噴き出してしまった。
くすくすと楽しげに笑う鶴子に、横島は情けなく眉を下げる。

「つ、鶴子さぁ〜ん…」

「か、かんにんしとくれやす………っく、ふう……。
 あぁ、おかし…。ほんま、忠夫はんはおもろいお人どすなあ」

にっこりと微笑まれる。横島は複雑そうな表情を作った。
まあ、多少おどけてみせたところはあったが、魔法協会理事のスパイをせよと言うのは割と真面目に推理したつもりなのである。
しかし見当違いだったようで、じゃあ他に何があるのか…と、横島は首をかしげる。
改めて真顔を作り、鶴子は話を切り出した。

「学園長の近衛はんが、青山から優秀な人材をご所望どしてな。
 まさかうちが行くわけにはいかんやろし、他に頼りにできるんは忠夫はんしか…。頼まれてもらえますやろか?」

魔法協会の理事が、対立している組織の人材を要望している……。何とも、裏がありそうな話だ。
しかし、どんな陰謀が隠されていようと、余程の事でない限りは潜り抜けられる自信はある。
それに……命の恩人で、なおかつ極上の美女である鶴子が頼んでいるのだ。断る事などできはしない。
逡巡したのは一瞬だけで、横島は軽く頷いてみせた。

「ええ、分かりました。
 でも、派遣されるのは構わないんですけど……なんでまた、そんな人がウチに?」

「実は、近衛はん……関東魔法協会理事の近衛近右衛門はんは、関西呪術協会理事、近衛詠春はんの義父なんどす。
 今の理事がお二人になってから、両方で、徐々に融和政策が取られて来て……なんでも、今回はその一環なんやそうどすえ。
 ゆうたら、交換留学生みたいなもんどす。向こうさんからも、呪術協会の方にどちらさんか派遣されるんやて。
 まあ……近衛はんは、他に思惑がありはるみたいどすけど」

「思惑?」

「近衛はんが学園長を勤めてはる麻帆良学園の女子中等部。そこに、お孫さんがいはるんどすわ」

「孫、っつーと…」

近衛近右衛門の孫というと、近衛詠春の子供という事だ。
呪術協会理事の娘の事なら、横島も聞いた覚えがある。
名前こそ忘れてしまったが……確か、とんでもない魔力を秘めた逸材であるが、何故か魔法や、その他『こちら側』の事には一切触れさせずに育てられて来たとか。
最近、どうも噂を聞かないなと思っていたら、そんな所にいたとは…。

「そのお孫さん……木乃香はん言いはるんやけど、どうも最近、その子の周りが物騒やあちゅうて。
 元々、ウチから一人、護衛を出しとる……ちゅうか、勝手に出て行ったんやけど……それだけやと不安なんやそうどす。
 まぁ、学園長のお孫さんやゆうても、呪術協会理事の娘さんでもあるわけどすから、色々、複雑なんどすやろ。
 ウチと向こうさんから何人か出して、それぞれに護衛してもらおうゆう腹どすわ」

「んで、俺に白羽の矢が立った、と」

頷く鶴子。
魔法協会理事の孫でいて、呪術協会理事の娘でもあり、そして、極東最大の魔力の保有者であるお嬢様。
そんなVIPとも言える人間を護衛するのだから、生半可な者は送れない。青山の沽券に関わる。
鶴子が自分を信頼してくれているのは嬉しい事だが……しかし、この仕事は一体、いつまで続くものなのだろうか?
聞く所によると、件のお嬢様はまだ中学生らしい。少なくとも高校を卒業するまでは麻帆良にこもり切りだと考えるべきだろう。
仕事で、全国と言わず、それこそ全世界を飛び回って来た横島だが、拠点とし、帰るべき家として来たのは、もっぱらここ、青山家だ。
そりゃあ途中で交代の人員が来るかもしれないし、休みがないというわけでもないだろう。それでもやはり気が進まない。
それに元来、横島は、誰かを守れ、とかいうのより、誰か(何か)を倒せ、という方が断然得意だった。
何かを守りながら戦う……というのは、何とも自信がない。かつて、大切な人を守りきれなかった経験があるだけに。
かと言って……断って、鶴子の面子を潰すのも憚られる。彼女には、本当に世話になったの一言では言い表せぬほどの恩義がある。
受けるべきか、受けざるべきか……。本当に、迷わされる。

うんうん唸っている横島を尻目に見、鶴子は、はあ、と一つ軽い溜息をついた。
お茶淹れて来ますわ、とくるりと反転し、半ば腰を浮かしかけた鶴子の口から……ああ、そうやった、と白々しい言葉が飛び出す。

「木乃香はんが属してはるんは麻帆良女子中等部。となると……自然、護衛の活動はそこらへんに絞られますなあ。
 それに、向こうさんには女子高等部もあるし、不思議と生徒さんも教員さんもみんな別嬪さんやぁゆう話は、よう聞きますなあ」

「行きます。麻帆良行きます。俺が行きます。断然行きます。絶対行きます。断られても個人的に行きます」

即答である。
鶴子は、もはや溜息しか出ない。

「……ほんなら、荷物まとめ次第、出発してもらいますえ。
 部屋とか家具の手配なら、向こうさんがしてくれはるみたいどすから、必要なもんだけ持って行きはったらよろしおすやろ」

「早速、今から準備しまっす!」

今にも喜びに叫びだしそうに駆け出す横島の背を見、鶴子はかなり複雑な表情を浮かべる。
例えるなら、出来の悪い弟を見ているような姉のような。

(これさえなかったら、結構ええ人やのになあ。
 まあそれでも、7年前と比べたらえらい成長なんやろうけど……)

今でこそ、それなりに歳相応の落ち着きらしいものを見せ始めている気がしないでもない、といった感じの横島であるが……最初の内は、それはもう酷いものだった。
鶴子は言うに及ばず、容姿の整った女性は、使用人であろうと、門人であろうと、あろう事か依頼人であっても口説き倒したものだ。
無論、その内の九割九分九厘は失敗に終わっているが……中には、本当に少数であるが、彼の本質の一端に気付いた者もいる。
一番最初に彼の魅力に気付いた鶴子の立場からすると、何とも複雑な気分だ。
可愛がっていた弟を、どこの馬の骨とも知れぬ女に掻っ攫われるような……そんな感じ。

まあともかく、今心配すべきことは一つだけ。

「……忠夫はん、なんか問題起こさへんかったらええけど…」

それを横島に期待するのは、少々無茶というものだろう。

彼がそこに至るまで(2) 特命 投稿者:毒虫 投稿日:05/24-00:30 No.595


そして数日後、横島は麻帆良の地に降り立った。
駅の改札口を抜けてから女子中等部の校舎に至るまで、辺りを眺めながら歩く。
想像していたのよりも割と普通な街並みだ。強いて言うなら、多少異国風になっているぐらいか。
しかし今日は平日だけあって、人気が少ない。学園を中核としているせいか、生徒の姿が見えなくなるとこんなものなのか。
後で寄ってみようという店を何軒かチェックしていると、その内目的地に辿り着く。
麻帆良学園女子中等部。その校舎は、大きかった。横島が昔通っていた中学校とはスケールが違う。
それに、何かこう、華やいだ香りというか……全体的に乙女チックな感じがする。恐らくは先入観のせいだろうが。

いつまでも校舎を眺めていても、何も始まらない。そのまま足を進めようとし……ちょっと待てよ、と考え直す。
今のところ、自分はまだ部外者で、生徒はおろか教員にも職員にも面識はない。
このまま不用意に足を踏み入れ、誰かに見つかれば、もしかすると不審者なんかに間違われたりしないだろうか。
赴任して早々、不審者扱いなど御免被る。青春時代、バリバリ現役の変質者であった男が言うセリフではないが。

……ふと、背後に気配を感じ、振り返る。

「!」

すると、なにやら驚いた様子の男と目が合った。中々に男前だ。
…何となく半吸血鬼の親友を思い出し、横島はちょっぴり鬱な気分になった。

男はにこりと横島に微笑みかけると、やあ、と片手を上げて近寄って来た。
なんだこいつやけに馴れ馴れしい奴だなあ正直鬱陶しいぜと失礼な事を心中で並べつつ、軽く会釈する。

「君が青山から派遣されて来たっていう、ええと……」

「横島です。横島忠夫」

ああそうだった、ごめんごめん、と爽やかに笑う男前。
対して、横島は冷め切っていた。爽やかな男は嫌いだし、そいつが男前だともっと嫌いだ。
大体、男に爽やかに笑いかけて、一体何が楽しいというのか……全く理解できない。

横島の冷たい視線を気にも留めず、爽やかな男前は爽やかに握手を求める。その仕草のどれをとっても、とても爽やかだった。

「瀬流彦と言います。よろしく」

(せるひこ…? 苗字か名前かよく分からんが、なんつーか、少女漫画の登場人物かギャルゲーの主人公みたいな名前だな。
 丁度、顔もそれっぽいし、鼻につくほどサワヤカだし。……悔しくない! 悔しくないもんね!)

心の中で唾を吐きかけながら、しかし表面上はあくまで普通に差し出されたその手を取る。
許されるのならば、今すぐにでもその整った顔にワンパンぶち込んでピカソの絵の如く前衛的な造詣にしたいものだが、あいにく横島にはそこまでする度胸はなかった。
その後の爽やかトークによると、なんでも瀬流彦は魔法先生とやらで、麻帆良の治安維持に努めているお偉い人なのだそうだ。
横島の事情もある程度知らされているようで、いちいち身許を証明するまでもなく、学園長に会わせてもらえる事になった。
予定通りだが、チェック機能がこんなんでいいのか?と疑問を持つ。まあ、学園長の顔も知らないこちらもこちらだが。

幸い、今は授業中のようで、校舎の廊下は閑散としていた。
隣の教室からは授業の内容が漏れ聞こえている。何とも懐古を誘う雑音だ。
移動している間も、思い出したように時々、瀬流彦の爽やかトークが飛び出すが、ことごとく流す。
生返事ばかり返していると、さすがの爽やかクンも察したようで、次第に静かになる。
何とはなしに気まずげになったところで、学長室へと辿り着いた。
ノックをして要件を告げると、

「それじゃ、僕はこれで……」

と、瀬流彦はそそくさと立ち去った。
後姿を見送る事もなく、さっさと入室する。重ねて言うが、横島は爽やかな男前が嫌いだった。

「失礼しまーす」

行儀悪いが、後ろ手に扉を閉める。
ここで初めて学園長の姿を見る事になって、横島は一瞬呆けてしまった。

「麻帆良へようこそ、横島君。歓迎するぞい」

そう言う学園長、近衛近右衛門。見事なまでに、まるで絵に描いたの如く、それはまさにジジイだった。
異様に出張った後頭部。薄い白髪。珍妙な髪型。目が隠れるほどに伸ばされた眉毛。どこまでも長く伸びる髭。
思わず、あんたは仙人か、と突っ込みそうになるのを何とかこらえ、横島は頭を下げた。
そこから、自己紹介など一通りの事を済ませ、ようやく本題に入る。

「ところで横島君。君の仕事の話じゃが…」

「………」

無言で待つ。
まあ、女子中の生徒の護衛をするのだ。件のお嬢が在籍しているクラスの副担任とかが妥当な線だろう。
さすがに中学生は年下過ぎるしそもそも犯罪なのでパスだが、可愛い女の子達(希望的観測)に『先生』と慕われるのも悪くない。実に悪くない。
先生という呼称は、昔バカ弟子に呼ばれていたぐらいだ。新鮮味には欠けるかもしれないが、まあいい。しつこいようだが、悪くない。
心中でむふふとほくそ笑みつつ、学園長の次の言を待つ横島だったが……

「君には、清掃員をやってもらおうかと思ってのう」

「………へ?」

あっさりと言い放つ学園長に、その野望は儚くも消え去った。
今この爺さんは何と言った?清掃員?つまりは掃除夫?アパートの部屋が魔窟と化していたこの俺が?…冗談じゃない!
今まさに抗議の声を発しようとしたその時、タイミングを見計らったのか、学園長の穏やかな声がかかる。

「と、いうのも、実は魔法先生はそれなりに数が足りていての。今更、無理に新しい人材を欲してはしていないのじゃ。
 それより、授業があろうとなかろうと自由に動け、そして生徒に顔の知られている事のない人間が欲しかったのじゃよ。
 清掃員という触れ込みならば、校舎の中にいようと、校庭にいようと、あるいは街中にいようと、何ら不思議ではなかろ。
 帽子を目深に被れば、はっきりと素顔を見られる事もなく……隠密としては最適じゃなかろかのう?」

「はあ、まあ、そりゃあ……」

確かに、学園長の言う事には一理ある。
生徒と間近に触れ合う事のできる人員も必要だろうが、それだけでは手の回らない事もあろう。
清掃員ならば、学園長の言う通り、大抵の所に居ても不自然ではあるまい。
それに、制服や掃除用具のセットの中に、色々なものも仕込めそうだ。実に便利だと言えよう。
しかし……しかし、それでは生徒との触れ合いがないではないか!先生先生と尊敬の眼差しで見られる事もない!
家庭訪問の際に美人の親兄弟と知り合う事も出来なければ、身体だけは一丁前に育った青い果実にドキドキさせられる事もない!
そして、最も期待していた要素……美人女教師との甘いロマンスが、めくるめくオフィスラブが味わえないッ! 
これは由々しき事態だ。実に遺憾だ。不満である。しかし……こんな不純極まりない事を大声張って主張するほど、横島は身の程知らずではない。
無軌道無鉄砲に生きられる時間はとうに終えたのだ。大人である横島は、後ろ髪引かれつつ泣き寝入るしかない。
血涙をこらえつつ、横島は身を切る思いで頷いた。

「………分かりました。清掃員、精一杯頑張らせて頂きます」

「うむ。学園を中心として治安維持活動を行ってもらう事になるが……ちゃんと、清掃活動もするのじゃぞ?
 清掃員が掃除をしていないようでは、生徒達にも怪しまれるじゃろうからの」

「………了解ッス」

「その他、詳細は……そうじゃの、瀬流彦君に任せるから、何か分からん事があれば彼に聞くとええわい」

「………」

トドメの一撃。もはや言葉もない。
やっぱ青山に残っときゃ良かったかなあ早くも後悔しつつ、横島は退室して行った。
…扉が閉められるのを見送り、学園長は、ふうむ…と唸りながらアゴヒゲを撫で付ける。

「彼が、『鶴の懐剣』か……。
 見た限り、そんな大層なもんでもなさそうじゃったが……はて」

どうなる事じゃろうかのぉ、と楽しげに呟く。
流石に青山鶴子並みの活躍までは望まないが、彼にはそれなりに期待しているのである。






仕事は明日からという事で、今日はもうやる事はない。
時刻は昼を回ったところだ。手荷物を置きに、一旦、用意された部屋に向かう。
わざわざ瀬流彦に案内させるまでもなく、部屋には辿り着けた。普通より、少しランクが上らしいマンション。セキュリティがしっかりしている。
青山から送った荷物は無事届いているようだった。一応、梱包を解いて中身を確かめるが、問題はない。
安心したところで……ふと、段ボールが数箱余っているのに気付く。荷物はこれで全ての筈だが…。
謎の段ボール。危険物かどうかを確かめるその前に、まずは表面の貼り紙に目を通す。

      ――――清掃員変装セット 贈・近衛近右衛門――――

「…………」

…何とも言えない気分。ちょっとは隠す努力とかしろよ。
中を改めてみると、清掃員の制服、軍手、雑巾、タオル、スポンジ、ガラス研磨剤……などなど。
細長い段ボールを開けてみると、中に入っていたのは真新しいモップ。至れり尽くせりといったところか。
手に取って確かめてみると、意外な事実に気付く。

「この制服……裏地が防弾仕様になってら。それに、なんかよくわからん紋様が……こりゃ梵字か?
 軍手やら雑巾やらタオルやら、その他小物には何の細工もないっぽいけど、モップが妙に重い…。鉄芯か何か入ってるな」

まあ、それぐらいの事はしてくれなくては困る。
横島の能力上、防具はともかく、武器はあまり必要ないのだが……そう簡単に手の内を見せたくないので、ありがたく利用させてもらう事にする。
学園長は、横島を神鳴剣士だと思っているのだから、鉄芯の埋め込められたモップより、いっそ仕込み刀を用意して欲しかったが……ないものねだりをしても仕方がない。
中身を一旦全て外に出すと、箱の底に便箋があるのを発見する。

      ――――地下駐車場 B09――――

「…?」

車でもくれるのか? まさかな…。と思いつつ、ちょっと胸弾ませて地下に向かう。
指定された場所に着いてみると……そこにあったのは、小柄で可愛い……まあ言ってしまえば、ゴルフカートのようなものだった。
二人乗りで、後部座席の部分に荷物を置けるようになっている。ここに、モップ等掃除用具を載せるのだろう。
まあ確かに、かさばりがちな掃除用具一式を背負い、毎日通勤するのは苦だろうが……せめて、もう少し…。

「軽自動車っつーわけにはいかなかったんか…? はあぁ」

女の園でお嬢様の護衛と聞いてすっ飛んで来てみれば、押し付けられたお役目は、ただのしがない清掃員…。
なんだか、物凄い勢いで肩透かしを喰らった気分だ。

「いや! くじけるな俺! 頑張れ俺! ファイトだ俺! 負けるな俺!
 たとえ花形でなくとも、地味度MAXな清掃員でも、職場は一応、女だらけなんだ!
 清掃に精を出し、勤労の汗に輝く俺を見て、美人の女教師が手作りのクッキーなんか差し入れしてくれるかもしれない!
 女教師! なんたって、女教師がわんさかいるんだ! 青山の、巫女さんに囲まれた生活もオツなもんだったが……なんせ女教師!
 イイ響きだ…! 美人家庭教師と並んでイイ職業だ…! なんか色々イケナイ事を手取り足取り個人授業…! くうぅーっ!」

拳をぐっと握り締め、無人の駐車場で一人ヒートアップ。傍から見れば、ただの変質者でしかない。
たまんねぇ!女教師マジたまんねぇ!と一通り盛り上がると、横島は決意に満ちた眼差しで明後日の方向を仰ぎ見た。

「見ててくれ鶴子さん! 俺、しっかり、女教師のハーレム作ってみせます!
 あと、余裕があるなら、女子高生とか女子大生も狙っちゃいます!」

完ッ全に、手段が目的とすげ代わっている。
裏社会で『鶴の懐剣』とかいう異名で通っている男の実体など、まあこんなもんだった。

ファントム・ブラッド(1) 初出勤 投稿者:毒虫 投稿日:05/28-23:25 No.630

横島が麻帆良にやって来てから2日目。今日は初出勤の日だ。
部屋で清掃員の格好に着替え、昨日からの愛車のマッハ号(ちなみに電気自動車)で街を走る。
仕事場へ向かう前に、100円ショップで伊達眼鏡を購入しておく。横島としては、眼鏡かサングラスありきの変装なのだ。
似合わない眼鏡をかけ、俺ってひょっとしてインテリっぽい?とか的外れな事を考える。
野暮ったいカートに乗り、ニヤニヤしている清掃員。登校中の生徒達の注目の的だ。早くも目立っている。横島は基本的に馬鹿だった。

やがて麻帆良学園女子中等部に到着すると、しばし考えた末、とりあえずは中庭に向かう。
学園長の話では、他にも清掃業者(本職)を幾人か派遣してもらっているため、なるたけ彼らと鉢合わせにならないように心がけなければならない。
業者の中では、横島一人だけが浮いているわけだが、これでは清掃業者を装った侵入者とも間違われかねない。
そこで学園長が考えた策が、横島の胸に燦然と輝く、モップを模ったバッジだった。
黄金色のモップの下に刻まれた『SCS』の文字は、『スペシャル・クリーニング・サービス』の略だ。
正式名称は、『特別権限保有指定広域清掃員』というのだが、長ったらしく、その上、名前など実際何の意味も持たないので、横島はもう忘れた。
形としては、学園長直下の清掃員であり、いつ何時、学園内のどこでも自由に清掃できる権限を与えられている。
これを生かし、使用中の女子更衣室を清掃しようかとも横島は一瞬考えたが、青山に報告が行くと地獄を見る事になりそうだと思って諦めた。

とにかく、朝一番は生徒の行き来も激しいので、校舎内の清掃は難しい。
中庭ならば校舎からそれほど離れていないし、何かあった時にも素早い対応が可能だろう。
我ながら名案だと一人満足し、横島は慣れない作業を始めた。

まずは竹箒で落ち葉などを集める。
ある程度溜まるとチリトリで回収し、ポリ袋に入れる。
大雑把に中庭全体を掃き終えると、次はベンチやテーブルが並べられた休憩所だ。
床を掃き、ベンチ、テーブルの汚れを拭き取り、ゴミ袋を回収し、新しいのと交換する。
地味で単調な作業だが、掃除した後を見ると、する前とは見違えて美しくなっている。当たり前の事だが、何故だかそれが妙に嬉しい。
横島は初めての清掃作業に、意外にも充実感を覚えていた。一通り綺麗にした中庭を見渡し満足気に頷くと、ふう、と額の汗を拭う。

「俺って結構こーゆー仕事、向いてるかもな……」

今まで、悪霊やら妖怪やら悪人やら魔族やら、果ては神話に名を刻む魔神やらと戦って来たが、生来、横島は喧嘩とかそういうのは好きではない。
気の合う仲間達と下らない話で盛り上がったり、美人のねーちゃんに特攻して玉砕しているだけで、充分楽しいのだ。
高校卒業後、経験を重ね一人前のGSになり、一生遊んで暮らせるだけの資産を作って引退し、あとは美人の嫁さんもらって退廃的な生活を過ごす……
というのが、高校時分割と真剣に考えていた人生設計であったのだが、現状は、異世界で退魔組織の使いっ走りのような事をしている。
一体、どこで人生を間違えたのか……と、自らの半生を思い返すとアラ不思議。何故か後悔する事ばかりで、鬱が進むばかりだ。
しかしこれも青山の仕事の一環とはいえ、女子校の清掃員にジョブチェンジ。血生臭い裏家業から一転、一気に牧歌風である。
学校で用務員の真似事をして、日がな一日、まったりとした時を過ごす。……悪くない。中々に悪くない人生だ。
3年周期で入れ替わる子供達の人生の一端に触れながら、ほとばしる若さを羨ましがったりして、少しずつ歳を重ねる…。
構内で拾った捨て猫に名前付けて飼っちゃったりなんかしちゃったり……。夢は膨らむ。
ああ、本気で、用務員って人生もいいかもしれない……

「って、何、たかだか数時間足らずで洗脳されてんだ俺はぁぁぁっ!!」

ぐおおー!と頭を抱え、仰け反り叫ぶ。
慣れない作業に没頭するあまり、本来の仕事の方をすっかり忘れ去ってしまっていた。
危うく道を踏み外す所だった……と冷や汗を拭っていると、ふと、人の視線を感じる。それも、一つではない。複数人のものだ。
監視されている?と、注意深く辺りを探ってみる……までもなく、自分が生徒達に囲まれているのに、やっと気付いた。

「うおっ…………と、ゲフンゲフン! ンフフフ〜ン♪」

危うく声を上げそうになるが、何とかこらえる。咳と鼻唄でごまかそうとするが、限りなく不自然だ。
これ以上妙な事態になっては困る。横島はカートに飛び乗り、移動を開始した。
…車を走らせていると、やけに生徒の数が目立つ。時間を確認すると、案の定、昼休みだった。
それに気付くと、思い出したかのように腹が減って来る。

(昼飯……だけど、そーいや、どうすりゃいいんだろ?
 学生に混じって食堂で食うのはさすがに目立つだろうし……って、そもそも、食堂の場所すら怪しいんだけどな。
 コンビニでもありゃいいんだけど……って、あれは…?)

広場に出た所で、屋台らしい車が停まっているのが目に入る。
とてもいい匂いが鼻先をかすめる。辛抱たまらなくなり、横島は少し離れた所にカートを停めた。
近付いてみると、どうやら肉まんを売っているらしい事が判る。のれんには、『超包子』の3文字。
ちょーほーこ…?とアホの子っぽく首をかしげつつ列に並ぶ。待ち時間はそれほどなかった。

「いらっしゃいアルネ! いくつ包むカ?」

売り子のお団子頭の少女が、朗らかな笑みで横島を迎える。
普通なら、おいおいなんだよその胡散臭い中国訛りは、とツッコミが入る所だろうが、生憎、横島は彼女以上に胡散臭い中国人モドキを知っている。
そういや厄珍のヤツ、今頃元気にやってっかなぁ…と、何となく心配になる。
オカG辺りにガサ入れを喰らえば、いつしょっぴかれてもおかしくはない。オカルト関係の法律はもちろん、薬事法にだって引っかかるだろう。
しかしまあ、正直、厄珍の事などどうでもいいので2秒で忘れて、横島はとりあえず肉まんを3つほど注文した。値段は安かった。

「毎度ありネ! 再々(ツァイツェン)!」

気持ち良く送り出してくれる。中華娘の売り子ってのもオツなもんだ……と、無意味に頷く。
袋からあまりにも美味そうな匂いが立ち昇るので、カートまで我慢しきれず、横島は肉まんを手に取った。がぶりとかぶりつく。
モチモチの皮、溢れ出す肉汁、ジューシーな具……! カッ! と横島は目を見開いた。

「ンまァーーいッ!!」

目じりに涙まで浮かばせながら、横島は絶叫した!

「『ハーモニー』っつーか、『味の調和』っつーか……
 たとえるならサイモンとガーファンクルのデュエット! ウッチャンに対するナンチャン!
 高森朝雄の原作に対するちばてつやの『あしたのジョー』! …つうーっ感じだよあ〜っ」

肉まんは美味かった。今まで食したどの肉まんよりも、確実に、そして段違いに美味い。
感動すらもたらすその味に、インド人もビックリだぜ…!と間違った感想を漏らす横島であった。






肉まんを3つも食べればそれなりに腹が膨れる。水飲み場で喉を潤し、昼食を終了とする。
午後からは、広場と、グラウンドの隅を中心に作業を進めた。
作業の傍ら、体育の授業に励む生徒達のブルマに幾度も目を奪われ、いやいや俺はロリじゃない!と葛藤したのは御愛嬌だ。

幸い、他の清掃業者とかち合う事もなく、何事もなく作業を終える。
気が付くと、もう放課後になっていた。時間が経つのは早いものである。

鶴子の言う通りにするなら、これから近衛木乃香嬢の護衛をするべく、彼女の居所を探るべきなのだろうが……現段階では難しい。
何しろ、情報が足りない。普段の行動範囲も知らなければ、彼女の属するクラスさえ知らないのである。
判っているのは名前と、顔ぐらいなものだ。それさえも、一昔前の写真で、今現在のものではない。
学園長としても、恐らくはそのために横島を呼んだのだろうと思うのだが……今のところ、特にその事に関しては何も言って来ない。
それに、鶴子から聞いた、青山を出奔した形で木乃香嬢の護衛を務めている者の正体も気になる。
横島はあくまで鶴子に尽くしているのであって、何から何まで青山の思惑通りに動くつもりはない。
拾ってくれた恩義は感じているが、その義理はここ7年間の働きで全て返したものと思っている。
ゆえに、例え青山で裏切り者とされている人物と手を組む事にも、何のわだかまりも感じないのだ。
むしろ、積極的に協力していきたいとさえ思っている。同じ目的を持っているのにそれぞれ別々に動いているなど、非効率的だ。
さっさと協力関係を築いて、ある程度連携を取れるようにすれば、木乃香嬢の安全も守りやすくなる筈だ。
今度学園長に会ったら、その旨について相談してみよう……と、横島は掃除用具を片付け始める。
今すぐ会いに行かないところが、横島のぐーたらな性格を表していると言えよう。

小腹も空いたし、とりあえず軽くなんか食おう……とカ−トを走らせていると、視界の端にめんこいものが映り込む。
横島は反射的にカートを停めた。猫。それも仔猫だ。可愛い。超可愛い。
しゃがみ込み、チッチッチ……と呼んでみると、そのいたいけな瞳が横島を捉えた。横島の顔面全体が緩む。
さすがは人間以外にモテまくる横島と言うべきか、仔猫は何ら警戒せずに横島へ歩み寄った。
みーみーと可愛らしく鳴き、差し出した横島の指をぺろぺろと舐める。横島は悶絶したくなった。

「あーもう! かぁいいなぁーっ! こいつめ! こいつめっ!」

頭やアゴの下や耳の裏や背中を撫でまくったり、尻尾の付け根の辺りをコリコリしてやると、仔猫は大層喜んだ。
完全に懐いた仔猫を、きゅっと胸に抱き締める。暖かい……。至福の時だ。今日一日の疲れが吹っ飛ぶ。
美人さんが好きです!でも、猫さんの方もめっちゃ好きです!そんな感じだ。

…完全にニャンニャンに没頭している横島の背後に、すっ…と近寄る影。
背後に立たれればさすがに気付き、横島はさり気なく後ろを振り返った。
そこにいたのは……

「……………」

耳にアンテナらしきものを生やし、無言で佇んでいる少女。
よく見てみれば、手の指や、膝などが不自然である事が分かる。球体関節、という奴か。
そして虹彩のない無機質な瞳。なんかもうあからさまにロボットっぽかったが、その辺に頓着する横島ではなかった。
横島が注目したのは、彼女が手に持っている猫缶だった。

「あ……。この猫、君が?」

「いえ、そういうわけでは」

口ではそう言いつつも、その視線は仔猫へと注がれている。
何となく手を離してみると、仔猫は一目散にロボっ子(仮名)へと駆け寄る。横島、ちょっとショック。
ロボっ子は猫缶を開けると、ひっくり返して蓋の部分に中身を乗っけて、地面へと置いてやる。
エサを貪る仔猫を見る彼女の瞳は、相変わらず無機質だが、どことなく優しい。
彼女の仕草のどれもが、どうしても知り合いの機械少女……マリアを思い出させる。
胸を締め付けられるような感傷を覚え、横島は目を伏せた。

「…? どうかなされたのですか?」

横島の変調に気付き、ロボっ子が声をかける。
これはプログラミングされた行動だろうか?いや、そうだとは思えない。
声に気遣わしげなものこそ感じ取れないが、しかし全くの無感情というわけでもない。
横島は直感的に気付いていた。この娘は確かに機械だろう。だが、確かに心が宿っている。

「君は………優しいんだな」

マリアとダブらせ、横島にしては珍しく、とても優しげな目で彼女を見やる。
ロボっ子は、どうやら戸惑っているらしかった。


「優しい………?」

優しい。データベースには記載されている単語。その言葉が持つ意味ならば、何度でも反復できる。
しかし、誰かから彼女に向けてその単語が使用されたのは、これが初めてだ。
見も知らぬ清掃員の青年。彼の言葉は明らかに矛盾している。感情というシステムを搭載していない自分が、優しい。ありえない事だ。
ありえない。ありえないが………何故だろうか。否定する気が起きない。いや、否定したくない……のか?
〜する気が起きない、したくない、というのも、彼女のあり方に反する、ありえない事なのだが。

対応措置を取れないでいると、清掃員の青年は、よっこらせ、と声をかけて立ち上がった。
エサを食べている仔猫をしばらく眺めると、次に彼女へと視線を向ける。

「そ。君は優しい。んで偉い!」

ニカッと笑うと、青年は彼女の頭をくしゃっと撫でた。
彼女の髪は放熱剤の役目も兼ねている。本来なら、乱されるのは好ましくない筈なのだが……その行為を自然に受け入れてしまっていた。
青年はもう一度笑うと、軽く片手を挙げて踵を返した。

「んじゃ、俺はこれで」

「………ええ、また」

去って行く清掃員の青年の背を見送る。
何故か、彼の名は何と言うのだろうと、その事だけが気になった。






陽も完全に落ちた頃……。
桜通りから少し脇に逸れた桜林。その中で、異様な光景が繰り広げられていた。
銭湯帰りの格好をした少女が力なくへたりこみ、背を桜の幹に預け……その上に、黒いものが覆い被さり蠢いている。
いや……よくよく目を凝らせば、それが黒いマントを羽織った、小柄な人影である事が判る。

「あっ……あ……あ、あ………」

まだ乾ききっていない髪を二つ括りにした少女の瞳は、ただ虚空を彷徨い、何も映さない。
瑞々しい唇から時折漏れる声は、苦痛とも快感ともつかない、複雑な感情を帯びているように聞こえる。
まるで映画か何かのワンシーンのような、それは日常からあまりにも逸脱した風景だった。
…しばらくもしない内に、黒マントが少女から身を離す。雲が晴れ、月明りがその正体を照らした。

「フッ……。中々、美味かったぞ」

意外にも、黒マントの下にあったのは、出来の良い西洋人形のような、可憐な少女だった。
豪奢な光沢をたたえる黄金色の髪をかきあげ、薔薇の蕾のような口唇をぺろりと舐める。
頬は、今まさに情事を終えたかのように上気し、その瞳は扇情的に濡れている。
外見的にはまだまだ幼い少女のようだが、その身にまとう雰囲気は妖艶そのもの。化生じみた色気を放っている。
黒の少女は、愉悦に目を細め、天に輝く満月を仰ぎ見た。

「さて、ぼーやはどう出るか…」

愉しませてくれるといいがな、と、マントを翻らせ、振り返る。
その視線の先には、闇夜に紛れるようにひっそりとたたずむ影。

「なあ、茶々丸?」

「……はい、マスター」

返事は、単調な声。
それは、放課後、仔猫に餌をやっていた……あの、機械の娘だった。
機械の少女がその瞳に映すのは、珍しく上機嫌な己の主ではなく、意識を失い、倒れている少女。

(このような行為は、恐らく、一般的に『優しい』とされる行為に該当しない……)

そう判断を下すと、何故か、胸の機関部の辺りに過負荷がかかる。
それと同時に、昼間の清掃員の青年の笑顔が再生される。
これまで稼働して来た中で、こんな事は初めてだ。故障かもしれない…。今度、念入りに整備してもらおう。

「何してる、茶々丸。帰るぞ」

いつの間にか、主は帰路についていた。
はいマスターと返事を返すと、その後に続く。
夜道に捨て置く形になるクラスメイトの事が気にかかった。



一方その頃、横島は……



「く、くそ…! 何故だ! 何故なんだッ!? うおおぉーーッ!!」

深い絶望が横島を襲う。
それは酷い裏切りだった。そう、生きる希望さえ奪われるような…。
号泣し、拳を床に叩きつける。何度も、何度も。…しかし、そんな事をしても、胸を覆う絶望が晴れる事はない。
煌々と明かりを灯す天井を睨みつけ、力の限り、横島は叫ぶ。

「なんでここのレンタルビデオ屋はどっこもえっちいビデオを置いてないんじゃあぁーーーッ!!」

「い、いや、僕に言われても……経営方針ですし……」

マジギレする横島に、冷や汗をかきながらツッコミを入れるアルバイトの店員。
そりゃあ、人口の大半が学園関係者で、未成年の学生もかなりの比率を占める、ここ麻帆良学園都市。
ちょっとエッチな雑誌程度ならともかく、流石にアダルトビデオなど、教育上マズすぎるものは取り扱われていない。
…しかし、出張先は別として、青山本宅では雰囲気的にソレ系のアイテムなど見れないのだ。
久々に趣味のAV鑑賞を心置きなく楽しめると思っていた矢先にこれでは、横島としてはたまったもんじゃない。
心も体も成長し、さすがに霊力源が煩悩のみという事はなくなったが……それでも横島は横島。すけべえなところは変わっていない。
むしろ、なまじ経験を積んだだけに、ある意味では悪化しているとも言えよう。
職場で目に入るのは、実際に手を出すのは憚られる少女達。彼女らで発散するのは犯罪だ。
しかし今更、生温いソレ本ごときでは、ありあまるエネルギーを全て燃焼させる事など到底不可能。
もう、にっちもさっちもいかない。これが俗に言う、蛇の生殺し状態か。

「ドチクショーーーーーーッ!!」

号泣しながら走り去る横島の背を、もう二度とくんなよと切実に願いつつ、バイトの店員が見送っていた。

ファントム・ブラッド(2) 箱庭の満月(前) 投稿者:毒虫 投稿日:06/04-22:17 No.675

今日も今日とて、朝早くに起床する。
こっちの世界に跳ばされて来て以来、横島の朝は基本的に早い。青山全体がそうだったからだ。
まあそれ以前にも、どこぞのバカ犬に、まだ日も昇らない内から散歩と称した鉄人レースに駆り出される事もあったが…。

朝はそれほど弱くない横島だが、今朝の目醒めはあまりよくなかった。
目覚ましに起こされたのではなく、学園長から支給された端末が、早朝から無機質な電子音を鳴り響かせたからである。
…ちなみに、横島の目覚ましは録音型で、鶴子の『朝どすえ、はよ起きなはれや』のメッセージが吹き込まれている。
引越しの荷物の中に入れた覚えはないのだが……と不思議に思うが、使わないと呪われそうなので、半分仕方なく愛用している。

「あンのジジイ、常識とかそーいったもんを知らんのか? ったく、こんな早くに…」

学園長も、まさか横島に常識を疑われるとは思ってもいなかっただろう。
とにかく、二度寝するのは危なそうだったので、潔く起きる事にする。
朝食を済まし、一連の朝の仕度も終えたところで、ようやく横島は端末を開いた。

「なになに…?」

おはようメールだったらただじゃ済まさんぞコラァと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
メールの文面には、こうあった。

   ――――吸血鬼騒動アリ 桜通リヲ警戒セヨ――――

昔の電報かよ!と一人空しくツッコミを入れ、俺、何やってんだろ朝から……と軽くヘコむ。
しかし、吸血鬼騒動と来たもんだ。着任早々、大仕事の予感である。
普通なら緊張してもおかしくないが、横島の持つ吸血鬼のイメージといったら、そりゃあもうロクなもんじゃない。
なんせ、横島が知っている中で、最も強い吸血鬼といったら、あのブラドー伯爵ぐらいしか思いつかない。
彼は確かに強力無比な魔力を持つ、歴史上でも指折りの吸血鬼だったが……知能方面に大きな問題があった。
それも、横島がまだ見習いにもなっていない時期の事なので、横島の中では、『吸血鬼=このド低脳がァーッ!』とインプットされているのだ。
まあ一応仕事だから命令には従うけど、別に俺じゃなくてもいんじゃね?というのが本音である。




相手は吸血鬼。例外はあろうが、まあ朝や昼間から出没する事はないだろうと踏まえ、今日も学校へ出勤する。
昼までは、昨日掃除しきれなかったグラウンドの隅の続きをしているだけで終わった。
他に行く所も思い付かなく、探すのも面倒だったので、今日も昼食は『超包子』で済ます事にする。幸い、昨日と同じ場所で営業していた。

「毎度ありネ!」

あの笑顔、中々癒される……と和みつつ、買った傍から肉まんを頬張る。
美味い。やはり美味い。昨日食べたばかりだが、これなら毎日でも食べられる。
ホクホクしながらカートを走らせ、午後からはどこと決めるわけでもなく、目に付いた所をちょこちょこ掃除する。
時折ジュースを飲みながらサボっていると、授業終了の鐘が聞こえた。これからは放課後だ。
そろそろ噂の桜通りとやらに行ってみようかねと腰を上げ……ふと、昨日のロボっ子の事を思い出した。
何となく気になったので、昨日仔猫を見つけた場所まで行ってみると、案の定、今日も彼女は仔猫にエサを与えていた。
日溜りの中、美少女が可愛い仔猫にエサを与えている。実に微笑ましい光景だ。横島は満足気に頷く。
このまま見ているだけでは何となく変態っぽいので、声をかける事にする。

「ウィーッス!」

「あ……」

ひょいと片手を上げ、気安げに挨拶してみた横島だったが……どうやら、戸惑わせてしまったようだ。
ロボっ子は微妙に首をかしげ、そろそろと横島と同じように手を上げる。どうも、あまり意味が伝わっていないらしい。
横島は苦笑すると、改めて挨拶した。

「こんちわ。また会ったね……つか、会いに来たんだけどね」

「会いに……? この子にですか?」

ロボっ子は、視線で仔猫を示す。横島は首を横に振った。

「ま、それもあるんだけど、メインは君にだな」

なるべくナンパっぽくならないように告げると、ロボっ子は首をかしげる。

「私に? 何か御用でしょうか」

「いんや。ちょっと気になったもんだから」

「気に……。そうですか」

それだけ言うと、また仔猫の方に視線を戻す。
横島としては、まず名前を訊いておきたいところだが、そうなれば自分も名乗らねばならなくなってしまう。
特に学園長からは言われていないが、清掃員に変装しろという事は、正体を悟られないようにしろとの事だろう。
名前が分かったぐらいで身許が割れる事もなかろうが、そうそう気軽に名乗らない方がいい、と考える。
適当に偽名を名乗ってもいいのだが……この子に嘘をつくのは、何となく悪い気がする。
こちらから喋らなければ延々と沈黙が続くだろうと、横島はこれまでの経験から察していた。

「その猫……飼ってはいないって言ってたけど、エサは定期的にあげてんの?」

「はい」

「エサをあげるのはそいつだけ?」

「いいえ、他にも何匹か」

「そっか。……しっかし、やっぱ猫って可愛いよなぁ」

「………」

「それにしても、今日はいい天気だなー」

「はい。降水確率は0%です」

「そ、そうなんだ」

「………」

「えーと…………」

「………」

会話が続かない。無理もないが。
こういう対応はマリアで慣れているのだが、それでも少し気まずい事に変わりはない。
これからの予定もあるので、横島はそろそろ立ち去る事にした。

「んじゃ、また……」

「………………私は…」

踵を返し、去りかけた横島の元へ、微かな声が届く。
思わず振り返ると、ロボっ子は横島の方を向いていた。しかし、その目は伏せられている。

「……………」

待てど暮らせど、ロボっ子は沈黙を守り続ける。
何か言いたい事がありそうなのは確かだが、無理矢理聞き出すこともできない。
根気よく待っていると、ロボっ子はようやく口を開いた。

「………いえ、何でもありません」

「…そっか」

無表情だが、ロボっ子はどこか沈んでいるように見える。
横島は優しく笑いかけた。言いたい事があったらいつでも言えよ、と言外に告げているのだが、果たして伝わっているかどうか。
このまま放って置く事はできない。が、これ以上こうしていても仕方がなかった。

「…それじゃ、また明日、ここで」

「あ……。は、はい」

さり気なく明日の約束を取り付け、今日の所は引き下がる。
1日、間を置けば、あの子も心の準備ができるだろう。機械である彼女にそんな事が必要なのかは疑問だが、横島はそう信じた。



清掃員の青年が去った後も、彼女はずっと彼がいた場所を見詰め続けていた。
夕陽が彼女を照らす。表情を持たない筈の彼女は、何故か悲しんでいるように見える。

「私は………………」

寂しげにたたずむ少女の足下に、仔猫が心配げに寄り添っていた。






陽は沈み、空に月。
気配を遮断し、桜林に身を潜め、横島は張り込みを続けていた。
さすがにカートを停めておくわけにはいかなかったので、モップを始め、道具はいくつかしか持って来ていなく…
そして己に課した制限とはいえ、霊波刀や文珠はおろか、あからさまに霊気を具現させる行為は全て封印していた。戦い方は限られる。

この世界に来てしばらくしてから気付いたのだが、まず、こちらには『霊力』というエネルギーは存在しない。
似たようなものに『魔力』と『気』があるが、やはりその性質は異なる。
もっとも、どこがどう違うのか、と問われても、横島は『何となく』としか答えられないのだが。
とにかく、そのような力を持っていると露見するのは色々とマズいのである。心ない魔法使いのモルモットにされかねない。
ゆえに、なるべく、気の使い手のように見える戦い方をしなくてはならないのだ。
道具を持ち歩くのは正直面倒臭かったりするのだが……まあ、仕方がない。

(……つーか、この状態…なんかの拍子で見つかったりしたら、むしろ俺が不審者だよな)

不審者・変質者扱いには慣れてるんだけど……と思い、余計に情けなくなる。
不審者といえば、ここを張っているのは、どうやら横島だけではないようだった。
横島が張り込み始めてしばらくしてから、明らかにもう一人、この辺に身を潜めている。
気配の消し方が稚拙……というか、全く消せていないので、好奇心の強い生徒が噂を確かめにでも来たのか、と当たりをつける。
まあ放って置けばその内飽きて帰るだろうと踏んでいたのだが、これがなかなか粘り強い。
説教して帰すタイミングも完全に逸したので、仕方なく見て見ぬ振りしているのが現状だ。

…早く帰りてえなあと益体もない事を考えていた矢先、久し振りに通行人が現れた。
長い前髪で顔を隠すようにした少女。人相は窺えないが、こういうのって大概、ホントは可愛いってパターンだよなぁと推測する。

「こ……こわくない〜〜♪ …こわくないです〜♪ こわくないかも〜〜♪」

少女は怯えながら、妙な鼻唄を口ずさんでいる。
きっと一生懸命自分を励ましてるんだなあ……。可愛いじゃないか、と、横島の頬が緩む。
…急に、風足が強まる。と同時に、辺りの空気ががらりと変容した。

(これは……気配こそ弱いが、魔力!)

確かな気配を捉え、横島はそちらへ目を向けた。
ちょうど時を同じくして、気配の主が街灯へと着地する。空を飛んでいた…。吸血鬼に間違いあるまい。
少女も、怪異に気付いたようだ。硬直する少女をよそに、黒い影は悠然と言葉を紡ぐ。

「27番、宮崎のどかか…。悪いが、少しだけその血を分けてもらうぞ」

(子供……。女の子、か?)

未だ顔形は判然としないが、その声だけは聞き取れた。思っていたより小柄に見えたが、声を聞いて納得がいく。
確かに、女……それも、まだ幼い声だ。子供にしては声に艶があったが、吸血鬼は外見と実年齢が一致しない。
子供吸血鬼は、悲鳴を上げる少女に、今まさに襲いかかろうとしている!
横島はすっと制服の上着のポケットに手を入れた。この距離なら充分だ。狙い目は、奴が少女に組み付くその時、その背中…。
タイミングを見計らっていると、意外な所から声がかかった。

「待てーっ!」

「「!!」」

またもや幼い声。期せずして、吸血鬼と横島が同じタイミングで驚く。
乱入者の方に興味がそそられたのか、吸血鬼は気絶した少女から目を離した。
横島も声の主の方へと視線を向ける。そこにあったのは、まだ幼い少年が杖に乗って猛烈な勢いでこちらへ突っ込んでくる、という予想外なものだった。

(た、宅急便か…? 性別違うけど)

横島が見当違いも甚だしい事を考えている間にも、事態は進行する。
杖から降りると同時に、少年が何事か呪文らしきものを叫ぶと、その手の先から光の筋が吸血鬼に向かって走る!
吸血鬼の方も、何か呟くと同時に、どこかから取り出した何かを放り投げる。それにぶつかると、光の筋はそこで爆砕した。
もう何が何だか分からない事だらけだ。どうしたもんかと、横島はとりあえず事態を静観する事にした。匙を投げた、と言ってもいい。

(そういや、魔法使い同士の戦いを見るのなんて、これが初めてだな…)

魔法使いと戦った事はあるが、大体、何か呪文を詠唱している間に斬り伏せていたので、魔法が発動したのを見るのも珍しい。
青山も、魔法使いと共闘するのを良しとしないので、味方として接触する機会も中々なかった。
間近で魔法が炸裂するのを見、横島はちょっと感動していた。自分が知っている魔法といったら、猫を喋らすとかそのぐらいだったからだ。
…いや、それはそれで凄い魔法なのかもしれないのだが。

余計な事を考えていた横島。ふと視線を戻すと、いつの間にか吸血鬼の姿が明らかになっていた。
背丈は魔法使いの少年と大体同じくらい。腰の下辺りまで伸びた金髪。予想した通り、女で子供だった。
戦いにくいなぁ、と溜息を漏らしていると、子供吸血鬼はマントの下からフラスコと試験管を取り出し、それを子供魔法使いに投げつけた!

「氷結・武装解除(フリーゲランス・エクサルマティオー)!!」

「うあっ!?」

フラスコと試験管の中身が反応し合い、炸裂する!
すると、子供魔法使いが突き出した手の袖と、彼が抱えている女子生徒の服が半分、粉々になって吹っ飛んだ!
露わになったまだ育ちきっていない青い果実に反応するかと思いきや、横島は子供吸血鬼を凝視している。

(な、なんて素ン晴らしい魔法なんだ…ッ!! 教えて欲しいなあチクショー!!)

発想からして既に変態だが、横島はこれでも真剣である。
先程の音に引き寄せられたのか、女生徒が2人ほど駆け寄って来た。子供魔法使いは、半裸になった少女の扱いに困っているようだ。
その隙を突いて、霧に姿を隠しながら、子供吸血鬼がその場から離脱する。今しかない、と横島は後を追った。

足に霊力を込めて駆け出すと、あっと言う間に吸血鬼に追いつく。
ここで横島はようやく気配を消すのをやめ、懐から取り出したものを投げつける!

「喰らえ、雑巾手裏剣!」

霊力が込められた雑巾が、一直線に吸血鬼へと向かう!

「ッ!? な、なんだと!?」

咄嗟に魔法薬を放り、障壁を作り出す。
雑巾は障壁に阻まれ、何故か爆散した。

「誰だッ!!」

狼狽する吸血鬼の前に、ゆらぁり…と何となくソレっぽい感じで姿を現す。
無理もないが、不審気に眉をひそめる吸血鬼。

「見りゃ分かんだろ。通りすがりの清掃員だよ」

「清掃員だと? 魔法職員ではない、のか……?」

何やら呟いている吸血鬼を見据え、横島は左右のポケットからあるものを取り出した。
両手に構えたるは雑巾。それぞれ妙に汚れている。にやり、と横島は悪役っぽく口許を歪めた。

「さあさあ、大人しく捕まってもらおうか!
 さもなくば、この俺の必殺技……『牛乳拭いて丸1日経った雑巾手裏剣』と『便所掃除に使用した雑巾手裏剣』がお前を襲う!
 臭いぞぉ〜? きちゃないぞぉ〜? どうだ、嫌だろ? こんなん喰らいたくないだろ? なんせ、俺でも軍手はめなきゃ持てないんだぞ?
 こいつを顔面にべちょっとされたくなかったら、さっきの女の子の服ビリビリにした魔法だけ教えて、さっさと投降するんだなッ!!」

「アホかぁーーーーーーーっ!!」

「のぉうっ!?」

全力投球したフラスコが、横島の顔面に直撃する。横島は、首から上がパリパリに凍り付いてしまった。
ぜぇぜぇと肩で息をしつつ、力一杯、吸血鬼は謎の清掃員を睨みつける。

(何なんだコイツは!? さっきの雑巾手裏剣とやら、マヌケな見た目に反して、中々強力な攻撃だったが……必殺技がソレなのか!
 こんなに接近されるまで気づかなかった事といい、恐らくはそれなりの手練れなのだろうが……ふざけているのか?)

雑巾には気……のようなモノが込められていた。どこかの退魔師だろうが、清掃員に扮した退魔師の事など、学園長からは何も聞いていない。
見ると、清掃員は頭をぶんぶん振っただけで魔法の氷を振り払っている。もはや人間業ではない。
ふざけているのか、頭が不自由なのかは知らないが、油断してかかるのは危険そうだ。

あー、死ぬかと思った…と気軽にぼやくと、横島は雑巾を仕舞い、背に差したモップを手に取った。

「…とにかく、こっちも仕事なんでな。見逃すわけにはいかない。
 なに、もう二度と悪さをしないって誓うんなら、軽いお仕置きだけで済ましてやるさ」

「ほう……面白い事を言う。この私に向かって、お仕置きとはな…」

横島に嘲笑をくれてやり、吸血鬼はマントに手を引っ込めた。
魔法薬を取り出す暇を与えてやる筈もなく、横島のモップが空を斬る!

「見よう見まね斬空閃!!」 

モップから繰り出された気の刃が、吸血鬼を襲う!
意外とまともな攻撃に軽く驚きながら、焦らず、吸血鬼は障壁を展開する。
斬空閃と障壁が接触し、爆発! その際に発生した霧に混じり、気配を隠し、その場を離脱……

「逃がすか!」

「っ!! (速い…!!)」

移動しようとした矢先、霧の中から横島が飛び出した!
無造作に横薙ぎされたモップをなんとかかわすと、吸血鬼は魔法薬を取り出す。
武装解除してしまおうと、投げつけようとした吸血鬼の目に、信じられないものが映った。

「うははっ! 俺は初志貫徹の男なのだよ!!」

「ば、馬鹿な…っ!?」

モップを振り回していたのは片手だったようで、空いた方の手が、例の雑巾を二枚重ねで持っていた。
必死に避けようと試みるも、一瞬の硬直が決定的な隙となる。このままいけば、あわれ顔面直撃だ。
牛乳雑巾の強烈な悪臭に鼻がひん曲がる。便所雑巾の意味深な茶色いシミは、一体何を拭いた痕なのだろうか。
確実に迫るその瞬間。まるでスローモーションになったかのように時の流れが停滞し、吸血鬼の脳裏に、これまでの長い人生がダイジェストで再生される。

(――――15年 中学生を やったけど 結局ナギに 会える事なし――――   エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル)

辞世の苦は、何だか物凄く軽かった。
ああ、悔いの残りまくる人生だった……と世を儚んでいると、意外な方向から横槍が入る。

「見つけましたよ、エヴァンジェリンさんっ!!」

「!」

杖に跨った魔法使いが突っ込む!
その勢いに驚かされたのか、横島は一瞬硬直してしまう。その隙を突いて、吸血鬼は思いっきり横島の急所を蹴り上げた!

「ヤッダーバァアァァァァアアアアアッ!!」

想像を絶する激痛。金的への攻撃。それは神が男性にのみ与えたもうた熾烈な試練。
もはや日本語にならない悲鳴を上げ、横島は思わずその場にうずくまった。
涙・鼻水・ヨダレ・耳汁、顔面からありとあらゆる体液を流しながら苦しむ横島を捨て置いて、二人はいずこへと飛び去って行ってしまう。
痛みと苦しみと憎悪で横島が殺意の波動に目覚めそうになった時、心配そうな声がかかった。

「だ、大丈夫ですか……?」

女性の声だ。力を振り絞ってそちらに目を向けると、そこにいたのは、いかにも気の強そうなツインテールの少女だった。
もしこれがグラマラスな美女だったら、その胸で死なせてーっ!と飛びかかるところだが、この少女にそれを求めるのは酷だった。
しかし心配してくれた事には変わりない。苦しみに悶えながら、救いを求めて手を伸ばす……が。

「あ、スイマセン。あたし、ちょっと急いでるんで」

軽やかに無視され、置いていかれる。
横島は、何だか無性にこの世の全てを呪いたくなった。

「ぬ、ぬぅをおぉぉおぉぉぉおおぉおぉ………!!
 お、おぉおおぉのれえぇぇぇぇ……あンのガキャ、だたじゃあ済まさんぞぉぉぉぉ……!!」

涙に濡れるその瞳には、復讐の炎がギラギラと燃えていた。

ファントム・ブラッド(3) 箱庭の満月(後) 投稿者:毒虫 投稿日:06/07-22:06 No.690


「ぐっ……」

クラスメイトに蹴られた頬を押さえ、吸血鬼……エヴァンジェリンは呻いた。
もう少しで長年の悲願が達成される所だったのに…!まさか、『こちら側』に深く踏み込んでいない筈の神楽坂明日菜に邪魔されるとは。
何だかよく分からない清掃員モドキといい、馬鹿力のクラスメイトといい、不確定要素が混じりすぎた。
本来の力のほんの一部も使えない今、これ以上戦闘を続けるのはよした方がいい、と判断する。
神楽坂明日菜は従者の茶々丸に任せるとしても、魔法薬を全て失った状態でネギを相手取るのは危険だ。
体術その他にはそれなりの自信があるが、流石に生身で、これといった策もなく、半人前とはいえ魔法使いに挑もうなどとは思わない。

「よくも私の顔を足蹴にしてくれたな、神楽坂明日菜……。お、覚えておけよ」

三流役者っぽい捨て台詞を残すと……戸惑う事なく、エヴァンジェリンは屋根から身を投げた!
それに付き従い、茶々丸もふわりと地面から足を離す。神楽坂明日菜が制止したようだが、聞いてやる必要はない。
それなりに高度を下げたところで、ジェットを起動させた茶々丸に掴まる。その腕に腰を落ち着けると、まだ痛む頬を押さえる。

「思わぬ邪魔が入ったが……ぼーやがまだパートナーを見つけていない今がチャンスである事には変わりない……。
 覚悟しておきなよ、せんせ――ぷあぁっ!?」

せっかくのキメ台詞が、急に旋回した茶々丸に驚き、舌を噛んでしまう。
相当痛かったらしく、涙目で茶々丸を睨み、無言で責める。
心なしか困ったような感情を目に浮かばせ、茶々丸は眼下を指差した。

「マスター、何者からかの襲撃を―――――感知しました」

言葉の途中で、素早く空いている方の手を動かす。
掌を開くと、そこには何の変哲もない、小指の爪ほどの小石が。エヴァンジェリンの眉がひそめられる。

「投石だと? フン……随分、私もナメられたものだな」

「いえ、それが…」

ひゅご、と風を切る音。ジェットを逆噴射させ、茶々丸は咄嗟に後ろへ避けた。
危うく落ちそうになったエヴァンジェリンが、慌てて茶々丸の首に手を回す。

「ええい! 投石ぐらい、払い落とせばいいだろう! 落ちたらどうするっ!? 今は、飛べないんだぞ私は!!」

「申し訳ありません、マスター。
 しかし……今の攻撃を払い落とすか、掴み取ろうとした場合、高確率で私の手が破損するものと判断しました」

「なに…?」

茶々丸の耐久性は結構なものの筈だ。たかが投石ぐらいで破壊されたりはしない。
となると、先程の、一握りほどのつぶてには、相当量の気が込められていたのだろう。
モノに気を込める攻撃が得意な……といえば、状況的にあのふざけた清掃員を思い出す。
あの清掃員、頭はどうかしているが、実力だけは大したものだ。今の状態で戦いたい相手ではない。

「今日は疲れた。茶々丸、できるだけ高度を上げろ。さっさと帰るぞ」

「はい、マスター」

意地でも『逃げる』と言わないのが彼女らしい。
主に従い、茶々丸は高度を上げた。月が近い。いくらなんでも、ここまで攻撃は届くまい……と、安心していたのだが。

「ば、馬鹿な!!」

ふと眼下を覗いてみれば、こちらに向かって真直ぐ飛んでくる、子供の頭ほどもあろうかという石。というか、小さい岩。
ハルクか奴は!?など思いつつ、慌てて叫ぶ。

「避けろ、茶々丸!」

「はい、マスター」

岩がこちらに届くまで、まだ若干の余裕がある。
軌道を予測し、茶々丸はあくまで冷静に距離を取った。
ほどなくして、物凄い勢いで飛んで来る岩。

「フン……。ここまで飛ばしたのは褒めてやってもいいが、いかんせん狙いが粗すぎたな。
 奴もなかなかやるようだが、やはりこの私には敵うまい」

ハーハッハ!と高らかに哄笑する。
岩は今まさに、二人の脇を通過……するかと思いきや、何と、岩は中空で爆発した!
爆風に混じり、大小のつぶてが二人を襲う!

「なっ……くあぁッ!!」

「! マスター!!」

爆風と、たっぷり気の練り込められたつぶてを横ッ面に喰らい、エヴァンジェリンはたまらず吹っ飛ばされた!
速やかに茶々丸がキャッチするが、撃墜されなくとも、エヴァンジェリンがダメージを負ってしまった事には変わりない。
茶々丸が咄嗟に庇ったのが功を奏したのか、エヴァンジェリンに岩の欠片が刺さっているという事はなかった。
その事実に茶々丸は安心するが、その分、彼女自身が負ったダメージは大きい。
流石に機能停止に追い込まれるほどのものではないが、少なくとも戦闘能力は大分削られた。
本来なら、何を差し置いてもアジトまで逃げ帰るところなのだが……

ひゅごお!風を切り、また投石が再開される。
幸い、今のは砂利程度のものだったが、また大きいのが来るのかと思うと…。

「マスター……」

「…分かっている。まともに障壁が張れない今、またアレを喰らうと致命的だ。
 降りるぞ、茶々丸。今の状態で、正直、どこまで戦えるか疑問だが……空を飛んでいては、いい的だからな」

苦い表情を隠す事もなく、悔しげに命じる。
主に従い、なるたけ速やかに高度を下げていく中、幸い、これといった攻撃はなかった。
ズシャ、と着地し、辺りを見渡すが……狙撃者の姿は見当たらない。
苛立たしげに、エヴァンジェリンが吼えた。

「面白くないぞ! 姿を現して戦え!!」

要求に応えたのか、何か考えがあったのか、近くの植え込みから、人影が飛び出した。襲撃者だ。
闇夜に隠れ、姿は判然としないが、誰であるか予想はつく。

「随分と味な真似をしてくれるじゃないか……」

ロクに魔力が使えないとはいえ、自分がここまで追い詰められたのは久し振りだ。
そうでなくては面白くない、とエヴァンジェリンは不敵に笑う。
…雲に隠れた月が姿を現し、月光が襲撃者の正体を明らかにする。エヴァンジェリンの隣で、茶々丸が硬直した。

「あなたは……」

「ん? なんだ、知り合いか?」

主に訊かれるが、茶々丸は答えられない。
清掃員の制服。似合わない眼鏡。そしてあの顔。間違いない。あの清掃員の青年だ。
…しかし、昼間見た時とは、その印象は全く違っている。あの優しげな微笑はなく、その代わりに、射抜くような厳しい視線がこちらに向けられている。
そう、清掃員の青年からは、明らかな怒気が立ち昇っていた。無理もない。自分達は、それだけの事をしたのだから。
もう二度とあの笑顔を見る事は、自分に向けられる事はないのだろう。そう考えると、全身が重く感じられる。機能が著しく低下しているのだろうか。
彼もこちらに気付いたようだ。驚いたようだが、それでも怒りの気配は消えない。

「君は……その子の仲間だったのか」

「………」

答えられない。それどころか、視線を合わす事さえできない。
怒っているのだろうか。軽蔑しているのだろうか。あるいは、失望しているのだろうか。
いずれにせよ、清掃員の彼が、その類の感情を自分に向けている。その事実が恐ろしい。
何が起こっているのかイマイチ事態を把握できていないエヴァンジェリンが、不愉快そうに眉根を寄せた。
自分だけが蚊帳の外になっているのが気に食わないのだろう、苛立たしげに舌打ちする。

「何か事情があるようだが……まあ、貴様らがどんな関係であろうが、私の知った事じゃないな。
 おい貴様。この私の身体に傷をつけた事……地獄の底で永遠に悔やみ続けるがいい。やれ、茶々丸!!」

「………」

ビシッ!と清掃員を指差すが、茶々丸が動く気配はない。
不審気に、エヴァンジェリンが茶々丸の顔を覗き込む。

「…茶々丸?」

「………はい、マスター」

そこでようやく、茶々丸は構えを取った。
いつもとは様子の違う茶々丸に、エヴァンジェリンは少し不安になる。

(まさか、さっきの投石で負ったダメージが、私の思った以上に大きかったのか…?
 事実上、今の私では大した戦力にはならんし……このまま戦うのは危険すぎるか)

そう判断する。
しかし、大人しく逃がしてくれる相手とも思えない。
せめて、次の満月ならば……と歯噛みするが、どうしようもない。
何か策を……と考えていると、何やら清掃員に動きが。

「なあ……そこの子供吸血鬼」

「子供言うなっ! くびり殺すぞ!!」

凄んでみるが、清掃員に怯む様子は見られない。
それどころか、むしろ怒気が強まって来ている。

「お前に蹴られた大事なトコがなぁ……まだジンジン痛むんだよこの野郎ッ!!
 使いもんにならなくなったらどうしてくれんだコラァ! お前が思ってる以上に切実な問題なんだぞ!?
 まだ、数える程しか使った事ないのに! って余計なお世話じゃボケェーッ!!」

「な、な……!?」

ムキーッ!と錯乱する清掃員。対応に困るエヴァンジェリン。
茶々丸も、先程のシリアスな展開から一転、新喜劇的マヌケ空間に放り込まれ、どうしていいか分からない。
混乱する二人をよそに、清掃員の迷走は続く。

「せっかく、人が器のデカイとこ見せてやったってのに、そのお礼が金的ってか! ざけんじゃねーぞッ!!
 男がアソコ蹴られて、どんだけ痛いのか分かってんのか? あぁ!?
 痛いだけじゃなく、吐き気をもよおしたりもして、まさにこの世の地獄って感じなんだぞコラァ!!
 分かったら、きちんと頭を下げて謝れ! 『ごめんなさいお兄ちゃん』って謝れッ!!」

「いや、謝るのはともかく、何故にお兄ちゃん……」

「オプションぐらい付けさせてくれたっていーだろ!?」

「何の話をしとるかー!!」

どこからか取り出したスリッパで、パシーン!と清掃員の頭をどつく。
大して痛くもない筈だが、大袈裟にリアクションする清掃員。
茶々丸は完全に取り残され、妙に盛り上がっている二人をぼーっと眺めている。

「な、ナイスツッコミ…! お嬢ちゃん、俺と天下を狙わないかっ!?」

「狙うかっ!!」

パシーン!と、もう一発。
いてて……とわざとらしく頭をさすると、次の瞬間には、清掃員の表情に真剣さが戻っている。
先程までのおちゃらけた態度とのギャップに翻弄され、エヴァンジェリンは対応に窮した。

「さて、冗談はこんぐらいにして……ちょいと、真面目な話をしようか」

「話、だと…?」

眉をひそめる。
自分は吸血鬼で、実際に被害を受けた人間がおり、更に相手は退魔師。
この状況で、一体、何の話をしようと言うのか?少し、興味がそそられる。

「こっちとしても、まあ仕事だから、そういうつもりはなかったんだが……」

ちら、と清掃員の視線が茶々丸に向けられる。
ぴくりと僅かな反応を示しただけで、茶々丸は清掃員の方さえ見ない。

「ま、色々、やりにくいつーかさ、事情があるわけだよ。
 んで、まずは話でも、と思ったんだけど……今日はもう遅いし、明日にでも一席設けたいんだけど、どう?」

「ふむ……」

アゴに手を添え、思案する。
普通に考えるなら、その間に入念に策を練り、準備を済ませ、捕縛か殲滅するといったところ……要するに罠だろう。
しかし、今戦っても、正直こちらの勝ち目は薄いのだ。わざわざこちらが態勢を整える暇を与えておくなど、何の意味があるのか。
かと言って、馬鹿正直に、まさか話し合いで解決するような人間にも見えない。戦い方からして、奴は相当の曲者だ。
自分さえ考え付かないような、何か突拍子もない思惑があるのか……?そう考えると、俄然興味が湧いて来る。
下手を打てばこちらの身が危ういのだが、日常持て余し気味の暇を、錆び付かせがちな頭脳を、ここまで刺激してくれる存在も久しい。
サウザンドマスターの息子に、次の言動も読めない、素性も全く謎の清掃員。

(ジジイめ、今年は随分とサービスしてくれるじゃないか……)

ニヤリ、と心底愉しげに口許を歪める。
いつもの余裕を取り戻すと、エヴァンジェリンは清掃員へと向き直った。

「いいだろう。話し合いには応じてやる。
 が、今日の戦いで、茶々丸にメンテナンスの必要が出て来た。それも今日明日には終わらんだろう。
 こちらの準備が整い次第、連絡を寄越すから待っていろ。場所は……そうだな、私の家でいいだろう」

自宅の中であれば、魔力を封印されているといえども、色々とやりようがあろう。マジックアイテムも各種取り揃えてある。
この清掃員もかなりの遣い手だろうが、流石に敵地の只中では、そう自由に動く事もできまい。
しかし、さすがに自宅というのはあざとすぎたか?と清掃員を見やるが、何故か彼は頬を染めて身をくねらせていた。

「い、いきなり家だなんて、そんな大胆な……。アタシ、まだ心の準備がっ♪」

「何を考えとるかバカモノーッ!!」

パシーン!本日三発目のスリッパ。
いい加減先が読めそうなものだが、清掃員はまだ懲りていなかった。

「何って……ナニしかないじゃんか、もう! 大人しそうな顔して、意外と大胆だなぁ! この、お・ま・せ・さ・ん♪」

「……シイィッ!」

ニマニマと緩い笑みを浮かべて肘でつついていくる清掃員の鼻面に、思い切り鋭いストレートをブチ込む。
げぼぁ!?とカエルが踏み潰されたような声を上げると、倒れ伏し、清掃員はぴくぴくと痙攣を繰り返す。
その頭をさらにぐりぐりと踏みにじり、周囲の地面がどす黒い朱色に染まり切ったところで、エヴァンジェリンはようやく飽きた。

「ふう。帰るぞ、茶々丸」

「…………はい、マスター」

心配そうに、ぴくりとも動かなくなった清掃員を見やる茶々丸だったが、結局主人には逆らえない。
二人が去った後には、今にもカラスが集まって来そうな清掃員だけが残された。



「……あー、久々に効いたなー」

しばらくして、何事もなかったかのように起き上がる影ひとつ。
事情を知らない人間が見たら、死体が起き上がったようにしか見えなかっただろう。
動く死体は、首の骨をポキポキと鳴らすと、憂いを秘めた瞳で、空に輝く月を眩しそうに眺める。

「しっかし……幼女に踏まれるってのも、意外と…」

真性の変態だった。

ファントム・ブラッド(4) メカニカル・ハート(前) 投稿者:毒虫 投稿日:06/10-22:39 No.712

吸血鬼遭遇事件の、その翌日。
横島は仕事もそこそこに、学長室へと向かっていた。昼前の事である。
密告する、というわけではないが、生徒の中に吸血鬼が混じっているのを報告しないわけにはいかない。
報告を入れた上で、この件を自分に一任してもらおうと思っているのだ。
ついでに学園長の孫、近衛木乃香嬢の事も話しておかなければなるまいし、それに……
横島も一応、形の上では青山の人間だ。青山から出奔するような形で木乃香嬢の護衛についているという剣士の事も、聞いておきたい。
しかし、相手は関東魔法協会を束ねる老雄。事次第によっては件の剣士の処罰もありうる中、そう簡単に話が進むかどうか。
こういう交渉事は、美神さんが大得意とするところなんだけどなあ……と、少々懐古の念に浸りつつ、学長室の重厚なドアをノックする。

「失礼しまーっす」

「うむ、よう来たの」

学長室の中は、学園長近衛近右衛門の他に、誰もいなかった。
あらかじめ話を通していた事もあり、その辺の事は配慮してくれたようだ。
まあ吸血鬼云々に関しては、『こちら側』の人間にならば誰に聞かれてもいいのだが。

「どうじゃ、横島君。この麻帆良にも慣れたかね」

「いやあ、まだ一週間も経ってないんで、そこそこってところですかね。
 でもまあ、いい所だってのはすぐに分かりましたよ。なんせ、生徒が生き生きしてますし」

「ふぉっふぉ、気に入ってもらえたのなら何よりじゃ」

「ところで学園長、実は昨日……」

世間話もそこそこに、本題を切り出す。
一通り報告を終えると学園長は、ふうむ、とアゴヒゲを撫でさすりながら思案気に呻く。

「…実はのう横島君。その件に関しては、こちらも既にある程度把握しているのじゃよ。
 というのも、件の吸血鬼……名はエヴァンジェリン、と言うのじゃがな。彼女は、学園の治安維持の協力者でもあるのじゃよ」

「へ?」

思わず、間の抜けた声が漏れる。
驚くのも無理はなかろうて、と頷くと、学園長は話を進める。

「結界の監視による侵入者探知は彼女の役目での。今、彼女を失うわけにはいかんのじゃ。
 ゆえに、何かを企んでおると分かっておっても、我々はその対応に困っておった。さして重大な被害が出おったわけでもなかったしのう。
 しかし……今回ばかりは、放置しておくわけにもいかん。少々、きつくお灸を据えてやらんといかんの」

全く困ったことじゃ、と溜息をつく。
横島は学園長の話を聞き、驚くと同時にまた納得していた。
件の吸血鬼、エバ……エバン……バン……バンテリン?とか言ったか。魔力こそ大して感じなかったが、確かに吸血鬼だった。
そんな彼女が、この魔法都市に堂々といられるわけがないのだ。何かしらの対価を払っていると考えるのが当然の事だった。
教えれられるまで気付かなかった、己の未熟を恥じる。

「彼女の事に関しては、ネギ君に任せてみようかと思っておったのじゃが……そこまで踏み込んでしもうた以上、放っておけと言う事もできまいて。
 横島君。すまんが、君も君で立ち回ってくれんか? ただし、あくまでやりすぎる事のないように、じゃが」

「了解しました。まあ、俺なりにやってみます」

「うむ」

満足気に頷く。
学園長としては、それで話は終わったつもりだったのかもしれないが、横島の話はまだ終わっていない。

「時に学園長。実はこの不肖横島、鶴子さんから、密にお孫さんを気にかけるように言われて来たんですけど……その辺の事はどうなんですかね?」

「ふむう……」

横島の言葉に、返事とも溜息ともつかぬ息を漏らす。
しばしの沈思の後、学園長は面を上げた。

「察しの通り、君に来てもらったのは、木乃香の護衛の意味合いもある。
 じゃが、木乃香がここ麻帆良におる限り、そうそう滅多な事は起こらん。その分の人手があるなら、他に回そうという事じゃ。
 君の場合じゃと、今現在では、木乃香の事よりエヴァンジェリンの事に尽力してもらいたいのじゃよ。
 この件が収束を見れば、しばらく木乃香の護衛についてもらってもいいかもしれんとは思っておるが……それより。
 近い内、必ず君の力が必要になる時が訪れるじゃろう。その時になれば、お願いじゃ横島君。木乃香の事を守ってやってくれんか」

「別にいッスよ。仕事ですし」

真剣な学園長に、軽〜く返す。
学園長は苦笑した。まあ、変に気負われるよりはいいかもしない。

「お孫さんの事はそれでいいとしても……青山としては、彼女の護衛の方が気になるようで。
 別に連れ戻して処罰するとか、そういった話は今のところ出てないんですけどね。ええと、名前は……なんて言いましたっけ?」

「…………」

学園長は難しい顔をして黙り込んだ。
それでも諦めずに、横島は根気強く話しかける。

「まあ……ぶっちゃけ、俺だって半分余所者みたいなもんですから、裏切りとかそういうのはどうだっていいんですよね。
 目的を同じとする以上、ある程度連携を取れた方が何かと都合がいいでしょ? 俺が言いたいのは、そういう事なんですけど…
 ただ、鶴子さんから、この件に関しては詳しく聞かされてないし、迂闊に近寄ると追っ手に間違われるかもしれないしで、困ってたんです。
 そこで、学園長の方から紹介してもらったりなんかすると、とてもスムーズに事が運ぶわけなんですが……どうでしょ?」

「確かに道理は通っておるようじゃが……ふうむ」

学園長は考える。この男、どこまで信用すればいいものか。
見た感じ、悪い人間には見えないが……こう見えても、相手は青山の腕っこき。そうと見て取れるほど、底の浅い器ではあるまい。
その上、あの青山鶴子が信頼を寄せ、自信満々に麻帆良に送り込んでくるほどの人物。全く測りにくい。
判断するには、とにかく時間が足りない。今のところ、それこそ名前と人相程度しか、横島忠夫という人物を把握できていないのだ。

(じゃが、ワシの勘では……この男、相当のお人好しと見える)

ただの勘でしかない。勘でしかないが……己の勘ほど、頼れるものも他にない。
学園長は、心を決めた。

「分かった。これも、今回の騒動が収束次第、すぐにでも場を設けよう。
 しかし……彼女は木乃香の護衛を務めておると同時に、この学園の一生徒でもあるのじゃ。
 ゆえに彼女に関しては、青山の領分であると同時に、このワシの領分でもある。
 無論、その場に立ち合わせてもらうし、決して勝手な真似を許す事はできん。よいな?」

「うぃッス」

これまた軽〜く返事する。
果たして、どこまで分かっているのやら。
しかしこれで一応、横島の用件は終わった。一礼すると、さっさと退室する。
年寄りと話しているより、一刻も早く、可愛らしい売り子のいる肉まん屋に行きたかったのだ。






昼食に『超包子』に寄るのも、もはや定番になって来た。
列に並び、やがて順番が回って来ると、今日は売り子の娘がいつもと違う事に気付く。
まあ、いつもと言っても、これまで2,3回しか利用した事がないので、売り子のシフトなど知った事ではないが。
浅黒い肌に薄金の髪を二つ括りにした少女。昨日の娘とはまた印象が違うが、この子もまた、オリエンタルな感じで可愛らしい。
『いらっしゃいアルネ!』と元気良く言われた時には、横島も驚いた。この店は、売り子を中華娘に限定しているのだろうか?
もしそうだとしたら、ここの店主も中々解ってるじゃないか、とひとり頬を緩める。肉まんは3つ注文した。

急ぎの仕事もないので、屋台から少し離れた所で、今日はゆっくりと噛み締めて味わう事にした。
最初の一口。早速、肉汁が溢れ出す。

「しっとりモチモチとした皮の食感、口許から零れるほどに含まれたジューシーな肉汁ッ……。
 それに、上質な豚を使った肝心の具ッ。うむ、豚肉の狭間に確かに存在を主張するタケノコが、舌の上でシャッキリポンと踊っておるわッ!!」

誰も要求していなのに、肉まんの評価を始める。
時間をかけて味わう事で、また新たな発見があったらしいが……傍から見れば、不審な事この上ない。
突然の珍事に驚いたのか、横島の脇を通り過ぎようとしていた女生徒がけつまずき、彼女の手の『超包子』の肉まんが袋ごと飛び出してしまう。

「あっ……」

「っと!」

慌てて、横島はその女生徒を片手で抱き上げるようにして支える。
と同時に、空いた方の手でまず袋をキャッチし、落下する肉まんを次々とその中に上手い具合に入れていく。
全ては一瞬の間の出来事だった。

「驚かせて悪い。大丈夫だった?」

「あ、はい……どうも」

助けられた形になった女生徒も、何が起こったのかいまいち理解しきれていない様子。
横島が立ち上がらせると、不思議そうに何度も首をかしげながら、その場から立ち去って行った。
その一部始終を、『超包子』の屋台の中から見守っていた者がいた。

(今の動き……タダモノじゃないアルネ。あの清掃員、何者カ…?)

売り子の中華娘2号。彼女は、清掃員の一連の動きを偶然視界に捉えていた。
女生徒がつまずいたと思った瞬間、摺り足で重心を落とし、彼女の身体を支える。その間にも、空いた方の手は目にも留まらない速さで肉まんを回収していた…。
ただ反射神経が良いとか、そういうレベルでは済まされない動きだった。むくむくと好奇心が鎌首をもたげる。
ここ麻帆良学園は実に奥が深い。強者を追い求めてこの地にやって来た彼女にとっては、この清掃員も捨て置ける存在ではない。
まあ流石に今は仕事中だし、いきなり彼に喧嘩を吹っかけても、まともに戦ってはくれないだろう。
ちょくちょく『超包子』を利用している様子なので、機会がこれだけという事もあるまい。
そう心に留め、彼女は、とりあえず今は売り子に専念する事に決めた。


(むう……?)

まだ手に残る女生徒の感触を楽しんでいた折、背に視線を感じた。
それとなく後ろを見てみれば、気のせいか、肉まん屋の売り子がこちらを見ているような気がする。
すう…と、横島の両眼が細められる。

(まさか、あの娘……俺に一目惚れしたのか!? ぞっこんラブ!? いやー、モテる男はつらいねー!
 見たとこまだ守備範囲外だけど、あと5年もすりゃあなかなかのべっぴんさんに育ちそうじゃないか……。
 具体的に手ぇ出さなけりゃセーフだよな? いわゆる青田買いってヤツ? くはぁーっ! なんて甘美な背徳感ッ! むひょひょー!
 …ああ、いやしかし、俺には鶴子さんが……でも、鬼のいぬ間に、とも言うし……いやぁ、まいったなーもーっ!)

たはー!と、頭を掻き掻き、照れ笑い。相も変わらず、緊張感の欠片もない男だった。






適度に仕事し、適度にサボる。そうしている内に、時は放課後へ。
あの子、来るのかね……と、脳裏に無表情なロボっ子を描きながら歩く。
メンテナンスがどうとか言っていたが、普通に動く分には問題なさそうだった。その点の心配は無用だろう、と推測する。
しかし、昨夜、拳を交えたばかりなのだ。来ずとも不思議ではない。というか、その方が自然というものだろう。
それにしても……あの子が吸血鬼側に加担しているとは、まさか思ってもみなかった事だ。
見る限り、優しそうな子に思えたのだが…。まあそれを言うなら、あの小さい吸血鬼も、あまり悪そうには見えなかったのだが。

ブラドー伯爵の事もそうだが、ヴァンパイアハーフの親友がいたせいか、横島はどうも吸血鬼という種族に親しみを覚える。
血を吸うという行為も、彼らにとっては、人間でいうところの食事や飲酒のようなものなのだろう。
意識さえしなければ、普通に接する上で彼らは人間と左程変わりはないのだ。ブラドー島で、横島はそう実感した。
確かに、調子に乗りすぎたり、人間に憎しみを抱いている者は、食事の範囲を逸脱し、甚大な被害を出したりもするのだが…
しかし、それは何も吸血鬼に限った事ではない。あらゆる妖怪、あらゆる人間には、何事にも例外というものが存在する。
本当は、妖怪や吸血鬼や悪霊などよりも、人間のテロ組織の方が余程性質が悪い。横島は常々そう思っていた。
ゆえに今回の事も、死者を出したわけでもなし、なるたけ穏便に済ませたいのだ。
吸血鬼の子の方は、何となく頑固そうに見えたし……できれば先にロボっ子を陥落させ、その上で交渉に臨みたい。
それだけではなく、何か悩みを抱えているであろう彼女の力になりたいという念も勿論あるが、それとこれとは別の話だ。

しばらく歩き、ここ2日、彼女と言葉を交わした場所までやって来たのだが……
そこには空の猫缶がぽつんとあるだけで、彼女の姿はおろか、猫の子一匹見当たらない。
自分と会うのが気まずくて、とりあえず餌だけ置いて帰ったのか。しかし、どうせすぐにでも会う事になるのに、と納得が行かない。
彼女にどういった心境が働いているのかは知らないが、横島にしてみれば、今日会うのも数日後に会うのも変わらないように思える。
もしや、2人きりでというシチュエーションが嫌だったのか……と思うと、少しヘコんだ。

これから軽く何か腹に入れて、夜のパトロールに赴かなければならないのだが……横島は、もう少し待ってみる事にした。
なに、女に待たされる事も、待たされた挙句にすっぽかされる事にも慣れているのだ。不本意ながら。



時は、夕暮れから日没に差し掛かっていた。待ち人は、未だ姿を見せない。
そろそろ諦めていい頃だが、横島は根気良く待ち続けていた。こういうのは、忍耐がポイントなのだ。……多分。
もう辺りにも薄暗い夜が漂い始めた頃……不意に、その娘は現れた。

「あ………」

表情は薄いが、確かに驚きを表している。
どうやら、まだ横島が待っているとは予想だにしていなかったらしい。
となると、仔猫の様子を見に来たのか、あるいは猫缶の空き缶を回収しに来たのか。どちらにしろ、律儀な娘だ。

「こんちは」

軽く片手を挙げ、挨拶する。返事は返って来ない。
ロボっ子は、目を伏せていた。しばしの逡巡の気配の後、ようやく重い口を開く。

「……申し訳ありませんでした。随分とお待たせしてしまったようで…」

「や、気にしないでいいよ。こーゆーの、結構慣れてたりするから」

「………」

深く、頭を下げる。
横島は苦笑した。どう見ても、悪人のする事ではない。

「ゆうべの事を気にしてるんだったら、今は忘れて欲しい。どうせまた今度、みっちり話し合うんだし。
 それより……君は俺に、何か言いたい事があったんじゃないのか? 昨日の昼、少なくとも俺にはそう見えたぞ」

「はい……」

ロボっ子は、確かに頷いた。
昨日の段階ではまだ打ち明けられなかったが、自分を何時間も待ち続けていた横島を目にして、何か心境の変化でもあったのか。
それは知る由もないが、それでもやはりそう簡単には話せない事らしく、ロボっ子はまだ迷っている。
見かねた横島は……何を思ったのか、そっと彼女の手を取った。ロボっ子が、びくりと身を竦ませる。
横島は、伊達眼鏡を外すと、ロボっ子の瞳を真摯に見つめた。

「君の気持ち、聞かせて欲しいな……」

とても横島らしくなく、極めて優しげで、柔らかい声音で、憂いを秘めた瞳で、そう囁く。
貴様は何処のホストだと小一時間問い詰めたくなる、歯の浮くような台詞だったが、横島は特に何も考えずに、こんな行動を取っていた。
天然でこういう行動を取り、大抵の場合、それはその事その事に関しては間違いではない。こんなだから女性関係が非常にややこしい事になるのだ。
今回に関しても、横島の行動は大まか正しかったらしい。大きく動揺していたロボっ子だったが、すぐに反応が現れる。

「わ、私は……私は………」

「君は……?」

血の通わない手を、今までより少しだけ強く握り、先を促す。
ロボっ子はどことなく消沈した様子で、顔を俯かせた。

「私は………優しくなど、ありません…」

「……何だって?」

「私は、あなたが思われるような、『優しい』という機微を持った存在では、ありません……」

そう言うと、恥じ入るように、悲しむように、一層深くその顔を俯かせる。
横島は困ってしまった。そんな事を言われても、どうしたって彼女は優しいように見える。
女性を慰めるのはあまり得意ではないが、せめて精一杯の誠意をもって、慰めにかかる。

「けど……君は、自分で餌を見つける事が難しい仔猫を可哀想に、あるいは可愛く思って、餌をあげてたんだろ?
 そういった行為は普通、『優しい』と言えるもんだと思うぞ?」

「しかし、私はマスターに命じられるがままに、クラスメイトやネギ先生の襲撃に加担しました。
 また、クラスメイトの件はともかく、ネギ先生は、あのまま邪魔が入らずに吸血が続行されていれば、高確率で失血死していたものと思われます。
 この行為は、とても『優しい』と判定できるものではありません」

「そりゃあ、そうかもしれんが……。何も、好き好んでそんな事したわけじゃないんだろ?」

ロボっ子は、力なく首を横に振った。

「いえ……。そういう事ではないのです。
 私はこれまで、自分の行動に、何の疑問も挟む事はありませんでした。
 あなたに言われ、『優しい』という事について考察を始めてから、初めて今まで私が行って来た行為について疑問を提起し…
 そこでようやく、今までの私の行為が『優しい』という言葉の持つ意味にとても該当するものではない、と判断が下りました。
 しかし、それでも私は、マスターに逆らう事はできません。何故なら、私はそういう風に造られたからです。
 始めから『優しくない』行為を行うために造られた私が、『優しい』存在である筈がありません」

「……最初っからそう決め付けちゃいかんだろ。
 どういう目的で造られていようが、どんなプログラムが施されていようが、君は君だろ?
 これまでの事を反省して、自分は優しくないって気に病んでる時点で、既に結構優しいと思うけど」

「しかし……」

「……あーもう! 面倒くせえなーっ!!」

「!!」

横島はロボっ子の手を離すと、乱暴に彼女の肩を掴んだ。
驚きに目を見開き、ロボっ子が身を硬直させる。
ロボっ子の、ほんの僅かに感情が見え隠れする瞳を真直ぐ見据え、横島は吼えた。

「なんか理屈っぽい事グダグダ言ってるけど、ンなもんどうでもいいんだよ! つーか俺頭悪いし、正直よくわかんねーよ!
 難しい事はわからんけど、理由とかそんなもん抜きにして、俺にとって、君は優しく見えるって、そんだけの事だ。
 君が自分の事をどう思っていようが、事実がどうであろうが、勝手に俺がそう思ってるだけ!
 他の奴にとってはどうかしらんけど、少なくとも俺にとって、君は優しいんだよ!」

「……!!」

乱暴に言い捨てる。
何やら衝撃を受けているらしいロボっ子に気付き、横島は我に返った。そろそろと手を除ける。

「あー、いや、驚かせちゃってごめん。
 けどまあ、俺が言いたいのはそういう事だから。うん」

「はあ……」

気まずげに、照れ臭そうに頬を掻き、視線を逸らす。
消沈していたロボっ子は、いつの間にか立ち直っていたようだった。単に驚きすぎたのかもしれない。
しばらく沈黙が続く。

「あの………ありがとうございました」

「んん、まあ……」

間抜けな会話。そしてまた沈黙が続く。
何か気まずいし、それ以上に恥ずかしいしで、横島はそろそろ話を終える事にした。
彼女のマスター……ええと、バンテリン?だったかに関して聞きたい事などもあるが、まあもういいかと思う。

「えー、まあ、とにかくそういう事だから、うん。
 それじゃあ、もう暗くなって来たし、そろそろ……ああ、そうだ。送ってこうか?」

「いえ、その必要はありません」

「あ、そう…。それじゃ、また今度」

「はい」

ひらひらと手を振り、身を翻す。
しばらく歩き、後ろをさり気なく覗いてみると、ロボっ子はまだこちらを見送っている。
ええ娘やなぁ……と思いつつ、横島はそのまま夜の巡回へ繰り出した。



清掃員の青年が去った後も、何となく、つい先程まで彼がいた空間を見詰め続ける。
胸部の辺りが何故か過剰に発熱している。故障の可能性があるが、不思議と、この熱を失いたくなかった。
優しい。何と不思議な言葉だろうか。ここ数日、その言葉に振り回されっ放しだ。
しかし彼の解釈は新鮮だった。一般的な意義を追求するのではなく、まさか一個人の印象をああまで押し付けて来るとは。
普通なら、あまりに強引な意見の主張に、不快に感じてもいいところなのだが……とても、そう思う事はできない。

(心地好い……私は、心地好さを感じている……?)

ありえない事態だ。今すぐにでもハカセに報告すべきだろう。
それが正しい判断なのだろうが、実行する気にはなれない。
茶々丸はそっと、自らの胸に手を添えた。

「…………」

完全に陽が落ちきった後も、茶々丸はしばらくそうしていた。

ファントム・ブラッド(5) メカニカル・ハート(後) 投稿者:毒虫 投稿日:06/14-23:03 No.739


ここ数日、横島は、件の吸血鬼と対峙するための準備を……整えては、いなかった。
ただ、清掃員の仕事をこなし、ロボっ子と和んでいただけだ。
思いがけず与えられた猶予の間に、何かしら行動を起こすべきだと考えてはいるのだが…

(話を、とは言ってみたものの……何をどう言ったもんやら)

そう、横島には特に考えなどなかったのだ。
あの時、横島はただ勢いで言ってしまっただけで、当初は普通に戦い撃退するつもりでいた。
それが、吸血鬼が少女という非常にやりにくい外見で、しかもその脇には顔見知りのロボっ子がいたので、つい躊躇してしまった。
それで、どうせなら戦う事なく、穏便に事を済ましたくて、対話の場を設けようと思い立ったのだが……
日数が経っても、どういう風に話を持っていけばいいのか、見当もつかないでいる。そう時間が残されているわけでもないのに。
ただやめてくれと言っても素直に聞くとは思えないが、こちらには提示する交換条件もない。
身の安全を確保する代わりに、ともできそうだが、学園長の話し振りからすると、あの吸血鬼はこの地に不可欠な人物らしい。
それゆえ、殺されはしまい、と高を括っているのか……それは分からないが、実際、彼女を殺せば麻帆良を囲う結界を維持できなくなる。
相手は吸血鬼だ。普通の退魔師や魔法使いならば、殺そうとしても殺しきれないかもしれないが……
横島が揮う『霊力』という力は、こちらの世界の法則に当てはまらぬゆえ、どのような事態が起きても不思議ではない。
やりすぎちゃったら死んじゃいました、じゃあ話にならないのだ。

奥の手になるが、文珠を使って、というのも考えた。しかしそれも、具体的に何と文字を入れてよいのやら分からない。
青山の下で自分なりに修行を重ねて来た横島。今では、その日の調子によっては十文字前後の文珠を連結使用する事ができる。
それで『禁』『吸』『血』としても、その効果を永続させる事はできない。それどころか、一日もつかどうか。
かと言って、『禁』『吸』『血』に『永』『続』も付け加えたら、そう遠くない未来に、彼女は衰弱死してしまうかもしれない。
生きて動いている人間から血をすする事だけをやめさせる……そんな結果が欲しいのだが、いい組み合わせは思いつかない。

猶予も残すところがそれほどあるとは思えない。
こうなりゃもう、誠心誠意でぶつかるしかない、と半分自棄になって、横島は今日も清掃に明け暮れる。






日程終了の鐘が鳴るまで掃除を続け、夜の巡回まで一休みしようと家路につく。
その帰りに、ふと思い立って足を運んでみると、目当ての人物はそこにいた。ロボっ子である。

「こんちゃー……って、妙に汚れてるな。どしたの?」

「いえ…」

言葉を濁すと、頭の上に乗っている仔猫をそっと撫でる。
事情は分からないが、見たところイジメなどではなさそうだ。横島は安心した。

「何があったのかは知らんけど……女の子が汚れっぱなしってのは良くないぞ。ちょっと待ってな」

「あ……」

ぽんぽん、と軽く叩くように頭の仔猫を撫でると、横島は踵を返した。
青山にいる間に、鶴子には随分と躾けられた。そのおかげで、ハンカチを持ち歩く習慣が身に付いたものだ。
ハンカチを濡らすため、水のある場所を探す。少し歩くと店を見つけたので、そこで水道を借りる。
汚れた女の子の顔を拭いてやるとか、俺って紳士っぽくね?と上機嫌に戻ってみれば……少し離れた間に、何だか事態は大変な事になっていた。

「……では、茶々丸さん」

「……ごめんね」

ロボっ子と対峙している二人、見覚えがある。
あれは確か……そう、吸血鬼と遭遇した際に居合わせた子供の魔法使いと、もがき苦しんでいる自分を見捨てた少女だ。
ち、と横島は舌打ちした。せっかくこちらが穏便な方法で済まそうってのに、彼らはどうもそう思っていないらしい。
しかし、立場としては微妙なところだ。ロボっ子に加勢したい気持ちは強いが、陣営で言うと彼らは味方になる。
ロボっ子の戦闘力が彼らよりも上回れば、何も言う事はないのだが……




「光の精霊11柱… 集い来りて…」

呪文を詠唱しつつも、ネギは未だ心中決めかねていた。
ただ敵と警戒していればいい昨日までとは違い、茶々丸の意外にも心優しい一面を見てしまった以上、単純に倒せばいいとは思えない。
しかし、ここでエヴァンジェリンの従者たる彼女を倒しておかなければ、後に自らの命が危うくなる事は容易に想像できる。
精細に欠く主を見かねて、使い魔のカモが念話で檄を飛ばした。

『兄貴!! 相手はロボだぜ!? 手加減してちゃダメッス! ここは一発、派手な呪文をドバーッと!!』

「ううっ……」

その言葉、素直に従えるものでもないが、しかし言っている事は実に正しい。
既に戦闘は始まっているのだ。半端な仮契約を交わしたばかりの明日菜と茶々丸は、激しく攻め合っている。
ここで自分が躊躇すれば、巻き込んでしまった形になってしまった明日菜を危険に曝してしまうかもしれない……その思いが、背中を押した。
散漫になっていた魔力を凝縮させ、叫ぶ!

「魔法の射手(サギタ・マギカ) 連弾・光の11矢(セリエス・ルーキス)!!」」

放たれた魔法の矢!その数11本、全てが追尾型。
全弾命中すれば、茶々丸を機動不能にまで追い込む程の威力を有したそれが、迫る!

「……!!」

狙いは粗いとはとても言えないが、決して正確なものではない。
これがネギと一対一でなら、全てとまではいかないが、相当数をかわせただろう。
しかし、魔法で身体能力を強化された神楽坂明日菜は、予想以上に手強かった。上手く追い込まれた形になる。
それに……ここで避けるなり弾くなりすれば、せっかく助けた子猫に流れ弾が行く可能性もある。
その思いが茶々丸の機動を鈍らせた。もう、避けきれない…!

「すいませんマスター……。もし私が動かなくなったら、ネコのエサを……」

諦観し、足を止める。
最後に浮かぶのは、主の顔ではなく、猫達でもなく……あの、清掃員の青年…?


「斬岩剣!!」


一閃!
11本の魔法の矢が、その一振りの下に砕け散る!

「「な…!」」

「え……」

これで決まったと思っていたカモと明日菜の驚愕。
思いとどまり、咄嗟に矢を引き戻そうとしていた矢先の出来事に、ネギは唖然とする。

「……!」

微かに目を見開く茶々丸の機械の瞳に映るは、モップを構えた清掃員の青年。
気遣わしげな視線をこちらに寄越したかと思えば、彼はネギ達へと向き直る。
向けられた鋭い戦意に、戦いに慣れていないネギと明日菜が強張る。カモは焦った声を上げた。

『ちょ、なに固まってんスか兄貴! 姐さん!』

早く逃げましょうよ!と痛切に叫ぶ。
清掃員の扮装をした男、奴は只者ではない。カモの野生の勘がそう告げていた。
大体、ネギが放った魔法の矢を、あんなモップ1本で叩ッ斬るなど、常人に成せる業ではない。
今まで自分達が相手をしていたロボ娘よりも強敵そうだ。未熟なネギと明日菜が稚拙な連携を試みても、勝てる相手には見えない。
彼ひとりだけでも脅威になりそうだというのに、2対1でやっと相手にできる茶々丸と連携されれば、もはや勝機など微塵も見出せなかった。
…しかし、ネギと明日菜は、恐慌に陥りかけているカモの言葉を聞こうともせず、じっと清掃員の男を見ている。

(この人、どこかで見かけたような……?)

記憶の中にある人物を模索しているネギとは違い、明日菜はすぐに思い当たった。

「アンタは確か、この前すごく苦しそうにしてた清掃員の人! 何でこんな所に……ってゆーか、あいつらの仲間なの!?」

「や、別に仲間ってわけでもないんだけど……今のところ、この子達とは不戦協定を結んでてさー。
 今、この子がやられるのは困るんだよ。俺がやったと思われちゃ、通る話も通らなくなる。
 つーわけで……今日のところは、大人しく帰りな。怪我したくないっしょ?」

軽い調子で言ってみるも、ネギが首を縦に振る様子はない。
確かに、この状況で、当初の目標を果たすことは困難だろう。
そもそも、直前になって思いとどまったように、ネギとしてはもう茶々丸を攻撃する気はない。
しかし……新たに現れた清掃員の男、その存在が気にかかる。
その思わせ振りな言いようからして、まず何か企んでいる事は間違いなさそうだ。
この男とエヴァンジェリンに組まれてはたまらない。せめて、彼の目的だけでも聞き出さなければ……
と思うネギに反して、明日菜はそう冷静ではいられなかった。どうやら、挑発されたものと思ったらしい。

「ちょっと! アンタねえ…」

男の実力を察する事もせずに、明日菜は息巻いて一歩を踏み出す。
もうとうにネギによる身体強化の魔法は解けているのだが、それを気にかける気配すらない。
無論、黙って見ている男ではない。すうと目を細めると、無造作にモップを横薙ぎする!

「弱・斬空閃!」

「ッ!?」

モップから放たれた鎌鼬が、明日菜の長い髪の一房を斬り跳ばす!
頭のすぐ横を掠めた一陣の風。攻撃されたのだとようやく悟り、明日菜は呆然とした。反応する事もできなかった…!
足を止め硬直する明日菜に、ネギが慌てて声をかける。

「ア、アスナさん!? 大丈夫ですか!? ケガは!?」

「え、ええ………平気よ。平気なんだから…」

口ではそう言うものの、もう一歩も踏み出す事はできない。
だから逃げようって言ったんスよー!!と嘆くカモの言葉が、やけに説得力を帯びる。
軽く牽制されただけでてんやわんやの様相を見せるネギ達に、清掃員の男は溜息まじりに声をかける。

「何の覚悟もできてない奴が、前に出て戦おうとするんじゃねえって…。
 ボウズもボウズだ。迷うぐらいなら、ハナからこんな事するなよ。ひょっとしたら、取り返しのつかない事になってたかもしれないんだぞ?
 誰かを傷つけるんなら、それなりの理由と覚悟ってもんを用意しとけ。そうじゃないと、道を踏み外した事にも気付かなくなっちまうぞ」

「…!!」

ネギが愕然と目を見開く。
理由と覚悟。自覚した事もなかった。
固まっている2人と、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てている1匹をひとまず捨て置いて、清掃員の男は、茶々丸の方に向き直った。

「大丈夫か? 怪我とかないなら、早く帰りな」

「あの……なぜ……」

清掃員の青年には応えず、先程から常に思っていた疑問を口にする。
うん?と一瞬考え込むそぶりを見せると、青年は軽く笑った。

「ん、まあ、確かにあいつらは味方の側にいるかもしれないけど……。
 でも、君が怪我するかもしないってのに、黙って見てるわけにはいかないだろ?」

「………」

さも自分が当然の事を言っているかのような反応を見せる青年を、茶々丸はただじっと見詰める。
その機械の瞳に宿すのは、決して無機質な光の反射のみではない。
ん……と青年が気配を感じて振り返ると、そこには、何がしかの決意を固めたらしいネギが。

「覚悟とか理由とか、僕にはまだよく分かりません。
 だけど……エヴァンジェリンさんがやってる事を見過ごすわけにはいきません。
 僕の生徒が襲われてますし、そうでなくても、みんな恐がってます。
 だから、僕じゃまだ、エヴァンジェリンさんには敵わないかもしれないけど………それでも。絶対、止めてみせます」

「ボウズが何かをした結果、誰かが傷付くかもしれない。それでもやるか?」

「そ、それは………」

言いよどむネギの背中を、ばしっと明日菜が叩く。

「なに言ってんのよ! そんなの、やってみないと分からないんじゃない! やる前から諦めるなんて、そんなヤツただのバカよ!」

「ア、アスナさん…!」

ぐっと拳を握る明日菜を見て、ネギは強く頷いた。
再び、その瞳に決意の炎が燈る。

「確かに、僕が戦う事で、誰かが傷付いてしまうかもしれない……。
 だけど、何もしなければ、きっと、傷付く人はもっとたくさん出ると思います!
 それに、誰も傷付かないように、頑張ってみます!」

「おお、青いねー。なあボウズ、絵に描いた餅って言葉、知ってるか?」

「そんな事、やってみなくちゃ分かりませんっ!!」

本気だ。少年の瞳は、穢れを知らない純粋な光を放っている。
横島は感心した。まだ幼いながらも……否、幼いからこそ、どこまでも真っ直ぐだ。
魔法の腕も、歳にしてはかなりのものらしいし、人を思いやる心も持ち合わせている。まったく、将来が楽しみである。
横島は苦笑して、諸手を上げた。

「参ったね、こりゃ…。
 ボウズの気持ちは分かったが……ま、今日のところは帰っときな。
 決着をつける機会だって他にあるだろし、俺も俺で動いてる。上手くいきゃあ、これ以上、誰も傷付かずに済むさ、きっとな」

気の抜けたように笑いかけると、ネギは戸惑いを残しながらも頷いた。
明日菜を促し、踵を返して去って行く。何も言わずとも、カモは既に姿を消していた。
その小さな背を見送り終えると、どちらからともなく、青年と茶々丸は顔を見合す。

「……送ってこうか?」

「いえ………結構です」

そっか、と誰ともなく呟くと、それじゃ、と背を向ける。
茶々丸は、去り行く背中に頭を下げた。
青年の姿が完全に見えなくなった後も、茶々丸はしばらくその場に留まっていた。

(あの人は………)

夕陽を全身に浴び、物思いにふける。その姿は、決してただのロボットには見えなかった。

ファントム・ブラッド(6) 必殺! 投稿者:毒虫 投稿日:06/18-23:10 No.765


ロボっ子の危機を助けてやった後、横島は一旦、自室まで戻っていた。
買い込んでおいた袋ラーメンを手早く作り上げ、テレビを眺めながら、鍋から直接ずるずるとすする。
そういや、高校時分は毎日こんな感じの飯だったなぁ……と、昔を懐かしみながら。
収入は少なく、生活は散々だったが、しかし、今思い返してみれば、あの頃が一番楽しかったような気がする。
泣きたくなるような辛い事もあったし、いっそ死んでしまいたくなる程痛い目にも遭った。胸が張り裂けそうになる哀しみも味わった。
が……それ以上に、毎日が楽しかった。気の置けない仲間達とバカ騒ぎし、家族のような同僚と背中合わせになって戦う。
彼女を喪った絶望も、輝くような日常の中に、やがて薄れていった。決して消える事はないが、その思い出に、既に痛みは伴わない。
皆が気付かせてくれたのだ。彼女との想い出は、哀しい事ばかりがあったのではない、と。
高校を卒業してからも、ずっとあの恵まれた環境の中で生きて来た。実に素晴らしい日々だった。
あの日常に帰る事はもうないのかもしれないと思うと、胸の奥に、じくじくとした痛みが湧いて来る。
独りでこんなメシ食ってるのがいけなかったな、と反省する。まだ全然、割り切れていないのだ。割り切れる筈もない。
こんな時、隣に鶴子さんがいてくれたら……と思ったが、彼女に甘えすぎてはいけない、と自戒する。

(ホームシックってわけじゃないが……なんか、急に鶴子さんの手料理を食いたくなったな…)

あの薄めの味付けを思い返す。
店並みの腕前と言うほどのものではなかったが、やはり彼女らしい暖かみがあり、横島はとても好きだった。
インスタントラーメンのチープな味も決して嫌いではないのだが、やはり、それとこれとでは次元が違う。
鍋から直接食べているのも、冷静になって見詰め直せば、何だか惨めささえ浮かぶ。
食べ終わり、鍋を水に浸し、横島は溜息をついた。

「なんか俺、単身赴任したてのオヤジみたいだな…」

口に出せば、余計に情けなく思えて来る。
ストレスとその他口に出せない諸々を発散する、例のアレも借りられなかったし……どうにも手持ち無沙汰だ。
下らない内容のバラエティー番組を見終えると、横島は腰を上げた。そろそろ夜の巡回の時間だ。



時間はゴールデンタイムから少し外れ、深夜よりはまだ遠い、といったところ。
流石に制服を着た生徒は見当たらないが、高校生ぐらいの年頃の若者なら、まだちらほらと見かける。
麻帆良の中に自宅があるのか、あるいは寮から抜け出して来た猛者なのかは知らないが、よくやるものだ。
人通りの多い所には、私服の指導員が獲物を求めて彷徨っている。彼らに捕捉されれば、そりゃあもう大変な目に遭う事だろう。
ま、清掃員の俺には関係ない事だ、と割り切る横島の服装は、こんな時間でもやはり清掃員ルック。
この時間帯に、というのも不自然と言えば不自然だが、絶対ありえないとは言えない。実に微妙なラインの服装だ。
これから学園に入る事もないだろうし、私服でもいいのだが、モップの他に主な武器もないので、仕方がない。
こんな時間帯に木刀持って歩いてりゃ、不審者どころの騒ぎではないだろう。即刻、通報される事うけあいだ。
そんな理由で、横島はカートを徐行で走らせる。もし女性が悪漢にでも絡まれていようものなら、ヒーロー登場のチャンスだ。見逃してたまるか。

(ま……世の中、そんな都合よくいくわきゃないんだどねー)

くはぁ、と欠伸を一つ。
麻帆良は驚くほど治安のいい街だ。犯罪といっても、せいぜい万引きがいいとこで、殺人などの凶悪犯罪はまず起こらない。
その芽を、横島のように、学園長から命が下った秘密職員達が摘み取っているからだろう。
警察は暇だろなあ、と横島は他人事のように思う。ちゃんと働けているのだろうか?

あてどなく車を走らせていると、ポケットの端末が鳴った。
カートを停めて確認すると、その液晶には地図が表示されていた。初めて見る画面だ。
注意深く観察すれば、現在位置から割と近い場所に赤丸で囲まれている部分があり、急行!と妙にポップな字体で注意書きがされている。
何かあったな、と、横島は車を発進させる。気分としてはこのまま帰りたいが、無視して、後で何かあっても寝覚めが悪い。

「ま、これも仕事ですからね……っと!」

ガキン!ハンドル横にある固いレバーを思い切り引っ張ると、暴走したかのようにカートの速度が上がる。
ブースター……と言うより、どうも、リミッターを解除した感じだ。普段のろのろ運転しかしていなかった分、爽快ではある。
見た目に似合わない凄まじいスピードで、カートが夜の街を駆け抜ける!

「うらうら! どけどけーいっ!!」

無闇にクラクションを鳴り響かせつつ、あっと言う間に暴走カートは夜の街に紛れて消えた…。
それが通り過ぎた後を、通行人達は何か信じられないものを見たかのようにして見送った。
『怪奇! 夜の街に現る爆走カート伝説!!』という記事が麻帆良スポーツに掲載されたのは、翌朝の事である。






油断から思わぬ攻撃を脚に受け、高音は片膝をついた。
妹分が駆け寄って来るのを目の端に捉え、高音は歯噛みする。情けないところを見せてしまった…!

「お姉様っ!!」

「…大丈夫よ、愛衣。大した怪我じゃないわ」

実際はズキズキと痛むのだが、それを押して立ち上がる。
未だ心配そうな愛衣に微笑みかけると、また敵に向き直る。
今夜の敵は、黒い、人型の影。目も口も鼻もなく、ただ、のっぺりと黒を貼り付けたような、不気味なモノ。
妖怪でも悪霊の類でもないソレは、実際は何の実体も持たない筈の、人間の負の感情のカタマリだ。
思春期の少年少女が集まるこの麻帆良の地は、ただでさえ、ポルターガイストや、この手の存在を産み出しやすい。
それだというのに、ここ最近の吸血鬼の噂が後押しして、今日の敵を産み出したのだ。
普段の『影』は、嫉妬や悪意、それこそ多種多様な悪感情が寄り集まってできただけの存在なのだが…
今日のは『吸血鬼の噂に対する不安・恐怖』と存在が一貫していて、また、相当数の人々の感情を集めたせいか、一段と強力になっている。
いつも通りの敵だろうと高を括り、また、人払いはしたものの、市街地の只中という事もあり、あまり派手に戦えなかった。
その代償がこれか……と、高音は自らの慢心を悔やむ。

一方愛衣は、敬愛するお姉様の怪我がそう軽いものではないと気付いていた。
確かに、あの『影』に触られただけで、具体的に血が流れるとかそういった外傷は見当たらない。
しかし、悪意のカタマリであるあれに触れてしまえば、然るべき処置を取らなければ、具合を悪くしてしまうのだ。
本当は色々小難しい理屈があるのだが、まあ大まかに言うと、病は気から、という事だ。
満足に戦えなくなってしまったお姉様を背中で庇うようにして、『影』と対峙する。
大丈夫、やれる筈だ。今までは修行中という事で、お姉様の戦いを後ろで見守っているだけだったが……今回は、私が戦う。

「私が、お姉様を……守りますっ!!」

「愛衣っ!!」

背後で高音の制止する声が上がるが、今回ばかりは無視させてもらう。なに、後で謝れば済む話だ。
メイプル・ネイプル・アラモード……と始動キーを唱え、キッと『影』を睨み据える。

(お姉様を傷つけた………許せないっ!!)

その決意は、更に強く、更に固く。
大丈夫だ、私にならできる、と何度も己を鼓舞する。
こう見えても私は、ジョンソン魔法学校の実習の出来は良かった。実習も実戦も、そう変わらない筈…!

「ものみな(オムネ) 焼き尽くす(フランマンス) 浄北の炎(フランマ プルガートゥス)……!」

放つと決めたのは、必殺の炎。経験の浅い愛衣には、己の魔法が周囲に及ぼす被害など考えもつかなかった。
思い出したかのように、『影』が指さえない手を伸ばす。それを軽やかにサイドステップでかわすと、詠唱を続ける。

「破壊の王にして(ドミネー エクスティング ティオーニス) 再生の徴よ(エト シグヌム レグネラティオーニス)……」

徐々に、魔力が凝縮されていく。
機能する筈もない感覚器官でその身に迫る危険を察したのか、『影』は愛衣を捉えようと、もう一本の腕も伸ばす。
危ないところで地に転がり、その反動を利用し起き上がり、愛衣はまた駆ける。これなら、いける…!

「我が手に宿りて(イン メアー マヌー エンス)……ッ!?」

呪文もそろそろ佳境に入ったところで、愛衣は驚愕に目を見開いた。
すぐそこまで迫り、しかしギリギリ届かないと見ていた『影』の腕が、なんと中腹からパクリと割れ、細やかな触手が現れたのだ!
予想外の事に、何が起こったのか把握しきれず、詠唱は途切れ、足が止まってしまう。
迫る触手。愛衣ーッ!!と誰かが叫ぶ声。視界の端では、見覚えのある黒仮面が触手に捕まっている。あれでは間に合わない。
そして遂に、『影』の触手が愛衣を呑み込む―――その寸前に、バラバラに斬り刻まれた!

「「!!」」

突然の事に、目を見開く二人。
一瞬後、カツッ!と小気味良い音を立て、アスファルトに何かが突き刺さった。
その正体を目にして、二人は一層驚く。

「「ぞ、雑巾……!?」」

まるで某猫目姉妹のカードのようにピシリと直立しているそれは、どこを取って見ても極々普通の雑巾だった。
混乱のどん底に突き落とされる二人の耳に、朗々と何かを歌い上げるような口上が、どこからともなく聞こえて来る。

「浮世に蔓延る黒き染み、人情の裏に潜む醜き穢れ、お天道様を侵してしまうその前に―――御掃除、致します」

べべん、べん。どこからか響き渡る三味線の音色。
何故だかいつの間にか消えていた街灯が、パッと光を灯したその下に立つ、一人の男。
その身にまとうは清掃服。帽子を目深に被り、モップを肩に携えて……ピッと『影』に指を突きつける。

「必殺掃除人、只今見参!!」

必殺掃除人とやらが大見得を切ったその時に、カッ!と足下から照明。頭上からは、やけにピンポイントな桜吹雪。
高音と愛衣がぽけーと大口を開けて呆けるのも気にせずに、二人の方を気遣わしげに見やる。

「大丈夫かいお嬢さん方。待たせちまってすまなかったな…。
 しかし、この俺が来たからにゃあ一安心! 覚悟しゃあがれ悪党めが! ド頭から真ッ二つにカチ割ってやらァッ!!」

猛り叫ぶとモップを抜き放ち、愛衣を庇うようにして、『影』の眼前に立ち塞がる。
律儀に今まで事態を見守って来た『影』が、あ、もういいの?と言いたげに動き出す。
愛衣にとってはそれなりに素早かった動きだが、彼からしてみれば、ハエが止まるぜ的な遅さに見える。
斜め前にステップしてかわすと、その勢いを利用して跳び上がり、有無を言わさず、頭から一刀両断に叩ッ斬る!

「天空モップ両断剣――」

声もなく、真中からぱっくりと2つにされた『影』。
その最期を看取るでもなく背を向けると、掃除人は、付いてもいない血を振り払ってから、モップを背に納め、空いている方の手で合掌の形を作った。

「――成敗ッ!!」

その声と合図とし、何故か『影』が爆散する!
高音と愛衣は、ただただ唖然とするより他なかった。
一仕事終えた的な充足感を醸しながら掃除人が二人に歩み寄って来た時、無意識に後退りしてしまったのも無理はなかろう。

「怪我はねえかい、お嬢さん方」

「は、はあ……」

未だ茫然自失の態で、かくんと頷く高音。
しかし、その脚に『影』の残滓を感じ取った掃除人は、しゃがみ込み、患部にそっと手を当てた。

「こいつァいけねぇ…。汚染されてやがらぁ」

キャラに引っ張られ伝法な口調になっている掃除人を警戒したのか、思わず身を引こうとする高音の脚を掴む。
高音の後ろで愛衣が敵対心を明らかにしているが、そう気にするほどのものでもない。
まあ、これぐらいはいいだろ、と、掃除人は掌に霊力を込めると、若干黒ずんでいる患部に押し当てる。
回復手段が文珠だけでは勿体なかろうと、軽いヒーリングを覚えていたのだ。元より霊力の使用の幅が広い掃除人の事、覚えるのはそう苦でなかった。

「あ……」

ほうっ……と、掌から暖かい光が漏れる。それと同時に、奥底から来るような痛みが引いていく。
掃除人が手を離した時、高音の脚は、完治とは言えないが、立って歩けるほどには回復していた。
警戒心も流石に薄れ、素直に頭を下げる。

「あ、ありがとうございます。助かりましたわ」

「なァに、いいって事よ。佳い女を助けるのァ、男の務めってもんだ」

呵呵と笑う掃除人。助けられた手前、高音もぎこちない愛想笑いでそれに応える。
一方、愛衣は掃除人に対する奇異と警戒の視線を隠そうともせずに、くいくいと高音の袖を軽く引っ張る。
何?とお姉様が気付いてくれたのをいい事に、愛衣は掃除人に声が聞こえない所まで高音の手を引いて行く。

「どうしたの、愛衣? そんなに慌てて」

「あ、あの、早く帰りませんか? あの人、なんか怖いです…」

掃除人に怯えたような視線を向ける愛衣。
命を助けてもらったといえど、流石に口調が乱暴で、出鱈目な強さも相まって、あまり男性に免疫のない彼女には怖く映ったのだろう。
高音から見ても、確かに掃除人は、一昔前の無頼漢のようにも見える。着ている服が服であるから、幾分その印象も緩和されているが。
進んで付き合いたい相手には思えないが、しかし彼は自分達の危機を救ってくれた恩人でもあるのだ。その恩は返さなければなるまい。
怖がっている愛衣を無理に引き合わせるのも可哀想なので、ちょっとここで待ってなさい、と言い含め、高音は掃除人の方へ取って返した。
向こうの方でおろおろしている愛衣を不思議そうに見ている掃除人に、頭を下げる。

「申し訳ありません。あの子、あんな事があったばかりで、まだ混乱しているみたいで…。
 本当は、ちゃんとあの子の口からもお礼を言わせたかったのですけれど…」

「いや、いいって事よ。あんな、まだ小っちぇお嬢ちゃんだ。無理もねぇ。さぞかし怖かったろうよ。
 お前さん、あの子の姉ちゃんか知らんが……今度からは、もそっといいとこ見せてやるこったな」

「はい……その通りですわ。今回ばかりは、己の未熟を恥じるばかりで」

見も知らぬ相手から自分達の事に関して口出しされたようで、それに関してはあまりいい気分はしないが…
しかし、言っている事は実に的を射ている。本来、愛衣を助けなければいけないのは、姉貴分を気取っているこの自分の筈だったのだ。
あそこで助けが入っていなければ、愛衣は大怪我していただろうし、最悪、命を落としてしまっていたかもしれないのだ。
そして、その次には自分がやられていた事だろう。周りを気にせず本気を出せば、あんな『影』如きに後れを取るつもりはないが、

(目の前で愛衣がやられてしまったら、きっと、私は戦えなかった…)

おそらく、『影』に対する激憤よりも、後悔や動揺、悲嘆の方が先に来てしまっていただろうと予想する。
無論、愛衣とは血が繋がっていよう筈もないが、しかし実の妹のように可愛がって来たつもりだ。彼女を喪うなど……到底、耐えられる事ではない。
そして高音は、改めて己の慢心に気付き、自分自身に憤りを感じ、また、己の未熟さに愕然とした。
何があっても守れると思っていた。自分程度の腕で、大切な人を。お姉様の格好いい姿を見せ付けてやるという驕りさえあった。
自分が死と隣り合わせの現場にいる事も、そして、自分自身の命だけでなく、愛衣の命をも背負っている事も、繰り返される日常の中に忘れていた。
なんて愚か。なんて傲慢。こんな自分が、愛衣の命を、麻帆良の安全を、これから守っていけるのか…?

茫然自失の態の高音の肩に、ぽん、と掃除人が優しく手を置く。
はっと我に返ると、高音は初めて掃除人と目が合った。眼鏡のレンズ越しに見えるその瞳は、意外にも優しかった。

「ま……至らねぇところがありゃあ、次までに改善すりゃあいいってだけだ。
 お前さんはまだ若ぇ。未来がある。妹さんと一緒に、もっと成長して、お互い支え合って生きていけりゃあいいわな」

「あ……」

また、気付かされる。
たかが一度の失敗で、全てを諦めてしまってどうする。
確かに今回は大きい失敗だったが、その分、学べる事はとても多い筈だ。この失敗を次に活かす。同じようなヘマは二度とやるまい。
それに……あの時、愛衣は自分を守ろうと、戦ってくれた。腕は未だ未熟だが、ひょっとしたらもう、子供扱いするべきではないのかもしれない。
今までは、自分の戦いを見させ、勉強させて来たつもりでいたが……そろそろ、実戦を経験させておくべきか。
いや、勿論、単独ではやらせない。自分がフォローに回る。……しかし、今日のように、愛衣が自分のミスをフォローしてくれる事もあるだろう。
お互いの欠点を補完し合えば、きっと、これまで高音が独りで戦っていた時よりも、存分に力を発揮できる。そう直感があった。
愛衣と背中合わせで戦う。そうすれば、きっと負けない。2人で1人。2人はプリキュア。ぶっちゃけありえなーい。

大切な事を、いくつも気付かせてくれた。
改めて礼を言おうと、高音が顔を上げたその時には、いつの間にか、掃除人の姿はそこになかった。

(不思議な人……)

後ろで愛衣が早く帰りましょうと急かしている。
謎の掃除人を探すのを諦め、高音は、愛しき妹へと歩み寄る。




横島は、木陰で頭を抱えていた。

(くわあぁぁぁ…っ! や、やりすぎたぁーっ!!)

吸血鬼対策を考えていたその副産物に、必殺掃除人という設定を思いつき、試しに実行に移してみたのだが…
途中から盛り上がって自分を見失い、結局、何だかよくわからないキャラになってしまった事を猛省する。
闇に紛れて仇討ちします、的な渋い男になりたかったのだが、明らかに方向性を間違えた。
そもそも、1日に2回も美少女を助けるという、絶好のシチュエーションがあったのがいけなかった。そりゃあ気分だって盛り上がる。
今日は何とか最後まで演れたが、明日またあのテンションで立ち回れといわれても、正直キツイものがある。

(このキャラは、今日限りだな……)

はあぁ、と重い溜息。
ただの清掃員というのも味気ないので、どうにかしてキャラを立てたいなあと思う横島であった。

ファントム・ブラッド(7) 虎穴 投稿者:毒虫 投稿日:06/21-23:06 No.780


―――吸血鬼騒動から、もう1週間近い時が流れた。

いい加減話し合いの日も近いだろうが、相変わらず、これといった案は思い浮かばない。
どーにかなるっしょ!と前向き(投げやりとも言う)に考え、今日もいつも通りに出勤する。
昼には、例によって例のごとく、『超包子』で昼食を取った。今日の売り子は、褐色の中華娘だった。

そして放課後。
今日も今日とてロボっ子の出現ポイントに足を伸ばす。
既に待ち合わせ場所と化している場所に到着すると、ロボっ子が独りぽつねんと立っていた。
歩み寄り、軽く声をかける。

「こんちゃー」

「こんにちは」

丁寧に頭を下げる。
いつもの通り、軽く世間話でも始めるか、と、横島が口を開くその前に…

「マスターが話し合いに応じたいと。自宅まで御案内します」

「え、ああ……そっか、今日なのか。
 手土産ぐらいは持って行きたかったんだけど、ま、仕方ないか」

頬を掻きながら、随分と急な事だな、と思う。
せめて昨日の内に言っておいてくれたなら、色々と準備する事もできただろうに。
…いや、何かと準備させる暇を作らせないつもりなのか。

「では、こちらへ」

「ん、ありがとう」

なるたけ爽やかな笑顔を気取ってみたが、ロボっ子はふいと顔を背けてしまった。
不興を買ったかな、と思ったが、彼女の表情が窺えないので、何とも言えない。
そのまま歩き出すので、その3歩後ろをついて歩く。
この前の一件はあまり気にしていないのか、これといった変化は見られない。
その事に、安堵してよいのやら迷う。もっと彼女自身の事を好きになってもらいたいのだが。いや、特にそう思う理由はないが。

しばらく無言で歩いていたが、ふと思いついて、横島は口を開いた。

「そういや君、名前なんてーの?」

「絡繰 茶々丸と申します」

「からくり、ちゃちゃまる……。な、なんつーか、個性的な名前だねー」

「………」

無反応。
やっぱここは、ステキな名前だネ……と、目に星でも浮かべた方が良かったのか?と馬鹿な事を考える。
…と、ロボっ子改め茶々丸が何か問いたげな視線を向けているのに気付いた。

「んっ? ……あ、俺の名前? 俺は……えーと」

口に出しかけたところで、はたと気付く。本名を名乗っていいものだろうか?
というか、以前、この問題に気付き、名前を訊くのを避けていたのを今更ながら思い出した。が、もう遅い。
学園長の考えでは、わざわざこうして清掃員の真似事をさせられているのは、隠密性を重視したためとの事だ。
生徒の目に留まらぬ清掃員だからこそ、目立たぬ裏方の仕事を任せられる。
しかし、こうして制服を着ている以上、茶々丸も学園の一生徒である事に変わりはない。
はたして、みだりに正体を明かしていいのかどうか。

「……向こうに着いたら、どうせあの子にも自己紹介するんだろうし、その時までのお楽しみって事でいいかな?」

「…はい。構いません」

とりあえず、しばしの時間稼ぎに走っておく。
正直に本名を明かすか、名を騙るか、あるいはいっその事名乗らないでおくか。
件の吸血鬼がもしか事情通であったら、青山の第一線で活躍していた横島忠夫の名を耳にした事があるかもしれない。
それで警戒されるのはまずいし、それより、正体が明らかになるのはもっとまずいだろう。
まあ、何がまずいのかと問われても、横島は、何となく、としか答えられないのだが…。
…真面目に考えるのもそろそろ飽きて来た。雑談でもするか。

「話を戻すけど……名前が分かったところで、なんて呼べばいいかな?
 絡繰さん? 茶々丸ちゃん? チャチャ? チャッキー? むしろチャーリー? 浜?」

「……お好きなようにお呼び下さい」

しばしの逡巡の後、茶々丸は質問を投げた。こんな事を訊かれたのは初めての事で、どう答えてよいやら分からなかったのだ。
お好きなように、と言われれば、すわボケのチャンス!と元・大阪人の血が騒ぎ出すのだが、おそらくツッコミは望めまいと諦める。
茶々丸を見るに、本当の年齢は分からないが、身分的には中学生の筈。年下だろうと決め付ける。

「んじゃ、茶々丸ちゃんって呼ぶ事にするよ」

「はあ…」

茶々丸は曖昧に頷いておいた。ちゃん付けで呼ばれる事など初めてだった。

「ところで、さっきから気になってたんだけど、マスターってのはひょっとして、あの子の事なん?」

言外に吸血鬼の存在を匂わせると、茶々丸もそれを察したようだった。はい、と首肯する。
ロボ+主従。どこまでも懐かしい組み合わせだ。更に、主従両とも人外とあっては、余計に。
ふと横島は不安になって、及び腰で茶々丸に問うた。

「…ひょっとして、妹さんとかいないよな?」

横島の問いに、茶々丸は少し首をかしげる。

「姉妹機は今のところ存在しませんが、今後開発される可能性があります。
 しかし………解釈によっては姉と言えるかもしれない存在なら、現在も稼働中です」

「そ、そっかぁ、お姉さんかぁ……」

複雑な心境の横島、顔まで複雑に歪む。
姉妹機と聞いて、いい思い出はない。どうしても、あのロボット三原則を完全無視したロボ妹(ロボまい、と読む)を思い出してしまう。
しかし、直接手を下しているかどうかはまだ判然としないが、吸血鬼に仕え、吸血行為に協力している時点で、茶々丸も三原則の存在は怪しいものだ。
それを言うなら、以前マリアにも、キスと称したヘッドバットで頭を砕かれそうになった経験があるのだが……。
偉大なる三原則は、あまり横島には縁がないようだった。



しかし随分と歩かされるな、茶々丸ちゃんと二人きりだし、これならカートを転がしてた方がよかった、と横島は思った。
待ち合わせ場所から幾程歩いただろうか。人気のない方、ない方へと進んで行き、今やもう、森の中と言っても差し支えない所まで来た。
確かに龍脈の息吹は街よりも断然近しいが、これでは毎日の通学に不便だろう。いや、あの子が毎日真面目に通学しているとは思いがたいが。
京都では自然をありがたがるような所に住んでいなかったので、生命力に満ちた木々に囲まれても、特に思う事はない。
ぶらぶら足を運んでいると、やがて開けた所に行き着く。そこに、小ぢんまりとしたログハウスがあった。

「ここ?」

「はい」

まさかな、と思ったが、茶々丸の答えははっきりとしている。
吸血鬼といえば、おどろおどろしい城に居を構えているものだとばかり思っていたが……まさか可愛らしいログハウスとは。意表を突かれた。
まあ、教会に住むヴァンパイアハーフなんてのに比べれば、こちらの方がまだまともなのだろうが。
茶々丸は、お連れしました、とノックするとドアを開けた。頭を垂れ、横島を招く。

「どうぞ、お入りください」

「あ、こりゃどうもご丁寧に」

サラリーマンっぽくへこへこと頭を下げると、吸血鬼邸へと足を踏み入れる。
学園を騒がせている吸血鬼のアジト内部に入り、まず横島は驚いた。何だこのぬいぐるみ及び人形の数々は。
内装や家具もいちいちファンシーだ。あの吸血鬼が見た目通りの年齢ならば、何の違和感もないのだが…。
まあ趣味なんてモンは人それぞれだしなぁあはははと冷や汗かきつつ乾いた笑い声を上げる。
尚も不躾な視線を部屋中に這わせていると、頭上から、ぎしり、と家鳴り。見てみると、何故だか頬が上気している、この家の主。

「よく一人で来たな。正直、助っ人を呼ぶかとも思っていたのだが……馬鹿正直なヤツだ」

「それだけがとりえなもんで」

へらりと笑いつつ、観察を続ける。
吸血鬼、顔も赤いが、息も荒い。よくよく見れば、服も少し乱れている。
横島なりに曲解すれば、ピンク方面の妄想も膨らむのだが……見た目幼女にセクハラしても仕方がないし、やるせない。
しかしまさかなあと思いつつも、一応、横島は疑問を口に出してみた。

「……調子悪そうだな。大丈夫か?」

「む……。私は元気だぞ。大体、不老かつ不死である吸血鬼が、風邪を患って熱など出しているわけがないだろう!」

「…………」

無言で茶々丸を仰ぎ見る。
茶々丸は、心なしか複雑そうな表情でこくりと首肯した。

「お察しの通り、マスターは病気です」

「茶々丸ッ!!」

せっかく弱みを見せまいと振舞っていたのに、事もあろうか、自らの従者にその思惑をぶち壊された。
激昂して怒鳴りつけるが、風邪を引いている身にしては無謀だったようだ。酷い咳が出る。

「…ッ! っほ、げほ、こほ!」

「あーあー、なんで無理するかな、もー……」

いつの間にか距離を詰めていた横島、気遣わしげに背中をさすってやる。
す、すまない……と一旦言ってしまってから、吸血鬼は弾かれたように横島の手を払った。頬が、先程よりも若干赤い。

「さ、触るにゃッ!?」

あまりにも焦っていたせいか、舌を噛んでしまう。
口を押さえてしゃがみこみ、余程痛かったのか、ぷるぷると震えている。微笑ましい光景だ。
あれ?ホントにこの子、敵役だったっけ?と疑問に思いながら、さっと横島は吸血鬼の身体を抱き上げた。やはり、軽い。
何が起きたのか把握できず、固まる吸血鬼。

「熱まで出てるんだから、素直に寝てた方がいいって。話は治ってからにしよう。
 茶々丸ちゃん、悪いけど寝室まで案内してくれるか?」

「こちらです」

「こ、こら貴様ら、何を勝手に話を進めてっ……」

吸血鬼が腕の中で弱々しく暴れるが、運搬には何の支障もない。本格的に弱っているらしい。
茶々丸に案内され、2階のベッドに吸血鬼を寝かす。その間も何かぐちぐち言っていたが、全て聞き流しておいた。
布団をかけようとして、ふと気付く。

「このままじゃ寝苦しいな……。汗もかいてるみたいだし、寝巻きに着替えた方がいい。
 さすがに俺じゃアレだし、とりあえず外に出とくよ。……素直に言う事聞くんだぞ?」

よしよし、と頭を撫でてやってから、退室する。
ベッドの上で、吸血鬼は悔しげに呻いた。

「あ、頭を撫でられた……! この私が……! 闇の福音が……! な、なんて屈辱だ!」

「マスター、お着替えを」

薄く涙まで浮かべて悔しがる主に、フリフリのパジャマを差し出す。
吸血鬼は、いつも着ているパジャマを目の前にし、頬をひくつかせた。

「こ、この姿をヤツに曝すのか………?」

何だかとても嫌な感じだが、他の寝巻きも全て同じようなデザインだ。自らの趣味なのだから致し方ない。
のそのそと着替え終えると、部屋の外で待っていた横島を呼び戻す。流石の横島も、今回ばかりは覗きを働いていない。
ま、茶々丸ちゃんの方ならともかく、アレじゃあなぁ……と失礼千万な事を考えているのをおくびにも出さず、拍手を送る。

「おー、なかなか似合ってんじゃん。やっぱ異国の美少女がそんなん着たら、絵になるねー」

「そ、そうか?」

全く心のこもっていない賛辞に、満更でもない様子。
流石に相手も外見通りのお子様でもないのだし、ベッドまで運べば、もう横島にやる事もない。
まさか子守唄を歌ってやるわけにもいかんし、はてさてどうしたものやら。どうにも手持ち無沙汰。

他にやる事もないので、寝台上の吸血鬼をぼうっと眺めていると、徐々にその頬の赤みが強まる。
吸血鬼は、ゴホン!とわざとらしく咳払いした。

「た、確かに、今日は不覚にも体調を崩してしまったが……もう薬も飲んだし、それほど辛くはない。
 予定通り、貴様の話とやらを……聞く前に、まずは名乗ろう。私の名は」

「あ、それもう、学園長から聞いた」

「む……そうか」

せっかく、格好よく決めてやろうと思っていたのに……と、内心不貞腐れる。
まあどの道、この状況で格好よく決める事など不可能なのだが。
微妙に不機嫌な吸血鬼を気に留める事なく、横島は腕を組んで頭をひねる。
吸血鬼の名前は確かに学園長から聞いたのだが、よくよく考えてみれば、ぼんやりとしか憶えていなかったのだ。

「ややっこしい名前だったよなあ……。
 ええと、たしか………そう、バンテリン、だったっけ?」

「誰が、肩こり・腰痛に良く効く軟膏かっ!!」

商標登録チョーップ!と制裁をかます。
病人にあるまじきアグレッシブな動きをした代償に、げっほげっほと呼吸器を脅かすほどのやばめの咳が。
半身起こして背中を撫でさすってやると、すぐに落ち着く。まだぜひぜひ言ってる中、吸血鬼は迫力露わに横島に詰め寄る。

「エヴァンジェリン! 私の名は、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ!!
 エヴァンジェリンっ! Aっ! Kっ! マクダウェルっ! リピートアフターミー!!」

「え、えう゛ぁんじぇりん、えー、けー、まくだうぇる……」

「OK! ベリグー!!」

たじたじになって答える横島にサムズアップ。熱のせいか、テンションがおかしい。
そのまま、ぜーぜーと肩で息をしている内に、なんとか治まる。

「…と、とにかく、私の名はエヴァンジェリンだ。エヴァンジェリン様、または閣下と呼べ」

「閣下……晴郎?」

「くびり殺すぞっ!」

「スンマセンっしたっ!」

間髪いれずに土下座する。
エヴァンジェリンは、疲れたように鼻から息を抜いた。

「それで、貴様の名は何と言うんだ? 聞いてやらんこともないぞ?」

「んー……」

しばし考え込むと、ぽん、と拳で掌を叩く。

「床尾 掃男(ゆかお はくお)って言う…んだ……けど………スンマセン、嘘ッス」

途中で射殺すような視線に脅かされ、またもや土下座。
ここに至って、隠密とか任務とかそういう事は全部忘れる事に決めた。
これ以上は命に関わる。長年に渡るいびられ経験が功を奏したのか、目を見て分かったのだ。彼女は本気だ、そろそろ殺されるぞ、と。

「横島忠夫、最近ここ麻帆良に着任したばっかの清掃員。只今、絶賛彼女募集中ッス」

「そして、裏の顔は退魔師、というわけだな」

「ん、まーね」

既に一度戦った(?)のだから、ここで隠す必要はない。
彼女募集中のくだりについては完全にスルーして、話を進める。

「…で、この前言っていた、話したい事というのは何だ? 下らん話だったら斬首刑だぞ」

いちいち物騒なんだからなあ、もう……と溜息まじりに前置き、語り出す。

「単刀直入に言うけど、この学園内での吸血行為はやめて欲しい。
 性質上、処女の生き血を吸いたくなる気持ちは分かるけど、ここはなにとぞ、輸血パックか何かでひとつ、我慢を…」

「ハッ…。話にならんな」

ばっさりと切って捨てる。
ようやく本来の彼女らしい高圧さを取り戻すと、熱の辛さも忘れたらしい。

「確かに処女の生き血は美味だ。しかし、私とて伊達に長く生きているわけではない。自制ぐらい効くさ。
 私には私の考え、行動規範がある。今も、それに準拠して動いているだけだ。誰に何と言われようが、耳を傾ける事はできん。
 しかし……そうだな、上手く事が運べば、近い内に全て解決するかもしれん。そう、全てが……な」

ククク、といかにも敵役らしく、口唇の端を持ち上げる。
何やら、只ならぬ事を画策しているようだ。学園の安全を守る者として、この事態を見捨ててはおけない。
急に瞳から冗談の色が失せた横島を見て察したのか、エヴァンジェリンの顔から笑みが消える。
心なしか、部屋の温度も下がったように感じられる。ベッドの脇で茶々丸が無表情におろおろしているのが、唯一微笑ましかった。

「貴様も退魔師の端くれ…。どうだ、今なら簡単に殺せるぞ?」

挑発するように問いかけるが、横島は静かに首を振る。

「殺さないよ。後味悪いし、そんな悪い風には見えないし。
 でも……こっちも金貰ってるから、このまま見過ごすわけにもいかないんだよな」

「………フン」

詰まらなさげに、鼻で笑う。
エヴァンジェリンは、横島に対する興味を失った。
口でどう取り繕うとも、所詮、コイツも他の退魔師や魔法使いどもと同じだ、と。
……しかし、その見通しは甘い。良くも悪くも、横島が凡人並である筈がないのだ。

「今度、何か企んでんだろ? 何やらかすつもりかしらんけど、精々、全力で邪魔してやるさ。
 …さて、真面目な話してたら腹減っちまったな。ついでだし、何かおじやでも作ろうか?」

「…なに?」

「ああ、それとも、吸血鬼にゃあ血の方がいいか?
 処女じゃないのが申し訳ないが、それでもいいってんなら、まあちょっとぐらいは…」

「………」

エヴァンジェリンは絶句した。この男の思考回路が全く読めない。
先程まで思いっきり敵対する旨を話していたというのに、血を提供する?脈絡がないにも程がある。

「…貴様、ヴァンパイアに血を吸われるというのが一体どういう事なのか、理解しているのか?」

「や、理解してるも何も、一回吸われた事あるし。
 あん時は俺もまだヒヨッコ……にもなってない状態だったから、そりゃもう、いっそ清々しいまで見事に支配されたけど…
 今なら、滅茶苦茶吸われない限りは大丈夫だから」

けろりと言ってのける横島。
エヴァンジェリンは、我が耳を疑った。

「一度吸われた事があるって……それでもまだ、そんな事を言ってるのか? ……学習能力がないのか?」

「し、失礼なヤツだな…。まあ、一概に否定できないのが悲しいトコだけど。
 つーか大体、アレって、吸う方に支配しちゃるぞコラァ! ってな気合がないとないとできないんだろ? ピートから聞いたし」

「ピート?」

「ん? ああ、友達っつか戦友に近いけど、まあそんな感じのヴァンパイアハーフだよ。こいつがまた美形でムカつくんだ」

「ヴァンパイアハーフと退魔師が友人だと!? 貴様、嘘も大概に…」

横島は、そこで初めて、少し怒ったような顔をした。

「嘘じゃないって。
 まあ……確かに、あんまり美形で女にモテまくりだし、その事ちょっと鼻にかけてるしで、シャクに触って…
 とにかく嫌な野郎だとは思ってたけど、いつの間にかそんな感じになってたんだからしょうがないだろ」

「そういう問題じゃなく……いや、もういい」

全く論点がずれているのだが……横島は、その事に気付かない。
そもそも横島には、人間とそれ以外、という境界線が存在しない。
人間であろうがなかろうが、美人のねーちゃんは大好きだし、美形の優男は大嫌いだ。
器が大きいのか、単なる馬鹿なのか…。後者である可能性が高かったりするのだが、エヴァンジェリンは、そんな横島の一面に少しだけ気付いた。
それに……横島は、言外に、エヴァンジェリンの事を信じていると示した。お前なら、俺を無理に支配する事はないだろう、と。
そのあまりの馬鹿さ加減、単純さに、思わず苦笑が漏れる。

「貴様………本当に馬鹿だな。大馬鹿者だ…」

「ぬ、ぬぅ………反論できない自分が憎いっ!」

ぬおおっ!とおどけてみせる横島に、また笑いの衝動がこみ上げる。
茶々丸も、無表情ながらも、どこか安心したような感じでいる。
和やかな空気が流れる中、エヴァンジェリンは、少し頬を赤らめ、ゴホンと咳払い。

「それでは……血を分けてもらおうか。ほら、早くしろ」

「ん…」

言って、上着とシャツのボタンを外し、首元をはだけさせる。
エヴァンジェリンは、慌てたような声を上げた。

「ば、馬鹿か! 腕を差し出せ、腕を!」

「え、腕でもいけんの?」

なーんだ、と、言われた通り腕まくりし、差し出す。
横島は経験上、首から吸われるものだと思っていた。あの時は男にやられたから気持ち悪かったが、今回は気になるまい。そう思っていたのだが。
どうせ首に唇を寄せられるのなら、もっとこう……ばいーんとした感じのお姉さんにしてもらいたかったなあと思っていた分、気落ちはない。
そうこうしている内に、エヴァンジェリンが腕の半ば当たりにその牙を突き立てる。ちくりと微かな痛み。
そして、ちうちうと血を吸われる感覚。献血や採血で抜かれる感覚ともまた違う、微妙な快感を感じ取り、つい口から変な声が漏れる。

「おおっふ……」

「へ、変な声を出すなっ!!」

ぺちりと頭をはたかれる。いつの間にか、吸血は終わったようだ。
小さな吸血痕が残っているが、気になる程のものでもない。
血を吸い終えた後のエヴァンジェリンは、何やら複雑そうな顔をしていた。

(何だ、この味は……? 確かに健康的で、栄養素が豊富な血液だったが…
 魔力の欠片も含まれていなかった癖に、私の魔力が回復している……風邪も治ったようだ。
 普通、余程の魔力を内包している者の血液でなければ、こうはならないのだが)

首をひねる。
確かに横島の血液からは魔力など感じ取れなかった。しかし、その代わりに、何か得体の知れないエネルギーを感じる。
強力な気の遣い手の血を飲んだ時の味とも似ているが、やはりどこか違う気がする。
それに、付け加えて言うなら、横島から魔力が全く吸い出せなかったのもおかしい。
どんな人間であれ、魔力、そしてそれ以前の、その礎になる力は例外なく持っている筈だ。しかし横島からはそれすら感じ取れない。
封印してあるのなら話は別だが、何故、魔法使いでもない者が、魔力の封印など施されているのか…?
考えても答えは出ないし、本人に訊いても、答えてくれるとは思えない。今はまだ、それほど深い関係ではないのだから。

(…まあ、理由などどうでもいい。重要なのは結果だ。確かに私は快復した。今はそれでよかろう)

そう、自分を納得させる。
二、三、茶々丸と言葉を交わしていたらしい横島の方を見やると、彼は丁度、エヴァンジェリンに視線を向けるところだった。

「な、なんだ?」

「いや、ふと疑問に思ったんだけど……なんでわざわざ調子悪い日に俺を呼んだんだ?
 もちろん君に危害を加えるつもりはないけど、普通、もっと万全の状態で迎え入れないか?」

「む……」

もっともといえばもっともな横島の疑問に、エヴァンジェリンは腕を組んで眉根を寄せた。

「…仕方あるまい。ハカセもいち学生の身分ゆえ、活動時間は放課後に限られる。
 それに奴が妙に張り切って茶々丸を弄くり回していたから、思いの外メンテナンスに時間がかかってしまった。
 不本意だが、私は機械方面にさほど詳しくない。作業を急かしようにも、口の出しようがなかったのだ。
 それに明日からは色々と準備があるのでな。空いている時間といえば今日しかなかった」

「……準備?」

「あっ…!?」

何気なく口に出した横島に、エヴァンジェリンはあからさまに『しまった!』という表情を浮かべた。
そして、慌てて表情を取り繕う。が、横島は既に不審気な視線をエヴァンジェリンに送っている。
エヴァンジェリンは内心舌打ちした。全てこの熱のせいだ。思考が上手くまとまらない。
うっかり余計な事を口に出してしまったのも、それを指摘され過剰に反応してしまった事も、何故か横島に奇妙な親近感を感じている事も全て、熱のせいなのだ。
そう決め付けるエヴァンジェリンだったが……今さっき横島の血を飲み、熱も収まった事を、彼女はすっかり忘れていた。

「な、何でもない! 忘れろ! ただちに忘れろ!」

「や、明らかに何でもあるだろ。つーか準備って、何かよっぽど大掛かりな事でも企んで…」

「忘れろと言っただろ!! それとも何か! この私の拳で、自分が誰であったかも忘れさせてやろうかっ!?」

拳を振り上げ、がーっ!!と気炎を上げるエヴァンジェリン。
横島は、おお恐い、と頭を手で庇うようにおどけてみせると、すっと立ち上がった。

「分かった分かった。今のは聞かなかった事にしとくよ。
 ……ま、これで用事は終わったし、そろそろ失礼させてもらうとするか。
 今度、何をするのか知らんが……あんまし無茶な事はやらかさないでくれよ?
 できれば、あんま働きたくないんだよな。是非ともサボらせてやってくれ」

「戯言をぬかすな。帰るのならさっさと帰れっ」

はいはい、と肩をすくめてみせると、エヴァンジェリンに背を向ける。

「――闇だ」

「え?」

何か言った?と振り返る。
エヴァンジェリンは、ベッドの上であぐらを掻き、そっぽを向いていた。

「『無明の闇にゴスペルは鳴り響く』。覚えておけ」

「……? なんのこっちゃ分からんけど……まあ、うん。忘れるまでは覚えとくよ」

こういう謎かけは大の苦手なのだが、エヴァンジェリンが洩らした事だ。何か意味があるのだろう。
頭の隅に書き留めておくと、今度こそ退室する。

「ほんじゃ、茶々丸ちゃんもエヴァちゃんも、また今度な」

「はい、また」

腰を折る茶々丸の隣で、さり気なくちゃん付けされたエヴァンジェリンは固まった。
はっと我に返ると、憮然として腕組みする。

「こ、この私に対してちゃん付けだと!? ど、どこまで私を嘗めているのだ、ヤツは!
 馴れ馴れしいにも程がある…! 大体、そういうのはもっと段階を踏んでから……って何を言ってるんだ私はぁーーっ!!」

「………」

何やら苛ついている様子のエヴァンジェリン。
ええい!とボスンボスン音を立ててクッションを殴りつけている主から、茶々丸はそっと離れた。触らぬ神に祟りなし。




外に出ると、辺りはもう薄暗い。
歩いて帰んのめんどくせぇなあ、と軽く溜息をつくと、後ろを振り返る。
持ち主の趣味を反映したかのような、可愛らしい造りのログハウス。もう一つ、溜息が漏れた。

「やりにくいね、どーも」

深入りしすぎてしまった。
相手は悪い存在ではなかった。決して善良とは言えないが、横島にしてみれば、年相応の可愛らしい一面を持ち合わせた少女に見える。
もう知り合いと言っていい関係だろう。しかし、死力を尽くして、とはではいかないが、やがて戦う日が訪れる。
ふと、学園長の言葉を思い出した。この件を任されているのは、何も横島だけではない。
もう一人の担当者、名前はロクに聞いていなかったが、この前茶々丸を襲撃した、あの子供魔法使いに相違あるまい。
あの時は思いとどまってくれたが、今度はそうはいかないだろう。幼いながらも、瞳には確かな決意を灯していた。
彼女らにも、あの少年にも怪我して欲しくない。しかし、人に仇なす行為を見逃すわけにもいかない。どうにも、落としどころが見当たらない。

横島は、やれやれと肩をすくめた。

「どーせまた、俺が貧乏くじ引かされる事になるんだろなあ……」

世の中って理不尽だ!と愚痴りながらも、何故か軽い笑みが浮かぶ。
帰りの足取りは、存外に軽かった。

ファントム・ブラッド(8) 決戦へ 投稿者:毒虫 投稿日:06/24-23:43 No.792


起床してカーテンを開けると、空に月が透けて見えた。まだ満ちていない。
吸血鬼のエヴァンジェリンが何か行動を起こすのだから、まあ次の満月だろうと当たりをつけているわけだ。
近い内に……とは言っていたが、暗号じみたヒントを寄越すぐらいなら、いっそ答えを教えて欲しかった。
いつになるか不明なので、手遅れにならない内に、横島は横島なりに、ない知恵絞って考えた。
彼女の具体的な目的は定かでないが、それがもしロクでもない事なら、エヴァンジェリンを止める。その後にはお仕置きだ。
そして、自分と同じくエヴァンジェリンを阻止しようとしている子供魔法使い。目的は同じだが……果たして、向こうはそう思っているかどうか。
この前、それとなく自分は味方側だとアピールしたつもりでいるのだが、その言をどこまで信じてくれているかは怪しいものだ。
まあ……特に、信じてくれなくても支障はない。何せ横島は、

(どちらにもつく気はない……)

からである。
エヴァンジェリンのしようとしている事が、横島の立場的に看過できないような事なら、阻止してみせる。
子供魔法使い達が、彼女をただ吸血鬼として退治するつもりならば、そちらも止める。
最初は様子見から入るつもりだが、成り行き如何では、三つ巴の戦いに発展するだろう。
どうしても横島自身が貧乏くじを引く事になる。が、それもまあいつもの事だろう。運命と思って諦める。

しかし、この案には問題があった。
エヴァンジェリン、子供魔法使い、両陣営合わせて、最低でも4人。
状況によっては、これらを一手に立ち回らねばならない事にもなろう。しかし、現段階でそれが可能か。首をかしげざるをえない。
実際、使える武器はモップと雑巾ぐらいだ。他にも、パチンコ玉や裁縫針など、小道具はいくらかあるが……
やりすぎると命の危険や、後遺症の心配がある。手加減できつつ、相手に通用する武器といえば、数も限られる。
しかし、あの4人が自分をほったらかしにして全力で戦いを始めてしまえば、この2つの得物だけでは少々心許ない。
どうしたって、霊力の行使や、文珠が必要なのだ。相手に怪我をさせる事もなく鎮圧するのは、やはり難しい。
が、特に文珠なんて代物は、こちらの世界では存在すら確認できていない、超貴重品。
そんなモノを持ってい、かつ製造できると知られれば、どんな目に遭うか知れたものではない。
ゆえに、どうしても使うなら、誰がどのようにして使ったかを分からぬようにする必要がある。
即ちそれは変装だが、今の清掃員の変装のままでは、何の意味もない。既に身許は割れているようなものだ。
ならば、新たなる聖衣(クロス)を用意せねばなるまい……。

「さて……と」

昨日、帰りに買い込んでおいた材料をおもむろに卓上にぶちまける。
その一つ一つを手にとって吟味し、満足気に頷いた。準備に抜かりはない。
あとは、これらに然るべき処置を施し、自らの手で、最高の戦闘服を作り上げるのみ。
一応、時期の予想はしてあるものの、それが当たるとは限らない。なるたけ早めに完成させておくべきだろう。
闇がどうのこうの言っていたので、夜の巡回は特に気をつけなければならない。夜なべして作るのは却下だ。
となればいっそ、昼までは仕事をサボり、作業に集中する事に決めた。

学校をサボった時のような、奇妙な罪悪感を感じつつ、作業を始める。

「この、くそっ! ……あ、あれ? おかしいな? 針に糸が通らないぞ…?」

早速、つまづいていた。






麻帆良学園女子中等部校舎、その屋上。
エヴァンジェリンは、長髪を風に任せ、上機嫌に笑みを浮かべた。

「よし、予定通り今夜、決行するぞ……。
 フフフ、ぼーやの驚く顔が目に浮かぶわ」

無意味に一段高い場所へ登り、ハーハッハ!と哄笑する。
しばらくそうしていたかったのだが、従者の何か言いたげな視線に振り返る。

「ん? どうした茶々丸。何か気になる事でもあるのか」

「いえ……」

茶々丸にしては珍しく、一瞬言いよどむ。
しかしエヴァンジェリンが目で先を促すと、流石に語り始めた。

「その……果たして、そう簡単にいくものなのか、と」

「…なんだ、茶々丸。貴様、まさか私の実力を疑っているのか?」

「いえ、そういうわけではありません。ただ、不安要素が…」

不安要素。そんなものあったか?と首をひねる。
ネギと神楽坂明日菜が本格的に手を結んだ事なら、先日既に耳にした。
確かに、神楽坂明日菜の、魔法障壁を軽々と打ち破ったあの謎めいた力は、少々気にかかるが……
しかし、完全に力を取り戻した『闇の福音』の前に、そんなものにどれほどの意味があるのか。
そもそも、明日菜の相手は茶々丸が務める事になっている。怪我をさせても後々面倒なので、適当にあしらわせておくつもりだ。
この前の戦いとは違い、ネギを一人で迎え撃つことになるが、相手はまだ子供の半人前魔法使い。赤子の手を捻るより容易かろう。
なんだ、たかがこれだけの事を心配するなど、いくら慎重派の茶々丸でも……と思いかけたところで、ふと思い当たる。

「……そうか、あの馬鹿……横島忠夫の事か」

余計な事を思い出してしまった、と溜息が出る。
エヴァンジェリンは、うんざりした風に茶々丸に顔を向けた。

「確かに奴はそれなりの遣い手だろうさ。その上、未だその実力の全ては目にしていない。未知数だ。
 しかし……余程の隠し玉でも用意していない限りは、本気を出した私の敵にはならんな。
 魔法障壁さえ張れぬ奴の事、下手をすれば、流れ弾に当たって……という事も考えられる」

「………」

途端に、眉根を寄せる茶々丸。
それを、何か面白くないものを目にしたように、エヴァンジェリンは顔をそむけた。

「……不本意ながら、ヤツには借りがあるからな。そうならんように、一応は気をつけておく。
 まあ……それ以前に、私が出してやったヒントに気付かず、今夜、出張って来ない可能性もあるがな。
 いや、何しろ馬鹿なヤツだからな。きっと気付くまい。そうだ……そうに違いない」

うむ、と納得したように頷く。
見ると、茶々丸も、どことなく安心を瞳に浮かばせている。
…何故か、面白くない、とエヴァンジェリンは思った。

「……心配か、ヤツの事が。いや……それとも、ヤツと戦うのが嫌なのか?」

「い、いえ、そんな事は…」

ふるふると首を横に振る。茶々丸にしてはリアクションが大きい。
…気に入らない。何が気に入らないのか自分でも分からない。それがまた神経を逆撫でする。
フンッと鼻を鳴らすと、エヴァンジェリンは身を翻した。

「…まあいい。私には関係のない事だしな。
 開始まであと5時間だ。行くぞ、茶々丸」

軽やかに跳躍する。
見事に足を引っ掛ける。
びたーーーん!と顔面から着地する。

「へぶぅっ!?」

「ああっ、マスター、鼻血が…」

後ろでは、既に茶々丸がハンカチを持って待機していた。






昼から出勤し、手早く清掃を済ませる。
まっすぐマンションまでカートを走らせていると、道中、コンビニの前に人だかりが出来ているのが目に入った。
何事かとカートを停車して目を凝らせば、まずそののぼりに気付いた。

「停電セール……?」

気になって近くまで行ってみると、生徒達の会話が自然と耳に入った。
断片的に聞こえた情報を繋ぎ合わせてみると、今夜の8時から12時まで、街全体が全面的に停電するとの事らしい。
難儀なこったと思いつつも、停電というフレーズに、どこかひっかかるものを覚える。


     ―――『無明の闇にゴスペルは鳴り響く』―――


「……まさか、な」

苦笑してかぶりを振る。
満月はまだ遠い。大体、電力供給がストップしたぐらいで、彼女に何の変化があるのか。
吸血鬼は、満月の夜に最大の魔力を発揮する。この事から考えても、彼女が今夜行動を起こすなどとは考えられない。考えられないが…
しかし、まだひっかかりは取れない。喉に刺さった魚の小骨のように、チクチクと存在を主張している。
論理的に考えれば、今夜の可能性は無視するべきだ。……しかし、横島は己の勘を信じる事にした。

(早いとこ、アレを完成させなきゃな…!)

カートに飛び乗ると、リミッターを解除しないまでも、出力を上げる。
予感は、確信へと変わりつつあった。




陽が落ちた中、使い魔のオコジョのみを連れ、夜の寮を歩く。
足下を照らすのは、懐中電灯と、頼りない月の光のみだ。街から人の灯りが消えると、こうも不便なものなのか。
肩に乗っているカモに話しかけるように、闇を紛らわすように、声を出しているネギだったが……カモに制止され、立ち止まる。
見ると、カモの尾はぱんぱんに膨れて直立していた。

「どうかした? カモ君」

『兄貴!! 何か異様な魔力を感じねーか!? 停電になった瞬間、現れやがった!!』

「えっ……何か魔物でも来たの?」

辺りを見回すが、ネギには、そんな気配は感じられなかった。
しかし、こう見えてもカモはオコジョ妖精。索敵能力なら、臆病な彼の得意とするところだ。

『分からねぇけど、かなりの大物だ……。まさか、エヴァンジェリンの奴じゃ……』

ええっ!?と驚く兄貴分に、カモは溜息をつきたい気分だった。
あの吸血鬼がそう簡単に更正するわけはないし、一度狙った獲物を簡単に諦めるわけもない。
来るべき時が来たのだ。直接対峙するのは初めてだが、ネギの話しぶりからして相当強いのだろう。早速、カモの体が震える。

「あ、あれ? あれは……」

ふと前方に気配を懐中電灯を向ければ……何と、照らし出されたのは、全裸の女生徒だった!しかも彼女は、ネギが担任する生徒、佐々木まき絵だ。
驚きたじろぐネギを気にも留めず、まき絵は虚ろな瞳をネギ達の方に向けたかと思うと、感情の抜け落ちた声でメッセージを告げた。
エヴァンジェリンが勝負を申し込むから、10分後、大浴場まで来い。突然言われ、当然の如くネギは混乱する。
どうやら、まき絵はエヴァンジェリンに血を吸われた事で、彼女の使徒になってしまっているようだ。
その後、まき絵が去る際の人間離れした動きを見ても、それは間違いない。
驚きと共に、ネギの胸中に本来無関係であった筈のまき絵を巻き込んだエヴァンジェリンへの怒りがこみ上げる。
自らの油断の挙句このような事態を招いてしまった事に歯噛みするのも束の間、焦るカモから明日菜を呼ぶよう言われる。

「う、うん、分かった!」

勢い良く応え、携帯電話を取り出し明日菜のアドレスを呼び出そうとして……思いとどまる。
今まで魔法がバレた成り行きで、明日菜をこちらの世界に巻き込んでしまっていたが……今回ばかりは、そうはいかない。
これまでの事とは次元が違うのだ。何せ、敵は真祖の吸血鬼。危険極まりない相手だ。
命の危険さえ伴う戦いに、一般人である明日菜に協力を仰いでいいものか……。
…そんなものは最初から決まっている。答えは―――

「――いや、そうはいかないよカモ君。ここは、僕一人で行く!」

『え……ええ〜〜っ!? 何バカなこと言ってんだよ、兄貴!!』

騒ぐカモの言葉も聞かず、パタン、と携帯を閉じる。
この日のために用意しておいた装備を取り出すと、手際よく身に着ける。
戦闘準備を済ますと、ネギは杖に飛び乗った。

『ダメだって兄貴!! いくら装備を整えても、一人じゃあ奴には勝てねぇよ! 考え直せ!!』

「ダメ!! もうアスナさんに迷惑はかけられないよ。これは僕の問題なんだ!」

前だけを見据え、疾走する。
説得を続けつつも、カモは既に諦めつつあった。
ネギはこういう時に限って頑固だ。変に責任感が強く、全てを一人で解決しようとする。
それは美点に映るかもしれないが、周囲の人間にとって、ネギに頼られないのはとても寂しい事だ。

『魔力が復活しただけでなく、パートナーの茶々丸だっているんだぜ!!
 それに、ひょっとしたらあの清掃員の野郎も敵かもしれねぇ! 三対一なんて、いくら兄貴でも無茶すぎるぜ!!
 兄貴! せめて、アスナの姐さんに連絡を!! 兄貴ッ!!』

必死に呼びかけるが……ネギの眼は、真直ぐ前を向いたまま。

「やだ!!」

『……えぇい、このわからず屋! もお知らねぇよ!』

ふっと、肩から重みと温もりが消える。
どうしようもない寂しさと心細さを感じたが、決して後ろは振り返らない。
やるしかない。自分が一人でやるしかない。その思いだけを胸に抱えて。

(止めてみせる……! 絶対にっ!!)

少年は、闇夜を翔ける。

ファントム・ブラッド(9) あばよ涙、よろしく勇気 投稿者:毒虫 投稿日:06/28-22:38 No.826


停電を告げるアナウンスが、不意に途切れた。
麻帆良から人工の灯りが全て消えたと同時に、濃密な魔の気配が街を覆う。
夜の巡回に出ていた横島は、ハッと弾かれるように月を仰ぎ見た。

「始まった、のか……?
 それにしても、何だよこの魔力は? この前戦った時とは比べもんにならんぞ」

月は満ちていない。がしかし、この魔力……尋常なものではない。
エヴァンジェリンと麻帆良を流れる電力の因果関係は掴めないが、重要なのは結果だ。今はそんな事を気にしている場合ではない。
横島はカートを降りると気配を消した。ここから先は隠密行動。来たる時まで、その正体を悟られるわけにはいかない。
さて、と一息ついたところで、そろそろエヴァンジェリンと子供魔法使いの許へと赴かなければならないのだが……イマイチ気が進まない。
何せ、特別霊視ができるわけでもない横島が遠くからでもビシビシ感じられるほどの魔力を、エヴァンジェリンは放っているのだ。
格好つけて『俺が何とかしてみせる!』的に熱血したのはいいものの、まさかエヴァンジェリンの本気がここまでとは思わなかった。
正直ビビる。できれば見て見ぬフリして布団に潜り込みたい気分だ。さすがに退魔にも慣れたが、それでも怖いもんは怖い。
しかし……これも仕事だ。飯を食うためなのだ。致し方ない。なに、上手くやれば痛い思いをする事はないのだ。多分。
そう諦めをつけると、横島は物陰に隠れ、ぐっと拳を握った。漏れる光。掌を開いて出て来たのは、淡く翡翠色に光る球。文珠だ。

(誰も見てないよな…?)

それだけ確認すると、作りたての文珠に『捜』と文字を込める。
要は見鬼君の代替品。実に勿体ない使い方だ。美神あたりに知られれば、怒り狂って半殺しにされただろう。
しかし、こちらの世界に来てから能力をひた隠しにし続けた結果、相当数の文珠が溜まってしまっているのだ。
この先使う機会もそうないだろうし、ここはひとつ何も考えずにパーッと使ってしまおうと思っていた。

エヴァンジェリンを強く思いながら、文珠を発動させる。
途端、直感が下る。大浴場だ。彼女はそこにいる。
傍から見れば何の根拠もないように見えるが、文珠がもたらす感覚には絶対的なものがある。疑う余地のない説得力だ。
使用したものの、文珠は消えてはいない。若干強く発光しながら、まだ横島の掌の上にある。
これは、エヴァンジェリンが移動を開始すれば、リアルタイムでその位置が分かるという事だ。
その日のコンディションによるが、感覚からすると、あと1,2時間はもつ感じがする。それだけあれば決着に持ち込めるだろう。

「しっかし……大浴場、ねえ。でもまあこっちも仕事なんだし、しょうがないよな? ぬふ、ぬふふっ」

大浴場→混浴露天殺人事件→火野正平→ポロリ、と、一部不穏当な単語が混じったが、ともかく黄金の方程式が一瞬で構築される。
これで視聴率アップ(?)もお手の物だぜ!と息巻くも……エヴァンジェリンの矮躯を思い出し、ガックリ。
アレじゃあなぁ……。肺の空気全てを搾り出すような、深い深い溜息。
若干やる気をなくすと、背を丸めてとぼとぼと歩き出す。その後姿には、切ない諦観が貼り付いていた。



霊力を全身に、特に脚部には過剰なほどに充填し、疾走する。
世界が溶けるように同化し、流れる。今の横島のスピードは、人間離れと言った言葉が生易しく感じられるほどのものだ。
その勢いで大浴場まで迫るが、あと一歩というところでエヴァンジェリンが移動を開始するのを感知した。
説明しがたい独特の感覚で、これまた高速で大浴場から離れて行っているのが分かる。頑張れば、追いつくのは無理ではない。
しかし……何か予感のようなものを感じ、横島は割れた窓から大浴場の中を覗き見た。
中はこうなってるのか……と感慨に浸るのも一瞬、中で女性が2人倒れているのを発見する。
慌てて中へ飛び込むと、2人を抱き起こす。両方ともまだ少女と言っていい外見だった。ちょっと期待はずれだなと思ったのは内緒だ。

「おい、大丈夫か!? 色んなトコがモロ見えしちゃってるんだけど、そういう意味でも大丈夫なのかこの状況はッ!?」

少女らは全裸だった。いや、靴と靴下だけは残している。若いのになかなかモノが分かっている子達だな、と感心。むしろ歓心。
しかも、長い黒髪をポニーテールにしている少女の方は、これがまあ横島も安心なプロポーションだったりするので嬉しい限りだ。
が、変なところで真面目な横島。チラリとだけその瑞々しい肉体を見ると、すぐ目を逸らして、今度は自分が服を脱ぎだす。
といっても、年齢規制がかかりそうな事を考えているのではない。いや、服を脱いでいて、ちょいとギリギリな心境になったのは否定できないが…。
とにかく、横島は上着を脱ぐと、ポニーテールの少女にかけてやった。胸と大事なところを隠すので精一杯といった様子だが、仕方あるまい。
次に、下に着ていたシャツを脱ぐ。それを引き裂いて一枚の布にすると、髪の短い方の少女にかける。これで横島の理性は保たれるだろう。
いや、むしろこのキワドさが逆にそそるかも……と、イケナイ考えが浮かんだが、床のタイルに頭突きかまして強制的に忘れる。
頭に上っていた血を抜く事で、ようやく少し落ち着けると、少女達から、エヴァンジェリンの魔力の匂いが立ち昇っている事に気付く。

「……ひょっとして…」

気になってポニーテールの方の唇を少し持ち上げると、常人より長めの犬歯。もう一人の方を調べてみても、結果は同じだった。
今は、おそらくは魔法で眠らされているのだろうが……起き出したら厄介な事になりそうだし、第一このまま放置しておくのも可哀想だ。
まあストックは腐るほどあるんだしな、とまた新たに文珠を2個作る。両方とも『治』と入力すると、惜しげもなく使ってやった。
パァッ……と、闇に包まれた大浴場の中に、暖かな光明。

「ん……う…?」

すると、弾みでポニーテールの少女が薄っすらと目を開いた。
幸い、意識は覚醒していないようだ。さわさわと頭を撫でながら、優しい声で囁く。

「大丈夫だ。何も心配ない。だから、今はお眠り……」

「ん……ん………」

安心したのか、魔法の効力か、少女はまた眠りについた。
短髪の少女は先程からずっと眠ったままだ。ほっと息をつく。
そっと2人を床に寝かせると、そろそろ行くかと立ち上がり……眠っているポニーテールの少女を目にして、ふと横島は思った。

「この子、素子ちゃんに似てるな……」

青山素子。鶴子の実妹だ。
確かに、この少女は素子に……正確に言うなら、少し昔の素子に似ている。多少、線が柔らかいだけで、あとはそっくりだと言っていいだろう。
青山にいた頃のことを思い出す。横島は、鶴子とは非常に上手くやっていけたが、素子との関係は、決していいものだったとは言えない。
軽薄な男が嫌いなのか、姉の鶴子にやたら親しげにしていたのが気に喰わなかったのか、とにかくまともに話した記憶すらない。
横島としては、可愛い妹のような感じで接して来たのだが……打ち解ける前に彼女が京都を出て行ってしまったので、これといった思い出もない。
女性に嫌われるのは慣れっこなのだが、やはり、それが懇意にしている女性の妹となると、また話も違う。
郷愁と切なさ。複雑な想いが胸に去来したが、今はそれを噛み締めている暇はない。雑念を振り払うように、横島はまた割れた窓から飛び出した。



横島が全裸少女ズの介抱をしている間に、エヴァンジェリンは大分遠くまで行ってしまったようだ。
時々、魔力が爆発するのを感じるので、恐らくは、空でも飛びながら、あの子供魔法使いと戦っているのだろう。
いや、何しろエヴァンジェリンはこの魔力だ。子供魔法使いが遊ばれている、と言った方が正しかろう。
やりすぎるかもしれない子供魔法使いを止める、というのが当初の目的の一つだったのだが、どうやらそれは杞憂になりそうだ。
こうなれば、逆にあのボウズがエヴァちゃんに殺られるのを防がないとな、とさえ思う。

(どっちにしろ、俺が動かなくちゃならんのか……。
 めんどくせぇ……つか、あの魔力は嘘だろ。反則だぜ。正直、こえぇっつーの!)

と、情けなく表情を歪める。既に半泣きだ。今の横島は半裸で街中を爆走している状態なので、なんかもうどうしようもなく怪しい。
が、それも仕方のない事だ。エヴァンジェリンが放っているであろうこの魔力、下手すれば元居た世界の上級魔族にも匹敵しかねない。
それを、罠も策もなしに真っ向から戦り合おうというのだ。基本的に小心者のビビリ屋である横島としては、たまったものではない。
もう何もかもほっぽりだして一目散に逃げ出したいのだが、そうも言ってられないのが社会の厳しさである。組織人はつらいね。

…しかし、随分と走らされる。そろそろ麻帆良と外部とを繋ぐ橋へ差し掛かったぐらいだ。
まさか、このまま麻帆良から出るつもりではあるまいな……と危惧半分、もう俺の手から放れるんじゃね?と安心半分、複雑な気分。
が、その心配(そして期待)は無用だったようだ。橋の終わり辺りでエヴァンジェリンが止まったのを感じる。どうやら決着をつけるつもりらしい。

「さて、と。そろそろ真打の出番かねっ!」

フハハハハ!とヤケクソ気味に哄笑すると、首の骨をポキポキ鳴らし、ぐるぐると肩を回す。
その他、一通りの準備体操を終えると、横島はおもむろに文珠を2つ作り出した。
それらを3本指で挟み、高々と天に掲げると、力の限り咆哮する!

「 『蒸』・『脱』 !!」

そして辺りは、凄まじい光に覆われた―――!!






捕縛結界を茶々丸に破らせると、エヴァンジェリンは得意げに口許を歪めた。
最後の策を破られ、頼みの杖さえ眼下に流れる川へと投げ捨てられ、涙を浮かべて足掻くネギ。
そんなサウザンドマスターの息子を見て、エヴァンジェリンは心底から苛立つ。
これが貴様の実力か。眼前にそびえ立つ壁に、立ち塞がる強敵に、ただ感情に任せてみっともなく喚くのが限界なのか。 
確かに、子供にしてはよくやった方だろう。捕縛結界に追い込むというのも、まあ悪くない案だ。
しかし、従者であろう神楽坂明日菜を連れて来ていないのはどういう事か。
まあ……甘ちゃんなネギの事、恐らくは、彼女を巻き込むのを恐れての事だろうが……とんだ勘違いだ。
決意が自分だけにあるとでも思っているのか?そして自分が負け、エヴァンジェリンに魔力が戻るのが一体どういう事なのか、理解しているのか?
結局、ネギは何も分かってない。周囲に気を遣っているつもりでいて、しかしそれは自分の都合を、理想を押し付けているだけだ。
まだ子供だからそういう部分があるのは仕方がないが、今回に限っては、状況が悪すぎた。

それに……エヴァンジェリンを苛立たせている要因は、もう一つある。
戦いが始まり、こうして終局に至っても、全く姿を現さない横島忠夫の事だ。
止めてみせるとかやけに自信ありげに断言していたのは、一体なんだったというのか。
理事長のジジイが手を回して、この件をネギにのみ任せたというのも、十分ありうる事だろうが……
それでも、言われた通りに引き下がってしまうのは許せない。あそこまで自分達に介入しておいて…。
言いたい事だけ、やりたい事だけやっておいて、後は放ったらかし。男はみんなそうだ。苛々する。

その苛々を発散するかのように、未だ騒ぎ立てるネギの頬をパシンと打つ。

「一度闘いを挑んだ男がキャンキャン泣き喚くんじゃない!!
 この程度で負けを認めるのか!? お前の親父ならば、この程度の苦境、笑って乗り越えたものだぞ!!」

檄を飛ばすエヴァンジェリンに、ネギは、尻餅をついて、叩かれた頬を押さえて呻く。
情けない姿だ。普通の子供が親に怒られた時のそれと、何ら変わりはない。
こんな餓鬼に、私は一体何を期待していたというのか……。軽い失望を覚える。
いや、ネギに父、ナギ・スプリングフィールドの影を求めるのは、あまりに酷だったのだろう。
苦笑して首を振ると、エヴァンジェリンはネギに覆い被さるように腰を落とした。

「だが、今日はよくやったよ、ぼーや。一人で来たのは無謀だったがな」

これから何が行われるのか察したのだろう、ネギは抵抗する事も忘れ、ただ震えている。
怯える獲物を更に追い詰めるのは実に愉しい。エヴァンジェリンはその長い犬歯を見せ付けるように口を開いた。

「さて……血を吸わせてもらうか」

「ううう……っ!」

その牙が、ネギの首筋に突き刺さる……かのように見えた、次の瞬間!


「待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇいッッ!!!」


やけに良く通る声で、制止がかかる!
エヴァンジェリン、茶々丸、ネギの3人は辺りを見渡すが、人影は見当たらない。

「誰だ!! どこにいるっ!!」 

「私はここだッ!!」

バッ!!と、橋の上の方に照明が燈る!
一斉に頭上を見上げると、ネギとエヴァンジェリンは揃ってあんぐりと大口を開けた。茶々丸でさえ、大きく目を見開いている。
3人が目にしたのは……橋の天辺の部分に、腕組みし、ビシッと直立している一人の男。しかし、驚くべきはそこではない。
なんと彼は、赤いバンダナを顔の下半分に巻きつけているだけで、後は胸に赤く輝く『Y』の字が入ったランニングシャツと柄パンという格好だった!
変態さんだ……。呆然と呟くネギ。それも気にせず、男は声を張り上げる!

「その決闘、この私が預かったッ!!」

「だ、誰だ!? …ああ、いや、貴様が誰だかは大体察しがついていて、それでも僅かな可能性にかけて敢えて訊いているんだが、一体誰なんだ貴様はっ!?」

「私か? 私は……」

言いかけ、ビシッ!と両手を右斜め上方45度に傾け、片膝を曲げ、珍妙なポーズを取る。

「主に18歳から35歳ぐらいまでの見目麗しい女性の味方!! 煩悩闘士(リビドーファイター)・ヨコシマンッ!!」

そう名乗りを上げた瞬間、何故か背後で、ドドーン!と七色の爆炎が昇る!
完全に取り残されている3人に見向きもせず、ヨコシマンは颯爽と宙に身を投げ出した!

「とおーーーうッ!!」

くるくると空中で幾度か回転すると、腕を組んだままの体勢で、ズドンッ!とアスファルトをクレーター状に陥没させながら、豪快に着地する。
眼前に降り立った変態に、3人は全く同じタイミングで後じさり。
ヨコシマンは、おもむろに、ビシィッ!とエヴァンジェリンに人差し指を突きつけた。

「勝負だッ!! エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルッ!!」

「え、えぇっ! わ、私!? 私かっ!?」

わたわたと慌てふためくが、珍妙な事態と関わり合いになるのを恐れたのか、茶々丸からの助けはない。
相変わらずマイペースに、ヨコシマンは話を続ける。

「もし私が勝てば、今後一切、この少年を含め、学園内の人間から直接血を吸わない事を約束してもらおうッ!!
 その代わり……もし君が勝てば、願い事を一つ叶えてやるッ!! もっとも、私に可能な範囲に限るがなッ!!」

「ぬ、ぬう……?」

唐突な申し出だが、エヴァンジェリンは考える。負ければ代償は大きいが、勝った分の見返りはどうだろうか。
この男、風貌と、ヨコシマンとかいうふざけた名前からして、その正体は横島忠夫なのだろうが……彼に叶えられる範囲の願い事。
『登校地獄』の呪いを解く、というのは無理だろうか。横島から学園長にかけ合ってもらって……。いや、やはり無理か。無理だろう。
となると、他には、横島を一生自分の奴隷にするとか……。ふむ、これはなかなかいい案かもしれない。
大体からして、負ける事などまずありえないのだ。ならば、圧倒的にこちらに有利な取引ではないか。
エヴァンジェリンは余裕を装って笑みを作ろうとしたが、まだ混乱が抜けきっておらず、結局、頬が奇妙に引きつるまでに留まった。

「分かった。いいだろう、勝負してやる。
 だが、私が勝てば、貴様は一生、この私の奴隷だぞ?」

「望むところだッ!!」

「望んでるのかそんな事ーっ!?」

瞬時にツッコミを入れるが、ヨコシマンはHAHAHAと笑うのみ。
人の話を聞け!と彼女らしくなく、極めて常識的な理由で苛立つ。
とにかく、勝負する事は決まった。一対一という事で、茶々丸は見学だ。

「この私に勝負を挑むとは、中々にいい度胸だ。褒めてやろう。
 貴様がどこまでやれるのか、愉しみにしているぞ。まあ、精々……そこで震えて縮こまっているぼーやのようにならないよう、気をつける事だ」

フフン、と余裕の笑みをくれてやるが、ヨコシマンは、バンダナのマスクの下で不敵に笑った。

「その心配は無用だ。
 そっちこそ、こんな時分にそんな露出度の高い服なんて着て、また風邪を引かないよう、注意する事だなッ!!」

「貴様が言うのか、貴様がっ!!」

風にはためき、ヘソやら、パンツの横から大事なモノやらが見えそうになっているヨコシマンに、力の限りつっこむ。
うん?と、何を言われたのか分からない、といった様子のヨコシマン。エヴァンジェリンは、これ以上踏み込むのはやめた。頭が痛い。
ネギと茶々丸が手持ち無沙汰になっているので、そろそろ決闘を始める事にする。
期せずして決闘の立会人になってしまった2人を巻き込むのを恐れ、少し離れると、どちらからともなく構えを取る。

「それでは……始めようか、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルッ!!」

「いちいちフルネームで呼ぶな、鬱陶しい……」

多少緊張感を欠いたまま、二人の決闘が、今、始まる!!

ファントム・ブラッド(10) 月下の決斗 投稿者:毒虫 投稿日:07/01-23:28 No.845


決闘が始められると同時に、エヴァンジェリンは飛翔した!
奴、ヨコシマンは魔法使いではない。空に上がってしまえば、手出しできまい。
エヴァンジェリンとしては、開始早々焦るヨコシマンの姿を嘲りたかったのだが、意外にも彼は落ち着き払ってエヴァンジェリンを観察している。
また投石でも始めるつもりかとも一瞬思ったが、今回の舞台には、石やその他、投げられそうなものは見当たらない。
そして、あの服の下に何か武器を隠す事も不可能だろう。対空用の術の1つや2つはあろうが、それぐらいは防いでみせる。
何もアクションを起こさず、ただ腕組みし、直立不動のヨコシマン。不気味に思いつつも、エヴァンジェリンは始動キーを口にしてから、詠唱を始める。

「来れ氷精(ウェニアント スピリトゥス グラキアーレス) 大気に満ちよ(エクステンダントゥル アーエーリ)
 白夜の国の(トゥンドラーム エト) 凍土と氷河を(グラキエーム ロキー ノクティス アルバエ)」

対地用の呪文を唱え終える。後は発動するのみだ。
ここに至って、ようやくヨコシマンは動きを見せた。しかし、それにしたって、ただ組んでいた腕を解いただけ。

(奴め、一体何を考えている? このままだと、すぐにでも終わるぞ!)

ヨコシマンの考えは読めない。曲者なのか単なる馬鹿なのか判然としない彼の事だ。もしかすると、このままあっさり決まってしまうのか。
そうはなるまい、失望させてくれるなと思いつつ、エヴァンジェリンは膨大な魔力をまとった右の手を振り下ろした!

「こおる大地(クリュスタリザティオー テルストリス)!!」

エヴァンジェリンの魔力が炸裂する寸前、ヨコシマンは握り拳を天にかざした!

「ヨコシマンシィィィィィルドッ!!」

白く輝く半球がヨコシマンの前に現れる!
が、エヴァンジェリンの『こおる大地』が炸裂し、その半球ごとヨコシマンを氷で覆いつくしてしまう!
まさかあれを避けないつもりだったとはな、とエヴァンジェリンは溜息をついた。
魔法の氷に呑みこまれるその寸前、何やら無詠唱で障壁らしきものを作り出していたが……
あんなものでは私の攻撃は防げまい、と思っていたその矢先、氷塊の真中からエヴァンジェリンの氷が弾ける!

「な、何だと!?」

その中から現れたのは、傷一つないヨコシマン。
あんな、呪文さえ伴わない障壁如きに、私の魔法が破られたのか…!と驚愕する。
勿論ヨコシマンは、拳の中に仕込んだ『盾』の文珠を使い攻撃を凌いでいたのだが、エヴァンジェリンがそれ知る由はない。
とにかく悔しがっている暇はない。また次の呪文を……と思ったが、ヨコシマンに動きが。

「ヨコシマン・エアステップ!!」

ヨコシマンは、一歩一歩宙を踏みしめ、空を駆ける! 度肝を抜かれるエヴァンジェリン。
よくよく見れば、宙を踏みしめているかのようなヨコシマンのその足下に、輝く盾のようなものが一瞬現れては消えているのが分かる。
ヨコシマンシールドとやらの小さいのを作り出し、それを足場にしているのだろう。
非常識すぎる行動に目眩すら覚えるが、エヴァンジェリンは辛うじて惑わされずに反応する事ができた。
魔力を片手に込めると、すぐそこまで迫っているヨコシマンめがけ、解き放つ!

「氷爆(ニウィス・カースス)!!」

爆発! 氷のつぶてと爆風がヨコシマンを襲う!

「!! ヨコシマン・緊急回避ぃッ!!」

無詠唱に近い魔法の発動に、シールドを張る暇も与えられず、仕方なくヨコシマンは上へ跳んだ。
爆風は彼の体を押し上げるに留まったが、つぶてまではどうしようもなく、腕をクロスさせ、何とか耐え凌ぐ。
エヴァンジェリンがこの絶好の機会を見逃す筈もなく…

「リク・ラク ラ・ラック ライラック…」

すかさず始動キーを唱えると、呪文の詠唱に入る。

「来たれ氷精(ウェニアント スピーリトゥス) 闇の精(グラキアーレス オブスクーランテース)
 闇を従え(クム オブスクラティオーニ) 吹雪け(フレット テンペスタース) 常夜の氷雪(ニウァーリス)」

ようやくヨコシマンが立ち直るが、もう遅い!

「闇の吹雪(ニウィス テンペスタース オブスクランス)!!」

「くッ……! ヨコシマンソーサーッ!!」

必滅の威力を伴い、闇色の吹雪が、ヨコシマンを襲う!
間一髪、掌程度の大きさの盾を生み出すヨコシマンだったが、とてもその大きさでは防ぎきれない。
と、誰もがヨコシマンの負けを確信したその時、突然、爆発が起こった! ヨコシマンが吹っ飛ぶ!

「なにっ!?」

『闇の吹雪』に、そんな効果はない。
驚くのを差し置き、冷静になって考えれば、あの爆発によって『闇の吹雪』は一瞬の間、相殺される形になってしまった事に気付く。
爆発によって生じた瞬きにも満たぬ間に、吹っ飛ばされつつヨコシマンは『闇の吹雪』の暴風圏から抜けてしまっている。
となると、先の爆発は、ヨコシマンが引き起こした事……あの小さな盾か!
エヴァンジェリンは彼を仕留められなかった事に歯噛みしつつも、感心した。
あのままでは押し負けると判断し、自らがダメージを負うのも厭わず、あんな手段で脱出するとは……。中々、普通は考え付かない事だ。
やはりこの男、只の馬鹿ではない。そして、単なる力押しの術者とも違うようだ。そうではなくては面白くない。
地面に叩きつけられる前に身をひねり、見事に着地したヨコシマンを見下ろし、エヴァンジェリンは愉しげに笑みを浮かべた。



何とか無事に着地し、ヨコシマンは頭上を仰いだ。
月の下、悠然と微笑むエヴァンジェリン。真祖の吸血鬼。
素で対峙すれば小便ちびりそうなほど強大な魔力に、隙のない身のこなし。そして素早い呪文詠唱。
魔力を取り戻したエヴァンジェリンは、距離を置かれてしまったら、従者なしでも充分脅威となりえる存在だった。
悠然と空に浮かぶ真祖の吸血鬼を見上げ、ヨコシマンは密かに頬に冷や汗を伝わす。

(強えぇー……!)

正直、彼女がここまで戦れるとは思っていなかった。
油断していたわけではないのに、未だ一撃を入れる事もできないとは……。これで本気を出していないのだから、たまらない。
とにかく、手加減して戦える相手ではない事はわかった。手段構わず殺しにかかれば不可能ではないと思うが、契約に反するし、第一その気もない。
やはり切り札を使うしかないのか、とも思うが、それはもう少しだけ先にとって置く事にする。文珠はなるたけ使いたくなかった。
幸い、彼女に追い討ちをかけてくる気配はない。向こうもこちらの様子を見ているようだ。
ならば、とヨコシマンは右手に霊力を集中させる!

「ヨコシマンソォォォォォドッ!!」

ヴン!と音を立て、ヨコシマンの右手が、手甲の付いた剣へと変わる!
驚きに目を見開くエヴァンジェリン。それに構わず、ヨコシマンはヨコシマンソードで空を薙ぎ払った!

「ヨコシマン・ウェーブは割愛して……ヨコシマン・斬!!」

霊波の刃が、エヴァンジェリンめがけ、空を走る! 
しかしその軌道は単純だ。エヴァンジェリンは焦らず迷わず、障壁を展開させた。

「氷盾(レフレクシオー)!」

間もなく、ギン!と金属質な音を立て、刃が障壁に接触する。
通常ならば、そのまま刃は砕ける所だが……なんと、刃は障壁もろとも爆散した!

「馬鹿なっ!?」

今まで、攻撃こそ手を抜いていたが、万一の事がないよう、『氷盾』だけはしっかり展開させていた筈だ。
本気を出せば、『氷盾』の硬度を更に上げる事は可能だが……それは向こうとて同じ事だろう。攻撃に殺気がないのは、感触で分かる。
エヴァンジェリンは、信じられないものを見るように、眼下でまだヨコシマンソードとやらを構えているヨコシマンを見やった。

(私の『氷盾』をいとも簡単に……! 何だと言うんだ、あの出鱈目な攻撃は!?
 そもそも、あの剣……あれは何だ? 見たところ気の刃に見えるが、気を具現化させるなどと言う話、聞いた事もないぞ。
 となると、直前の掛け声は呪文で、実はアレは魔法なのか? ……いや、そんな筈はない。アレに魔力は感じられない。
 やはり奴は、気を具現化させる事のできる能力者、という事になるのか?)

もし本当にそうであるなら、実に興味深い存在だ。それでこそ、奴隷にするだけの価値もあろうというもの。
しかし、今のところ、先程の攻撃に対処しようとするなら、『氷盾』で少しの時を稼ぐか、別の魔法で相殺するかしかない。
飛んでかわせるほど遅い攻撃ではないし、やはり『氷盾』で動きを止め、その間に体勢を整えるのがベストか。
だが、もしアレが連射可能な技だった場合、非常に厄介な事になる。どうすればいいものか……。

『ヨコシマン・斬』に手をこまねくエヴァンジェリン。しかし、逆にヨコシマンは焦っていた。

(う、嘘だろ…!? 俺の、かなり本気入った出力の霊波刀での斬撃を、いとも簡単に防いでみせやがった…!
 いやまあ、さっきのはキャラになりきりすぎてて、ちょいと気合入れすぎてたんで、防いでくれたのはむしろ安心なんだが……。
 つーか俺、やばくね? 2行上のセリフ、何気に死亡フラグ立てちまったっぽいぞ…?
 ……こりゃいかんわ。今のままだと、エヴァちゃんに本気出されたら死んじまう! 『この技は使いたくなかったんだが…』とか言われたらお終いだ!
 俺も出し惜しみしてる場合じゃねえな。一応の切り札出して、いかにも勝ちましたって雰囲気作らんと)

そろそろ頃合だと計り、ヨコシマンはストックしてある文珠(ヨコシマン風に言うとヨコシマン・ミラクルボール)を2つほど取り出す。
それらに『転』『移』と入力すると、それを左手に持ったまま、ただ時を待つ。

エヴァンジェリンが攻撃を仕掛けてきたら、文珠を発動させ、彼女の背後に、文字通り転移する。
向こうからすれば、何の準備も予備動作もなしに瞬間移動したように見えるだろう。それで少しでも隙が出来ればいいし、出来ずとも、近接戦闘に持ち込める。
当初の予定では、もう少し相手をしておくつもりだったのだが、そうも言ってられない状況になっていた。エヴァンジェリンは、思っていた以上に強い。
こちらから先に仕掛けてもいいのだが……とも思うが、とりあえず、ヨコシマンは機会を窺う。下手に先走っては、迎え撃たれるような気がしたのだ。




「す、凄い……!」

「まあ、うん……凄いっちゃあ凄いわよね。何かが致命的に間違ってる気がするけど」

2人の戦いに魅入るネギの隣に立つのは、つい先程、カモに呼ばれて駆けつけて来た明日菜。
明日もバイトがあるってのにネギを心配して来てみれば、もう既に自分達は蚊帳の外だった、というわけだ。
その手にはまるで雑巾を絞るようにしてカモが握られているが、誰もそこにはあえて触れようとしない。

『お、俺っちは、こ、こんなところで……が、げへぁ……っ!!』

今まさに一つの生命の灯火が消えようとしている中、今まで心なしかハラハラした様子で決闘を見守っていた茶々丸が、ハッと何かに気付いた。
声が届かないのを承知で、それでも声を張り上げる!

「いけない、マスター! 戻って!! 予定より7分27秒も停電の復旧が早い!!」




ライトの光を全身に浴び、エヴァンジェリンは空中で身を硬くした。こんな筈では!
麻帆良の街にも次々と明かりが点る。思わず、ちぃっと舌打ちが飛び出す。

「ええいっ、いい加減な仕事をしおって!」

このままでは、魔力が維持できない。
しかし、そんな事、未だエヴァンジェリンと麻帆良を流れる電力の因果関係を把握していないヨコシマンにとっては、知ったこっちゃない。
隙あり!と目を輝かせると、文珠を発動させ、瞬時にエヴァンジェリンの背後に現れる!

「っ!!」

「勝負あった!」

一応、形だけはヨコシマンソードを構えるが……それを首に突きつける前に、エヴァンジェリンは仰け反った!

「きゃんっ!?」

バシンッ!! エヴァンジェリンに、雷の如き呪力の戒めが戻る。
魔力のほとんどを奪われ、なす術もなく落下する。

「お、俺、何もしてないぞ!?」

己のキャラも忘れ、あたふたと焦るヨコシマン。
しかし、突如として力を失ったらしいエヴァンジェリンを捨て置くわけにはいかず、即座に新しく文珠を取り出すと、『飛』と発動させる!
距離も開いていなく、すぐさま落下するエヴァンジェリンに追いつくと、小さなその身体を受け止めた。

「ぃよっと! ……軽いな」

「……あ、当たり前だ、バカ」

男に抱かれるなど、随分と久し振り、いや、ひょっとして初めてだったか?
その相手がこの馬鹿な変態なのが気に喰わないが……しかし、この暖かみ、身体全体に感じるヨコシマンの鼓動……決して悪くはない。
まだ上手く体を動かせないが、そっと手を伸ばして、ヨコシマンの顔に巻かれたバンダナを剥ぎ取る。その下には、やはり見た顔があった。

「あ、ちょっ! な、なにすんだ! おいっ!?」

「………フン」

初めて完全に露わになった素顔。思っていたより不細工ではなかったが、とりあえず鼻で笑っておく。
ヨコシマン……横島忠夫はちょっと傷付いたような表情を浮かべたが、またそれが加虐心をそそる。

「明日からは……あの似合わない眼鏡も外せ。素顔の方が、まだ見られるぞ…」

「ケッ! 余計なお世話だよ」

言葉ではそう言いつつも、優しい苦笑。
エヴァンジェリンは、ついっと顔をそむけた。その頬は赤く上気していた。

「……なぜ助けた?」

「ん? んー……」

少しの間考えると、横島は悪戯っぽく笑った。

「可愛い女の子を助けるのは、ヒーローの務めですから」

「んなっ……!? バ、バカか貴様は! そ、そんな格好で言われたって、全然説得力ないんだよっ!!」

ぼかぼかと殴られるが、もう魔力も切れている。痛くはない。
いてて!と一通り痛がってみせると、横島はポツリと呟いた。

「ま、知らない仲じゃないしな。それに……エヴァちゃんが実は悪い子じゃないってのは、知ってるから」

「………バ、バカが」

優しげに微笑む横島。頬を染めつつも、その真直ぐな瞳から目を離せないエヴァンジェリン。
そんな2人を、ただ月の光だけが照らしていた。

ファントム・ブラッド(11) 大志を抱く 投稿者:毒虫 投稿日:07/05-22:57 No.882


エヴァンジェリンを地に降ろす。
心配そうに駆け寄ってくる茶々丸に微笑みかけると、バンダナで顔を隠し直し、ヨコシマンは未だぼうっと突っ立っているネギの方を向いた。
和気藹々としている主従コンビとは対照的に、ネギと明日菜の間には、複雑な雰囲気が立ち込めている。
ヨコシマンの意識が自分達の方へ向いたと知ると、2人揃ってぎくりと身を固くする。
警戒と軽蔑と不審と、それらを遙かに上回る戸惑いを露わにしている明日菜とは違い、ネギは何か言いたげな視線をヨコシマンに向けている。
ネギは、自分の代わりにエヴァンジェリンと戦ってくれた彼に、礼を言えばいいのか、謝ればいいのか、分からなかった。
それに、自分にできない事を軽々とやってのけた彼に対して、若干の悔しさや羨望の念なども感じ、余計に複雑な気分。
姿形こそ奇天烈かつ変態的だが、彼の力は本物なのだ。その口上を信じると、決して正義のヒーローというわけではなさそうだが…。
声をかけるべきかどうか迷っているネギに、ヨコシマンの方から喋りかけた。

「勝てなかったか、少年」

「…ッ! ……は、はい」

しょんぼりとうなだれるネギ。
明日菜が激昂しかけて口を開こうとするのを、ヨコシマンは片手で制した。

「悪いが取り込み中だ。文句があるなら後で聞こうッ」

「ハァ? アンタ……ああ、うん、やっぱりいいや。もう好きにしなさいよ」

反論しかけるが、諦める。下手に逆らえば、何をされるか分かったもんじゃない。
もう私知らないからね、と言いたげに背を向けると、目を閉じて黙り込む。ヨコシマンは目の毒だった。悪い意味で。
ヨコシマンは満足そうに頷き、まだ肩を落としているネギへと向き直った。

「悔しいか?」

「……はい」

薄く涙を浮かべるネギ。
しかし、ヨコシマンは遠慮しない。年少なれど、ネギは男だ。男に情けをかけてどうなるのか。

「勝ちたかったか? 自分自身の手で、彼女を改心させたかったか?」

「…はい」

「この私に命を救われ、安心したか?」

「あ、はい。あの、ありがとうございました!」

「うむ。しかし、助けられているだけの自分を顧みて、情けないとは思わんか?」

「………………はい。情けない……です」」

「だろうな。そんな、情けない自分は好きか?」

「いいえ……キライです」

「なら、このままでいいとは思っていないな?」

「はい、それは、そう思います」

「強くなりたいか?」

「はい……僕、強くなりたいです。もっと、もっと」

「何の為に?」

「え……?」

「強くなって、それからどうする? 得た力を、何に使う?」

「そ、それは……」

「何の目的も信念もなければ、到底、真の強さなど得られはせんッ!!
 まして、過ぎたる力は人を悪しき方向へと導く! 確固たる信念がなければ、力など欲するなッ!!」

「確固たる、信念……?」

「そう、信念だッ!
 ちなみに私は、全世界の美女・美少女をモノにするという、鉄の如く固き信念の下……」

拳を振って熱弁するヨコシマンを放置し、ネギは黙考する。
信念。とりあえず今回の戦いでは、自分の受け持つ生徒達、ひいては学園全体を、エヴァンジェリンの魔手から救おうというのがそれだった。
しかし、これから先といえば、返答に困る。マギステル・マギになる…というのもあるが、では実際にそれが成就した暁には、一体何をすればいいのか?
立派なマギステル・マギになり、見事、父を探し出したとしよう。目標が、夢が叶った事になる。だったら、もう魔法は必要ないのか?
……それは違う、と思う。立派な魔法使いになり、父を探し出す。確かにそれは自分の原点だろう。しかし、それだけではない気がする。
燃え盛る町、逃げ惑う人々、石になったスタン爺さん、倒れる姉……。あの地獄が、目に焼きついて離れない。

(そうだ……。あの時、僕は何もできなかった。みんなに守られてばかりで、僕はただ、泣いて逃げる事しかできなかった……。
 もうあんな思いをするのは嫌なんだ。みんなが傷付くのも、それを見ているだけしかできない僕も……。
 嫌なんだ。僕が弱いせいで、誰かが傷付くのは! もっと強くなって、誰よりも強くなって、みんなを…!)

ネギは、キッ!と顔を上げた。
ヨコシマンが演説を続けているが、気にせず割って入る。

「……よーするにな、ゴムの伸びきった下着を常に身に着けておく事が大事なんだよ。
 そうやっていつもリラックスした状態を保つ事が、健康でゆとりのある暮らしを……」

「ヨコシマンさんっ!! 僕、決めましたっ!」

「無視かよ……。まあいいけどさぁ……」

一気にテンションを落とすヨコシマンに構わず、ネギは熱弁を振るう。

「僕、もっと強くなって、大切な人達を守りたいです!!
 誰も傷付くことがなくて、みんなが笑い合えるような……そんな風にっ!!」

「これはまた、大きな旗を掲げたものだな。
 しかし……その道は険しいぞ。並大抵の事では乗り越えられん」

「アスナさんが教えてくれました! やってみなくちゃ分からない、って!!」

「ネギ、アンタ……」

今まで会話に参加していなかった明日菜が、思わず振り返る。
感動に瞳を潤ませてもいいシーンだったが、明日菜はヨコシマンの風にはためく柄パンを目にして思い切り顔をしかめた。
ネギはそんな明日菜を見て軽く頷くと、またヨコシマンに向き直る。

「だから、まずは精一杯やってみます!」

拳をギュッと握り締め、ネギは真直ぐヨコシマンの眼を見据える。
いい眼をするようになったな、とヨコシマンは思った。幼さゆえの甘さも垣間見えるが、これはもう男の眼差しと言っていい。
自分は今、熱い男と対峙している……否、自分がそうさせたのだ、少年を男に変えたのだ。そう実感すると、やにわにテンションが上がった。
今ここに、ヨコシマンの漢メーターがゲージを振り切った。熱血なんちゃってヒーローの真の覚醒である!

「うむッ。その心意気やよしッ! 男は野望を抱くべし! それは大きければ大きいほど、遠ければ遠いほどよいッ!
 生涯かけて夢を追うと決めたなら、決してその道を諦めぬ事だ。たとえ届かぬとしても、夢は追う事にこそ意義がある!
 野望を実現しようと己を研鑽し、そうして得た力は、決してお前自身を裏切らないッ!
 そして何より、男が男たろうと足掻く様は美しい! ゆえに、いつかはお前の背に憧れる者が現れる事だろう。
 そう、野望は、夢は受け継がれるのだッ! 男から男へ! その、たぎる血潮と! 熱き生き様と共にッ!
 少年よッ! お前の意志は! 夢は! 野望はッ! 熱い男達の手によって! 永遠に生き続けるのだッ!!」

「は、はいっ!!」

いい返事だ!と、ネギの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
迷いが吹っ切れたかのように、無邪気に笑うネギ。男臭い笑みを浮かべるヨコシマン。
男同士のコミュニケーションを終えると、くるりとヨコシマンは身を翻した。

「精進する事だ、少年! 次に会える時を楽しみしているぞッ!」

「は、はいっ!!」

「では、さらばだッ!!」

しゅた!と片手を挙げ、猛スピードで走る去る。
帰り際に、ネギ達とは少し離れた所に突っ立っていたエヴァンジェリンと茶々丸をそれぞれ片手で抱きかかえた。
半裸の男が脇に幼女と少女を抱いて疾走……。何ともはや、PTAのお母様方が見れば失神モノの光景だ。
横島はまあ天然として、エヴァンジェリンと茶々丸も雰囲気に流され、何となくヨコシマンの格好を受け入れてしまっていた。
それでも驚き、声を上げる。

「うなっ!? な、なにをする!?」

「……………」

狼狽して騒ぎ出すエヴァンジェリンだったが、しばらくは放っておいて、そのままひた走る。
腕の中で暴れるエヴァンジェリンとは対照的に、茶々丸はされるがままなので、ヨコシマンとしても非常に助かった。
もう大分走ったところで、ようやく二人を解放する。地に足を下ろすやいなや、エヴァンジェリンはヨコシマンに食ってかかった。

「な、何なんだ貴様は突然っ!! 一体、何のつもりだ!?」

顔を隠すバンダナを取り、ヨコシマンから横島忠夫に戻る。
一息つくと横島は、頬を真っ赤にして食い下がるエヴァンジェリンにへらりと笑いかけた。

「いや、あそこでボウズ達と取り残されるのも、なんか気まずいかなーと思ってさ」

「余計なお世話だっ!!
 大体っ……いや、いい。それより、貴様には、訊きたい事が山ほどある」

「申し訳ありませんが、プライベートな問題に関わる質問は、マネージャーを通してから…」

「くびり殺すぞっ!!」

「あ、マジすんません! もうしません! 許してっ!」

ペコペコと頭を下げる。
まだ溜飲下がらぬといった様子だったが、エヴァンジェリンはフンッと鼻から息を抜いた。
気を取り直し、話を始めようとするも、また横島から制止がかかる。

「こんなところでってのもなんだし、とりあえず移動しないか? 話は歩きながらでもできるだろ」

確かに、ここは鬱蒼と生い茂る森の中だ。
こんな所で好き好んで話をする事もあるまい。
エヴァンジェリンは、仕方ないな、と言いたげに鷹揚に頷いた。

「んじゃ、行こうか……って、エヴァちゃん、裸足じゃないか!」

「ん? ああ……そういえば、そうだったな」

すっかり忘れていた、とエヴァンジェリン。そもそも横島の格好がアレ極まりないので、自分の服装の事などもうどうでもよかったのだ。
それに、戦いに集中していたのもあるし、魔力全開時はどれだけ怪我をしてもすぐに回復するので、足を守るための靴など頭になかった。
このまま森の中を歩けば、足が汚れるどころか、小石や小枝が刺さったり、虫や何かに刺されたり咬まれたりして、大変な事になるだろう。
少々見栄えが悪いが、茶々丸の背にでも乗るか……と思っていたところを、ひょいと横島に抱きかかえられる。俗に言う、お姫様抱っこだ。

「ぬぁあっ!? な、き、きさ、きさぁ……っ!?」

「ったく、危ないなー。怪我したとこからバイキンでも入ったらどうすんだ?
 エヴァちゃんも女の子なんだから、そこらへんの事にはちゃんと気をつけなって」

怒りと照れと驚きが複雑に混じり合い、全身を真っ赤にして、エヴァンジェリンは人語を話す事さえままならない。
ついさっきと、空中で抱き上げられた時の事もあるが、やはり慣れるものではない。横島が半裸であるせいもあいまり。
更にその上、不老不死の身の上であるのを知っているのに心配されるわ、自然に女の子扱いしてくれるわで、テンパり具合もMAX。
もはや、頭から煙を上げ、横島の意外に逞しい腕の中で、茹で上がってカチコチに固まるしかないエヴァンジェリンであった。
己の腕の中で乙女ってる元600万ドルの賞金首の事など意にも介さず、横島は茶々丸の方を向いた。

「もう暗いし、家まで送って行こうと思うんだけど……茶々丸ちゃん、道わかる?」

「はい、ご案内します」

「ん、ありがと。助かるよ」

にこり、と微笑みかける。
いえ……と、茶々丸は横を向いた。何故か、あの笑みを直視する事が出来ない。
もし、あの人を安心させるような笑みを自分だけに向けている横島を目にしたら、すぐにでもオーバーヒートしてしまいそうで。
極力横島を視界に入れないようにして、しかしそれ以外のセンサー全てで横島を感じて、茶々丸は歩き出す。
その後を、どう贔屓目に見ても変質者にしか見えない横島と、未だに呼吸さえ忘れて固まっているエヴァンジェリンがついて行く。

…しばらく歩いていると、横島は視線を感じた。
見ると、いつの間にか復活していたらしいエヴァンジェリンが、まだ頬も赤いまま、じっと横島の顔を見詰めている。

「えっと……な、何か?」

「………いや、見れば見るほど不細工な顔だ、と思ってな」

「ひ、人が密かに気にしてることを…っ!
 ドチクショー! どーせ俺なんて、両親の劣性遺伝子を選りすぐって受け継いだ落ちこぼれエリートですよー!
 なぜ神は人を平等に創らなかったのか!? 所詮、不細工は二枚目には勝てないんか!? 人はなぜ戦争と言うあやまちを繰り返すのかー!?」

「あ、いや、わ、悪かった……。ま、まさか、そこまで気にしていたとは…」

うおおーい!と無駄に豪快に泣き叫ぶ横島を、不器用ながら慰める。
横島が、自らの容姿に対してこうまでコンプレックスを抱えているとは知らなかった。
大体、自分で不細工だと言っているが、実際そんな事はない。パーツ自体は何の変哲もない、ごくありふれたレベルの容姿だ。
ただし、度々SFX技術を用いたかのごとく表情を崩すため、もう顔の造詣がどうこうという問題ではないのは確かだ。
見る人間によっては、何かの間違いで男前に見える角度もあるのかもしれない。まあ、少なくとも顔が問題で女性に厭われる事は少ないだろう。
そうフォローしようとする前に……茶々丸が足を止め、くるりと後ろを振り返った。

「相対的に見て、あなたの顔形は、醜い、不細工と言われるようなものではありません。
 私の判断基準では、むしろ整っていると言えます。ご自分を卑下するのはおやめください」

「え、あ……そ、そう? マジで? ホントに?」

「はい」

こっくりと、確かに頷く。
その瞬間、横島は、パァッ……と、明かりが点いたような笑みを浮かべた。

「い、いやあ……こんな事言われたの初めてで、なんて言っていいのか分からないけど……
 えっと、とにかく、ありがとう。なんちゅーか、物凄く嬉しいよ、うん」

「い、いえ……」

また顔を逸らし、前へと向き直る。表情こそ動かないが、その様は照れているようにしか見えない。
いやー参ったなーとか実に嬉しげに漏らす横島の腕の中で、エヴァンジェリンは加速度的に不機嫌になっていく。

(こ、これでは、私が悪いみたいじゃないか……。というか、私が悪者になって、茶々丸が株を上げた気がするぞ。
 …いや、実際、私は悪い魔法使いなんだが……そういう問題じゃないという気がするというか……ええい、とにかく気に喰わんっ!!
 無性にムカムカするっ! 何かこう、無闇に小動物をイジメたくなるような気分だ! ……実際にはやらんがな。可哀想だし)

胸の内に吹き荒れるどす黒い感情の嵐。人それを嫉妬と言う。
このやるせない思い、一体どうしてくれようか……と悶々としていた中、ふと、まだてれてれと頬を緩ませている横島が目に入る。
エヴァンジェリンは思った。全部このバカのせいだ。こいつが、ついからかいたくなるような顔をしているからだ。
それに、最強の闇の魔法使いたるこのエヴァンジェリンではなく、その従者である機械人形にデレデレしているのも悪い。極悪だ。
思い立ったが吉日と言わんばかりに、エヴァンジェリンはぐっと拳を固めると、それをイイ角度で横島のアゴに見舞った!

「ほぐあっ!?」

「フン、思い知ったか!」

「な、何が!? 何を!? え、ちょ、コレどーゆーこと!?」

混乱しきりの横島。油断していた時に喰らった分、余計に痛い。
ひとまず、苛々は解消できたエヴァンジェリンだったが……

「俺、殴られるような事したか!? いくらなんでも理不尽だって! なあ、茶々丸ちゃんからも何か言ってやってく…」

この一言がいけなかった。エヴァンジェリンの苛々が急速に燃え上がる。
ゆえに、もう一発。

「何故そこで茶々丸が出て来るっ!!」

「ぶえべっ!? ほ、本気で痛いって! た、助けて茶々丸ちゃん!」

「〜〜〜〜〜っ!!」

もう一発。

「げぷろっ!? …ちょ、マジ洒落になんねぇ! わ、悪いけど茶々丸ちゃん、交代…」

もう一発。

「ぎあっちょっ!? ……こ、こりゃダメだ! 茶々丸ちゃ…」

以下、無限ループ。
一行がエヴァンジェリンのアジトまで辿り着いた頃には、横島の顔面はすっかり原形を失っていたんだとさ。

ファントム・ブラッド(12) 彼と彼女の事情 投稿者:毒虫 投稿日:07/08-23:17 No.908



アジトへ到着し、今までずっと抱きっぱなしだったエヴァンジェリンを解放する。
その際、彼女はどことなく不満げな表情をほんの一瞬だけ浮かべたが、勿論それに気付く横島ではなかった。
まあ茶でも飲んで行けと言われ、横島は素直に頷いておいた。色々と話さなければならない事もあろうと思ったのである。
…時間帯的に見てもそれは、半裸の変質者が幼女宅へ押し入った、という犯罪臭がプンプンする光景だったのだが、当人達は気付かない。
とにかく中へ入ると、2人はソファに腰を下ろした。茶々丸がいそいそと給仕の準備を始める。
しばらくもしない内に、テーブルに紅茶が置かれた。いい香りだ。横島は紅茶には詳しくないが、それでもかなり高級な葉を使っている事が分かる。
同じく出されたクッキーをぽりぽりかじりながら、横島は何度も満足気に頷いた。

「こらうまい! 茶々丸ちゃん、紅茶淹れるの上手いなぁ。流石、メイド服が似合ってるだけの事はあるよな」

「恐れ入ります」

心なしか嬉しげな茶々丸。
それが何故か、エヴァンジェリンの気に障った。

「む……。こ、この茶葉を選んだのは私だぞ?」

「あ、そうなの? エヴァちゃんもいいセンスしてるなぁ」

「そ、そうか? うん、そうか……。ま、まあ、当然の事なんだがなっ!」

えっへん!と薄い胸を張る。
しかし横島は、そんなもん見ちゃいなかった。

「このクッキーも美味いよな。どこで買って来たヤツなんだ?」

「あ、それは私が……」

「え、これ、茶々丸ちゃんが作ったの!? マジで!?」

「はい」

「茶々丸ちゃん、料理も上手いんだ……。いや、ホント美味いよコレ。店に出してもおかしくないぐらい」

「…ありがとうございます」

「いやー、やっぱ料理ができる女の子ってイイよなー!」

「…………」

困ったような顔をして俯く茶々丸。
あ、気を悪くしたかな?と横島は思ったが、付き合いの長いエヴァンジェリンには分かる。アレは、照れているのだ。
…ピキ、とエヴァンジェリンの持つティーカップの取っ手にヒビが入った。

「い、今はそんな話をしている場合ではないだろう! さあ、さっさと本題に入るぞ!」

「え? ああ、うん……」

妙に浮き足立っているエヴァンジェリン。その態度に釈然としない横島だったが、逆らうとくびり殺されそうなのでとりあえず頷く。イエスマン万歳。
ゴホン!と咳払いを一つすると、表情をシリアスモードにして、エヴァンジェリンが口を開く。

「横島忠夫。貴様には訊きたい事がいくつもある。が……まずは一つ、訊こう」

「ん? 何? 彼女ならいないぞ?」

「そ、そうなのか? それなら、私にもチャンスが……って、アホかぁーーーっ!!」

キック一閃!エヴァンジェリンのつま先が、横島のスネを抉る!
ミギャアアア!と悲鳴を上げる横島の頭をぺちんと叩く。

「どうして貴様はっ!」

ぺちっ!

「そうやって話をっ!」

ぺちん!

「ギャグ方面に持っていこうとするんだっ!!」

ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち!
まるでボンゴのように、横島の頭をリズミカルに叩き続ける。
そろそろ横島の頭皮の血行が良くなって来たあたりで、茶々丸が止めに入った。

「あの、マスター。そろそろ…」

「はあ、はあ、はあ………む、そうだな、話が進まん。
 …さて、話を戻すぞ。今度ふざけたら貴様、爪と指の間に竹串を突き刺して、そこから溶けた蝋を流し込むからなっ」

「ヒイィッ!?」

ガタガタ震えながら姿勢を正す。
受けたお仕置きのバリエーションの豊富さには定評のある横島だが、流石にそこまで苛烈なのは初めてだ。
お仕置きを通り越し、もはや拷問にまで達したそれを受けてまでボケようとは思えない。ここに来てようやく、横島もシリアスモードに入った。

「…では、改めて訊こう。貴様の能力、アレは何だ?」

「何……って言われてもなー。とりあえず、見た通りだとしか言えないって」

「はぐらかすな。アレは確かに魔法ではなかったが、あのような気の使い方ができるなど、今まで聞いた事もない。
 気の半物質化……あるいは、それとも異なる全く未知の技術、あるいはエネルギー。違うか?」

(……ま、あんだけ派手にやりゃあ、バレるのも当然だわな)

ふう、と心中で溜息をつく。
実は最後まで、謎のヒーロー・ヨコシマンに徹して、後で何を訊かれても知らん振りを決め込むつもりだったのだが……
それもできなくなった今、どうやって切り抜けたらいいものかと頭を悩ませる。
正直に異世界から来たと言ってしまえば話は早いのだが、そう簡単に秘密を明かす事はできないし、そもそも信じてもらえるかどうか。

(いや、待てよ…?)

ふと発想を切り替え、横島は思い直した。
今のところ、横島が異邦人だという事は鶴子にしか知られていない。
しかし、長い時を生き、魔法関連の知識も豊富であろうエヴァンジェリンならば、元の世界に還る何らかの手掛かりを知らないだろうか。
何とか信じてもらえれば、長年探し求めていた手掛かりを掴めるかもしれない。そう簡単には教えてくれないだろうが…。
大きな賭けになるが、己の勘を信じるならば、エヴァンジェリンは根っからの悪人ではないと思う。恐らく大丈夫だろう。
そう心を決めると、横島は真直ぐエヴァンジェリンの目を見据えた。珍しくそこには一切の冗談も含まれていない。真摯な眼差しだ。
初めて見せる横島の真剣な瞳に、とくんとエヴァンジェリンの鼓動が跳ねる。

「ああ、確かに俺の力は、魔法でもなければ気でもない。霊力……って言うんだ。
 性質は気に似てるんだが、違いはある。まず、霊力は気よりも密度も濃くて強力なんだけど、その代わり消耗も激しい。
 それに、ある程度形に縛られたりする気とは違って、霊力の発現の形は千差万別、十人十色だ。
 俺みたいに、盾にしたり剣にしたり、自由自在に形を操れるケースもあれば、気のように、身体や武器に宿らせなければ使えない奴もいる。
 変り種で言えば、精神感応能力や、発火念動力者なんかもその類だな。とにかく、超常現象を起こせる力は、基本的に霊力と呼ばれてたよ」

「ちょ……ちょっと待て。その言い様だと、その霊力とやらの遣い手は、貴様以外にも存在するように聞こえるのだが…
 長年生きて、世界中を放浪して来たが、そんな力の存在、今まで見た事も聞いた事もなかったぞ。これはいくら何でもおかしくないか?」

「そりゃあそうだろうさ。どれだけ長い時を過ごそうとも、世界の隅々まで探検しても、俺以外の能力者なんてまず見つからないと思う。
 なんせ、この力……霊力を使えるのは、この世界で俺一人なんだ。多分、今のところはな」

「ま、待て、待て、待て……。少し考えさせろ」

混乱を抱えながら、エヴァンジェリンは考えをまとめる。
1、霊力を使える人間は、横島以外にも相当数存在する。
2、しかしこの世界に霊力を使える存在は横島一人だけ。
3、2の条件は今後絶対ではない。
この3つから導き出される結論は一つ。馬鹿げているが、ファンタジックだが、それぐらいしか思いつかない。
魔法に関わる者として、その言葉を口に出すのは躊躇が伴うが……

「まさか、とは思うが……貴様、自分が異世界から来た、と言いたいのか?」

「ああ」

横島の目はあくまで真剣だ。冗談を言っている様子はない。
エヴァンジェリンは、片手で頭を押さえた。

「……病院に行って来い。今ならまだ間に合うぞ」

「エヴァちゃん。悪いけど、今度ばかりは冗談じゃないんだ」

横島は本気だ。本気でそう言っている。
本当に、横島は異世界からやって来たのか……それとも、彼の気が触れているのか。
常識的に考えるならば、後者の方だろう。だが、それでは、あの常識離れした力の説明はつかない。
どちらに考えるにしろ、確たる証拠が必要なのだ。今の段階では、何とも言えない。

「……何か証拠はあるのか? 貴様が異世界から来たという証拠が。
 それに、世界を渡る技術など我々では見当もつかん。一体、どうやって『こちら』に渡ってきたというんだ?」

「それなら、いっぺんに解決するよ。これを使えば……な」

横島が差し出したるは、淡く翡翠色の光を放つ、小さな玉。文珠。
どう見ても薄く光るガラス球にしか見えないそれに、エヴァンジェリンは眉をひそめた。こんなモノが、一体何の役に立つのか。
訝しむエヴァンジェリンを見、横島は少し得意気に語り出す。

「これは文珠って言って、霊力が凝縮されたモノだ。
 勿論、ただの霊力の塊じゃあ終わらない。これは、文字を込めて、その力に方向性を持たせる事ができるんだ」

「文字を込める? 力に方向性? ……結局、どういう事なんだ?」

「ま、それは実際、やってみた方が早いだろ。見てな」

言って、横島は文珠をエヴァンジェリンの眼前に持って行く。
そして、特別な何かが行われる様子もなく、文珠が一層、強い光を放った。
その光に瞬きをし、次に目を開いた時には、文珠の中に『炎』の文字が浮かび上がっていた。

「…何の手品だ、これは?」

「ま、見てなって」

また発光すると、今度は『氷』の文字が浮かび上がる。
今度は『雷』、次は『爆』、次は『滅』……と、目まぐるしく明滅し、次々と文字が浮かんでは消える。
エヴァンジェリンは、目を白黒させた。

「な、何だこれは?」

横島はそれに取り合わず、脇で控えている茶々丸に目を向けた。

「悪いんだけど、お水もらえるかな? いや、水道水でいいんだけどさ」

お持ちします、と応え、一旦キッチンに消えると、茶々丸は水の入ったグラスを持って来た。
ありがとうと礼を言いながら受け取り、眉根を寄せて横島の不可解な行動を眺めているエヴァンジェリンに向き直る。

「種も仕掛けもございません、つったら一気にうそ臭くなるんだけど……」

『止』と刻まれた文珠片手に、横島はおもむろに立ち上がり、グラスを掲げると……何を思ったか、突然それを引っくり返した!
当然ながら、なみなみと注がれていた水は重力に従い落下する、と思いきや。
なんと驚くべき事に、水はまるでつららのように中空でその姿を固定していた!エヴァンジェリンは目を瞠る。

「なッ…!? ま、魔法で凍らせた……の、か?」

しかし、それでは水塊が何の支えもなく宙に浮いている事の説明がつかない。
横島に視線で許可を求めてから、エヴァンジェリンは恐る恐る水塊に触れた。
ちゃぱ。確かに水の感触。氷の固さもゲルの柔らかさもない。それは確かにただの水だった。
これは一体、どういった現象か起こっているのというのか。加速するエヴァンジェリンの疑問に、横島はあっけからかんと答える。

「文珠で『止』めたんだよ。文字通りに、な」

「なに…?」

見ると文珠は、創られた時に見せたものとはまた違う光を放っている。使用中との証だろうか。
使用者のインスピレーションを、漢字という触媒を介して実現させる。
真剣に考えるのも嫌になるほど馬鹿げた能力だと思うが、実際に見てしまったからには信じざるをえまい。
しかし、百歩譲って文珠の存在を認めるとしても、エヴァンジェリンはとりあえず眼前で起きている現象に疑問があった。

「『水の落下が貴様の能力によって止められている』と仮定して……それは何によって起こっている現象なんだ?
 引力を打ち消し、水だけ無重力化に置いているのか? それとも……まさかとは思うが、時間を止めているわけではあるまいな?」

水塊の落下を止める。言葉にすれば簡単だが、地球上においては実際には絶対にありえない現象である。
これを実現させるためには、口にした2つの理由くらいしかエヴァンジェリンは思いつかなかった。
前者であるならまだ魔法でも可能かもしれないが、後者となると話は違う。
個を限定するとしても、絶えず流れ動いている時間を止めるなど、人間のなしうる業では決してない。
戦慄するエヴァンジェリンをよそに、横島はうーんと首をかしげた。

「さあ? とりあえず『止まれ』って念じただけだから、何が起こってるのかとかは俺にもサッパリ。
 そーゆー理屈とか過程とかを一切合財すっ飛ばして、思った事だけを実現させるのが文珠ってもんなんだよ」

「な、何なんだそれは!? ありえない! ありえないぞ!
 何か現象が起きるには、例えそれがどんなに突拍子のないものだったとしても、背景には必ず何らかの法則が働いているものだ。
 それは魔法とて例外ではない。どれだけ不可思議な事象に見えても、そこには一定の法則性がある。
 『思った事を実現させる能力』など、そんな出鱈目なもの現実に存在するわけが……いや、待てよ。もしや……」

エヴァンジェリンは、とんでもない事に気付いた。
この世界に起きる現象は、全てこの世界の法則に従って起きている。
これを前提に考えれば、横島の言うような能力など存在できるわけはない。
しかし……この前提そのものを崩せるとしたら?
文珠という異能。それが、『世界を書き換える能力』なのだとしたら?

「ま、まさか……な」

エヴァンジェリンはかぶりを振った。考えすぎだ。そんな滅茶苦茶な能力、一個人が持てるものではない。
いかに博識を誇る己とて、この世界の理全てを網羅しているわけではない。きっと横島の異能も、自分の知らない法則に縛られているのだろう。
そう考えないと、己を保てそうになかった。

顔面を蒼白にして何か考え込んでいるエヴァンジェリンに、横島はふうと溜息をついた。
これだけの事を見せても、まだ納得してもらえないかと思ったのである。
『止』の文珠を解除し、上手い事グラスで水塊をキャッチしてから、横島はまた話を振った。

「まだ納得いかないか? なら……そうだ、さっきの戦いの最後、俺ってば突然エヴァちゃんの背後に現れたろ?」

「ああ、それだ。それも訊きたい事の一つだった。
 空間転移……というより、もはやアレは瞬間移動と呼んだ方が正しかろう。
 しかし、魔方陣もなしに、呪文すら唱えず、あのタイミングで瞬間移動が可能だったとはどうしても思えない。
 ……まさかそれも、そのちっぽけなガラス玉のお陰だと言うのか?」

「大当たり。文珠は一つで使う事が多いんだけど、熟語的な意味を持たせて連結させる事もできる。
 あの時は、2つ使って『転』『移』したってわけだ。そうでもしなけりゃ、魔法使いじゃあるまいし、空間転移なんてできないって」

「本当……なのか」

「実際、それ以外に説明つかないだろ?
 どうしても納得できなけりゃ、ここでまたあの時の再現をしてもいいんだが……それだけのために使うってのも、なあ?」

「むう……。なら、世界を渡ったというのも、それでなのか?」

「んー……まあ、そうなんだけど、アレは文珠が暴走しちゃって……物の弾みなんだよ。好き好んでこっちに来たわけじゃない」

「じゃあ、なぜ帰らないんだ?」

「いや、俺だって色々試行錯誤して、帰ろうと試みたさ。
 でも、空間転移みたいな使い方はどうしてもイメージが大切で……。世界を飛び越えるってのが、どうも上手くイメージできないみたいなんだ」

「こっちの世界に来てから、どれぐらい経つ?」

「かれこれ7年っところところかな。
 これだけ時も経てば、もうこっちに骨を埋める覚悟もできてくるってもんだ」

「そうか……。な、ならいいんだ、うん」

「? 何がよかったんだ?」

「な、何でもない! 忘れろっ!」

「……?」

「と、とにかくっ! 貴様の話は理解できた。信じがたい事ではあるが……まあ、今回だけは信じてやるさ。特別だからな?」

「ん、ああ……まあ、ありがとさん」

何が特別なんだ?と思いつつも、まあとりあえず頷いておく。
信じてくれたのは僥倖だったが、どうも、世界を渡る技術に関しては、流石のエヴァンジェリンも知らないようだ。
その点の収穫はゼロだが、鶴子以外に強力な味方ができたと思えばいい。まだ味方かどうかは判然としないが、そう思っておく。

これで、エヴァンジェリンの質問には答えた。
次は、横島が質問する番だ。

「……で、エヴァちゃんはまたどーして、あのボウズを目の敵にしてたんだ?」

「む……。本来、軽々しく話せるような事ではないのだが……私だけ喋らないというわけにもいかんか」

サウザンドマスターにやられた事から、今に至るまで、掻い摘んで話す。
その際、昔、エヴァンジェリンがサウザンドマスターに抱いていた淡い想いに関しては一言も触れられなかったが、この場に気付く者はいない。
一通りの事情を聞き終え、横島はまた紅茶で喉を潤した。

「登校地獄の呪い、ねぇ…。
 しっかし、一生学生気分でいられるんなら、むしろ天国じゃね? 俺なんてもう、正直、働きたくないんだけど」

「気安く言ってくれるな……。
 100年以上生きているこの私が、『闇の福音』とまで謳われた最強の魔法使いが、延々と中学生をやらされるんだぞ? それも強制的に。
 魔法もロクに使えないわ、ちょっとした知り合いが出来ても中学を卒業する頃には私の事を忘れているわで、もう散々だ。
 一生学生気分といえば聞こえはいいが、それは即ち、一生同じ時の繰り返し……退屈な牢獄だ。実際、たまったものじゃないさ」

「そんなもんかねー……」

まあ確かに、昨日まで友達だった奴らが、今日には自分の事を忘れているとなると、ぞっとしないな……とは思う。
エヴァちゃんも何だかんだ言って苦労して来てんだなぁ……と思いつつ、横島には一つ、思い当たる事があった。

(話だけ聞いてると、世界最強の魔法使いがかけた呪いだけあって、相当強力そうだけど……
 『登校地獄』って名前もはっきりしてるんだし、ひょっとして文珠でどうにかなるんじゃ?)

『解』『呪』だけでは無理なものも、『登』『校』『地』『獄』『解』『呪』なら、解けそうな感じだ。
というか、6つも文珠を連結させても解けない呪いなど存在しないだろう。
横島としても、難儀しているエヴァンジェリンの事を思えば、この場で呪いを解いてやりたかったが…

(呪いを解いたところで、この街を出てかれちゃあ困るらしいしなぁ……)

前に学園長から聞いた。エヴァンジェリンなくしてはこの麻帆良を囲う結界の維持は難しい、と。
青山から正式に派遣されている身としては、あまり勝手な真似は許されない。迂闊な事をして、鶴子の顔に泥を塗る事だけはしたくないのだ。
ゆえに、どうしても学園長から許可を貰わなければならない事になるが、普通に考えて、そのような許可が下りるわけはないだろう。
一応、話してみてもいいが……到底、結果は期待できない。ならば、今ここでエヴァンジェリンには話さない方がいいだろうと判断する。
ぬか喜びさせては悪いし、何よりエヴァンジェリンの悲しむ顔は見たくない。もう、それなりに情は移っているのだった。

何となくばつが悪い感じがして、横島はすっと立ち上がった。

「そろそろいい時間だし、今日はこのへんでお暇するよ。
 あと、結果的には俺が勝ったんだから、約束はきっちり守れよ? もし破ったら、お仕置きだからな」

「む……。まあ、仕方なかろう。約束通り、今後は学園関係者からは生き血を吸わん。
 ……し、しかし、やはり輸血パックというものは味気がなくてだな、その、何と言うか、たまには新鮮な血液が欲しいというのか…
 貴様の言う通りに我慢するのだから、ああ、ええと……せ、責任を取って、たまには貴様の血を吸わせろ! い、いいなっ!?」

顔を赤くしながら、ビシッ!と横島を指差す。
特に何を気負うでもなく、横島は軽〜く頷いた。

「ん、わかった。次の日の仕事に差し支えないぐらいで頼むわ」

本人の了承を得て、横島から見えないところで小さくガッツポーズ。
実は、次回からは首筋から血を吸おうと思っているのは内緒だ。

「そんじゃ、もう行くよ。
 またな、エヴァちゃん。茶々丸ちゃん、紅茶とケーキ美味しかったよ。ありがとな」

「いえ…」

最後に茶々丸に微笑みかけると、横島は扉を閉めた。
完全に足音が聞こえなくなった頃、エヴァンジェリンはぎりりと歯を噛み鳴らす。

「ヤ、ヤツめ、わざとなのか? わざと茶々丸を贔屓してるのか!?
 ああっ、何故だか知らんが苛々するっ!! 何なんだこの胸のモヤモヤはぁぁっ!!」

「……………」

きいぃーっ!と、力一杯、クッションをボスンボスン殴るエヴァンジェリン。
横島が去った後も、扉の方を見詰めてぼうっと立ち尽くしている茶々丸。
決戦の日の夜は、こうして更けていった。




―――エヴァンジェリン宅からの帰り道。

「…でアンタ、名前は?」

「性技のヒーロー、人呼んでヨコシマンッ!!」

「……職業は?」

「主に18歳から35歳くらいまでの美女・美少女の安全をこっそり影から見守る事などを生業としているッ!!」

「………年齢」

「永遠の17歳だッ!!」

「…………住所は」

「遥か虹の向こう、ニライカナイ! ヨコシマ星でもよしッ!!」

「……………とりあえず、署の方まで…」

「な、何故ッ!?」

半裸覆面の格好をしたまま、心底驚くヨコシマン。国家権力の走狗めがーッ!と叫びながら引きずられていく。
彼がパトロール中の警官から職質され、署の方でみっちり取調べを喰らったのは、まあ当然の帰結だったのかもしれない。

『彼』を追え!(1) 嗚呼、麗しき友情よ 投稿者:毒虫 投稿日:07/15-22:59 No.921


教壇では、中年の男性教師が古典の授業を進めている。
それを視界に入れながらも意識的に見る事はせず、大河内アキラは虚空を眺めていた。
全く授業に身が入らない。普段から特別勉強熱心というわけではないが、今日は流石に酷いと自分でも思う。
原因は判っている。昨日の事だ。大浴場で過ごした、空白の一時。教員からはガス漏れ事故と説明されたが、それがどうしても納得できなかった。

もう何度目になるか分からないが、昨夜の事を思い返す。
まず、意識を取り戻して最初に目に映ったのは、心配げなネギの顔だった。何故大浴場にネギ先生が、と不思議に思ったのを覚えている。
あの時のネギは、しきりに首をひねっていた。おかしいな、誰が治してくれたんだろう、とか呟いていた気がするが、その辺の事は定かでない。
次に辺りを見回し、一緒に入浴していた筈のまき絵と裕奈の姿が見えない事に気付いた。それをネギに問いただしても、焦ったように口ごもるだけで話にならなかった。
その態度を不審に思っていたら、何故かネギと一緒にいた明日奈に強引に話を逸らされたのだ。
結局、あの二人は自分達よりも具合が悪くて、先に保健室に運ばれたと聞いたのは、翌日、つまり今朝になってからだった。
大浴場から保健室に連れて行かれ、何やら良く分からない検査を受け、何事もなく部屋に帰してもらったのだが……不自然ではないだろうか。
学校で起こったガス中毒事故ともなれば、被害の差はどうであれ、一先ずは病院に搬送するのが一般的な対応であるように思う。
麻帆良学園の保険医の実力が確かなのは認めるが、無論そんな事では納得できない。もしや事件の揉み消しでも図っているのだろうか?
それに……何となく、あれはガス漏れ事故などではなかったように感じる。何かこう、もっと恐ろしいものに巻き込まれたような気がしてならない。
意識を失う前も、取り戻した後も、ついぞガス臭など嗅いだ事はなかった。それも、疑念の膨張に拍車をかける。

アキラは、昨夜目にした作業服らしきものを脳裏に浮かばせた。
意識を取り戻した後、ほぼ全裸であった自分にかけられていたものだ。そのサイズは大きく、男物である事が容易に推測できる。
普通に考えるなら、ガス管の修理をしに来た作業員が、あられもない格好をしているアキラ達を見るに見かねての事だと思われる。が。
そもそも、ガスにやられて意識を失っている生徒を放っておいて先に修理を行う事など、まずありえないのだ。
当時そこまで考えが回ったわけではなかったが、状況が不自然である事には気付いていたアキラは、こっそりその作業服の胸元に付いていたバッジを拝借していた。
今も、胸のポケットに持ち歩いている。どうしても気になったのだ。黄金のモップ。その下に銘打たれた『SCS』の三文字。
アキラが知る限りでは、そんな風変わりなモチーフを社章にしているガス会社は存在しない筈だし、SCSという名前もそうだ。
では、ガス会社の職員の作業服ではないとすると、それは一体何なのか? そのモチーフが表す通り、清掃員のそれだとでもいうのか。

アキラは、そのバッジの、その服の持ち主を探し出すつもりだった。ひいては、あの夜の真相を探り出すつもりであった。
ちょっとした事故として日常の中に埋めてしまえばいい。そんな些細な事など忘れ、勉学に、部活に励めばいい。現に、亜子はそうしている。
頭ではそう理解しているのだ。しかし、胸の奥に疼く好奇心が、どうしても言う事を聞いてくれない。
日常の中に一滴だけ落とされた、非日常のエッセンス。それは大人達が思っている以上に、少女の若い情熱を駆り立てた。



午前の日程が終わり、待ちに待った昼休み。
毎日の事だのにいちいち沸き立つ教室の中、アキラはそっとある女生徒に歩み寄る。
曰く、麻帆良のパパラッチ。曰く、歩くスクープ製造機。3−A屈指の情報通、朝倉和美その人である。
アキラは、席を立とうとしている和美の肩にぽんと手を置いた。

「ちょっと、話が…」

「ん? 大河内か。何? …ここじゃ聞けない話?」

こくり、と頷く。和美はにんまりと頬を緩めた。
普段付き合いのない大河内アキラからの、人前では聞けない話。
まあ、麻帆良を揺るがすスクープなどは期待できそうにないが、興味をそそる。
只でさえ、この大河内とアキラいう少女は、人の噂話などをあまり好まない性質なのだ。そんな人間が和美に繋ぎを入れてくるなど……。
とりあえず、あたかも談笑しているような感じでアキラを食堂まで連れ出すと、いくつか適当なパンを買い込み、端の方の席に腰を下ろした。
密談は、適度に人気の多い所でした方がいい。知り合いなどに出くわさない限りは、誰もこちらの会話など聞いちゃいないからだ。
どうせ、完全に2人きりになる場所を見つけるのも難しい。ならば、あえて。木の葉を隠すなら森の中、という具合だ。

パックのカフェオレにストローを突き刺し、ちゅーっとすすると、和美は少しだけ身を乗り出した。
心持ち小声で囁く。傍目からは、年頃の少女達の間にありがちな、密談めいた噂話に見られるだろう。

「それで、何? タレコミ?」

「…………」

厭らしい笑みを作る和美には応えず、アキラは無言で胸ポケットから例のバッジを取り出し、卓上に置いた。
見慣れないが、特にどうという事もない、ただのバッジだ。和美の眉根が寄せられる。アキラの意図が掴めない。

「…これが、何だっての?」

「このバッジを社章にしているガス会社、ある?」

「………ハァ?」

何なんだ、と思いつつ、和美はバッジを手に取り、彼女なりに改めてみた。
初めて見るバッジだ。少なくとも、麻帆良に出入りしているガス会社のものとは違う。
モップのモチーフを見る限り、清掃員のものに見えるが……果たして、ただの清掃員が、こんな御大層なものを胸に戴くだろうか。
とにかく、これがガス会社に何の関係もない品であることは確かだ。和美は首を振った。

「見た事ないバッジだけど、とりあえず、ガス会社のもんじゃないね」

「私もそう思う」

「ハァ!?」

では、一体どういうつもりの質問だったのか。
半ば詰問口調の和美に、アキラは、昨夜の顛末と、自らの考えを吐露した。
話を聞いて、俄然、和美の眼が光を放つ。好奇心の光、情熱の炎だ。

「確かに私も、昨日のガス漏れの事に関しては疑問を持ったし、調べを進めてたけど……やっぱ、当事者の話は違うねー。
 ガスの臭いにも気付かなかったガス漏れ事故、それに巻き込まれた生徒の救出に現れた子供先生、そして、謎の作業員……。
 くぅーっ! そそるっ! そそるわぁー! なんか陰謀の匂いがするのが、特に燃えるっ! スクープ臭もプンプンだしっ!」

「…………」

テンション上がりっ放しの和美に、アキラは少し身を引いた。
和美の興味を引きそうな事柄を並べ、事件性の存在を匂わせ、彼女を焚き付けたのは目論見通りだ。
作戦の成功を喜ぶべきなのだが……少し、場所を考えて欲しかった。立ち上がり、椅子に片足乗せていきり立つ和美は、あまりにも目立つ。
躁状態が続く和美に、アキラは羞恥に頬を染めて俯くしかなかった。



「それじゃ、早速今日から調べに入るから。結果報告は昼休み、今日と同じ場所って事で」

「分かった」

もうそろそろ昼休みが終わる。
和美とアキラは、階段を上りきった所で軽く言葉を交わすと、時間を空けて教室に戻った。気分はジェームズ・ボンドだ。
アキラは自分の席に着き、昼休みまでとは全く自分の気分が変わっている事に気付いた。今なら授業にもそれなりに集中できそうだ。
自分よりも遙かに情報収集能力に優れている和美に事を託したという安心感もあるが、やはり、誰かに話を打ち明けた事によるものが大きい。
本当は、昨日自分と一緒にいた、まき絵や裕奈、亜子とも話をしたかったが、彼女らは自分達がガス漏れ事故に巻き込まれたのだと信じている。
いたずらに彼女らの不安を呼び起こすのも憚れるし、まき絵がその話を聞き、勢いづいたら、一体何をしでかすか知れたものではない。
この件は、真相が知れても、アキラの胸に仕舞っておくべきなのだ。和美の事は不安だが、一応、記事にはしないと約束を取り付けた。
深い付き合いがあるわけではないので、和美の事はあまり知らないが、約束した分には大丈夫だろう……と思う、人の良いアキラだが。

「ククククク……い〜いネタが入ったわぁ〜」

世の中、そんなに甘くはなかった。






午後の授業の間、人通りの絶えた校舎の廊下をモップで磨く。一心不乱に、誠心誠意を込めて、ただ、磨く。磨きに磨く。
ワックスをかけずともピカピカになった廊下を振り返り見て、横島は満足気に笑みを浮かべた。
昨日まで、物騒な事――青山の仕事に比べれば児戯にも等しいが――に関わり、その事ばかり頭に考えていた。
ただただ無心に清掃作業をしたのは随分と久し振りのようだ。本来のお役目からは外れている事だが、やはり日常の帰還には安堵を感じる。
さあてお次はどこを磨いてやりましょうかね、と意気込みも新たに歩きかけたところ、ポケットの端末が振動し、着信を伝えた。

「……学園長からだ」

メールを開くと、簡潔に用件のみが述べてあった。
明日、件の神鳴流との場を設けた。放課後、学長室に来られたし。との事だ。
自分で持ち出した事だが、もう少し後にしてもらいたかった、と軽い溜息。
こうして一般人のような生活を楽しめるのは、こちらの世界に来てから滅多にない事なのだ。
青山では一年中仕事を押し付けられ、世界中を飛び回っていた。たまに帰って来ても、鶴子以外の対応はそう暖かいものではない。
真に心が休まる時といえば、鶴子の傍か、気ままに京の街を散策している時のみ。それも、後者は常に多少の警戒が必要だった。
ここ麻帆良に至って、横島は安穏とした毎日を喜ぶ限りだった。閑職に追いやられた感は否めないが、別にこだわるほどのものではない。
青山を出奔した剣士。顔も名も知らないが、その気持ちは理解できる。青山は、堅苦しいのだ。あまりにも剣の追求に縛られすぎていて。
散々世話になった恩義は勿論忘れないが、鶴子がいなければ、正直、青山に寄り付く気は起きない。
はみ出し者同士、仲良くできりゃあいいんだがな、と思い横島は携帯をポケットに仕舞った。

「さーて、次はどこに行こうかなっと………って、んん? あれは…」

廊下の向こうをよろよろと覚束ない足取りで這うように歩く、薄汚れた白い小動物。
見覚えがあった。アレは確か、子供魔法使いのペット、あるいは使い魔のイタチ(と横島は思っている)だ。
しかし、見るからに衰弱している。今にも行き倒れになりそうだ。もしや、何者かから襲撃でも受けたのか?と歩み寄る。

「おい、どうした? 大丈夫か? いっそ楽にしてやろうか?」

『テ、テメェは……』

億劫そうに横島を見上げ、見覚えのある顔に驚く。
警戒して飛び退こうとするカモだったが、彼にその力は残されていなかった。ふらふらと2,3歩後退するのみに留まる。
横島は、そんなカモをひょいと抱き上げた。

「きったねーなー……」

事情は分からずとも、このまま見過ごして野垂れ死にでもされれば寝覚めが悪い。
力なく抵抗するカモを抑え、横島はヒーリングを行った。人間相手には気休めのようなものだが、妖精であるカモにとっては、充分な効果がある。
淡い暖色系の光が収まった頃には、カモの全身に及んだ細かい擦り傷などは、すっかり完治していた。

『す、すまねぇ。助かったぜ……』

「ま、気にすんな。んで……こうまでボロボロになったってのは、何か事情があるんだろ?」

『う……』

言いにくそうに口ごもるカモだったが、観念して口を開く。

『実ァ……昨日、俺っちらしくねぇヘマをやらかしちまってな…。
 その件で、アスナの姐さんにこってり絞られ、川に投げ捨てられ、今やっと帰って来たってわけよ…。
 ウェールズにそのオコジョありと謳われた俺っちが、たかだか14,5の娘っ子にこっ酷くやられたとあっちゃあ、いい笑い種さ……』

笑ってくんな、と自嘲するカモだったが……
横島は、だくだくと涙を流しながら、カモの話に何度も何度も頷いていた。

「解る、解るぜ、その気持ち……。俺だって、昔は女で苦労したもんさ。
 毎日アゴで使われ、クソ重い荷物を一人で背負わされ、ちょおっと乳や尻やフトモモ触ったぐらいで半殺し……。
 女は魔物だ。怖いもんさ。男は勝てねえ、勝てねえよな、兄弟……」

『おお、解ってくれるかい、俺っちの、このやるせない思い!
 アンタも相当、苦労してきてんだなぁ……。なあアンタ、名前はなんてぇんだ?』

「横島忠夫。しがない清掃員さ。お前は?」

『誇り高きオコジョ妖精、その名も、アルベール・カモミール。気軽にカモって呼んでくんな』

前脚と器用に握手を交わす。
二人の間には、すっかり、友情が芽生えていた。

「なあカモ公よう、今から一杯呑らねえか?」

『いいねぇ……。朝まで付き合うぜ、兄弟!』

ガハハハハ!と、男笑い。
結局この一人と一匹のコンビは、朝まで呑み明かしたのだった。




「…あれ? アスナさん、カモ君知りませんか?」

「あん? あのエロガモ、まーた何かやらかしたの?」

「いえ、いろいろあって今まですっかり忘れてたんですけど、そういえば昨日あたりから見ないなって…」

「………あ゛」

「? どうしたんですか?」

「いやぁー……なんて言うか、ご、ごめんね、うん」

「……?」

「まあ……どうしても探したいってんなら、川の魚をさばいたら、部分的に見つかる可能性も……」

「……??」

「と、とにかくっ! エヴァンジェリンの事も解決したんだし、今はそれでいいじゃない! ね? ね?」

「……???」

『彼』を追え!(2) 青山の鎖 投稿者:毒虫 投稿日:07/18-23:01 No.942


昼休み、食堂にて。
和美は、アキラが席に着くなり、ごめんっ!と顔の前で手を合わせた。

「昨日1日でできる限り情報集めたんだけどさ、あんまし手掛かりとか見つけられなかったんだよね。
 判ったのは、麻帆良に『SCS』って名前の会社なんてなくて、多分、麻帆良のどの施設も、そんな名前のとこ利用してないってくらいかな」

「1日でそこまで調べられたのは凄いと思う。謝ることなんてないよ」

「あ、そう? ならいいんだけどさ」

言い、サンドイッチにかぶりつく。
結局、例のバッジの持ち主の謎は深まるばかりだ。
正直、社章しか分かっていないこの状況では、できる事といっても限られる。
昨日、やれるだけの事はやってしまった。となると、あとは自らの足を使いながら、網に情報が引っ掛かるのを待つだけだ。
しかし、構内を闇雲に歩き回って偶然あのバッジの持ち主と遭遇する事など、まずもって有り得まい。
かと言って、人海戦術を採用するにはこの案件は少々デリケートだ。どこから情報が漏れるか分からないので、無闇に関係者は増やしたくない。
やはり、地道にやるしかないのか……。

「まっ、私も私なりに捜すからさ。あんたも、じっとしてるだけじゃつまんないでしょ? 何か行動してみれば?」

「……うん」

確かに、和美に任せきりというのも悪かろう。
放課後……は部活があるから、昼休みにでも、自分なりに捜してみよう。アキラはそう決めた。
結果は期待できないが、努力したという事実は残る。何もしないよりは、ずっといい。

サンドイッチをカフェオレで流し込み、手早く昼食を終えると、和美はさっさと席を立った。

「ごめん、これからちょっと当たってみたいとこがあるからさ。先行くねー」

「あ、うん…」

一人、取り残される形となる。
まだ半分以上残っているうどんを見下ろし、アキラはぼんやり思った。

(修学旅行までに解決するといいんだけど…)

楽しみにしている修学旅行まで、あと少し。
心にしこりを残したままでは、心から楽しめまい。
そのためにも、自分も頑張らねば。決意を新たにすると、アキラはちゅるりとうどんをすすった。






放課後の校舎は、まだ生徒の数が目立った。
その中を一人、モップを手にした清掃員が横切って行く。やはり注目を集めるが、横島は努めて気にしないように心がけた。
が、学長室に到着する頃には、少々やつれてしまっていた。思春期の少女の好奇心に曝されるのは、思った以上に辛い。
ノックと同時に、扉を開ける。

「失礼しまーす」

軽く帽子を持ち上げ、また被る。
学長室の中には、学園長近衛近右衛門の他に、もうひとり小柄の少女がいた。
前髪を半分残し、その横で髪をひっつめた、背に自分の身長ほどもある竹刀袋を背負った、凛とした少女。
姿形と雰囲気で判った。この子が件の神鳴剣士だろう。

「おお、待っておったぞい」

「………」

破顔する学園長とは対照的に、神鳴流の少女は、まるで値踏みするような視線を寄越すのみ。
それもまあ仕方のない事だ、と思う。学園長から説明はされていると思うが、一度青山を抜けた身、横島に後ろめたい感情を抱いてしまうのも無理はない。
だが、その辺の事は説明すれば解ってくれる筈だ。1人より2人。当然の理屈なのだから。

2人の間に流れる緊張感を察したのか、学園長が仲立ちに入る。

「この娘が、先日説明した、桜咲刹那君じゃ。
 若年ながら、青山神鳴流の剣士での。今は木乃香の護衛についてもらっとる」

「よろしくー」

「………どうも」

横島がフレンドリーに握手を求めるが、刹那は軽く頭を下げただけで、差し出された右手は完全スルー。
あは、あはは、と苦笑ともつかぬ笑みを漏らしながら、横島はすごすごと手を引っ込めた。結構ヘコむ。

「そしてこちらの、一見清掃員に見えるのが、青山から派遣されて来た横島忠夫君じゃ。二人とも…」

「よ、横島忠夫っ!?」

学園長がその名前を出した途端、何故か刹那は驚愕した。
過剰な反応に、横島は戸惑う。俺って実は有名人だったの?
幸い、刹那が見せた反応には、驚きだけで、敵意や畏怖などは混じっていなかったが……
ここまで大きなリアクションをされると、何か過去にあったのか、と不安を覚える。

「あのー……俺、君に何かしたっけ?」

「あ、ああ、いえ、別に。……取り乱してしまい、すいません」

その年齢、スタイルの子には手ぇ出してない筈なんだけどな……と思いながら、おずおずと話しかける。
刹那はあからさまに狼狽した。今度は、敵意といかないまでも、警戒心を感じる。
さすがに不審に思ったのか、今度は学園長から声がかかった。

「知り合いなんかの? 横島君には覚えがないようじゃが…」

「知り合い……ではないと思います。私が一方的に知っているだけで」

そう、刹那は横島を知っていた。というか横島は、青山の関係者の中では、最も有名な人間の一人に数えられるのだ。
突然の爆発と共に現れたという出自から、鶴子に取り入り、青山に潜り込んだ男として。
その人間離れした戦闘能力も勿論話題に上っていたが、それ以上に、門人達の間には、不穏な噂が広まっていた。
何でも、関東から送り込まれたスパイだとか、その卓越したテクニックをもって鶴子を誑し込んだ色師だとか……。
高弟でさえ近付きがたい鶴子に、ぽっと出の、何処の馬の骨とも知れぬ男が傍にいるのが気に喰わなかったのだろう。
そしてまた、横島が厭われていた原因は、彼の剣にもあった。剣の道を究めんとする青山にあって、横島は、剣など戦闘手段の一つだと公言して憚らなかったのである。
剣のみを修めていても、強くなれるには限度がある。そもそも、剣を失くした場合はどうするのか。これが彼の言い分だ。
無論、そのような状況を考えての無手の技も神鳴流にはあるが、やはり、その本筋が剣にあるのは確かな事で。
そんな組織の中、横島は独り、鶴子から見せて貰った神鳴の技を、自らの戦闘術の中に、多少のアレンジを加えて組み込んだのである。
技を一目見ただけで修得してしまう横島の人智を超えた戦闘センスもまた、多くの嫉妬混じりの反感を買った。
付いた渾名が『邪剣』である事からも、横島が青山において、どう思われていたのか察せられる。
直接横島と関わっていれば、またその印象は変わったのであろうが、快復してからは横島は方々に仕事に出されていて、その機会もなかった。
…実は、その数少ない機会を得て、心密かに横島を慕っていた人間も幾人かいたのだが……それは、刹那の知るところではない。
とにかく表面上は、横島忠夫は実力だけは確かだがロクでもない男で、青山の信念に反する事ばかりやっていた、という事になっていた。
青山にいた頃、そんな噂を日常耳にしていた刹那は、先入観に囚われまいと心がけても、横島を見る目にある種のフィルターがかかってしまう。

(この人が、あの……)

見た感じ悪人には見えないし、あの青山鶴子を誑し込めるほどの器にも見えない。
しかし、警戒を解くべきではなかろう。何せこの男は、明日から自分と同じく、木乃香の護衛に付く身なのだ。
噂が真実で、今度は木乃香を誑し込み、彼女の婿に納まり、呪術協会、ひいてはこの国の裏社会を牛耳ろうと企んでいる可能性も、ないとは言えない。
常に最悪の事態を想定した上で動かなくてはならないのだ。何かがあってからでは遅い。こと木乃香に関しては、その『何か』は絶対にあってはならない。
…しかし、横島を警戒する一方で、刹那は彼に不思議な親近感を感じてもいた。
青山の中では疎まれていたというその身の上。刹那もやはり人外の匂いが漏れるのか、彼ほどではないが他の門人から好かれる事は少なかった。
そんな中で、鶴子には可愛がられていたというのも、奇妙に一致する。
また、剣に関する考え方も、少し似ているところがあった。刹那は、木乃香のためなら、剣のみに拘らず、たとえどんな手段であれ使う覚悟がある。
似ていると言えるほど彼の事を知っているわけではないが、何となく、親しみに似た感情を抱く刹那であった。

(この子、どっかで会ったっけなぁ……?)

一方、横島としては戸惑うばかりだ。何せ、全く見覚えがない。
青山に数いる剣士見習いの一人だったのだろう、それは推測できる。そうでもなければ、自分の名前までは知らない筈だ。
ここで言う事ではないと黙っていたが、その気配で、横島は、刹那に何かしら人外の血が混じっている事に気付いていた。
青山にハーフなどがいて、実際に接していれば、必ず印象に残っていただろう。刹那の容姿が端正であることも手伝って、忘れることはなかったと思う。
…横島は知らなかったのだ。青山の中で、己が悪い意味で注目を集めていた事を。
あんまし良く思われてないみたいだな、とか、なんか白い視線を感じるな、とは感じた事があるが、大層に考えていなかった。
また、仕事で京都を空けている事が多く、帰って来ても、何故か鶴子が付きっ切りだったから、他の事まで眼が行かなかったのである。
故に……この子もしかして、俺に憧れてたんか!?などと、お馬鹿な事を考えてしまうのだった。

二人からそれぞれ流れ出す、先までとはまた違った妙な雰囲気を察し、学園長は話を進める事にした。

「…ま、ともかく、明日からは、ワシからの連絡があり次第、横島君も木乃香の護衛に就いて貰おうかの。
 刹那君とて、木乃香にかかりきりでは、何かと不都合な事もあろう。流石に、ロクに休みも与えんのは気が引けるわい。
 他の魔法先生などにも、無論、通常任務を優先してもらう形になっとるが、木乃香の事は言い含めておる。
 2人も、何か外せない用事などがある時には、遠慮せず申し出てくれればええ。できる限り、便宜を図るからの」

「了解ッス。…けど、夜中とかはどうすんですか? 日中とかよりも、むしろ警護が必要だと思うんですけど」

ふと思いついた事を口にする。
横島の言う事にも一理ある。襲撃者がいたとして、人気の多い日中よりも、寝静まった頃を狙うだろう。
そんな心配を、学園長は大丈夫じゃと切って捨てた。

「木乃香はネギ君と明日菜君と同室じゃからの。それに、女子寮の中にも遣い手は幾人かおる。
 侵入者が結界を通過した時点でエヴァンジェリンから報せが入るのじゃし、そう心配せずともよかろ」

「ま……それならいいんですけどね」

油断は禁物。しかし、それを口にして、寝ずの番を仰せ付けられてはたまらない。
まあ、自分が来る前も充分やっていけていたのだ。自分の存在など所詮は保険にしか過ぎないのだろう、と横島は考える。
ひょっとして、青山の幹部連中から疎まれてこっちに飛ばされたのかな……と、冷静になってみれば思わないでもないが。
しかしまあ、今の横島に、これといった望みも別にない。ただ、鶴子の言われた通りに動くだけだ。今のところは。
……女教師のハーレムを作る、という壮大な野望はあるが、まあそれとこれとは別の話である。

「さて、とりあえず話は終わりじゃ。何か訊きたい事はあるかの?」

いえ別に、とそれぞれ首を振る。
もう行ってええぞいとの言を受け、横島と刹那は退室した。
学長室の前で、自然と顔を合わす。刹那は、真剣な瞳で横島に詰め寄った。

「…木乃香お嬢様は、呪術協会にとっても、魔法協会にとっても、とても大切なお方です。
 私が言う事ではないのかもしれませんが……お嬢様の事、くれぐれもよろしくお願いします」

深く頭を下げる刹那に、横島はひらひらと手を振った。

「そんなに頭下げんでもいーよ。お給料もらってんだから、その分の仕事はきちんとこなすさ。こっちだって一応、プロなんだし。
 ……それにしても、ホントにどこで俺の事知ったの? やっぱ、青山?」

「あ、はい。……その、お噂は、かねがね…」

少し、言い辛そうに俯く。
何を勘違いしたのか、横島の口唇がにんまりと弧を描く。

(噂、ねぇ……。『あの人チョーイケてない?』とか、そんな感じの? む、むふふ)

緩みきったその顔。刹那は不安になった。本当に、この男にお嬢様を任せてもいいのだろうか?
実力だけは確かな筈だ。青山でも、誰かが忌々しげにそう言っていたのを聞いた事がある。
できる事なら、手合わせてでもして、その力を確かめたいのだが……今は、そんな事をしている状況ではあるまい。
青山からこの麻帆良の地に人が送り込まれて来たという事は、余程、木乃香の周りが物騒な事になっているのかも知れない。
そんな中、数少ないお嬢様専属の護衛が2人揃って任を抜けるなど、言語道断だ。
いかにも頼りなさげな横島に不安は尽きないが、その分、自分が頑張ろうと心を決める。

「…それでは、今日のところは用事がありますので、これで」

「ん。それじゃ、また機会があったら」

モップにもたれ、バイバイ、と手を振る横島に背を向ける。
歩を進めながら、刹那は思案する。

(実力は確かかもしれないが、あんな軽い男にお嬢様の護衛など務まるのか……?
 やはり、私がもっと頑張らなくては。お嬢様を守るのは、本来なら私だけの役目なんだ。
 それに、青山は何か思惑があって彼を送り込んで来たのかもしれない…。まさか、刺客という事はないと思うが)

もし彼が木乃香に危害を加えるつもりなら、もっと早くに済ませているだろう。
しかし、本当に青山や呪術協会が善意のみで人を送り込んでくるとは思いがたい。
外からの刺客と、中にいる部外者。今日からは、この二つを同時に警戒しなければならないのだ。
正直、骨が折れるが、それも木乃香のためだと思えばどうという事もない。

「頑張ろう……!」

決意も新たに、刹那はぐっと拳を握った。




マンションに帰る道すがら、今日の出来事を振り返る。
まず真っ先に思い出すのは、やはり桜咲刹那のことだった。

(ちょっとキツそうな感じだったけど、なかなか可愛い子やったなぁ……。5年後が実に楽しみだぞ。
 まあ……真面目な子っぽかったから、俺みたいなのが仲良くするのは難しいかもしれんけど。
 しかし、コナをかけるとはまではいかんが、今の内に良い印象与えとけば、後々のためになるよなっ)

青田買い、先行投資。そんな事を真面目な顔して考える。
未来に期待といえば……ふと、チビッコ吸血鬼の事を思い出した。

(そーいやエヴァちゃんも、成長したらかなりの上玉になりそうなんだよな…。
 ピートの奴はちょっとずつ成長してったらしいけど……真祖の吸血鬼って、外見的に変わりあったっけ?)

とりあえずブラドー伯爵は、外見的には700歳違いの息子と全くと言っていいほど区別がつかなかった。
となるとやはり、吸血鬼として完全に覚醒した時点から滅ぼされるまで、外見年齢は変わりないという事か?
しかし、それはあくまで横島が元いた世界での法則だ。こちらの世界に適用できるかどうかは定かでない。
エヴァンジェリンほどの美少女が成長した姿となると、その期待値も相当なものだが……果たして、どうなのだろうか。
結果如何によっては、これからのエヴァンジェリンの扱いが少し変わる事になるだろう。1,25倍(当社比)は優しくなれる。

「……今度会ったら、さりげなく聞いてみよ」

ばいーん、ばいーん、と胸の前で謎のジェスチャーをしながら、頬を緩ませる横島。
時間帯的にまだ麻帆良学園の生徒も多い通りの真中での奇行は、それはもう大層目立っていたそうな。

『彼』を追え!(3) 掴んだ尻尾 投稿者:毒虫 投稿日:07/22-23:13 No.964


朝倉和美は興奮した。
昨日ついに、あの謎の作業服の持ち主に関する情報を入手したのだ。
とは言っても、『女子中等部では見慣れぬ若い男性の清掃員がモップ片手に学園長室へ入って行った』、というそれだけの事だが。
記者としての和美の勘が、その男が怪しいと告げている。無論、勘だけで動くわけにはいかないので、ここからが頭の使いどころだ。
まず、件の清掃員が姿を現したのは昼休み。確認したところ、その時間帯、学園長は在室だった。まず、これがおかしい。
学長室を掃除するとしても、普通、学園長が不在時にやるものだろう。それに、道具がモップ1本だけというのも腑に落ちない。
他にも、何故年若い男性が女子中等部校舎の担当になっているのか、それも不自然だ。麻帆良にしては配慮が足りなさ過ぎる。
目撃者は、彼が学長室に入るその瞬間を見ただけなので、彼の顔立ちや、例の『SCS』のバッジが胸にあったのかは確認できていない。
目撃者の話によると、彼の背格好は、清掃員の作業服に帽子、軍手。清掃員として当たり前の格好だ。何の個性も見出せないのが痛い。
身長は175〜180cm、髪は長過ぎず短過ぎず、靴は白っぽいスニーカー。姿勢は悪くなかったように思う。これが引き出せた情報の全てだった。
ルーズリーフに、簡単にその姿を描く。これだけでは手掛かりになるか怪しいが、一応、コピーしておく。

放課後になってから、他の目撃者を求めて駆けずり回り、いくつか証言は得たのだが……
往来で珍妙なポーズ(胸を寄せて上げる感じ?)を取りながら歩いていただの、何やら変態チックな笑みを浮かべていただの。
目撃者の数自体は少なくないのだが、何というかこんな目撃証言をされても困る。信用していいのやら。
彼女らが口裏を合わせているといった感なかったが、果たしてそんな変質者っぽい清掃員がこの麻帆良学園女子校エリアに存在できるのか。
数ある証言に共通して、件の清掃員の人相は誰も覚えていなかったという特徴もあり、それならとこの問題はスルー。ただの変質者かもしれないし。
まあ、清掃員の正体を突き止めた後ではっきりさせればいいだけの事。今は彼を捜し出すのが先決だった。



清掃員を見たとの情報を入手した、その翌日。
和美は、昨日刷った清掃員の姿絵(肝心の人相が描かれていないが)のコピーを持参して、朝の教室に入った。
なるたけ関係者を増やしたくなかったが、そうも言っていられない。ネタの宝庫である修学旅行がもうすぐそこまで迫っているのだ。
当初は長期戦を覚悟していたが、件の清掃員が日常的にこの校舎近辺に姿を現している可能性を発見した今、短期決戦も可能かと踏んだ。
しかし肝心のネタの鮮度が失われるのは避けたいので、なるべく顔の広く、それでいてあまり情報通でない生徒を探す。
自分のやっている事、調べている事件を悟られたくないのだ。新聞記事は鮮度が命。新鮮でないネタなど何の価値もない。
…朝からかしましいクラスメイト達の顔々を、まるで吟味するように一人一人確かめ……一人の生徒の狙いを定める。
机にあぐらを掻き、長瀬楓相手に、身振り手振りを交え何やら熱心に話し込んでいる様子の中華娘。出席番号12番、古菲。
去年の学園祭の格闘大会の優勝者であり、中国武術研究会の部長であり、中華点心『超包子』の売り子でもある彼女。それなりに顔も広かろう。
それに、こう言っちゃあ何だが、彼女はあまり賢くない。和美が調べようとしている事に気付いても、その意味までは悟られまい。
楓との話が一段落付いた頃を見計らい、和美は後ろから声をかけた。

「くーちゃん、ちょっといいかな?」

「ん? 朝倉カ。何か用アルか?」

あぐらのまま、くるりと反転する。ありがたい事に、楓は『込み入った話のようでござるな……』と、場を離れてくれた。
和美は鞄から例のコピーを取り出し、古菲に渡した。

「ちょっと分かりにくいんだけど、今、こーゆー感じの人、探してるのよ。
 くーちゃん、もし知ってたり見かけたりしてたら、教えてくんない?」

小声で懇願する和美。
んー……、と少し考え込むと、パッと目を輝かせ、古菲は胸の前でパチンと両手を合わせた。

「コイツかどかわからないケド、こんな格好のヤツなら見たネ! 中々の遣い手だたアルよ」

「え、マジで!? そ、それどこで? いつ見たの!?」

いきなりのヒット。興奮して古菲に詰め寄る。

「どこでというか、結構しょちゅう見てるアル。いつも、『超包子』の肉まん買いに来てるネ」

「ちょ、それ、ホントに身近じゃん!」

あちゃー!と額に手をやる。
まさか、そんな近場にいるとは思っていなかったのだ。本当に盲点だった。
外部の、作業服を着るような職種の会社をしらみつぶしに当たってみても、全く見つからないと思ったら…。
いや、今、反省する必要はない。和美はポケットからペンとメモ帳を取り出した。

「その人よく見る場所と時間帯、教えてくんない?」

「昼休み、広場に屋台広げてれば、大体来ると思うネ」

昼休み、広場。神速でメモる。

「じゃあ悪いけど、早い内に確認したいからさ。今日の昼休み、くーちゃんが売り子やってよ!」

「アイヤー! 悪いガ、ワタシ今日当番じゃないアルよ! また今度にするネ」

「それじゃダメなんだって! お願い! ホラ、肉まん好きなだけ奢っちゃうからさぁ!」

「ホントアルか!?」

俄然、食いつきがよくなる古菲。繰り返し述べるが、彼女はあまり勉強ができない子だった。
和美とて、こと肉まんにおける古菲の食欲の凄まじさについてはわきまえている。それに加え、現在そう懐が暖かいわけでもない。
しかし、いち新聞記者としてやらねばならぬ時というものがある。そしてまさに、今がその時なのだ。
取材経費で落ちるかな?やっぱ無理かな?と冷や汗を掻きつつ、見栄を張ってドンと自慢のボリュームを誇る胸を叩く。

「朝倉和美に二言はない! 大抵の場合はねっ!!」

「その基準が気になるアルが、まあいいヨ。シフト変わてもらうネ」

頷き、古菲は超鈴音と四葉五月の許へ駆けて行く。
続いて、和美はポケットから携帯電話を取り出すと、メールを打ち始めた。相手はアキラである。
手掛かり発見。昼休み、広場まで同行願いたし。こんな感じの文面だ。送信ボタンを押す。
肝心の、『SCS』バッジの持ち主の顔形は見ていないというアキラだったが、夢心地に、おぼろげながら印象の欠片でも覚えているかもしれない。
実際に会ってみて思い出す事もあるかもしれないし、依頼主を置いていくわけにもいかないだろう。
どうやらメールは無事届いたようで、アキラがちらりと和美を見やった。微かに頷いて応える。
…さて、これであとは昼休みを待つだけだ。当然の事ながら、午前中の授業には全く身が入らなかった。




そして、待ちに待った昼休み。
午前の授業終了の鐘が鳴ると、和美は古菲とアキラと共に、急いで『超包子』の屋台を広場に設置した。
さすがに先走りすぎたのか、まだ広場に生徒はちらほらといったところ。落ち着いてみると、和美は自分が空腹だった事を思い出した。
と同時に、肉まんの、実に食欲をそそる匂いが鼻腔を侵略する。和美はあっけなく降伏した。

「くーちゃん、コレ1個もらっていい?」

「ちゃんとお金払えばいいアルよー」

ちぇー、と若干不貞腐れ気味に、2つ分の代金を払う。毎度ありネ!と古菲の営業スマイルが炸裂する。
見ると、アキラは既に肉まんを頬張っていた。意外とちゃっかりしている。
肉まんを頬張ると、口いっぱいにアツアツの肉汁がまろび出る。火傷しそうになったが、やはりコンビニのものとは段違いに美味い。

「ッッかぁー! やっぱ、くーちゃんとこの肉まん、美味しいわーっ!!」

「作てるのは、ワタシじゃないアルよ?」

「知ってるよ、四葉でしょ? でも、こーゆーのってやっぱ気分じゃん?」

中国人が作ってると思っとけば美味さ倍増じゃん?と和美。
そーゆーもんアルか、と古菲は簡単に納得した。ちなみにアキラは先程から、一言も発さずに肉まんを食している。
まかないの肉まんを食べ終える頃には、そろそろ客足も伸びて来ていた。和美とアキラも、慣れないなりに古菲を手伝う。
人出もピークを過ぎた頃に、和美はそれを発見した。

「……あれ? あれって…」

どこからともなくやって来た、ゴルフカートのような車。広場の端の方に停められる。
和美は、直接見たわけではないが、そのカートに覚えがあった。1週間ほど前、麻帆良スポーツの記事での事である。
その記事の見出しは、確か『怪奇! 夜の街に現る爆走カート伝説!!』という、非常に胡散臭いものであったように思う。
麻帆良スポーツは麻帆良新聞と違い、取り上げる記事全てが限りなく嘘臭く、実際9割方は嘘で塗り固められている。
そのため、新聞と言うより、一種のエンターテイメントとして親しまれているのであるが……
しかしそれにしては、『爆走カート伝説』の記事は、意味不明な、どこにでもある都市伝説的なネタである割には随分と紙面を割いていた。
まさかと思い、そのカートに注目していると、男が降りて来た。服装は……まさに、作業服!

「く、くーちゃん! アレ! アレ見て!」

「? 何アルか? 今、ちょと忙しいネ」

肉まんを暖める古菲の体を器用によじ登り、和美はその首の所で座禅を組んだ。そして、そのままぐるりと回転!
メキャアッ!と物騒な音がしたり、アキラが『転蓮華?』とぼそりと呟くのも気にしない。それが朝倉クオリティ。

「く、首ッ、首があ……ッ! ジュ、救命阿ッッ!!」

「地割れに飲み込まれたわけでもないのに、そんな軟弱な事言うなってのっ!!
 てか、アンタも中国人なら、自在に首の間接外したりすれば!?
 それより、今はアレよ! あの男! くーちゃんが言ってたヤツなの!?」

アイヤー……と首をコキコキさせながら、古菲は和美の指差す男を確認した。
あの服、あの顔、間違いない。古菲はこくりと頷いた。

「間違いないネ。ワタシが言てたのは、確かにあの男アル」

「よっしゃビンゴォッ!!」

ぐっ!と力強くガッツポーズ。
探し始めて3日と経たない内での早い解決となりそうだ。多少、物足りなさを感じるが、取材が早く終わるに越した事はない。
ここで先走って飛び出していくのは素人のする仕事だ。しっかりその正体を見極めなければ。
緊張の面持ちで隣のアキラを見やる。

(大河内、あの人に見覚えある?)

(どう……だろう。あるような、ないような…)

期待満々の和美だったが、アキラは自信なさげに首をかしげるのみ。
少々肩を落とすが、それでも彼は昨日の目撃談にあった怪しげな清掃員である可能性は高い。
それに、例のガス漏れ事故に一枚噛んでいると仮定すれば、学長室に呼ばれた事にも納得がいく。
最も手っ取り早い方法は、彼の胸に『SCS』のバッジを見つける事だ。
『超包子』の屋台に歩み寄って来る清掃員の男。徐々に人相が明らかになり、ますます期待が高まる。
列に並んだ事で一旦視界から姿を消したが……その男は、すぐにカウンターへ現れた。和美はこれでもかと凝視する。
しかし……

(な、ない………)

期待も空しく、清掃員の胸にバッジは付いていなかった。
落胆しかけるが……ちょっと待てよと思い直し、改めてその清掃員に注視すると、新たに気付いた事があった。
確かに胸にバッジはない。しかしその代わりに、作業服のどこにも、社章らしきものや会社名が見当たらないのだ。
学園が直接雇っている校務員ならそれも自然なのだろうが、そう決め付けて諦めてしまうのは早計である。
ここに至って、和美の勘はますます冴えた。もしやあのバッジ、1つきりで、予備がなかったのではないか…?
肉まんを用意するフリをして、和美はアキラの脇を小突いた。清掃員の男に気付かれないよう、小声で囁く。

(今、あのバッジ持ってる!?)

(…? 一応、持って来てるけど…)

(よっしゃ! じゃあひとつ、やって欲しい事があるんだけど…)

作戦を伝えると、アキラは若干緊張した面持ちで頷いた。
何とか応対を遅らせていた古菲を脇にどかせると、カウンターにはアキラが立つ。
ほんの少しだけ清掃員の眉が上下したのを、和美は見逃さなかった。すかさずアキラと古菲に合図を送る。
アキラはポケットからバッジを取り出すと、しっかりと見えるように清掃員へと差し出した。

「先日は、どうもありがとうございました」

「っ!?」

魔法の言葉であった。
今まで平静を保っていた清掃員の表情が、驚愕のそれへと一変する。
ニヤリと笑う和美だったが……すぐさま清掃員は反転した。見ると、アキラの手にあった筈のバッジが消えている。何たる早業か。
逃走を試みる清掃員だったが、この展開を予想しない和美ではなかった。

「逃がさないアルよ!!」

回り込ませておいた古菲が、清掃員の行く手を塞ぐ。
ちぃっと舌打ちすると、それでも彼は突破を試みた。
あちゃー…と、天を仰ぐ和美。この後にも午後の授業がある。気絶させてしまったら、放課後まで監禁しておくしかないか……。
と、早くもその算段を始める和美であったが……その目論見は、木っ端に砕かれた。

「フンハッッ!!」

と海王ばりの気合を込め、逃げる清掃員に中段突き(崩拳)を放つ古菲だったが、その拳が届く事はなく。

「チョイなッ」

そればかりか、その途中で、なんと清掃員に手首を取られ、合気の要領でふわりと投げられたのである!
しかし、驚きこそすれ、古菲は揺るがない。すかさず反撃に転じた。上下逆さになった中、強烈な蹴りを清掃員の横面に浴びせる!

「うひょお!」

気の抜けた掛け声と共に清掃員は古菲から手を離し、一歩後退する事で蹴撃から逃れる。
中空でクルクルと回転し、古菲は無事に着地し、舌なめずり。

「なかなか、やるネ……」

「に、肉まん買いに来ただけなのに、なしてこげな事に…?」

オラ、ワクワクしてきたぞ!状態の古菲。
対照的に、涙さえ浮かべつつ、己の身に降りかかる不幸を嘆く清掃員。
双方の思惑が激しく食い違う中、戦いの火蓋は切って落とされた!







『彼』を追え!(4) 不可侵領域 投稿者:毒虫 投稿日:07/26-23:03 No.992


「フンッッ!!」

ズダン!と、砂埃さえ舞う古菲の強烈な踏み込み。
僅か一歩で懐に飛び込むと、構えらしい構えも見せない清掃員の、その腹に肘鉄を見舞う!
それが触れたか触れないか、といったところで、清掃員は大きく後方へ吹っ飛んだ!
仕留めたか!?と歓喜する和美と、心配そうなアキラだったが、対して古菲の表情は優れない。
実際、清掃員は空中で姿勢を整えると、何事もなかったかのように着地した。ダメージは認められない。
流石に古菲は見抜いていた。彼は自ら吹き飛ぶ事で打撃の威力を殺したのだ、と。まさにそれは。

「消力(シャオリー)……ッッ!! まさか日本人で使える者がいたとは、驚きネ!」

「? しゃお……なんだって?」

戦慄する古菲だったが、清掃員は何を言ってるんだ、と首をかしげる。
そう、彼は消力と呼ばれる技術が中国武術の中にある事など、少しも知らなかったのだ。
彼にとってそれは、幾年にも及ぶ数え切れぬ戦いの中で自らが編み出した、受身の究極の一。
たとえどれだけの気を込められていようが、壁のような障害物がなければほぼ完全にその威力を殺す事ができる。
10年やそこらの修行で身につく技術ではないのだが、昔っから日常的に殴られ慣れていた彼だからこそ辿り着けた境地なのかもしれない。
ある種究極とも言える理合に、その若さで、それも全くの自力で辿り着いたという空恐ろしい事実。古菲もそれに気付き、体が震える。

(とんでもない化物アルな……! ケド、だからこそ戦り甲斐があるというものネ!!)

それは、恐怖による震えではなかった。歓喜による、期待による武者震い。
故国にいて、これほどの猛者と、これほど得体の知れない武芸者とまみえる事ができただろうか。
彼の身のこなしは、洗練されてこそいるが、決して飽くなき鍛錬の果てに得られたそれには見えない。
多少の基礎こそ積んでいるだろうが、恐らくは、数え切れない闘争の中で研鑽され続けて来た技術なのだ。
古菲には、どの流派にも似て、しかし決して同じ型は存在しない彼の構えを見て、そこに美の趣きさえ覚える。血塗れの美しさだ。
どうしても、あの服の下を見たくて仕方がない。一体、どんな肉体が隠されているのか……想像もつかない。
…いや、とかぶりを振る。今は余計な事を考えるな。純粋に闘いを愉しみ、その経験を明日への糧としろ。

「勝負アルッ!!」

全身全霊を込め、踏み込む!
裂帛の気合と共に放つは、崩拳。単純だが、古菲の得意とする技である。
この遮蔽物が見当たらない場所では、消力の使える清掃員が有利だ。古菲に勝ち目は薄い。
ならば、一度防がれてはいるが、己が最も信じられる、最も身体に染み付いた、最も鍛え込んだ技で決着をつけたい。
足場を固め関節を固定し、全運動エネルギーを、脊柱を通して気と共に拳に込める。
そして―――打つ!!

「ハッッ!!」

拳打を放つと同時に、古菲は確信した。
この突きは、自分がこれまで生きてきた中で最高の突きだ。
全てが効率よく、今の自分の力の完全をもって拳を打ち出せた。
これが届けば、一撃で相手を殺めてしまっても何の不思議もない。それほどのものだ。
その渾身の一撃が……届いた!

「んぬッ!!」

ドォン!!と重い鉄球を叩きつけたような音を発して、古菲の必殺の拳を、清掃員が受け止める!
驚くべき事に、消力ではなく、彼は掌を重ねあわせ、それで古菲の全力を受け止めていた。
清掃員の掌の皮が弾け、ピッと血飛沫が散る。だが、それだけだった。
骨も折れていなければ、肉を破壊したでもない。それは古菲とて同じ事だった。
あれだけの勢いと気の込められた攻撃、何をどうしても、どちらかの腕が破壊されるのが普通だが……
それを考えると、目に見えづらい形で清掃員が何らかの消力を行っていたのかもしれない、と古菲は考えた。

(……どちらにしろ、ワタシの負けネ)

古菲は眼を瞑った。ここまでだ。
清掃員としては、このまま投げてもいいし、拳を潰してもいいし、あるいは蹴りをくれてやってもいい。
全力の、後先を顧みない拳打を放った後の古菲の体は硬直し、回避する術もない致命的な隙を生んだ。
負けだ。完敗だ。これが決闘なら、古菲は今、死んだ。

「…?」

しかし、何をされるでもなく、古菲の拳は解放された。
どういうつもりなのか?疑問に思い、そっと目を開くと……そこには、にわかに信じがたい光景があった。

「いって! か、皮、皮が! あ、マジで痛いっ!」

清掃員が、実に痛そうに、古菲に破られた掌をぶんぶんと振っている。
おどけているのか真剣なのかは知る由もないが、古菲はぷっと吹き出してしまった。
化物じみた強さを誇った男が、涙さえ浮かべて……。それも、不思議と馬鹿にされているような感じは一切受けないのだ。
しばし道化ていた清掃員が、溜息をつき、疲れたような顔をして古菲に向き直った。

「で……コレ、どーゆー状況? とりあえず、いきなり殴りかかられるような事をした覚えはないんだけど」

「アイヤー、それは…」

言い訳しようとする古菲だったが、言葉の途中で、いつの間にか傍まで来ていたらしい和美に間に入られる。
鼻息も荒く、和美は清掃員へ詰め寄った。

「あなた、『SCS』バッジの持ち主って事で間違いないですよね?
 あ、私、麻帆良新聞の朝倉です。よろしく。
 それで、この前のガス漏れ事故とあなた、ひいては『SCS』という組織がどう関わっているのか、是非とも取材させて欲しいんですが!」

「え、いや、取材って言われても…」

「大丈夫! あなたの名前は訊かないし、オフレコって事で、記事では誰が喋ったのか分からないようになってますからっ」

「や、そーゆー問題じゃないんだけどなー…」

清掃員は困惑した様子で、帽子の上から頭をぼりぼりと掻いた。
和美としても、古菲をけしかけておいた直後、図々しい申し出だとは思うし、きちんと段取りも付けたかったが、仕方がない。
何せ、相手は神出鬼没の謎の男なのだ。この機会を逃せば、もう『超包子』に現れる事もなく、また探し出すのは難しくなるだろう。
そうならないように短期決戦で臨んだのであるが、最後の手段の力づく作戦が潰えた今、強引にゴリ押しするより他ない。
いざとなれば、汚い手段も用いるつもりである。財布の中身は心許ないが、買収も考慮の内だ。流石に、体を使ってどうこうなどとは考えないが。
気概充分な和美とは反対に、清掃員が首を縦に振る様子は微塵も感じられない。

「とにかく、俺はただの清掃員だし、そのガス漏れ事故とやらには何の関係もない。
 このバッジも、この前どっかで落としちゃったもんでね。いや、替えがないから困ってたんだよ。拾ってくれて、どうもありがと」

有無を言わさない雰囲気で話を打ち切ろうとする清掃員だったが、これに怯む和美ではない。
和美の後ろで事の成り行きを見守っていたアキラを引っ張り出すと、どうだ見ろ!と言わんばかりに清掃員の前に差し出す。

「それ、この子を前にしても言えます?」

「…………」

「う……」

無言でじっと目を見詰めてくるアキラに、清掃員がたじろぐ。
確たる証拠はないが、状況証拠は充分出揃っている。アドバンテージはあくまでこちらにある。和美は思った。いける!
後はこのまま押して、なし崩し的に陥落させ、話を聞き出すだけだ。誘導尋問などを用いてもいいだろう。
テンション鰻登りの和美。一方、アキラは戸惑っていた。自分を介抱してくれたのは、本当にこの人なのだろうか?
これまでの態度を見れば、和美の主張が正しいように思える。一旦そうなれば、この男にも見覚えがあるようにも思えてくる。
いや……冷静に記憶を見詰め直せば、それが気のせいだという事は判る。しかし……この声。何となく、聞き覚えがあるような…。
この男の声を聞いていると、何故か胸の内に、微かな安堵のようなものが去来するのだ。不思議な事に。
見も知らぬ男に対する、不可思議な安心感……それが、どうしようもなくアキラを惑わせる。只でさえ、彼女は男性に免疫が薄い。

「あの……」

「「え?」」

また問答を始めていた2人が、おずおずと話しかけたアキラに反応する。
ちなみに、どうも先程から出番がないと思っていたら、古菲はちゃっかり『超包子』に戻って営業を続けていた。

「この前は……どうも、ありがとう」

ぺこり、と頭を下げる。
和美に言われた通りに述べた謝辞とは全く異なる、それは心からの感謝がこもった礼だった。
アキラには直感があった。自分はガス漏れ事故などではなく、もっと別の、人智を超えた何かに遭遇し、そしてこの青年に助けられたのだ、と。
そう思うと、失われたあの夜の記憶も微かに感じられる気がする。はっきりと思い出す事こそできないが、確かにそれはアキラの胸に燻っていた。
アキラの、数分前のその態度との違いに気がついたのか、清掃員は和美から身を離すと、すっとアキラに向き直った。

「ちょっと、目ぇ瞑っててくれる?」

「……?」

言われた通りに目を瞑る。
アキラは名前も知らない男の言うままに従うほど頭の足りない少女ではないが、何故かこの清掃員の言う事は素直に聞いてしまった。
対峙する2人のすぐ後ろでは、これから一体何が起こるのかと、和美が目を爛々と輝かせている。
…しばらく目を閉じたまま待っていると、一瞬、瞼の裏が明るくなった。丁度、カメラのストロボを焚いた時のように。
その光が収まると、清掃員から、もういいよ、と言われ、そっと目を開ける。

「…………」

アキラは我が目を疑った。目を開けるとすぐ、和美の異様な姿があったからである。
和美は白痴めいた自失の表情をその顔に貼り付け、自我の薄い、虚ろな瞳を空に彷徨わせている。普段の、活発な少女の面影は微塵もない。
自分が目を閉じている数秒間に、一体、和美の身に何が起こったのか。何が起これば、和美がこんな風になってしまうのか。
流石に不審に思い、思わず和美を指差して訊ねるアキラだったが、清掃員の男はただ首を振るばかりで取り合わない。

「その子の事なら大丈夫。しばらくすれば、また元に戻るよ。多少、記憶に混乱が見られるかもしれないけど……な。
 それより、今は聞いて欲しい事がある。この前の、この子が言っていた事件についてだ」

清掃員の目は、あくまで真剣だ。我知らず、アキラはぐびりと生唾を飲み込んだ。
薄情かもしれないが、今だけは、和美の事などすっかり頭の外に追いやっていた。
誰にも言うなよ、と前置きしてから、清掃員は語り出す。

「君が巻き込まれた事件、確かにアレはガス漏れ事故なんかじゃなかった。
 …しかし、じゃあなんだったのか? と訊いちゃいけない。調べてもいけない。
 世の中には、表を歩く人間が知らない道がある。知らない方がいい道だ。
 いいか、今日、ここであった事は全て忘れろ。脅迫なんかじゃなく、俺はあくまで君のためを思って言ってるんだぞ。
 その子も、我に返れば、今日の事を……というか、例のガス漏れ事故に関する全ての記憶を失ってる筈だ。
 君を介抱したのは俺で、その礼も言った。もう気は済んだだろ? 何度も言うが、もうこれ以上踏み込んじゃいけない。
 …っと、もうそろそろ時間だ。君が聡明である事を祈ってるよ。それじゃ」

「あっ…」

言うや、清掃員は身を翻す。
別れの言葉を言う暇もなく、後ろで、あれ、私なんでここにいるんだろ?と、和美が意識を取り戻した。
しきりに首をひねって、和美は不思議そうに辺りを見回している。どうやったのか知らないが、本当に記憶を失くしているようだ。
ここで自分が声をかけたら、和美は不審に思うだろう。言いつけを破る事になる。アキラは、見送りたくなる衝動をぐっとこらえ、清掃員に背を向けた。

「あれ、大河内? …あ、そうだ。私、アンタと肉まん買いに来たんだっけ」

何で忘れてたんだろ、と和美。勝手に自分で記憶を補完しているようだ。
アキラは思う。忘れろと言われても、今回の事はずっと記憶に残り続けるだろう。
しかし、彼の言いつけは守る。誰にもこの事を洩らす気はない。墓場まで持って行くつもりだ。
楽しいが代わり映えのしない日常の中に紛れ込んだ、ちょっと危険な香りのする、非日常のカケラ。
それは取りも直さず、不思議と安心感の持てる、あの彼との思い出。アキラはそれを、そっと胸の奥底へ、説明できない感情と一緒に仕舞いこんだ。




何やら小難しい話をしていたようなので一旦席を外していたが、例の清掃員が広場から立ち去ろうとしているのを見て、古菲は屋台から飛び出した。
さっと男の行く手を阻む。驚いている男の表情を見る限り、どうも今の今まで忘れられていたらしい。流石にちょっと傷付く。
怒るのは後回しにして、古菲は無意味に拳を突き出すと見栄を切った。

「ちょと待つアルよ!」

何、急いでんだけど、と返されるが、ここでへこたれるようではバカイエローは務まらない。

「も一度、ワタシに機会(ジーフィー)をッッ!! まだ戦い足りないアルよ!!」

これほどの遣い手を逃すつもりなど、古菲にはさらさらなかった。
同じクラスの桜咲刹那、龍宮真名などは、自分よりも強いかもしれないとは思うが、しかし無手で戦り合える相手ではない。
一切の得物を持たず、ただ鍛え上げた己の肉体・技術のみを用いて、ひたすらに戦い、また己を研く。それをやりたいのだ。
それに、闘争の中で研鑽された、まるで戦鬼のようなこの男を、真っ向から武術で打ち負かしたいという大きな目標ができた。
…しかし、熱血する古菲とは対照的に、男はとても冷めていた。やる気なさげに鼻をほじくりながら、欠伸を掻きつつ適当に応える。

「あー、ムリムリ。俺ってば色々忙しいし。つか、別に戦わなきゃならん理由もないし。
 …ま、そうだな。あと4,5年後ぐらいに、もっとこう、ばいーんと成長してたら、寝技オンリーで相手してやってもいいけどなー」

「ぬぬぬ……なんだかよくわからんケド、バカにされたよな気がするアル」

拳を握る古菲に、ふと清掃員は思いついたように話しかけた。

「…言うの忘れてたけど、今日あった事は、誰にも言っちゃ駄目だぞ?」

「? 誰かに言たら、困るアルか?」

不思議そうに首をかしげる古菲だったが、何やら邪推したようで、清掃員はハッと仰け反った。

「ま、まさか、これを盾に脅すつもりじゃないだろな!?」

「脅す?」

「誰にも言われたくなかたらワタシと戦うアル! とか!」

「おおっ! それはいい考えアル! さそく使わせてもらうネ!」

「し、しまったぁー!!」

何と言うか、聞いていてツッコミ要員が欲しくなる会話だった。
まさにお互いのバカさ加減を競い合うような…。題名をつけるとしたら、『バカ頂上決戦』だろうか。
これ以上話を広げたら、とても収拾がつきそうにない。清掃員は渋々といった感じで頷いた。

「わかったわかった! また今度相手してやるから、とにかく今日の事は誰にも言うなよ!?」

「謝々! 楽しみにして待てるヨ! 再見!」

言うや否や、古菲は清掃員に背を向け、駆け出した。昼休みももう終わりだ。そろそろ屋台を片付けなければ。
元気一杯に跳ね回るその背を眺め、面倒な事になったぁ……と、清掃員は溜息をついた。

『彼』を追え!(5) 対決・功夫娘々 投稿者:毒虫 投稿日:07/29-23:25 No.1011


時間を確認すると、横島は溜息をついた。昼休みは、すぐそこまで迫っている。
先日、勢いで売り子の中華少女と組み手の約束をしてしまったのを、今更ながらに後悔しているのだ。
痛い思いをするのは御免だが、さりとて年頃の女の子を本気でねじ伏せるのは気が引ける。
とりあえずの案として、向こうからの攻撃をひたすら避けまくる、というのに落ち着いたのだが……気が進まない。
相手がせめて女子高生なら、キワドイ寝技に持ち込みくんずほぐれつするところだが、中学生にそれをやるとアイデンティティ崩壊だ。
約束してしまった手前すっぽかすわけにもいかず、向こうの年齢的にあまりはっちゃけるわけにもいかず……どうしろというのか。
それにもう一つ、横島を戸惑わせる要素があった。

(あの無邪気さといい、ちょいアホの子っぽいところといい、なーんとなくシロの奴を思い出しちまうんだよな…。
 見た目の年頃も大体同じくらいだし、手合せ願ってくるとこなんか、特に。……まあ、だからどうしたってわけじゃないんだけど)

別に、過去を思い起こさせる要素と相対するのが辛いわけではない。
しかし、何か複雑な感情を抱いてしまうのは確かだ。
それに、何より……

「ぶっちゃけ、めんどくさいんだよなー」

折角の昼休みが、と嘆く横島なのであった。




昼休み突入の鐘も鳴り、広場へのったりと歩を進めているところ、横島は意外な人物を目にして足を止めた。
風になびく金色の長い髪、横島の胸まで届くかどうかという矮躯。先日、ヨコシマンとして死闘を繰り広げた元・好敵手、エヴァンジェリンだ。
いつもの如く脇に茶々丸を従えて、エヴァンジェリンは腕を組み、廊下の真中で泰然と仁王立ちしている。
向こうも横島に気付いたようで、茶々丸がぺこりと頭を下げる。エヴァンジェリンは、フンッと鼻を鳴らしただけだった。
彼女らしいな、と横島は苦笑して、軽く片手を挙げる。

「ちょいーっす」

そのまま自然に脇を通り抜けようとしたが…

「って、ちょっと待て!!」

妙に慌てたエヴァンジェリンに捕まってしまう。
腕をとられながら、何だよ…と億劫そうに振り向くと、何とも申し訳なさそうにしている茶々丸が目に入った。
ああ、茶々丸ちゃんも苦労してるんだなぁ……と、何となく共感。

「貴様、せっかく私が待ってやっていたというのに、その態度は何だ!?」

「や、待ってたって言われても……。まあいいや。で、なんか用?」

「む……。ま、まあな」

コホン、と軽く咳払い一つ。
何故か薄く桃色に染まっているその頬に、横島の首がかしぐ。
何か言い辛そうにしていたが、エヴァンジェリンはあちこち目を泳がせながら口を開いた。

「ま、まあなんだ。最近私も何となく疲れ気味でな。魔力が枯れてきた気がしないでもないというか……そ、そろそろ血でも吸わなければなと思って……。
 か、勘違いするなよ!? ほ、他の人間からの吸血が禁じられているからで、決して貴様の血が欲しくなったわけじゃないからなっ!!」

「へ?」

「ほ、本当だぞっ!?」

顔を真っ赤にしてそう言い張るエヴァンジェリン。横島としては、『そ、そうなんだ……』と納得するしかない。
マスター、自爆です……と、ぼそっと呟く茶々丸に、エヴァンジェリンが、ムキーッ!と錯乱して飛びかかる中、横島はそっと時計を確かめる。
茶々丸とキャットファイト寸前まで白熱していたエヴァンジェリンだったが、めざとくもそれに気付いたようだった。

「…なんだ横島。貴様、誰か約束でもあるのか?」

「ん、まーね」

「なにぃ……!?」

エヴァンジェリンは不愉快そうに柳眉を吊り上げた。その横で、密かに茶々丸もピクリと反応している。
誰とどんな約束をしているのかっ!!と勢い猛烈に問い詰められ、横島は昨日の出来事を2人に掻い摘んで話した。
朝倉和美とか言う若き新聞記者はともかく、中華少女は特徴しか伝えていないが、2人の知り合いだったようで、あいつか……とエヴァンジェリンが頭を抱える。
事情を訊き終えた後も、エヴァンジェリンは不機嫌なままだった。気のせいか、茶々丸もいつもより態度が硬質な感じがする。

「朝倉和美の記憶を消したのは、実に良い判断だった。そこは褒めてやってもいい。
 しかし……大河内アキラと古菲の記憶を消さなかったのは、一体どういう了見だ?」

「あ、いや…」

「大河内アキラ、古菲の両名はどちらも一般人の領域を出ないものと思われます。
 特に、考えが浅いと推測される古菲さんに情報が漏洩したのは、結構な痛手かと。これは由々しき事態です」

「け、けど…」

「…まあいい。その2人に関しては、今からでも遅くない。昨日の今日だしな。
 どちらかにより情報が洩れていたとしても、しらみつぶしに処理していけばいいだけだ。
 貴様に任していては、いつの日になるか分からんからな。私に任せておけ。……まったく、世話の焼けるやつだ」

ふふ、と妙に優しげな笑みを浮かべ、横島を見やるエヴァンジェリン。それはまるで、出来の悪い弟を可愛がる姉のような視線だった。
そして、その生暖かい視線には、横島も身に覚えがある。青山にいた頃、随分と感じたものだ。
何だか満足気な主をよそに、茶々丸は早速、広場の方に目を向けていた。

「では手始めに、古菲さんから処置を始めましょう。マスター」

「む、そうだな。ヤツはアレ気味だからな。ちょっと脳に刺激を与えてやるだけでいいだろう。分かっているな、茶々丸?」

「勿論です、マスター」

すっと持ち上げられた茶々丸の掌には、何やら紋章のようなものがうっすらと光り、浮かび上がっている。
麻帆良大ロボット工学研究会with葉加瀬聡美によって開発された新機能、その名も『茶々丸ステキハンド』である。
シャイニングなフィンガーや、サイキックなウェーブが出せちゃったりする、とっても便利なおててなのだ!
…茶々丸の手が光って唸らない内に、横島は慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっと待て! ちゃんと口外しないように言ってあるし、あの子らは約束破るような子じゃないって!」

「ハ、何を知ったような口を。
 いい事を教えてやろうか、横島。昨日、貴様が何の考えもなしにべらべらと情報を洩らした中国人、ヤツの名は古菲と言ってな…。
 脊髄で物事を考えているような、短絡浅慮な思考回路の持ち主なのだ。約束したからといって、それを憶えている保証などありはしない。
 流石に昨日の出来事くらいはまだ憶えているだろうが、早めに手を打っておくに越した事はないのだ」

「いや、でも…」

「口答えは許さん。これは麻帆良の機密に関わる、非常に重要な問題だ。貴様の一存で決められるような事ではない。
 本来なら、口を滑らせた貴様にも、何らかの処罰が下されるのだが……安心しろ。そうならないよう、私がジジイに進言してやる。
 き、貴様に何かあったら、堂々と血を飲む事もまかりならんからなっ! べ、別に貴様のためを思ってじゃないんだぞっ!?」

「え、ああ、うん……?」

ツンデレ全開のエヴァンジェリン。しかし横島には気付かれない。
首をかしげて混乱している横島を見かねたのか、茶々丸がぼそりと呟く。

「マスターは、素直ではありません」

「ちゃ、茶々丸ーーーッ!!」

うがーっ!と猛り狂って茶々丸に飛びかかろうとするエヴァンジェリンだったが……
ぽん、と頭に置かれた暖かい感触に、動きが止まる。

「何だかよく分からんが……ま、ありがとな、エヴァちゃん」

茶々丸に言われて、エヴァンジェリンが自分の事を心配してくれているのだと察した横島。
感謝と情愛の印に、エヴァンジェリンの頭を優しく撫でてやる。
子ども扱いするな!と激昂するかと思いきや……意外にも彼女は、全身を真っ赤にして、あうあう言いながら硬直していた。

「ぅ、あ、ぁ………」

「……………」

尚も撫でられ続けるエヴァンジェリンと優しげな微笑を浮かべている横島を、茶々丸が羨ましそうに見詰めていた。






エヴァンジェリンと茶々丸を引き連れ広場に到着すると、既に件の中華少女・古菲の姿があった。
御丁寧な事に、制服からカンフースーツに着替えている。準備は万端といったところか。
古菲は横島の到着に目を輝かせたが、その後ろに続く2人に、不思議そうに小首をかしげた。
訊かれてもいないのに、横島は慌てて説明する。

「ああ、この2人は立会人だから。あんま気にしないで」

「立会人…。本格的アルなっ!」

気分出るアルなー!とはしゃぐ古菲。も少し物事考えような…と横島は思った。
古菲の記憶を消す云々については、横島必死の交渉により、その判断を学園長に任せる事になった。
ゆえに、エヴァンジェリンと茶々丸がわざわざこうして足を運ぶ必要はなくなったのだが……どうも、横島と古菲の立会いが気になるようで。
いや、勝負の結果は既に見えているのだから、2人が気にしているのはまた別の事なのかもしれないが。
…とにかく、横島が道草を食っていて時間に遅れた。早々に仕合を始める事にする。

「では……互いに、礼」

形だけ審判の茶々丸が、すっと手を振り下ろす。
古菲は元気良く、横島は気だるげに礼をする。
そして一旦間合いを取り、ここに仕合が始まった!

「イィィアァァァッッ!!」

始まるやいなや、古菲は躊躇なく踏み込み横島に肉薄すると、次々と技を繰り出す!
守りに逃げて勝てる相手ではないと判っているのだ。ならば思い切って突っ込むのみ!と、気迫がそう物語っている。
いちいち技の名前を叫んで攻撃しているわけではないが、古菲の放つ拳、蹴りは全てが全力。全てが必殺。
間隙なく襲いかかる鋭い攻撃に、横島も舌を巻いて回避行動に徹する。
迫り来る拳を、躱し、いなし、受け……。時にかすりもするが、その程度ではダメージにならない。
飛散する古菲の汗が顔にかかる間合いの中、横島は感心していた。

(この子、まだこんな年だってのに、かなり鍛えこんでやがるな。
 雪之丞ほど酷くはないだろうけど、こりゃ結構なバトルジャンキーだ……。いっちゃん苦手なタイプだよ。
 それに、思ったよりできるぞ。倒そうと思えば倒せるけど、手加減するには手強い…。向こうが疲れて動き止るのを待つしかないか)

ラッシュが始まってから、既に人間が連続して運動するには結構な時間が経っている。
そろそろ疲れて動きも鈍る頃だろうと踏んだ横島だったが……しかし、古菲は手数こそ減らしたものの、巧く緩急をつける事でカバーし始めた。
避けにくい攻撃を、避けにくいタイミングで、決して単調なリズムにならないように。言うは易いが、そう簡単に身に付けられる技術ではあるまい。
精々まだ14,5の小娘が、よくもここまでやれるものだ。横島は尊敬するよりも、むしろ呆れた。
今まで鍛錬に費やした時は、少女の短い人生の幾割を占めるのだろうか。まだ遊びたい盛りの子供が、何故そうまでして力を求めるのか。
確かに、強くあって不便な事はない。しかし、それよりももっと重要な事がある筈だ。と横島は思う。一度失った時は、もう取り戻す事はできないのだ。
長いようで短い人生の中で、最も自由で、最も純粋な時を、鍛錬に費やす。横島にとっては、考えられない事だった。

(これからもその調子で生きてけば、この子は一体、どうなるんだ?)

強くなるだろう。ともすれば、誰も及ばぬほどの力を得られるかもしれない。
強くなった。それはいい。彼女は得た力に溺れず、更に上を目指して精進するだろう。それこそ、一生を懸けて。
しかし、その先には何があるのだ?武力以外の何が残されているのだ?…横島は思う。それはきっと、孤独だ。
強大な力を持つゆえ、孤立する。例えば、青山鶴子がまさにそれだった。彼女にはたまたま横島という理解者が現れたが、古菲はどうか。
今はまだいいだろう。友人に囲まれた生活も送れる。しかし、彼ら彼女らが大人になれば、そうもいかない。
平凡な、平和な人生を送る者には、ただ強さを求め、強者に飢える異端の気持ちなど解りはすまい。端的に言うと、社会不適合者なのだ。
唐突に、横島は古菲のこれからが心配に思えた。弟子に重ねて見てしまったせいかもしれない。
他者と同じく、平凡な人生を送れとは言わない。しかし、普通の女の子の幸せ、喜びを、もっと満喫してもいいのではないか。
それこそ古菲の勝手なのだが、生憎と横島はお節介なタチだった。まあ、それが発揮されるのは、主に眉目秀麗な女性に限られるのであるが。

「ふッ!!」

地を這うような体勢から繰り出された古菲の突きを半歩引いて避けると、その手が引き戻される前に、横島は素早くホールドした!
しまった!と顔を歪め、何とか脱出しようともがくが、暴れれば暴れるほどに腕と肩が軋み、痛みが骨身に突き刺さる。
関節外すの覚えとけばよかたネ…!と歯噛みする古菲だったが、横島はあっさりその手を離した。
何のつもりか、と疑問に思うが、まあ相手の思惑などどうでもいい。古菲は、細かい事は気にしない主義だ。
とにかく、体力も本格的に消耗して来たので、一旦間合いを取ろうとしたところ……瞬きにも満たない間に横島に踏み込まれ、その両手を取られる!

「!!」

投げが来るか!と身構える古菲だったが……予想に反し手は固く握られたままで、特に何かされる気配はない。
しかしこの状態のままで蹴りでも繰り出そうものなら、軸足を狙われ、相手の思う壺だろう。そう思うと、迂闊に身動きできない。
次の手を考えている古菲の耳に、突然、驚くべき言葉が舞い込んだ!

「今度、遊びに行こうっ!!」

「「「「「「「「「「はあぁっ!!?」」」」」」」」」」

白昼堂々の喧嘩から、突然のナンパ劇。いつの間にか集まっていたギャラリーは、見事に声を揃えて仰天した。
何気に、エヴァンジェリンと茶々丸もその中に含まれているのがポイントだ。

「ア、アイヤー……」

当の古菲は、突然の誘いにただ、困惑するしかなかった。

『彼』を追え!(6) 詰問×乙女心×自爆 投稿者:毒虫 投稿日:08/02-17:07 No.1029



「一体、どういうつもりだ横島ァッ!!」

げしげしと、倒れ伏している横島に追い討ちをかける。
横島の白昼堂々のナンパ劇から、既に半日が経っていた。エヴァンジェリン宅での事である。
あの後、大混乱の中、エヴァンジェリンが横島の延髄に強烈な一撃を決め、意識を刈り取り、茶々丸が自宅まで運んだのだ。
午後の授業は全てサボタージュした。古菲も横島と同様にしてやろうかとも思ったが、学園長に電話で確認したところ、手を出すなと釘を刺されたのだ。
その腹いせが横島に回ったのは、言うまでもない事である。ミイラになるまでエヴァンジェリンに血を吸われてから、未だ意識は戻らない。
腕を組んで何事かぶつぶつ呟いては、時々こうして横島を打擲するエヴァンジェリンであったが、気が晴れる事はない。
茶々丸も、主の暴虐を止めるでもなく、若干冷ややかかつ複雑な瞳でカサカサになった横島を眺めるのみ。

「よりにもよって、あのバカ娘に……ッ!! たとえ誰であれ納得はすまいが、ヤツだけは本当に納得がいかんぞ!!
 こ、このエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルがあんなカンフーバカ一代に敗けるなどと……絶対にあってはならない事だッ!!
 なのに、なのに貴様はぁ……ッ!!」

「マスター……」

「なんだ、茶々丸ッ!? 今の私は気が立っている!! 邪魔するようなら、何をするか分からんぞッ!!」

「いえ、横島さんが……意識を取り戻したようです」

見ると、確かに、今までピクリとも動かなかった横島の背が痙攣している。
耳を澄ませば、う、うう……と、微かな呻き声も漏れ聞こえた。
ここぞと言わんばかりに横島の上着の襟を引っ掴むと、エヴァンジェリンは片手で横島ごと持ち上げた。
横島の下半身は床についているが、その膂力たるや凄まじいものがある。今の彼女は、魔力による身体強化もなされていない状態なのだ。
軽く驚いた表情を浮かべている茶々丸を気にも留めずに、エヴァンジェリンは半死半生の横島に詰め寄る。

「横島、貴様ッ!! 昼間のアレは一体、何のつもりだ!?」

「ぅ……え? な、何? てか、ここどこ?」

首は固定されているため、眼球のみを動かし、状況を探る。
頭まで血が行き渡らず、しばらくぼんやりとしていた横島だったが、次第に状況を飲み込むと、すぐさま元気を取り戻し、弁解を始める。
女性は怒らせるべからず。もし怒らせたようならば、とりあえずその場だけでも口八丁で何とか丸め込むべし。横島が25年間に及ぶ人生の中で学んだ教訓だ。
なぜエヴァンジェリンが怒っているのかは解らないが、とにかく横島は必死だった。

「そ、それはほら、あれだよ! 敵を知り己を知れば百戦危うからず……とかまあ、そんな感じ? みたいな?」

「む……。つまり、相手を油断させ、情報を引き出し、分析し、その上で対処しようとした……それゆえの行動という事か?」

「そう! それ! まさにそれっ! ジャストイット! そーゆーことっ!」

「なるほど、流石だな……」

うんうん、と思慮深げに頷くエヴァンジェリン。
ホッと安堵に胸を撫で下ろす横島だったが……

「…と、言うとでも思ったか!!」

ボグシャーン!!と、謎の効果音を発する蹴り!
天井に頭をぶつけ、血反吐を撒き散らしながら、横島は頭から落下した。

「…古菲には、私の方から断りを入れておくからな。貴様はそのまま、猛省してろ!」

サッカーボールキックを側頭部に蹴り込みまたも横島の意識を失わせつつ、吐き捨てるエヴァンジェリンだった。




エヴァンジェリンが夕食を済ませ、入浴し、一息ついたところで、ようやく横島は目を覚ました。
どうぞ、と差し出された水を飲み干し、茶々丸に礼を言う。エヴァンジェリンも気がついたようで、呆れた口調で話しかけた。

「ようやくお目覚めか、よくも暢気に寝ていられたものだな。
 …ジジイからの言伝がいくつかある。1度しか言わんから、心して聞け」

エヴァンジェリンの言うジジイとは、学園長の事だろう。しかし横島に思い当たる点は特にない。
という事は、また何か新しい仕事でも舞い込んだのか。例えば……そう、この前頼まれた、孫娘の木乃香嬢の護衛の件かもしれない。
頷く事で、横島は先を促した。

「まず、古菲と大河内アキラの事だが……妙な事に、記憶操作など、特にこれといった処置は考えていないそうだ。
 事態を静観せよとの事だが、あの狸ジジイの事だ。何かロクでもない事を企んでいるのかもしれん。
 私としては、無論納得がいかないが……立場上、決定に逆らうわけにもいかん。
 …ああ、特にジジイは言及しなかったが、これ以上奴らへ接触する事は許さんぞ」

「え、けど……あの子との約束は?」

「貴様、私の話を聞いていなかったのか!? 私から断っておくから、貴様は大人しく校庭の隅でも掃いていろ!」

「や、俺も男だし、いくら守備範囲外とはいえ、女の子との約束を破る事はできないなぁ」

「貴様ッ……」

激昂しかけるエヴァンジェリンだったが、タイミングを見計らって、茶々丸がスッと間に入る。
また撲殺ショーが始まりでもしたら、全く話が進まない。それは困る。

「お言葉ですが、古菲さんは何か明確な返答をしたわけではありません。
 彼女の合意が得られなければ、約束が成立したと見なす事は不可能かと思われます」

「う…」

正論だった。
確かに、古菲からの返事を聞く前に、エヴァンジェリンに拉致られてしまっていた。
古菲からイエスを得られない限り、約束が成立したとは言えないだろう。
それを指摘したのは茶々丸なのだが、何故かエヴァンジェリンは得意気に鼻を鳴らした。

「フッ、見ろ! 約束など、そもそも取り交わされていないではないか!
 これで口実もなくなったな。何に拘っているのかしらんが、機密保持の問題上、古菲に接触するのは諦めてもらうぞ!」

「ぐ……。け、けどっ」

「………」

反論しようとする横島だが、何か言えばすぐにでも、傍に控えている茶々丸にことごとく論破されてしまうだろう。
結果が見え、横島は勢いをなくした。所詮、舌戦で男が女に勝とうなどというのは無茶な事なのである。
力なく肩を落とす横島とは対照的に、エヴァンジェリンはやたらと上機嫌だ。茶々丸も、心なしか満足気な表情を浮かべているように見える。
最大の懸念事項が解決したところで、ああそうだ、とエヴァンジェリンは話を切り出した。

「それと、ジジイが明日、学長室へ来いと言っていたぞ。
 何でも、来週の修学旅行に関して込み入った話があるそうだ」

「え、修学旅行って……4月にあんの、ここ? まだ新しいクラスも団結してないだろうに」

「中等部は3年間、よほど特殊な事情がない限り、原則的にクラス替えはありません」

茶々丸の説明に、あ、そうなの…と相槌を打つ。
クラス替えといえば、気にあるあの娘と一緒のクラスになるか、ドキドキしたもんだけどなぁ……と思ったが、そういえばここは女子校だった。
いや、男子校エリアには、麻帆良学園男子中等部が存在するのだが、言うまでもなく横島はその存在を知らなかった。まあそんなもの、知ったところで、3歩も歩けば忘れるのだろうが。
とにかく、確かにクラスを替えてもそこにいるのが同性ばかりなら、思春期特有の、あの甘酸っぱい思い出も生まれないだろう。
いっその事一緒くたにすればいいと思いがちだが、それでは女子校が一つ消える事になる。それはあまりにも悲しい事だ。
女子校とはすなわち、寒風吹きすさぶ荒涼の現代社会における、数少ないサンクチュアリなのだ。失われる事など決してあってはいけない。
それを考えれば、ここ麻帆良の方針は実に素晴らしいと言える。女子校と男子校をわざわざ分けてまで、女子校という美しき形を残す。
まさに新発想だが、英断である。この方策を採った人物は、物事というものがよく分かっている。要するに何が言いたいのかというと、

「やっぱ………女子校って、イイよねっ」

「「…はぁ?」」

染み入るような声音で呟く横島だったが、返って来たのは二対の奇異の視線だった。
迂闊な事に、考えを口に出してしまっていた。これも女子校の持つ魔力が成せる業か。
慌てて咳払いすると、横島は露骨に話題の転換を試みた。

「そ、それで、行き先はどこなんだ? 最近だと、やっぱ沖縄とか北海道とか、下手すりゃ海外だったり?」

「いや、京都だよ。一昔前の定番だな」

「ん、そっか……京都か」

横島にとって京都といえば、第二の故郷とも言える地だ。
実質の滞在期間を考えると、むしろ京都にいた時間より、仕事で方々駆けずり回っていた時間の方が長い気もするが。
ともかく、京都といえば青山、青山といえば鶴子、とイコールで結ばれる。
京都を離れてまだひと月と経っていないが、それでもやはり若干の寂しさは感じる。
そんな感情が顔に出ていたのか、ん?とエヴァンジェリンが片眉を上げた。

「なんだ、京都に思い入れでもあるのか?」

「そりゃまあ、ここに来る前は京都を根城にしてたからなあ」

故郷を懐かしむような口調の横島に、エヴァンジェリンは意味深に口許を歪める。

「それでは、ジジイの話は朗報かもしれんな」

「ん? なんか知ってんの?」

「直接聞いたわけではないがな。…まあ、明日になれば分かる事だ」

ククク、と、どうしても悪役っぽい笑い方。どうやらエヴァンジェリン、長年の間に骨身から悪役らしさが染み付いてしまっているらしい。
何か不安を掻き立てられるような笑みに、物騒な話でも待ってるのか?と邪推したくなる。
それを努めて気にしないうようにし、また新しい話題を振る。

「しっかし、修学旅行かぁ……。学生生活最大のイベントだよな。
 エヴァちゃんと茶々丸ちゃんは、もう準備とか済ませたんか?」

「…貴様、何か忘れてないか?」

三白眼で睨まれ、ああ、と横島はようやく思い出した。
『登校地獄』の呪縛に縛られ、茶々丸はともかく、エヴァンジェリンは麻帆良から一歩も外に出る事はできないのであった。
つまりは、15年に渡る中学生活の中で、ただの一度も修学旅行や遠足を体験していない事になる。横島は不憫に思った。
何せ横島、学生時分は、遠足や校外学習、修学旅行のために学校に通っていたようなものだった。
体調を崩したわけでもないのに、そんなイベントの数々に参加できないとは……とても耐えられた事ではない。

「そっか、そうだっけか……。
 特に今年なんかは、担任からしてあのボウズなんだろ? 想像してみるに、ハチャメチャで楽しそうなのになぁ…」

「よせ。ガキどもに混じってはしゃぐつもりなど、毛頭ない。
 それより、いい休日が出来る事の方が嬉しいさ」

「そんなもんかねー」

無理をしているのではないか、と一瞬考えが浮かぶが、すぐさま思い直す。
エヴァンジェリンからしてみれば、中学の同級生などほんの子供なのだろう。子供の中に一人大人が混じって……それが楽しいと思えるのか。
割と子供好きの横島であれば、それなりに楽しめるだろう。しかし、茶々丸はともかく、エヴァンジェリンはどうしたって子供好きには見えない。
修学旅行の期間だけ封印を一時的に解除してやろうかとも思ったが、流石にそれは過ぎた世話だろう。
それに、そんな勝手な真似をしてのければ、横島と、ひいては青山と関東魔法協会の間に深刻な軋轢も生じかねない。
エヴァンジェリンからそう頼まれたのなら、考えない事もないが……現時点では余計なお節介だ。

「そんならいいんだけど……気が変わったらいつでも言ってくれよ。
 事と次第によっちゃ、まあ修学旅行の間だけなら何とかするからさ」

「大口を叩くな、身の程知らずが。貴様ごときにどうにかできる呪いでは………いや、待てよ。
 まさか、例の文珠とやらでどうにか解呪できるのか!?」

「んー……ま、多分ね」

「な、なぜ黙っていた!? …いや、それはいい。それより、今すぐこの呪いを解けっ!!」

「や、そりゃ無理だよ。んな勝手な事すれば、学園長に怒られて、青山に送り返されて、下手すりゃそこで首チョンパだ。
 親兄弟とか仲間とか親友とか恋人のためならともかく、さすがに昨日今日知り合った奴のためにそこまでやれるほど、人間できてないし。
 ……俺に青山を捨てさせるに足る見返りを用意してくれるんなら、考えない事もないけどね」

「む、むう……」

シャクだが、横島の言っている事はもっともだ。
しかし、見返りと来たか。エヴァンジェリンは考えた。今、自分に用意できるもの。
まず一番最初に考え付くのはやはり金銭の類だが、サウザンドマスターに捕まった際、全て没収の憂き目に遭った。
それからの15年間でコツコツ貯めた日銭は、中学生が持つにしては結構な額にはなったが、とても横島を満足させられるものではない。
それより他になると、やはり『人形遣い』の技術を活かし、横島用に一体、最高級の人形を作ってやるのは……いや、却下だ。
作り与えたところで、その人形を従者として扱いきれるのは、やはりエヴァンジェリンを置いて他にいない。
そもそも、横島に魔力は皆無なのだ。せっかく作ってやった人形も、悪趣味なインテリアにしかなるまい。
金銭も技術も提供できないとなると、残ったのはあと一つ。しかし、これをやるのはやはりどうかと思う。
『闇の福音』とまで謳われた最強の闇の魔法使いが……いや、それ以前に、一人の女性として、それは守るべき最後の一線。
しかし、今のエヴァンジェリンにはそれしか残されていないのだ。忌まわしき呪縛からの解放に比べれば、と決意を固める。
…彼女自身気付いていないが、エヴァンジェリンの頬は紅潮していた。怒りというより、むしろ照れと羞恥で。

「…生憎だが、以前ならともかく、今の私にはこれといったものを用意する事はできない。
 だ、だから……だからだな、そのぉ………わ、わわわっわわ私をっ! く、くれてやるっ!!」

「………へ?」

「か、かかか勘違いするなよっ!? し、仕方なく、仕方なくなんだからなっ!! そ、そうでもなければ、だ、誰が好き好んで貴様なんぞにっ!! 
 ……ああ、いや、その、だからといってだな、き、貴様の事が嫌いだとかそういうわけじゃないんだぞ? 早とちりするなよっ?」

「…………」

慌てふためくあまり、つい本音っぽいものを口走ってしまうエヴァンジェリンだったが、横島の反応は芳しくない。
わけのわからない焦燥を感じ、エヴァンジェリンは更にテンパってしまった。

「な、なんだその反応はっ!? こ、このエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが、『闇の福音』が貴様のモノになると言ってるんだぞ!?
 涙を流して感謝するとか、狂喜のあまりに私に抱きつくとか、もっとそれらしいリアクションをしろっ!!」

「いやぁ……」

困ったように、横島はぽりぽりと頬を掻く。
なぜ私に抱きつかない!?と、いささか論点のずれたところでキレかけたエヴァンジェリンだったが……
横島に優しげに頭を撫でられ、ふにゃあっ!?と妙な声を上げて硬直する。
そして横島は無謀にも、呆然から陶然へと変わりつつあるエヴァンジェリンに生暖かい視線を送りながら、考えもなしにのたまった。

「そーゆー事は、もっと大きくなってから言おうな?」

「「…………」」

ピキ、と何かに亀裂が入る音が、確かに横島には聞こえた。
大人しく頭を撫でられていたエヴァンジェリンも、それを羨ましげに眺めていた茶々丸も、時が止まったかのように動きを止める。
そのまま十数秒の時が過ぎたところで……ようやく、エヴァンジェリンが動いた。顔を俯かせたままで、パシンと頭に乗っていた横島の手を叩き除ける。
茶々丸は音もなく移動すると、玄関の扉を開けた。猛烈に嫌な予感を感じる。横島の背は、いつの間にか冷や汗でびしょびしょに濡れていた。

「あ、あの、あのぉー……」

「…………」

必死に弁解しようとするが、緊張か、それとも恐怖のためか、呂律が回らない。
そうこうしている内に、エヴァンジェリンの拳は固く握られていた。気のせいか、全身からオーラっぽいものが出ているように見える。
その拳を腰だめに構え、ここに至ってようやくエヴァンジェリンが顔を上げた。般若だった。

「このきたならしい阿呆がァーーッ!!」

「ペサァーーーーーーーーーーッ!!」

思いッきり頬を殴られ、横島は地面と平行に吹っ飛んだ! その威力は、まるでカノン砲を喰らったようだったと、後の横島が証言している。
上手い具合に茶々丸が開けたドアから外に飛び出すと、木の幹にぶつかり、2,3本ぶち折ったところで、ようやく動きを止める。
その顛末を見届けると、胸の前で十字を切り、茶々丸はドアを閉めた。まあ、死ぬことはあるまい。多分。
一発で横島を死の淵に追いやったエヴァンジェリンだったが、まだ溜飲下がらぬといった様子で、ソファの上にあったぬいぐるみをぼすぼす殴っている。

「あ、あのナチュラルボーンバカがァァァッ!!」

吼え猛るエヴァンジェリン。
ここまで元気が良い主は初めて見たが、果たしてこれは良い事なのだろうか、と茶々丸は疑問に思った。
…翌朝、若干冷たくなった横島がそのままの形で発見され、2人は相当焦る事になるのだが、それはまた別の話だ。