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けしからん、ふたり

 




 乙女さんを呼び捨てできる権利を獲得してから、早数ヶ月。
 若干へタレの気がある僕は、心の中では変らず乙女『さん』と呼んでいる始末ですが、二人の距離もより近付いて来たのでは無いでしょうか。
 そんな事を思いながら、咲き乱れ「――潔し」と散る桜に感慨深いものを感じていた日の事。
 桜の名である『コマツオトメ』と同じ名を持つ『小松乙女』さんとの間に起こった、人に話すには憚られる恥かしき春の出来事――。





 僅かな街灯と満月の光に照らされた緩やかな坂道を下りながら、この町は素晴らしい町だと改めて僕は思いました。
 夜空は満月の光によって鮮やかな深い藍色に染まり、夜風は優しく吹き抜け、後は散るのみとなった桜の花弁と舞い踊り、合わせる様に木々の葉を揺らして音を奏でて行きます。
 本来ならば街灯が無くとも、月の灯りだけで十分なのかも知れません。
 翌なき春(あすなきはる)――美しく盛る桜も美しいですが、健気に枝に踏み止まる桜の儚い美しさの愛しき事。
 緩やかに風に踊る花弁が足元で小さく回ると、擦り寄ってくる仔猫を見ているような優しい気持ちが込み上げて来ます。

「偶には、このように花を愛でるのも良いものですね」

 感慨深く嘆息を吐きながら坂道を下り、また一つこの町の美しさに触れたような気持ちになります。
 この町の良い所は、文明と自然の調和が取れている点でしょう。
 山の輪郭をなぞる様に広がるこの町は坂道が多い分、背の低い雑居ビルが立ち並ぶ町から少し足を伸ばせば、直傍に緑が寄り添っている二面性が大変魅力的です。
 僕の住む場所は町には少し足を伸ばさなければ行けませんが、大学も近く、生活する分には不便が無く、何よりこうやって足を伸ばせば自然に触れられます。

 今日は乙女さんが友人の鳳凰院さんと飲み会が在ると言う事で、勉学に励んでいても横合いから突っ突かれる事が無く、久しく無かった程の集中力で打ち込むが出来たのは良かったのですが、少々精神的に堪えるものがあって気分転換に散歩をしようと計画も無く外へ足を伸ばしたのですが――これほどまで気分が落ち着くと言うのは嬉しい発見でした。
 やはり――こう言うものは気の持ちようなのでしょう。
 そんな考えが浮かんできました。
 満月が照っているのは今日に限った事ではありません。
 しかし、今日の日のように満月に心惹かれ、全身で呼吸するように気持ちが穏やかなのは――やはり、満月を如何捉えているかの違いなのでしょう。
 けれども、どの様に見ているかと言われれば首を傾げてしまいます。

 張り詰めていた心に『弛み』を求めているからでしょうか。
 それとも、普段とは違う行動を取っている為でしょうか。
 もしかしたら、単純に今日の満月は特別なのかも知れません。

「――最近、物事に理由を求めてしまいますね」

 口から零れた自分の言葉に、僕は苦笑を浮かべました。
 理由を求める事は悪い事ではありませんが、理由の必要無い事にまで理由を求めるのは無粋なものなのでしょう。
 特に、このような駘蕩(たいとう)とした時には。

 僕はゆっくりと首を振ると、気分を入れ替えるように深呼吸を行いました。
 ゆっくりと、ゆっくりと、細胞の隅々まで行き巡らし、身体の中に貯蔵されていた酸素を全て入れ替えるように、澄んだ夜の空気を味わいながら肺を満たしていきます。

「気持ちが良いものです」

 これからは、何かに逡巡し迷う事があれば、ゆるりと散歩をすれば何事も捗る(はかどる)かも知れませんね――等と思案しながら、自分の口元が緩んでいるのを自覚しました。

「――ん?」

 街灯の間隔が広がり、所々光源が切れてしまった坂道に入り、ぼんやりと明るい月光を頼りに坂を下っていると、視界の薄暗い闇が揺らいだ様に見えました。

 ――『物の怪』や『幽霊』の類でしょうか。

 あまりその類の話が得意で無い僕は、得体の知れないモノに対する恐怖感を感じながらも漠然とそんな事を考えてしまいました。
 僅かに身体が強張り、足が止まると同時にビニール袋の擦れる音が聞こえてきました。
 ――まぁ、当然と言えば当然ですよね。
 夜の長閑な空気に当てられて想像力が色々な意味で『とんで』しまっていたのか、我ながら随分と突拍子も無い事を考えていたものです。
 自身に苦笑しながら、力が入り怒り肩になっていた両肩を落としながら、また足を動かし始めます。

 歩み始めると、ビニール袋の擦れた音の次には、視界の先から近付いてくる人の気配を感じました。
 次に小さな赤い光が見えました。
 そこから空へと伸びる様に白い筋が幾重(いくえ)にも湾曲を描いているのが見え、今まで闇に隠れていた部分が正しく役割を果たしている街灯に照らされ、対面から歩いてくる人物の姿が少しずつ、少しずつ浮かび上がり、ある程度まで近づいて行くと、輪郭の朧げだった相手の姿がはっきりと見えました。

「――乙女、さん?」
「おう、坊や、愛しの乙女さんだぞ」

 驚いて思わず呆けた声を上げる僕とは正反対に、乙女さんは悠然と立ちながら「山笑う」と言わんばかりの優しい朗らかな笑みを浮かべながら、左手を漫画ならば『シュタッ!』と擬音が付きそうなほど機敏に上げてきました。

「しかし『さん』は頂けないな、約束を反語すると言うんだったら私にも色々と考えがあるんだけどねぇ?」

 乙女さんはそう言いながら身体をのんべんだらりんと揺らしながら近付いて来ると、街灯に確りと照らされて乙女さんの服装がはっきりと見て取れました。

 身体のラインを強調するような黒色で無地のトールネックを着込み、その上から茶褐色で薄手のダブルジップパーカーを羽織っており、形の良い薄い黒色のフレアスカートから黒のストッキングで脚線を強調した足が伸びています。
 装飾物は胸元のドッグタグと、左腕に付けられた無骨なデザインの腕時計がされており、全体的に絵柄や加工の少ない簡素な男性的な服装を着こなしており、その様な服装を普段からも好むのですが、同時に細身の服を着こなすので女性特有の魅力的な身体のラインを強調するので、非常に乙女さんらしいと納得する見栄えの良い服装です。
 いつもと違って居るのは、煙草を咥えている薄っすらと化粧をした顔がほろ酔い程度に赤らみ、非常に艶やかと言う点でしょう。

「なぁに、見惚れてんだよ」
「あ――いえ、そう言う訳では……」

 不覚にも歩みを止めて見惚れてしまいました。
 弁解をすればするほど墓穴を掘るとは解っていますが、それでも咄嗟的に言ってしまうのが僕と言う人間です。実に、学ばない事この上無い。
 乙女さんは口の端を吊り上げ、煙草を上下に動かしながら、そんな僕を面白そうに見詰めながら近付いてきます。

「まぁ、私の溢れんばかりの魅力を考えれば仕方が無い話だとは思うがな」
「いや、まぁ――」
「――それに惚れた男の前だと、より女は輝くってもんだしな」
「――」

 またこの人は、如何してそう恥かしい事をサラリと言えるのでしょうか。
 僕は嬉しさと恥かしさに赤面をしながら言葉に詰まらせ「あぅあう」と、情けない言葉を上げそうになるのを飲み込みながら、そっと視線を外しました。
 それでも乙女さんがいつも通りの不敵で素敵な憎々しい笑みを浮かべていると言う事だけは解りました。

「はっはっは、愛い奴だな、本当に」
「……あんまり、からかわないで下さい」

 僕が憮然とそう言うも、乙女さんは一層笑い深めるのみ。

「それにしても、こんな所で何をやっていたんだい?」
「……ちょっとした散歩ですよ。今日は張り切って勉強をやっていたので、気分転換にと思いまして」
「なるほど、私を我慢出来ずに迎えに来たと言う訳か」
「あの……話を聞いてますか?」
「はっはっは――冗談だ、冗談。そう、可愛い顔をするんじゃないよ」

 顔の火照りを意識しない様に平然を装いながら、僕は呆れたように答えました。
 もうここまで来れば別に悟られても良い事なのでしょうが、この羞恥心を忘れると、人として大事な『モノ』を無くしそうな気がしてなりません。

「そう言えば、乙女さ――」
「――」
「……乙女、は、如何してこんな所に?僕の家にしろ、乙女の家にしろ、帰るならばこの道は遠回りになってしまうでしょう?」

 危うく『さん』付けしてしまいそうになる僕を黙殺する視線に心寒いものを感じて訂正し、このままでは一方的に不利になるであろう話を切り替える為に乙女さんに質問をしました。
 すると僕の問いに答え代わりに、乙女さんは一度タバコの煙をゆっくり吸い込みながらスカートの影に隠れていた右手を見せてきました。
 差し出された右手には数本のビールが入っているコンビニ袋。
 先程聞こえたビニール袋が擦れる音の正体はコレなのでしょう。

「やっぱりよ、花見酒と来たら次は月見酒だと思わないかい?」

 タバコの煙を吐き出しながらそう一言だけ言うと、一瞬の間を置いて何かを思いついたのか、個人的に心労に良くない、凄く良い笑みを口元に浮べながら蛇が忍び寄るよりも早く傍に近付き、乙女さんの左腕がヘッドロック気味に僕の首に絡んできました。

「今解った。ここで二人が出会ったのは運命だったのさ、愛しき人よ。その運命に感謝して、私が『とっとき』の所に連れてってやんよ」

 やはり僅かに酔っているのか、加減があまり出来ていない腕を振り解く事も出来ずに、そのまま腰を折り曲げながら僕は乙女さんの行動に流される事にしました。
 唯一の懸念は、乙女さんの大変ご立派な胸に押し付けられているので、このまま幸せな窒息死を迎えてしまうのでは無いかと言う事だけです。

「――」

 表情は見る事は出来ないけれども、随分と楽しそうに鼻歌交じりに僕を引き摺り歩く乙女さんはきっと良い表情をしているんだろうな――等と、僕は漠然とそんな事を思いながら、小さく笑いました。



                    『けしからん、ふたり』
               日記 02 ページ目 『26時過ぎの情事』


「乙女さん、まだですか?」
「もう少しだから、ちびっと頑張れ」

 こんなやりとりを何度繰り返したでしょうか。
 少なくとも片手では足りないでしょう。しかし、両手ならば足りるでしょう。
 つまり6回以上10回未満。結構な回数をこなしています。
 僕は疲れを紛らわす為に、そんな事をつらつらと考えましたが、逆に大きな猫が背中に圧し掛かってくるような疲れを感じました。
 上へ下へと入り組んだ道を歩きながら、徐々に人工的に作られた道から小さな森の中へ進んで行き、人が歩いた事によって出来た獣道に変ってから、かれこれ既に20分以上は歩かされているでしょう。
 乙女さんに言わせれば「たかが20分で情けない。だが、そこが良い」と言う所なのでしょうが「状況が状況だけに仕方が無いじゃないですか」と、言い訳したい気持ちも多少あります。
 舗装されていない道は足場も悪く、木々が邪魔して途切れ途切れに降り注ぐ頼りない月光だけを頼みの綱に歩かされているのです。
 しかも、自分のペースではなく、妙に速い乙女さんのペースに合わせて歩かねば、置いて行かれると言う状況。
 体力的問題よりも神経を張り詰めて疲れます。言い方を変えればHPよりもMPを使います。ポーションよりもエーテルの方が必需品です。魔法使い系の職業だったならば即戦力外通知を宣告されるかも知れません。
 ――駄目です、随分と思考がこんがらがっているようです。
 『見当違い』と言う言葉が謙虚に見える程の関係無い方向に飛んで行く思考を如何にか切り替えようと、僕は首を軽く横に振りながら小さく溜息を零しました。

「よし、着いたぜ」
「え?」

 何だかんだ考えている内にそれなりの距離を歩いていたでしょう。
 心待ちにしていた言葉が聞こえてきたのですが「もしかしたら幻聴だろうか」と、疲れのせいなのか、それとも乙女さんの言葉だからこそなのかは解りませんが、妙に疑心暗鬼になっている僕は、確認の為に言葉を投げ掛けようと、足場を確認する為に下げていた視線を上げて――

「おぉ……」

 ――知らず知らずの内に思わず感嘆の声が自然と零れました。
 視界に入ったのは随分と開けた場所でした。場所の広さを言えば小学校のグラウンドよりも少し狭い程度。
 そこには今まで歩いてきた獣道とは質が違う、流石に均等とまでは言えませんが足首程度の長さしかない芝生に使われそうな草が一面に敷き詰められ、その開けた場所を囲む様に、瑞々しい木々が測った様に一本一本のある程度の距離を保ちながら立ち並んでいます。
 そんな中で一際目に付くのが、その広場に唯一置かれている『岩』でした。
 それも高さ170cm、横幅200cm程はあろう大きな岩。
 遠目から見ても角張っている事が解り、形は長方形に近いでしょう。

 ――その広間は何かの儀式をする為に作られた舞台の様にすら見えます。

 周りから隔離する為に作られた違和感無く、見栄えも計算されているように作られた木々の壁。
 時折夜風に揺らされ踊りながら小さく拍手を鳴らす、満遍なく敷き詰められた緑色の絨毯。
 視覚的には暗くとも、何処と無く明るく感じさせる頭上を覆う深い藍色の幕。
 照明は満月の光と、舞台に緩急を付けるために月光を遮る雲。
 舞台となるのはたった一人が演じる為だけの広さの自然の大岩。
 誰が演じるのでしょう。誰が踊るのでしょう。誰が魅入るのでしょう。
 恥らう妖精でしょうか。陽気な狼達でしょうか。迷い込んだ小人達でしょうか。
 演目は『喜劇』か『悲劇』か。『舞踊』か『武闘』か。『狂言』または『妄言』か。
 考える思考は『想像』か『妄想』か、それとも『空想』か。
 現実から隔離された現実が目の前にあります。
 テレビ越しに見る異国の地。紙に書かれた様々な国の記号と造形文字や象形文字によって表された御伽の世界。
 浮かんでは消える泡沫のように、様々な考えが頭を過ぎり、整理され形成されて行きます。

 ――景色に意識が喰われている。

 見惚れる、心奪われる、そのような綺麗でも適切でも無い言葉かも知れませんが、その表現がこの状況では一番『らしい』気がします。

「何を『ぼぉー』としてるんだい、こっちに来いッ!」

 僕は『広間』の入り口に立ってどれぐらいの時間そうしていたのでしょうか。
 次から次へと溢れる思考の海に溺れていると、既に広間の中心に置かれている大岩の脇に立っていた乙女さんが、僅かに声を荒げて呼んで居るのが見えました。

「あ――は、はい!」

 僕は待たせては悪いと思い、広場の中央を小走りで駆け抜けて近付いて行くと、それを確認してから乙女さんは自分の背丈と同じ高さの大岩に左手をかけ――

「よッ、と!」

 ――短い掛け声と共に軽く反動をつけて飛ぶと、左手を軸にしながらお尻から岩に座り、足を空中で放り投げて揺らしながら居心地を確認する様にお尻を動かし始めました。
 僕が辿り着いた頃には、座り心地が良い場所を見付けたのか、自分の右横にビールの入った袋を置いて小さく笑みを浮かべて僕を迎えてくれました。

「ん……」

 岩の上から見下ろしている乙女さんは、僕と視線を合わせると「さっさとこっちゃ来て座りゃんせ」と言わんばかりに、空いている自分の左側を叩きます。
 僕も何も言わずに小さく笑って答えると、乙女さんがやったのと同じ要領で大岩の上に飛び乗り、尻の丁度良い置き所を探しました。
 遠目からは解りませんでしたが、縦幅は足を伸ばして座るのには十分な程の長さを有しており、二人で寄り添うように座らなくても大丈夫そうでした――が、それを乙女さんが許してくれるとは到底思えず、気恥ずかしさを感じながらも黙って肩が触れ合うか如何かと言う距離で座る結果で収めました。

「ほい」

 そんな僕の『殊勝』な心掛けに気を良くしたのか、雑じり気の無い笑顔のまま、一目で冷えていると解る水滴の含んだ缶ビールを目の前に差し出してくれました。

「頂かせて貰います」

 礼を言いながら僕は受け取ると、そのままの流れで缶ビールのプルタブを開けて、一気に金色の命の源を喉に流し込みます。

「――ぱはッ」

 中身の半分以上を一回で飲み干すと、思わずマヌケな声が漏れるましたが、それがとても心地良いです。
 喉を通り、五臓六腑に染み渡る感覚は何物にも変えがたい良さがあります。
 それが疲れた後ならば尚更の事。
 ここまで来る間の道程も「この美味さの『粋な物』だったと考えれば、そう悪いものではないですね」と、内心思いながら笑みが零れました。

 そんな事を思いながら隣を見れば、乙女さんは既に一本飲み干したのか、二本目の缶を開けようとしていました。
 僕もアルコールの類を好み、いける口だと言う自覚はあるのですが、乙女さんの場合は『酒豪』と言う言葉よりも『鯨飲』の言葉の方が似合いそうな程の見事な飲みっぷり。
 月の灯りに照らされ、ほんのり朱色を差した横顔に惚れ惚れしながら見詰めていると、視線に気付いたのか、乙女さんはいつものような春爛漫と言う満開の桜のような陽気な笑顔ではなく、ひっそりと月見草が奥ゆかしく、それで居てたおやかに咲くような優しい笑みを浮かべました。
 アルコールの周りが今日は早いようです――誰に言い訳する訳でも無く自身に言い聞かせて、鼓動が早鐘のように鳴り響くのを自覚しながら、ゆっくりと視線を外して月を見上げるように残り半分のビールを口で転がす様に飲む事に専念しました。
 そんな僕の様子に、乙女さんが小さく笑ったような気がしましたが、きっと気のせいでしょう。

 ――天使が通る。

 乙女さんが新しいビールのプルタブを開けた音を最後に、二人の間に包み込むような優しい沈黙が流れます。
 会話は無く、聞こえるのは夜風が通り抜ける音と、微かに聞こえる葉の擦れる音だけ。
 しかし、その静寂は苦痛ではなく、むしろ心地の良いものでした。

「――如何だい?」
「え?」

 不意に響いた声に僕は乙女さんの方へ視線を向けると、いつの間にか取り出していたタバコを口に咥え、火を付けていました。
 一拍。
 深く吸い込んだ煙を、ゆっくりと少しずつ吐き出しました。
 呼吸に合わせて揺れ動く煙と、月の逆光で影を作る乙女さんの横顔。
 眼に映るその光景は、あまりに幻想的で現実味が無く、耳をすませば呼吸の音も聞こえるだろう距離だと言うの――距離が遠く感じました。
 僕は思わず右手を伸ばして横顔に触れようとすると、ゆっくりと乙女さんが振り向きました。何と無く自分の行動を制されたような気もしましたが、それよりも自分が随分と大胆な事をしようとしていた事実に、驚きと困惑を小さく浮べました。
 その表情に気付いていないのでしょう。
 いや、もしかしたら気付いて居ながら、気付いて居ない振りをしているのかも知れませんが、乙女さんは頬を緩めると、穏やかに――

「如何だい?ココが私の『とっとき』の場所さ」

 ――心底愉快そうに『喉で』笑いました。
 今の話で何処の部分の何が面白いのか解りませんでしたが、乙女さんはこの状況を非常に楽しんでいると言う事だけは僕にも解りました。
 笑って居る乙女さんを見ていると、僕も無性に笑いたくなり、訳も解らず一緒に喉で笑う事にしました。
 黒い薄手のカーテンで覆われた、月光と言うスポットライトのあたる『舞台』の中心で、喜劇とばかりに二人の笑い声が小さく木霊します。

「ははっは……全く如何してこうも愉快さね」

 一頻りに笑った後、乙女さんは左手で髪を掻き揚げながらそう言うと、徐々に笑うのを止めました。しかし、如何しても二人の表情がまだ緩んでしまうのは――名残でしょう。

「喜ぶんだ。私の『城』に連れて来たのは、お前が初めてだぞ」

 自慢のオモチャを披露している子供の様に、乙女さんは何処か誇らしげな表情を浮かべて僕を見ます。

「城……ですか……」
「ああ『城』さ。まぁ……本当はもっと早く連れて来たかったんだが、去年は時期を逃したし、今年は二人ともイチャイチャするのに忙しくて余裕が無かったかんなぁ」

 そう言われて僕はどう言う表情を浮かべれば良いのか解らず、取り合えず後半の内容は聴かなかった事にして、言葉を曖昧に濁しながら『城』に視線を巡らして見ます。

「なんと言うか……見事なまでに何も無い『王宮』ですね」

 皮肉も拡張も無く、どう『加工』しても行き着く表現は結局同じだと思い、僕は苦笑を浮かべながら思ったままの感想で答えました。
 そんな僕の表情が気に入らないのか、それとも感想が気に入らないのか解りませんが、乙女さんは片眉を吊り上げて僕を横目で見て来ます。
 「まずかったかな」と、乙女さんの視線を感じながら心の中で呟きますが、言葉を撤回しようにも撤回した後のフォローを入れる自信が少々ありません。
 如何したものかと思いながら黙っていると、乙女さんはタバコの煙を軽く吐きながらタバコの先で上を指し、視線で先を見ろと合図を送ってきました。
 僕はそれにつられて空を見ると、先程よりも心無し大きく見える満月が、蒼白く煌々と光っていました。
 ただ、それだけでした。
 しかし――それだけで十分でした。
 綺麗な月が空に輝きが辺りを照らし、心地良い夜風が吹き抜け、木々の葉が擦れる音を聞きながら酒を飲む。
 ――この上ない贅沢です、ね。

「――ひゃ!?」

 月に見入っていると、急に首に氷を押し付けられた様な冷たさを感じ、生娘のような間抜けな声を短く上げてしまいました。
 僕は驚きながら振り向くと、飛び込んできたのは視界を埋め尽くすほど目の前に近づけられた、水滴を滑らせているビール缶。
 考えるまでも無く、首に当てられたのが『コレ』である事は解りました。

「び、びっくりしましたよ」

 存外に驚いてしまい、未だに上擦ったままの声でそう言いながらビールを受け取ると、今までビールで塞がれていた視界の向こう側から右眼を瞑り――

「月見酒だ」

 ――そう言って、口元を楽しげに歪める乙女さんの顔が見えました。
 その表情は言葉よりも雄弁に「如何だ、こいつは『とっとき』だろ?」と語りかけている様にも見え、僕はただ苦笑を浮かべて小さく頷きました。
 そんな僕の表情に満足してか、乙女さんは喉を鳴らしてただ笑いました。

「そう言えば、今日の飲み会は如何でしたか?」
「如何にもこうにもいつも通りさね。鳳凰院と呑んで喰って馬鹿な男どもを蹴散らして、愉快痛快に飲み歩いたぜ」
「相変わらず、ですね」
「おう、相変わらず、私と鳳凰院の二人は無敵で素敵で不敵なのさ」
「――」

 必要以上に頬を緩ませながら、乙女さんは清々しい程の笑顔で答えました。
 その事実が少しだけ僕に堪えました。
 あまりこう言う感情はよろしくない――そう解っていながら、思ってしまいます。

 ――鳳凰院 遥(ほうおういん はるか)。
 『武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)』並に御目に掛かれない様な豪華絢爛の限りを尽くした様な名前ですが、その名前に負けぬ位に色々と無駄に凄い設定盛り沢山の女性です。
 鳳凰院財閥と言う所の本家では無く分家のお嬢様で、庭園持ちの御屋敷――までは行かないにしても御手伝いさんが何人も働いているような豪邸に住む、正真正銘のお嬢様であり、詳しくは知らないのですが単純に凄い御家柄の方です。
 鳳凰院さん本人も完璧超人と言うべき人で、男装の麗人と言うべき容姿端麗でかつ、スポーツ万能やら、頭脳明晰やら、性格も若干『奇特』とは言え優れた人格者で、他にも各種技能を取り揃えたり等、無駄に万能と言わざるを得ない超絶な人種の方と言えば良いのでしょうか。
 だからと言って「有名なお嬢様学校に通って、将来は――」と言う方ではなく、何ら自分と変わり無いような到って普通の学園に通っていたのは、御両親がそれほど意識して居ないからと言う話を聞いた事はありました。
 そこら辺の話は兎も角、そんな奇跡的な人種である鳳凰院さんは乙女さんの親友でして、それも幼稚園の頃からの長い付き合いらしく、高校時代から僕も何かと世話になって居る大変尊敬でき色々な意味で『面白い』人なのですが――ちょっとだけ危惧している部分も在ります。

 それは簡単に言ってしまえば、鳳凰院さんは――レズなのです。

 それも終始一貫して『乙女さん一筋』と言う色々と人として間違っている、正真正銘の、です。そして、その事実を公言して憚らないと言う大変に奇特な人でも在ります。
 なので、その事実を僕も乙女さんも十二分に理解しています。
 だからと言って、僕が乙女さんの事が好きになったと言う時も、悪意を含んだ何かをする訳でも無く、それ所か「そうか、君も乙女の良さを解るのか。ならば君と私は今日から友だな」と、予想の斜め上に螺旋状に突き抜けるような発言と、握手をされたのは今でも覚えています。
 僕と乙女さんが付き合うとなった時も「時として人は受け容れたくは無い事実を目の当たりにして困惑をすると言うが、正にコレはそうなのだろうな。しかし、コレだけは言っておこう、二人とも存分に愛し合え。しかし、乙女よ。出来れば私も愛してくれ、例えそれが叶わなくても、私は乙女を愛す」と言う迷言を残したのはあまりにも印象深いです。
 一度「ならば、三人で愛し合うのは如何なものか?」と言われた事もあった気もしないでも無いが、アレはきっと夢でしょう。きっとそうに違いないです。

 そう言った実に愉快な方では在るのですが、それはそれ。
 何処かの漫画じゃないですが、笑顔一つで如何なる鉄壁の鎧を着込む老若男女を無造作に駆逐出来るだけの人であり、そんな方が乙女さんを愛して居て二人きりで御酒を飲むと言うのは、如何しても不安が僕の心に影を残します。
 浅ましい。
 卑しい。
 器量が無い。
 何よりも、普段から御世話になって居る方に対して、この様な感情を抱くと言う自分が情けないです。
 けれども、何よりも――

「しかし、今日ははしゃぎ過ぎたかもな。アイツと居ると如何もいけねぇ。昔から酸いも甘いも、良い所も悪い所も、色々と見せ過ぎたかんなぁ」

 ――僕の知らない乙女さんを、鳳凰院さんは知っていると言う事実が悔しくて堪らないのです。
 苦笑とも言えない笑みを浮かべる乙女さんを見ていると、僕の胸に鈍い痛みが走りました。
 ――「色々と見せ過ぎた」
 その言葉に全てが詰められている気がしたのです。
 何があったか多く語らない、これほど雄弁なの言葉はきっと無いでしょう。
 それ以上に、あらぬ想像を掻き立てられて、心が激しく乱れて行くのが自覚出来ました。
 我慢出来ずに感情を隠さず顔を顰めるも、僕が鳳凰院さんに対して嫉妬していると言う事実がますます、胸に鈍痛をもたらします。

 ――僕は酔っているのでしょう。きっと、だからそう思うのです。

 そう解っていても如何する事も出来ず、悪い方向へ酔いが進み、酷く投げやりな気分になります。
 僕はこんなにも嫉妬深い人間だったのでしょうか。
 何て浅ましく、ちっぽけな人間なのでしょう。
 器の小さい、卑しい、矮小な、愚かな、情けない、馬鹿な、不出来な――そんな単語が肺に溜まって行き、呼吸が出来ない程に『悔しさ』が込みあがります。

「なんだ?もしかして鳳凰院に――『女』相手に妬いてるのかい?」

 そんな僕を見て、乙女さんは意地の悪い笑みを浮かべて眼を細めながら楽しそうに言いました。

「―――」

 何も答えれませんでした。
 けれども、何かしていないと落ち着かず、やり場の無い感情を少しでも削るように、右手で『ガシガシ』と言う擬音が聞こえそうな程に無造作に頭を掻きました。
 そんな僕の心を見透かしているのでしょう。
 ひどく愉快そうに、声を殺す代わりに肩を震わせて乙女さんは笑いました。
 僕にとっては不愉快――と言うよりも、尻の位置が定まらない位に居心地が悪く、乙女さんの方を睨みつけました。
 そんな僕を見て、乙女さんはますます肩を震わせる。眼に見えた悪循環でした。

「いやいや……何と言うか『おまい』さんらしくないねぇ」

 腹を抱えて、とまでは言わないにしろ、目端に涙が溜まるほどに笑った後、指で拭きながら乙女さんは言ってきました。

「……僕らしいって、どんな事なんですか?」

 出来るだけ感情を押し殺そうと思いましたが、如何しても抑え切れずに「不愉快です」とばかりに、僕は憮然とした態度で乙女さんに問い掛けました。

「――」

 それに対して乙女さんは何も答えず残りの少ないビールを飲み干す――と、何の前触れも無く、僕の右肩に凭れ(もたれ)掛かってきました。
 僕の方が5センチほど高い位置に座っていた為、吐息の触れる距離で下から覗き込む形で乙女さんは熱の篭もった視線で見詰めてきます。
 乙女さんの口から零れる酒気を帯びた息は、人の吐息とは思えない程に甘ったるく、鼻腔の奥にネットリと絡み付き、脳が水飴に変ったような気分になります。
 そして、どんな言葉で挑発されるよりも、蕩散とした浮きだった心持ちになりました。
 それ以上に地鳴りの様に響く心臓の脈打つ音が、乙女さんに聞こえて居るのでは無いかと思うと、顔が羞恥の色に瞬く間に染まっていくのを自覚し、今日が夜で良かったと思わずには居られませんでした。

「やっぱり、私の魅力に見蕩れちまっているようだな。そうやって困っている顔を浮かべているお前が――いっちゃん『らしい』ぜ」

 僕の今までの葛藤、悩み、困惑、羞恥――そう言った『モノ』等を、お構い無しに乙女さんは蹂躙して、ゆっくりと左手で僕の頬を撫できました。

「……答えになってませんよ」

 僕の引き出しから掻き集めた『平然』を装った表情から出てきたのは、平然を装えなかった水気の無い掠れた声でした。
 乙女さんの――指が伝う。

「答えたつもりも無いがな」

 僕の言葉とは違い、乙女さんは鷹揚な声色で身を預けてきながら朗々と言葉を紡ぎます。

「乙女さん……酔ってますね?」

 場の空気が変色してきたのを察して、今度はポケットの奥の隅に残っていた精一杯の『虚勢』をかき集めて僕はそう言いました。いや、そう言う事しか出来ませんでした。

「あぁ……酔ってるよ。だから――何にをやっても許してくれるよな?」

 そう言って乙女さんは寄り掛かって来ていた身を起こしました。
 その瞬間に肩に残った乙女さんの『薫り(かおり)』を感じ取ると、辺りがざわめいている様な錯覚を覚えました。
 番組が終了後のテレビに映る砂嵐のノイズを聞かされている様な、不快感よりも不安になる様な感覚。
 何故か解りませんが、眼を開けていると目の奥が燻る火種の様にチリチリと焼かれている様に熱くなる錯覚を覚え、思わず眼を瞑ると、冷然とした平坦な声色の乙女さんの『音』が耳に響きました。
 『声』では無い。『言葉』でも無い――72音以外の組み合わせの『音』が、です。

「――」

 名前を呼ばれた――気がしました。
 乙女さんの声が頭上から聞こえてきたので、疑問に思うよりも早く空を見上げました。
 いつの間にか――乙女さんが目の前に居ました。
 僕の両足を挟む形で立っているのでしょう。
 僕から見る乙女さんの姿は、月の逆光で輪郭の定まらない『ぼんやり』とした影に染まる姿で見えました。
 それにも関らず何故か――乙女さんの表情だけが鮮明でした。
 少し離れた場所に乙女さんの顔がある。
 瞳は湿気を含み、ぼやけて見える顔は幻想的で、触れれば消えそうな夢のように幻想的でした。
 なのに、幻想的なのに――距離が近いのです。
 触れれば消えそうですが、遠くない。
 あまりにも距離が近い。
 遠近法と言う概念がひどく脆く感じる程に近い。
 暫く忘れていた瞬きをした瞬間、口に吸い付くような柔らかい『何か』が押し当てられ、歯と歯が小さくかち合いました。
 如何する事も出来ずに、ただ眼を見開くと『何か』――『唇』が銀糸を残しながら離れて行くのが解りました。
 熱の失われた唇の感覚だけが残された錯覚に囚われ、乙女さんの事を凝視。
 何も言う事が出来ずに、ただ凝視する他ありませんでした。

「悪いな……急に――お前が欲しくなった」
「――ッな!?」

 咽せ返るような『匂い』を感じながら、突然の発言に小さく悲鳴を上げてしまいました。

「お前があんまりにも情けない顔をするからよ、私もお前が誰かの物になるかと想像したら――どうにもこうにも」

 そう言いながら軽く笑みを浮かべました。
 この状況下では、ただただ妖艶なだけでした。

「お、おとめさん……」

 そう言葉を搾り出すだけが精一杯でした。

「解るかい?私は、たかがそれだけで、お前が欲しくて堪らないんだよ」

 蛇に睨まれた蛙の様に、身動きが取れない。
 言葉は求愛では無い。ましては告白でもない。
 宣言です。
 それは強奪宣言。

「そう驚くなよ……さっきも言ったが私は『酔っている』んだぜ――何をしたって良い、そう思わないか?」

 頬を赤く染め上げ、無垢な少女の様に小さく嗤う姿を見て、背骨に無数の蟻が這う様な感触を覚えて僅かに震えました。
 ――この状況は普通じゃない。
 そう思う反面、人としての『禁忌』に触れているような地に足の付かない高揚した気分の僕が居るを自覚してしまいました。
 いけない――それを振り払うように、この状況を壊しようと喉に突っかかって中々出てこない声を無理矢理吐き出しました。

「こ、こんな場所ですよ!?」
「それでも構わないよ……私はお前が欲しいんだ」

 表情を変えずに即答され、僕は二の句を継げる事が出来ず唖然とするのみです。

「それに、だ。良く言うだろ?」
「え?」
「――禁忌の果実ほど魅力的な『モノ』は無いってな」
「ちょ、まっ!?」

 開いた口を乙女さんが有無を言わさず、唇で隙間無く塞いできました。
 そして逃げる事を許さないように、右手を僕の後頭部に絡み付けてきました。

「ん――」

 甘い吐息が耳に嫌でも入り込んできます。
 先程よりも、唇を乱暴に本能のまま貪られます。
 乙女さんがゆっくりと舌を出してきたので、僕は反射的に思わず歯を閉じると、手を変えて歯に、歯茎に、閉じられた口内を犯して行く様に舌を這わせてきました。
 余りに情熱的に求められ――僕も応える覚悟を決めました。
 いや、僕自身もそう――乙女さんの口を侵したかった。
 閉じていた歯を開き舌を伸ばすよりも早く、乙女さんは舌を侵入し舌に蛇と蛇の交尾のように絡み付いてきます。
 ――思考が麻痺してきた。
 互いが互いを求め合い、快楽を貪ろうと僕からも絡めて行く。
 乙女さんの舌に先導される様に、動きを合わせる。
 攻守入れ替え、犯し、侵し、犯され、侵され、どれほどの時間が経ったの解らない程に求め合いました。
 僅かに――唇が離れる。
 互いに名残惜しそうにしていると、今度は熱く甘美な液体が口の中に入ってきました。
 それは乙女さんの唾液でした。
 水が跳ねる卑猥な音を立てながら、互いに唾液を交換し感じあい――どちらからとも無く、ゆっくりと離れて行きます。
 離れていく唇の間には、繋がりを保とうとする二人の唾液が交じり合った糸が月光に照らされて銀色に揺らめきます。
 焦点の合わない興奮の冷め遣らぬ眼差しで、乙女さんを見詰めます。
 月光に照らされて、名残の唾液が唇を湿らせ淫らに妖しい光を残しているのが解りました。
 ――吐息だけが甘い。
 空気は変質し、互いを包み込む『体臭』が理性を溶かして行くようにさえ思えてしまう。

「こんな時に、訳の解らない無粋な事を言うんじゃないぜ」

 そう言った乙女さんの双眸は、月に中てられたかの様に狂気を孕んだ鈍い光が見え隠れしていました。
 僕の思考が纏まらず、その言葉を理解するのに随分と時間が掛かりました。
 理解した頃にはその問い掛けが、やけに昔のやりとりのように感じられました。
 僕は何も言う事が出来ず、下腹部に窮屈な圧迫感を感じて視線を下に向けると、先程のキスで本能が刺激されて膨らんでいる姿が見て取れました。
 視線に気が付いた乙女さんは、腰を折り曲げて僕の右肩に顔を預けるように凭れ掛かり、しなやかな指先で膨らんでいる場所に手を這わしてきました。
 普段以上の快感に思わず腰が引けましたが、乙女さんはそれを許さずに執拗に指先を躍らせてきました。

「私の事――抱きたいか?」

 悪魔の囁きとはこの事でしょう。
 思考能力は薄れ、快楽で攻め立てられている状況で如何返答すれば良いのか解らない。
 返答に詰まっている僕を見て、小さく乙女さんは笑いました。瞬間――右手を乙女さんの左手に掴まれ、思わず身体が小さく震えました。

「しかし、このままじゃ不公平だよ、な?」

 僕の葛藤を敏感に感じ取ったのか、乙女さんは喉を震わせて艶やかに笑いながら言うと、掴んだ僕の右手を、ゆっくりとスカートの中へ導いて行きます。

「ん……――はぁ」

 甘ったる腐食に似た匂いを孕む吐息が僕の耳元で零れました。
 錆びたブリキの人形のように固まっていた僕の右手の指が布に触れて行きます。
 その布は大量の水気を含ませたかの様に熱く濡れており、少し力を入れただけで何処までも沈んで行きそうな感触。
 考えるまでもなく、自分が触れている場所がどこかを理解しました。
 全身の油が切れた僕の意識は白く染まり、乙女さんはより右手を局部に押し付けながら、先程よりも荒く熱い吐息と共に耳元で囁き、その言葉で僕の張り詰めていた理性と言う糸は――焼き切れた。








        「知ってるかい?女は――内側から濡れるものなんだぜ」






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