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とどのつまり、結論はこのようになった。 『無形流動体だって恋い慕い』―結― 水の中に浮んでいるような緩やかな微睡の中で、僅かな空白を感じて段々と意識が澄んで行く。 ぼんやりとした視界に映ったのは、淡く光る石の天井。 ――ここは何処。 口の中で言葉を呟きながら、起き上がろうとした――その瞬間、全身の節々に違和感を覚えた。 掌に感じた柔らかな感触と、起した上半身から見える光景を見て、全ての疑問に対する答えを理解した。 ここは、偉大なる魔術師ユニガム家の地下に在る客室。 私が寝ていたのは、その客室のベッドの上。 そして昨日、私は――。 「……クルツ、は?」 そこまで考えて、私が最初に覚えた違和感の正体に気が付いた。 乱れたシーツの上には私だけしか居らず、隣に居るべき彼が居ない。 「……」 心悲しい(うらがなしい)――そんな一抹の感情が心に落ちた。 寂しさを覚えたと同時に、その事実が嬉しくもあった。 私にもまだ、他人に『背を預ける』感情がまだ残されていた事が。 感謝、嫌悪、恐怖、信頼、憤然、悲嘆。 それらの感情を他人に抱く事は多々あるが――安堵、好意と言った他人に『身を寄せる』感情を抱くのは、本当に久し振りだ。 樹精『ドリュアス』である私は『ニンフ』と言う大きな括りの中に存在している。 ニンフは総じて気分屋であり、感性に素直に生きている。 故に、気に入った相手を見つけては誘惑して絡め取り、一時の間だけ心を預けて気が済めば、その場で躊躇い無く捨て去る事が多い。 その行為は正しく、私達が語源である通り『ニンフォマニア(過剰性欲or色情症)』の『ソレ』だった。 ――私は、自分自身の『性質』が何故か許せなかった。 嫌悪と言い換えても良い。 極稀に、そう言った考えを持つ精霊(もの)が出てくると言う事を後で知った。然し、その殆どが自身の欲に抗えず(あらがえず)に溺れていく。 嫌だった。溺れるかも知れない可能性が残る未来が、心底嫌だった。 だから――私の世界を『知識』で埋め尽くした。 他人との深い関わりを持たずに最低限で済まして、自分の内側に『理性』と言う『領域』をひたすら築き上げる。 貪るように本を読み入れる。 遊ぶ様に読み漁る。 狂った様に読み耽る。 文字は『人』だった。 文字が集まる。 文章は『思想』だった。 思想と思想が交じり合う。 書籍は『国』となった。 様々な書籍が本棚に収められる。 本棚は――遂に『世界』へとなっていた。 その二つの世界を往来する内に、何時しか私は感情の『幅』を少しずつ削ぎ落として、他人に感情を『預ける』と言う事を忘れ始めた。 私自身に怒りを覚え、本を読み進める事に没頭し、心を整理する。 そうして当初の目論見は達成された。 すると今度は、読み続けていた『世界』を体感したいと思い始めた。 手元には稀少本である魔術師ユニガムが綴った『魔術体系基礎理論』が一冊。 その一冊の本が、静かに蠢き続ける情熱を抱く切っ掛けだった。 ――彼の書き表した世界を、もっと覗いて見たい。 その衝動は日毎に熱を帯びて行き、未知への探究心と知的好奇心は募り、当然の帰結のように冒険者へと私はなっていた。 そして冒険者になった私に待っていたのは、多大な苦難と、僅かな幸福の連続だった。 冒険者と言う人種を真直ぐに歩く為に必要なもの、それは機微を読み解く力、人との繋がり等の社交性も、何よりも運の良さ。 一切が欠如していた私は、これも当然のように綺麗事だけでは許されなかった。その所為で――アレ程まで嫌悪して居た、他者へと身を『預ける』事も何度かあった。 しかし、そこには情は無い。ただ生きる為に、身を差し出しただけ。 自分の性(さが)に流されるかも知れないと恐々と最初はしていたけれども、それは悉く杞憂に終わった。 ――そう、皆は『こんなもの』に溺れていたの。 事の終わりの後味の悪さを噛み締めながら、私は何度も小さく呟いた。 心と身体が離された性交には嫌悪しか無く、当然のように溺れる事も無い。 「けれども、昨日は……」 ――心地良かった。 私は確かに、心身ともに溺れていた。 いや、溺れるとは違う。漂うと表現するのが適切。 確かに『魔力酔い』と言う側面もあった。それでも、彼――クルツが私を気遣いながら、丁寧に糸を手繰り寄せるように、惹き込まれる快楽。 中盤からはクルツの理性が外れたのか、断続的に意識を失う程の快楽に飲み込まれたが、一方的に与えられる物ではなく、辿って来た過程の中で互いに求め合あった。 心と心が、身体と身体が、僅かでも繋がると言う行為があれほどまでに心地良く艶やかなものだとは知らなかった。それは、生まれてから初めての経験。 「――」 思い出している内に、頬に熱が集まっていくのが解った。顔が火照って行く。 昨夜の性交での行動が、声が、全てが私と言う存在から掛け離れていた。少しでも意識すればあられもない、または、はしたないと表現出来る嬌声が耳の奥で残響する。 恥かしい――死にたい。 そう思わずには居られない。身体に掛けられていた毛布を手繰り寄せ、羞恥のあまりに顔まで引き寄せて蹲る。 「けど……悪く無い」 身を寄せるのも悪く無い――少なくとも彼に身を預けるのは、自問自答を何度繰り返し思い返しても、とても心地良いものだったと思える。 顔を埋める毛布に言葉を染み込ます様に呟く。 小さく「アレが、女の幸せ……?」と、呟く自分は相当馬鹿だ。普段の私からは考えられない。 心と身体を優しく包む幸福感。僅かに緩む頬を押さえ切れない。 これはただ、欲に溺れただけで味わえる物では無い。そう思える。 「――」 けれども、確証は無い。 考えて居る内に、何と無く心臓の置き所が悪く、落ち着かない。 擬音で言うなら『もやもや』する。『むなむな』でも良い。 不安が少しだけ鎌首を擡げる。幾ら考えても、それが何かは解らない。 「……上へ」 答えは出ない。 なら、探さなくてはいけない。 彼が私に掛けてくれたであろう毛布から、産まれたままの姿でベッドから抜け出す。 そこで昨夜、私の全身を濡らしていた粘液の痕跡が一切無い事に気が付いた。 幸いな事に水浴びはしなくても良さそうだ。 それどころか、肌が潤っている。また、魔力酔いする程に芳醇な魔力を吸い上げた御蔭で、気力体力共に充実している。 思わぬ効能に驚きながら、するりと枝や葉を全身に巡らして服を纏う。 「……あぅ」 無意識の内に、昨日よりも少しだけ細工が手の込んだものになって居る服装に気が付いて、驚きの声が少し零れた。女性として枯れて居ない事を喜べば良いのか、何とも言えない気持ちでまた頬が熱くなる。 両手で頬を挟み、無駄と承知で熱を少しでも冷そうとしながら、部屋を出て階段を上りリビングへと戻る。 「――」 そこで視界に飛び込んできた惨状に、思わず絶句した。 蹴散らされたかのように部屋の隅に追いやられている机と椅子。 床に転がされている大小様々な10本以上の酒瓶と、散乱する干し肉等の乾物。 そして、そのリビングの中央で気持ち良さそうに寝ているエレナ。 エレナに掛けられている薄手の毛布はクルツが掛けたのだろう。 昨日は随分と飲んだようだ。それが手に取るように解る。 「……エレナ」 彼女も不思議な人物だった。 旅をした時は短いけれども、信頼出来る大事な友人――けれども、如何言った意図で私とクルツに紹介したのだろう。 私が探しているから。信頼してくれたから。 それだけでは無い気がする。 「……ありがとう、エレナ」 けれども、何でも良い。 どのような思惑があれ、こうして、こんな気持ちで居られるのはエレナの御蔭なのは間違い無い。今はそれだけで充分だった。 何より、エレナが私やクルツを不幸にするような真似はしないだろう。きっと。 私は小さく頭を下げてから、足音を立てないように気を付けながら扉を開けて外へ出る。 「あっ……」 扉を開けて直ぐに目的の人物が視界に飛び込んできたので、驚きの声が零れた。 小さくは無い声だった筈だが、クルツは私の声に気付いた様子も無く、澄んだ空気の森の中で、柔らかな日差しを浴びながら一心不乱に揺れていた。 上半身を黒い塊から作り出さずに、様々な形を作り出す。 うねうね。にゅるにゅる。ぬねぬね。ふるふる。 初見の人物ならば種族問わずに悲鳴を上げても可笑しくない、悪夢の様な光景だろう。 ――あぁ、もう私は駄目になっている。 そんな恐怖を体現したクルツの姿に――少なからずの愛らしさを、見出してしまった。 「……クルツ」 名前を呼び捨てで呼ぶ事に微かに照れを覚えたけれども、思わず私は声を掛けていた。 頬がまだ熱いが、関係無い。 その時の私はただ、彼の名前を呼びたかっただけなのかも知れない。 名を呼んだ瞬間、クルツは時が静止したかのように歪な形で硬直した。 それは出来損ないのオブジェのようにも見えた。随分と前衛的。 「……おはよう」 自然に笑みが零れたのは何時振りだろう。小さく笑いながらクルツに挨拶をする。 すると、ぬらりとした緩やかな動きで上半身を構築していく。 作り出される人と酷似した姿。 もっとも、その心根が人よりも穏やかで優しい事を私は知っている。 気恥ずかしそうに、何処か困ったように身体を揺らして首筋を右手で擦りながら、下半身から一本の触手を作り出して、私に見えるように地面に文字を書いていく。 ≪おはよう御座います。 朝から、貴方の笑顔が見れて嬉しい限りです≫ その文字を読んだ後、私は小さな幸せに包まれた。 それと何故、私は彼に包まれた時、あのような気持ちになったのかが少しだけ解った。 今までの人々は、互いの間に何かを置く。 種族や生まれ、場合によっては血筋等。 けれども、私とクルツは『それら』の全てを脇に置き、クルツとカタリナと言う『存在』で愛し合った。 確かに、今の感情にあの強烈なまでの『快楽』が始まりかは解らない。他にも、クルツの穏やかな性格、そこに含まれる恩義。私の生来に持っている性、餓えていた心の一部。 様々な思いが胸に去来するが、一つだけ確かな事がある 解らないなら、調べる。幸い、読ませて貰う書籍は大量にある――その時を、彼と共に。 願わくば確信を持ったその時も、その後も、心を預け共に歩みたい。 ∞ ∞ 歓喜、困惑、羞恥の三竦み状態で激闘を繰り広げられたが、総じて共倒れと言う決着とあいなった。 私の心中を御説明するならば、その様な混沌としたモノだろう。 いっその事、どこかの勢力が勝者となれば感情の整理も付きやすいのだろうが、私の矜持がそれを許してくれない。 昨夜の事が夢幻のように遥か遠くの事に思えて為らないが、現実からは目を逸らす訳にはいかないだろう。 事が終わり、緩んだ箍を施錠をすると同時に、理性の戻った思考が膨大な量の現実を叩き付けて来た。 一目惚れに近い形の女性と情交を結べた事に対する純粋な嬉しさ。 普段は押し止めている蛮性を制御出来ずに、荒ぶる行為をしてしまった恥かしさ。 その事に対して、このような結果を迎えた事に対しての申し訳なさ。 感情と言う概念が境界線を無くし、縦横無尽に思考を蹂躙されて繊細な私の心は七転八倒の悶絶を繰り広げるのみ。 わなわなと身体を震わせても如何にも為らぬと思えば「このままでは埒が空かぬ。少しばかり頭を冷そう」と、逃げる様に部屋へ来たのが数刻ほど前の話。 途中、何故か大いに益荒男振り――遠い異国の言葉で、荒ぶる鷹の様な表現だった気がする――を発揮してリビングの中央に鎮座しているエレナに対して「面妖な。このような深酒をしているのを始めて見るぞ」と疑問を覚えながらも毛布を掛けつつ、何だかんだと悩んでいる内に、気が付けば日が昇り始めている。 ――あぁ、戻るのが恥かしい。世の中の諸賢はこのような際に如何しているのか。 今までの人生の中で知り合いになる人物も少なく、また機会が合っても人付き合いと言うものを出来る限り迂遠しながら行っていた私には随分な難問だった。 然し、だからと言って、このまま何もしないと言うのも如何(いかが)なものだろうか。 このままでは『へたれ』と呼ばれる人種の『それ』である。 流石にそれは紳士を自称する身としては御免被りたい。 愚策を弄するよりも、一先ず戻って置くべきだろう。逃げ出したと思われてしまったならば、私の評価は兎も角、カタリナを傷つけてしまうかも知れない。 「――クルツ」 完全に不意を突かれた。 腹を括り、部屋へ戻ろうかと言う矢先にカタリナの綺麗な声が耳に届いた。 思わず、軟体中の軟体である私の全身が、金属で作り上げられた人形の様に硬直した。 何たる失態――行動をせず逡巡していた自分に罵詈雑言を浴びせながら、恐る恐る覗き見ると、衣服を整えたカタリナが『ぽとつねん』と入り口の前に立っていた。 平常心が三千世界の遥か彼方に放り投げられ萎縮震慄とした心境にも関わらず、私は視線を外す事が出来なかった。 「……おはよう」 カタリナは微笑に乗せて一言だけ呟いた。 それだけで『するり』と、今まで支離滅裂と慌てふためいていた心が嘘の様に平常心を取り戻した。 私は不敏な動きで上半身を構築していき、残った僅かばかりの気恥ずかしさを抱えて、手持ち無沙汰とばかりに首筋を擦りながら姿を現す。 そして、触手を一本だけ作り出して、カタリナに見えるように地面に文字を書いていく。 既に書く文字は決まっていた。 ≪おはよう御座います。 朝から、貴方の笑顔が見れて嬉しい限りです≫ 昨夜の情事に対して悩みは尽きねど、謝る事は無礼だろう。 確かに様々な思いが心中にあれど『後悔』の二文字は無い。 だから私は、ただそれらを大事に胸に抱えながら、思うが侭の感想を書いた。 カタリナはその文字を読み終えた後、ゆっくりとした動きで何も言わずに傍に寄って来る。 「居ないのは……ずるい」 日差しを眩しそうに目を細めながら、小さく呟いた。 そう言われてしまったら、私には如何する事も出来ない。 謝罪の仕様がない。何を書いた所で、言い訳でしかならない故に。 「良い、困らなくても。これからは、私が暫く困らせる」 聴覚が捉えたその言葉に、私は思わずカタリナをまじまじと凝視した。 その言葉の裏に隠された意味を理解したからだ。 《暫く、この森に滞在する予定ですか?》 文面には表現出来なかったが、私は少なからず驚きを覚えた。 「正確に言えば、クルツの家」 そして、それに被せる様に返答されたカタリナの言葉に一層驚いた。 昨日のような事を踏まえた上で、私の家に滞在すると言う事は理解して居ない訳が無い。 元々がそういった約束であったとは言え、些か予想外である。如何するべきかと悩んでいるのは私だけで、カタリナの中では心決まりしているのだろうか。 いや――もしや、もしやだがこれは、私に惚れたのか。 「読みたい本が沢山ある」 ――と思ったが、早々上手い話は転がっている訳も無い。 それが現実と言うものだと重々承知はして居るが、世知辛いものである。 「それに――」 続けられたカタリナの言葉に「ぬ」と思いながら意識を向ける。 「この森が気に入った――そして、貴方が気に入った」 小花が僅かに揺れるような可憐な笑み。 その笑みを見て思い出す。 ああ――私はこの笑みに参ったのだな。 始まりは十人十色と言うが、この場合は極々普通にあるような、人付き合いの知らぬ男の、安易な一目惚れ。そして話の流れで性交をし、快楽に溺れたのやも知れない。 出会ってから僅か1日――真っ当な恋愛感情とは御世辞にも言えぬだろう。 「然し、それを踏まえて受け入れてくれるならば、相性が良いと言う事でもある」等と都合の良い解釈までする始末。 だが、まぁ――快楽から始まる物語があっても問題無かろう。 常識的では無いだろうが、所詮私は常識の範疇外の『もの』なのだ。 この時ばかりは大目に見て頂きたい。 そう思いながら、私は恐れを知らずにも右手でそっと彼女の左手を包み込む。 彼女は私を見てこない。 ただ、僅かに力を込めて少しだけ身を寄せてきた。 ――不安が無い訳では無い。 一時の感情に流された勘違いかも知れない。 作られる筈だった良好な友人関係が壊れてしまうかも知れない。 契約による縛りで作られた見せ掛けだけの対応かも知れない。 どちらが、ではなく、それは両者に可能性がある。 だが、それを畏れていては何も手に入らない。願いは叶わない。 だから私は一言、内心で小さく呟いた。 甘く震えるような恋を、然るのち大団円の結婚を。 願わくば――そこでまず、御都合主義から始めたいと思う候。 |