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  静粛に、静粛に御清聴を願う。
 ――昔々のある所。
 そのような一説で始まる御伽噺。
 それらは総じて現実離れした信憑性の無いような空想的な物語。
 されども皆が皆、心をときめかして夢想に耽るような物語。
 万恒河沙と積み重ね、連なる数多の生の中、極稀に虚誕妄説のような『御伽噺』を渇仰する余りに、読み手から物語の人物になる者も現れる。

 収められた書物の一人に『ユニガム・ヴェーバー』と言う者在り。
 本名よりも、彼の者を呼ぶ際は違う名で言った方が有名だろう――そう、『錬命術師』と。

 創造、製作、変質――男は何かを生み出し、作り出し、また別の物へ変える事に掛けては天才的だった。金属に限らず様々な物質を、元ある『もの』より完全な存在に錬成する稀代の錬金術師――それだけならば、後世の評価はその様に定まっただろう。

 初老と言う若さで既に卑金属から貴金属を作り出し、尽き往く生命を永遠のものとする事も出来た。
 然し、男はそれを良しとせず、惰性を嫌い人間の限りが有る生だからこその刹那的な爆発力と、瞬間的な発想力無ければ、先へと進み続ける事は出来ぬと魂を加熱させ続けた。
 彼の者を知る人物曰く『あの男の魂は純然たる好奇心によって構成されていた』と述べる程であった。

 いつしか男は『有から有を』と言う錬金術だけでは飽きたらず、とうとう『無から有を』作り出す事へと情熱を傾けていた。
 その先に何が在る訳でも無く、その後ろに何が在る訳でも無い。ただ、好奇心の指示すままに目指した。
 人工生命体を――それも『完全なる』人工生命体を産み出す事へと。

 その最初の『布石』として、未だ自らが踏み出した事が無い『もの』を創る技術を学ぶ必要があった。
 真っ当な生命が持つべき『もの』――即ち『知性』『五感』何よりも『心』である。
 それらが不足している研究に最も適した存在として選ばれたのが、感覚が無く、本能のみで生き、心と知性が無い故に意思疎通の出来ない『スライム』だった。

 長年の研究を重ねるは幾星霜。
 他の『書物』に記されている例を見ても解る通り、どのような偉人でも場合によっては道を誤る。
 有りがちな事では有ったが、いつの日か男は『手段』と『目的』を履き違え、ただひたすらにスライムへと心を傾ける。

「彼は後年、一つの成功と一つの失敗を収めた」

 書物を紐解く後世の者達は口々に言う。
 成功は一つの奇跡を生み出した。
 痛みや快楽等を感じる擬似神経を持ち、意思疎通は勿論の事、魔術を扱うだけの知性があり、また『心』と言う物を心で理解出来る無形流動体を誕生させた。

 その名を『クルツ・ヴェーバー』――当年58歳となっていた『ユニガム・ヴェーバー』の初めての息子である。

 失敗――それは人工生命体と言う目的を忘れ去り、残りの人生を子育てに情熱と愛情の全てを傾けてしまった事である。



 もっとも世間が何と言おうが、彼はその人生に満足し幸福だったのは言うまでも無い。

 

            『無形流動体だって恋い慕い』―承―



 私は「どうぞ」と言う思いを込めて、頭を下げながら彼女の前に静かにコーヒーを注いだカップを差し出した。
 その後で「コーヒーよりも紅茶の方が、種族を考えるならば水の方が無難であったか」と、差し出す前に一言でも尋ねて置くべきだったと後悔した。
 思わぬ事態に気が動転しているのか、如何にも失念してしまったようだ。

「……ありがとう、ございます」

 彼女――確か名を『カタリナ』さん、と言ったか。
 僅かに困惑と緊張の残る表情で、口数少なく礼を言って来るのを背中で見ながら、エレナの分のコーヒーをカップに注ぐ。

 背中で見ながら――と言う表現は、普通ならば間違いなのだろうが、私に関して言えば意味を違えず正しい。
 私は自らを『裏表の無い性格』と評しているが、身体的な面でも裏表が無い。
 相手に背を向けている――等の表現は、あくまでも自身を人と同じ構造で照らし合わせた際に、身体の部分を結びつける為に便宜上での呼称である。
 普段は眼に当たる部分からでしか視覚を確保して居ないが、やろうと思えば身体の至る箇所、それこそ360度の視界を持つ事が悟られずに可能なのだ。

「――」

 コーヒーを注ぎ終えると、なるべくカタリナさんを刺激せぬように、ゆったりとした動きでカップを右手に持ち、エレナに近付いてく。
 本来であれば触手を伸ばして全ての作業を平行して行えば手早いのだろうが、そのような光景を見慣れない人には眼の毒だろうと、両腕のみでの作業に限定している。
 常に周りに気遣いを――それが如何捉えられるもので在れ、紳士を目指す身としては心掛けだけでも忘れぬようにしたい。
 
「ありがとうよ」

 尾を器用に塒(とぐろ)状に巻き鎮座しているエレナは「クク」と、笑いを堪えながら私に礼を言う。
 「本当に君は失敬だな、全く持って感謝の意が伝わらんぞ」と、遺憾に私が思った所で、今の状態では言葉が伝わらんのが残念だ。

「クッ、ククク」
 
 右手を口元に当てながら、エレナは堪え切れずに笑いを零した。
 大方、緊張している私とカタリナさんの様子が面白いのだろ。または、憮然とする私の様子を感じ取ったのかも知れない。
 ふと、エレナの所業にカタリナさんが気を悪くされていないだろうかと、視界を増やして覗き見る。

「――」

 先程と表情は殆ど変らないが、幾分か柔らかくなっている気がしないでも無い。私とエレナの遣り取りを見て、少し緊張が取り除かれたのかも知れない。
 ――如何やら、エレナの性格を把握されていらっしゃるようだ。

 そんな事を思いながら自分の席へと緩やかな足取りのまま、「それにしても、随分と綺麗な顔立ちをされているな」と内心呟き、如何にもカタリナさんから視線を外せずにいた。
 エレナは――褒めるのは癪だが――麗人と言える容姿をしているが、カタリナさんは美少女と言った所だろう。
 顔立ちだけならば『可憐な』と言った修飾語が付きそうだが、感情が余り表情に出ない方のようで、『人形の様な』と言った言葉の方が適切かも知れん。
 花は花でも咲き誇る花ではなく、月影でひっそりと揺れる花と言うべきか。

 樹精『ドリュアス』は衣服を身に纏わない。もっとも「厳密に言えば」と言葉が付くが。
 しなかやで細い枝を幾重にも編み込み、色鮮やかな花や葉で飾り付けた衣服を身に纏うのだが――それら全ては自身の身体から作り出したものなのだ。云わば、『元』身体の一部と言っても過言ではない。
 
 枝で作られた柔らかそうな薄手の胸当てと、葉で作られた短めのスカート。
 淡い緑色の髪は肩口まで伸びており、右側の一房を花の添えられた枝で出来た髪飾りで纏められている。
 人間に近い薄い緑黄色の瑞々しい肌を多く露出しているが、肌を隠す全ての物がカタリナさん自身の作り出したものであり、自らの意思一つで如何様にも変化させる事が出来るのだ。
 
 ――実に経済的。チラリズム万歳。

 万年『露出魔』である自分としては、衣服での御洒落と言ったものに憬れる所ではある。精霊種が持つ美しさと、人に近い存在への羨ましさ、その他諸々の感情故に視線が如何にも外せない――等と、戯言を弄しながら自身を擁護出来る免罪符を拵えて、未だに眺め見る。
 やはり理由の一つとして、この場に居る面子の中で、もっとも人間に近い容姿をしていると言うのも大きい。
 太腿半ばから樹の根に近いものとなり、膝から下は変化が如実で、太さの様々な樹の根が絡み合い、束になって居るのだが、他の種族と比べても人間に近い姿をして居るのは明白だろう。

「おい、クルツ」
 
 呼ばれた声に、沈んで居た意識を持ち上げられた。
 不機嫌そうにこちらを薄眼で睨むエレナと、警戒しながらも不思議そうにこちらを覗き込むかカタリナさん。
 思考する余りに呆け過ぎて、些か配慮が足りなかったようだ。
 またしても失敗してしまった。悪しき癖なり。
 もっとも、懲りては居ない。これは理性云々の話では無く、私の生き様に関わる問題なので仕方が無い。ええ、仕方が無いともさ。

≪いや、済まない。御茶請けは何が宜しいかと思案していてね
 何処ぞの『蟒蛇(うわばみ)』のおかげで、酒の肴ぐらいしか無くて悩んでいたのだよ≫

 テーブルの上に置いてある紙を取り、手早く文章を書き上げて二人に見せる。

「ほぉ、随分と言うじゃないか」
≪言われたくないならば、今度から品を選んで買ってきてくれないか?
 干し肉よりはお茶請けになりそうな物を所望するよ≫
「その……」

 私とエレナの遣り取りに挟まれて、カタリナさんは少々居心地が悪そうだ。
 体格と椅子に座れない都合上、テーブルの横幅が長い面でなければ自分とエレナにはサイズが合わないので、間に挟まれている形になってしまったカタリナさんには申し訳無い事をしてしまったようだ。
 それにしても、備え付けのイスが有効活用されたのは、いつ以来だっただろうか――。

≪今みたいなやり取りは良く有る事なので気になさらず≫
「……はい。何と無く理解、しました」
≪それはさて置き、エレナの所為で存外に驚かせて済まなかったね≫
「気にして居ないので、大丈夫、です」
≪ありがたい限りだ。そう言って貰えると、胸が撫で落ちる。
 それと無理に言葉を正さずとも、普段通りに喋ってくれて構いません≫
「……気遣い感謝。ありがとう」

 淡々と答える所を見ると、本当に気にしては居ないのだろう。
 とは言え、先程の様子を垣間見るに、驚いてはいたのは事実。
 それに関して言えば仕方が無い――何せ『スライム』と言う種は凶悪なのだ。

 本能に忠実で、また貪欲であり、何よりも形整わず粘液を纏いながら触手を伸ばす姿は、得体の知れない恐怖と嫌悪を醸し出す。
 捕食されれば最後、犯され続けながら段々と養分を抜き取られ、最後には死に至る。
 ここまでの説明だけで、どれほど悪しき『モノ』か理解出来るだろう。
 
 また物理攻撃は効かず、隙間があれば何処からでも忍び寄り、『無形流動体』の特質である分裂や変化を行い襲い掛かる。
 魔術を扱えない戦士からすれば『天敵』とも言える相手だ。

 逆に、魔術師ならば精霊を周りに呼んで警戒していれば、後は何とでもなる。魔力が尽きている場合や、余程の理由が無ければ常に呼び続けているものなので、魔術師から見れば脅威には為り得ない。
 スライムと言う種は、基本的に魔術に対する抵抗力が無く、結界すら越える事が出来ない。
 
 魔術に弱いと言っても、致命傷を与えるにはそれなりの腕前が必要なのだが――本能に忠実なので直ぐに逃げる。
 戦士であっても最悪『ランタン』を掲げるだけで、逃げる場合がある。

 故に対処法は幾通りもあり、常に心掛けていれば脅威では無い――が、彼らは常に、音無く忍び寄り、不意を突いた奇襲を狙ってくるので、戦士にすれば強敵である事は間違い無い。職業の相性によって落差の激しい種であると言えよう。

 ――スライム本人である私が言うのだから間違いは無かろう。

 もっとも、この世の全てに言える事だが、何事にも例外と言うのは存在しており――私もその中に含まれるだろう。
 姿見を構築し、粘液等を抑える事が出来るのは私以外にも、上位種の『ゲル』等も出来るが『他の種に友好的』と言う点で言えば、知りうる限りで『私』だけだ。
 
 何せ、私の敬愛すべき父親が人間なのだ。
 「姿形が違えど、自分も人間だ」と、つい10年程前までは信じ切っていたのも懐かしい記憶である。
 ――スライムは敵、人間は友。
 知性や品性の欠片も無い、本能を理性で抑える術すら持たぬ単細胞共を、自分と同じ種族とは認めたくは無いものだ。

「――」

 カタリナさんの悟られぬ様に見ながら、先程の警戒心を露に構えた様子を思い出して、内心小さく溜息を吐く。
 
 確かに認めたくは無い――が、自身がスライムと言う事実は変らぬか。
 
 目の前に据え置かれている真実を見ずに、喚くだけでは如何にも為らぬもの。
 外見が同じでも、内は異なる――そんな事を初見で理解出来る人間が居ない事実は早々揺り動かぬ。
 その点を受け入れ、真摯かつ紳士的に対応して、積み重ねるしかないと思索する。

「なぁ〜に、一丁前に落ち込んでんだよ。気にすんなってさ。そりゃ、スライムが急に目の前に現れたら誰でも恐怖に慌てふためくってもんだろ?私だってそうするさ」
≪そう思うならば、あんな真似はもう二度とせぬように≫
「ちょっとした茶目っ気だよ。可愛いもんだろ?」

 そう言って笑顔を浮かべるエレナを見ると、如何しても「この人は、本当に敵わないなぁ」と、しみじみ思ってしまう。
 普段は自由奔放極まりないが、言葉や行動の端々に私の事を気遣って居るのが見え隠れするので、何事も笑って済ませてしまいそうになる。
 術中に嵌っているな――と、自覚症状はある。

「そう言えば……思ったよりも驚かなかったのな。いきなり魔法をぶっ放しても仕方が無い状態だったってのに」

 すらりと不穏な事を言われた気もするが、言われて見れば確かにそうだ。
 認めるのは悔しいが、あの状況はいきなり『敵対行為』を行われても仕方が無いと自分も少なからず思う。

「確かに驚いた。けど、偉大なる錬金術師『ユニガム・ヴェーバー』には、異形の息子が居る――その話を思い出した、から」
「なるほど、それなら納得だわな。それにしても、やっぱりユニガムの旦那は有名だね」

 私とエレナは納得するように小さく頷いた。
 しかし、二人の間に僅かな差異がある。
 話の内容をそのまま受け止めて納得したエレナに対して、私はカタリナさんが何故にこのような場所まで足を運んだのか解ったからだ。
 確かに父は有名では在るが、そこに付随する『息子(わたし)』に関しての情報は、それなりに調べなければ知る筈が無い事を、翼の先が青銅で出来ている怪鳥である数少ない友人の『リデス』から聞いた事がある。
 エレナが私に関係あるといった理由は詰まる所――

≪カタリナさんが、エレナを伝手にここへ来られたのは父に関してですね?≫
「はい。不躾かも知れない、けど、御願い、したい――偉大なる魔術師ユニガムの、栄光の軌跡を綴った魔道書の数々を」

 父が生前に書き残した書物は膨大な量になる。
 多種多様に亘る魔道書の数は200冊以上とも言われており、一人の人間が書いた量としては、かなりの冊数になるだろう。
 だが、書籍の総数は確認されているが、その殆どが世に出回って居ない。
 厳重に宮廷図書館等に保管されているのが40冊前後、しかもそれらの大概が複写によるものであり原本に到っては7冊と稀少とされている――筈だ。
 全て人伝の知識なので確証は無いが、事実なのだろう。
 何と言っても、父の残した書籍の殆どが、この家の地下に収められている故に。

「私は、昔、複写を拝読する機会が、ありました。基礎理論と術式の構築に関しての内容に甚く感動して以来、森を抜け出し、本を探し続けて、いました」

 先程から思っていたのだが、如何にもカタリナさんは敬語が苦手なようだ。
 その事を解っていたので、普段通りに喋って構わぬと言ったのだが、それを良しとせぬ様子。
 ぶつ切りに為った単語の羅列の語尾に、力任せに敬語等を結合したような違和感があるが、言葉に秘められている思いは確かに伝わってくる。
 
 それだけの理由でドリュアスが冒険者となるとは――エレナさんの貪欲なまでの知的欲求に驚けばいいのか、はたまた一冊の書物で脳髄まで虜にする父を畏れればいいのか判断に困る所である。

 多岐に渡る種族が冒険者と言う道を選ぶのに対して、精霊と言う種族の割合はほぼ皆無に等しい。
 生まれた地から放れぬと言う事も在るが、精霊の本質として気紛れな性質であり、社交性があるとは御世辞にも言えないのが理由に挙げられる。
 言葉遣いに関しても、感性で話す事が多い故に、期待の出来るものではない。
 それは、人との付き合いが重要となってくる冒険者に馴染めないと言う側面でもある。

 その事を知っているだけに、エレナさんの愚直なまでの真摯な態度に対して、少なからず心絆され(ほだされ)て居るのは認めざるを得ない。また少なからず、礼儀を忘れぬように心掛けている対応にも好感を持てる。
 周りにこう言った人間性の持ち主が居なかったのも、私の心を大きく揺り動かす原因となっているかも知れない。

「そして、エレナと言う友人を得て、幸運にもユニガムの息子である貴方の存在を知り、彼女を頼り、機会を得させて、頂きました」

 言葉を区切り、真正面から私を見詰める。
 その双眸には今まで無かった、強い輝きがあった。

「対価はどんな形でも、必ず払う。どうか拝読させて、下さい」

 対価はどんな形であれ必ず払う――その言葉は破れぬ契約。
 精霊の言葉には『言霊』が宿る。口約束であれ、断言した言葉を違える際には『世界の理』が自身の存在に干渉する。
 ここで私が頷けば契約は成立し、こちらが約束を破棄したり、背いたりしない限りは何をされても為す術が無くなる――随分と話が飛んだものだ。
 
 しかし、如何するべきか。
 その決意の重さを感じながら、頭を捻る。
 読ませるだけならば簡単だが、書物に書かれている内容が内容だけに気軽に返事をして良いものか悩む所。とは言え、エレナが連れてきた時点で、自分の中では信用出来る人物な訳なのだが――と、僅かな逡巡。
 その後「私が悩むよりも、人柄を知る人物に聞いた方が手っ取り早い」と、足元からするりと触手を伸ばし、エレナの尻尾を軽く叩く。

「言うまでも無く、信用しても良い。あたしが保障するよ」

 流石に長年の付き合いは伊達では無い。
 私の意を汲んでくれたのか、エレナは淀み無く望む答えを返してくれた。
 まぁ、エレナは『ここ』へ連れてきた時点で答えは決まっているようなものだったんだろうがね。

≪その願い承りました。
 持ち出しは御遠慮頂きたいですが、この家での閲覧は自由にされて下さい≫

 そこで文章を区切り、少し悩みながら新しい紙を提示する。
 僅かながらの「惜しい事をした」と言う思いが、幾分か筆を遅らせた。

≪然し、先程の『あれ』は無効と為して構いません。我が命に掛けて宣言致します≫

 父が残した書物と言う『血』が、誰かの糧となり脈々と鼓動を打ち新しい『血』なり受け継がれていく。
 そう考えると悪く無いものだ。

「あ――ありがとうございます」

 するりと零れた言葉と笑顔。
 華が咲く様な――何て表現は一生機会が無いと思っていたが、カタリナさんの笑みは正しく『それ』であった。
 顔に血が上る思いと言うのを初めて知った。
 この衝動は、貴重な経験である。また、非常に危険である。
 それよりも心配だ。
 羞恥の余りに、体色が朱と黒の交わり合った奇抜な色と為って居ないか不安が残る。

「……何、震えてるんだい?気持ち悪いから止めときなよ」

 辛辣な声もなんのその。
 早鐘の様に刻む心臓は――存在しないが、あくまでも比喩表現として――苦しいほどに脈打つ。
 これはもしや――夢に見た『恋』と言うものでは無いだろうか。
 俗に言われる『一目惚れ』に近い状況が、刻一刻と世界を変化させて、私に渦巻いているのかも知れない。その渦加減と言ったら、国家転覆を狙う大いなる陰謀も、糸屑と錯覚するほどの大いなる渦だ。
 意識すればする程に、一時の感情と解っていながらも為す術無く流される。
 
「如何か、しました?」

 小首を傾げるカタリナさんの姿に、不覚にも溢れん愛らしさしか感じられぬ。
 恋、盲目也。我、耄碌也。
 男女の駆け引きに余りにも惰弱過ぎる私には、畳み掛けられる鋭利な猛攻に凌ぐ事すら出来る筈も無い。何処からとも無く、恋風が胸の内に轟々と吹き荒れる。
 エレナに導かれてこの地に来た事が運命と言うならば、カタリナさんに出会えたのも日々密やかに祈りを捧げる私に対する運命なのでは――と、二人の逢瀬に対する見当外れ甚だしい妄想すらも、何と無く意味深長な御託のように思えさえしてきた。
 困った、全く持って冷静で居られない。否、居られる筈が無い。

「おい、うねるな。歪むな。揺れるな。良いから、その気持ち悪い動きを止めろ。付き合いの長い私でさえ、捕食されんじゃないかと冷や冷やするぞ。気が触れたか?」

 ただただ、カタリナさんの美しい頬に見惚れる私には、エレナの罵詈雑言ですらこの日この時への祝福の賛辞にしか聞こえぬが、無様な姿を指摘されては流石に意識の外へと言葉を流す訳には行けぬ。
 現(うつつ)を抜かす恋心の開幕間近の前哨戦に置いて、印象を悪くするのだけは困る。
 本来の私は理知的で紳士的な無形流動体である。
 間違っても「いやぁ、これが骨抜きって奴ですね。まぁ、元からありませんが」なぞととちる程には愚かなでは無い。
 すぐさま、全身に力込めて体勢を正した。

「一体全体、急になんだってのさ……まぁ、良い。てか、カタリナが何ぞ話しづらそうにしてんだから気を利かせてやれよ」
≪それは何とお詫びを申し上げれば良いやら、本当に失礼しました。
 気が利かずに申し訳無い。して、何か御座いましたでしょうか?≫
「……ミミズが這ってんじゃないんだから、もう少し文字を綺麗に書けよ」

 一々、突っかからんでも重々承知。
 文面は平静を装えても、文字は動揺を隠しきれなかった。
 いや、むしろ歓喜に震えているのかも知れない。
 正直、我が事ながら、今の自分を理解出来ない。

「あ……その、願いを聞いて頂いた対価を支払いたい、です。何か、御礼を」

 何て礼儀深い。
 まさに、淑女の鏡。
 乙女と言うべき幻の種族。
 心に染みる潤いの味。
 褒めているのか、貶しているのか良く解らなくなってきたが、詰まりはそれ程までに心から感動したと言う事だ。
 それはさて置き――

≪礼には及びません。先程も言いましたが、私は何も要りませんよ≫

 間を置かずに答える。

≪それは何か、弱みに付け込む気がして好ましくありません
 あえて言うなら、言葉はカタリナさんの普段通りに喋って頂けると嬉しいですかね≫

 そうかくと、エレナは苦笑を浮かべてこちらを見る。だが、その笑みは普段よりも柔らかく思えた。

「……」

 カタリナさんは、少し考えた後で、首を小さく振って答えた。

「言葉は解った。けれど、それでは私の気が済まない」

 そう言われると、困ったものだ。
 さてさて、如何したものだろうか。
 実際の話、これと言って要求するような何かが無いのだが。

「――あるだろ?」

 少し冷静に為りながら、両者の落し所を考えて居ると、横からエレナが言葉を挟んできた。その表情は、好物を眼の前に虎視眈々と狙う獣の眼をしていた。
 背筋から変な粘液が零れそうになる、口元を大きく歪めた嫌な笑みだ。
 こう言った時は散々な眼に合うのが常である。

「エレナ、それは何?」
「生き物全てにある三大欲求……例外があるとは言え、それは勿論『こいつ』にも当て嵌まる。」

 その言葉を聞いた瞬間「先に手を打たなければ」と言う思いが一気に消し飛ぶ。
 不穏な空気を感じ取り、すぐさま「何を言う気だ、この人は!」と慌てて触手を伸ばそうとするが、身動きが取れない。
 謀られた――と思った時には既に遅し。
 
 私の立ち位置にのみ、設置式の捕縛型結界が発動して居たのだ。御蔭で、私は身体を震わせる事も、微動に動く事すら封じられた。

 普段の言動や行動からは考え付かないが、エレナは父の古い友人だけあって私の数段は『術式』が得意であり、現存する魔術師として腕の立つ部類に入る。
 簡易的な魔術であれは一工程で全てを終わらせて発動する事が出来る程だ。

 されど、現在進行形で私に施されている結界は『それ』ではない。
 この術式の精巧さから、自室から私を呼ぶ前には既に仕込まれていた事が容易に解った。
 信頼出来る友人、自分の家――そこから来る気の緩みとは言え、今の今まで気が付かなかったとは、悔しいが感心してしまう。
 それにしてもこの結界、私が自力で破ろうとすれば、中々の時間が掛かるぞ。

「最初に睡眠。こいつは例外に当たる部分で、クルツは構造的に必要としない。次に食事。これに関しては、物を消化しなくても『魔力』を摂取出来れば問題無いから、旦那が地下に引いている地脈で充分補える。さて、ならば次は何だか解るかい?」
「……性欲?」
「ビンゴ。正解だ。花丸をあげちゃうよ。そう、誰でも持っている『性欲』だ」
「……グッ」

 そう言って小さく拳を固めて喜ぶ姿は、この状況に置いても可愛らしい。

「とは言え、コイツの場合は結構、致命的でね。精神面に関わってくる訳なんだわ」

 そう言って芝居掛かった様子で、右手で眼を覆いながら首を振る悪鬼羅刹を背に潜ませる響尾蛇の怪女。見間違う事無く、確実に楽しんで居られやがる。

「――」

 そして、それに反応して少しだけ悲しそうな表情を浮かべるカタリナさん。
 流石にそれは、簡単に感情移入し過ぎだろう。絶対に騙され易い人格者だ。
 感性が豊かと言うか――如何やら意外と頭の方が天真爛漫な方らしい。まぁ、それはそれで良いのだが。

「スライムは本能のみで生きているだろ?」
「ええ」
「コイツも知性があるとは言え少なからずそう言う部分があって良い筈なのさ。ただ、育て方が『良過ぎた』せいで、その反動からか如何にも、本能に根付いての行動ってのが嫌いらしくてね。そう言った感情を常に抑圧して、無理矢理に押し殺しているんだよ」
「……」
「それだけで済むならば何も言う事は無いんだけどね――あたし達の意思じゃ、如何にもならずに昂る日があるだろ?」
「――満月」
「そう、月の満ち引きだ。程度の差こそあれ、これに関しては例外無く、僅かじゃあるが『原初』へと意識が引っ張られる」

 そこで一旦言葉を区切り、エレナは私を見る。
 憂い、慈しみ、何よりも優しさを覚える視線が一瞬だけ見えた。

「クルツの場合は、その引っ張られ具合が酷いくてね、普段から溜めに溜めていた分が魔力にやられて自制の螺子がぶっ飛ぶ時があるのさ。そん時の暴れっぷりったら無いよ。ユニガムが死んでから、過去に四度だけあったんだけど、そりゃもう……ひどいもんさ」

 見えた――ような気がしたいんだが、完全無欠に錯覚だった。
 私も焼が回ったようだ。こんな悪意に満ちた憎々双眸に幻想を抱くとは。

「そいつを解決する方法は幾つかあるんだが、どれもこれも旦那クラスの人間でも手間取るような手順が必要でね、色々と掛かり過ぎる。で――その中で一つだけ『一番手の掛からない方法』があってね」
「その方法は、何?」
「常日頃から抑圧している魔力や、負の異物、そして性欲を一度外へ吐き出してやって、0の状態に戻してやる。端的に言えば――性交だな」
「……男女の目合ひ(まぐわい)?」
「ああ、その性交だ。今回の訪問も、クルツの限界が来る前に、舐るような触手プレイの相手をしてやる為でもあったしな」
「それは……その、過激ね」
「正直、洒落に為らないぞ。マジでさ」

 心の中で「あぁ、この世は神も仏も居らぬ無法地帯!!万国卑猥展示会!!」等と珍言語禄をあらぬ方向へと全力で叩き付ける。
 そこまで言うのかと慟哭する私の想いは無情にも届かず、一目惚れ掛けた相手に別の女性との情事について、目の前で語られると言う悪夢の様な出来事が目の前を通り過ぎる。
 羞恥の極み――もう、一目惚れ云々は置いておいても、これ程恥かしい事は無いだろう。と言うか、今直ぐに一思いに私を殺せ。

「時期的に満月が過ぎた頃だから、今日位に抜いてやらんと、そろそろ不味い」
「……そう」
「いつもは私が相手をするから良い。だけども、何か不測の事態で、私が足を運べない時が来たら目も当てられない状況になる訳でね。あんまり、褒められた事じゃないが――」
「大丈夫。それ以上は言わなくても、私は解った」
「その……済まないね」
「謝らないで。私は、十二分に理解した。また、不快には思わない。彼の為なら、それに応えたいと思う」

 意思の篭もった言葉でそう言うと、毅然とした表情を浮かべてカタリナさんは私を見て、僅かに笑みを浮かべながら誇るように気高く宣言した。





「私が、貴方と、性交をする。任せて」





 これが何かの問いを前に据えた時ならば、信の置ける答えであっただろう。
 然し、否。
 眼前に据えられし問題に、これは非ず。

 ただ、碌に話もせぬまま、一目惚れしかけた相手に性交を挑まれし候。
 ――ああ、この世は無常也。

 私の与り知らぬ所で万華鏡の如く移り変わる世界を前に、少しでも嬉しいと思った私自身が情け無し。





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