裏方稼業(ネギま×GS美神×ラブひな) 36話目〜 投稿者:毒虫 投稿日:09/24-22:57 No.1341
タイトル:裏方稼業(ネギま×GS美神×ラブひな)

作品傾向: クロスオーバー・ギャグ・ラブコメ・シリアス・バトル

注意点
・一部暴力描写あり
・一部15歳以上推奨
・セクハラや軽い性表現等、人によっては不快な表現が含まれています。
・この場で明記されていない他作品のキャラが出る事はありませんが、セリフなどネタとして登場する部分が多々あります。
・若干ホモ臭い表現がありますが、あくまでネタの範囲です。そちらに転ぶ事はありません。

原作:魔法先生ネギま! GS美神 ラブひな(ごく一部)

京洛奇譚(15) 立ち向かう強さ 投稿者:毒虫 投稿日:09/24-22:58 No.1342

石畳の上に立ち、敵を待つ。
気負いはある。緊張もしている。しかし、それがかえってネギには良い方向に働いているようだ。
ネギの顔は、甘っちょろい少年のそれではなく、既に戦う男のそれへと変貌を遂げつつあった。
任せておいても大丈夫だと判断し、横島はその少し後ろでポケットに手を突っ込んで立っている。
10歳という若さで一丁前に戦おうとするその気概には、横島も感心している。
己の目標のために、守りたい何かのために、正面切って難敵に闘いを挑むなど……その歳では普通考えられない事だ。
当然、横島が10歳の頃など、毎日遊ぶ事しか考えていなかった。いや、それは今でもあまり変わらないのだが。
とにかく、ネギの姿勢、生き様は、実に男らしい。カモが兄貴と呼び慕うのも理解できた。

「…援護もなしで、本当にいいんだな?」

「はい。大丈夫です。策がありますから。
 それに、彼は魔法使いの事を、そして……父さんの事を侮辱しました。これはもう、僕の闘いです」

ネギの表情は険しい。
そうか、と頷くと、横島は前を見据えた。獣の気配が近付いている。

『…来たぜ! ぶちかましてやれ、兄貴ィ!!』

「ラス・テル マ・スキル マギステル!」

カモの激励には、始動キーの詠唱で応える。
竹林がざわめく。敵は近い!

「風精召喚(エウォカーティオ・ウァルキュリアールム)
 剣を執る戦友(コントゥベルナーリア・グラディアーリア)!! 迎え撃て(コントラー・プーグネント)!!」

ネギの形を借りた風精が、敵の狗族の少年めがけて空を走る!
――が、しかし。

「こんなもんッ!!」

少年は、その四肢と、懐から取り出した棒手裏剣とでもって、いとも簡単に風精を蹴散らしてみせた。
やっぱ大した事ないな、と呟くが、その口角は吊り上がっている。闘いを愉しんでいるのだ。
魔法の加護もなしで風精を打ち砕くその体術は見事なものだが、ネギの狙いはそれではない。
詠唱は既に終えていた。機を見て、放つ!

「魔法の射手(サギタ・マギカ) 連弾・雷の17矢(セリエス・フルグラーリス)!!」

「う、おおッ!?」

間隙なく放たれた17本の魔法の矢!
少年は咄嗟にポケットから預かった護符を取り出し、直撃を避ける。
狙いは粗いが、その威力は充分脅威に値する。当たりどころが悪ければ、一撃でも危険だ。
この距離がマズイ。接近すればどうとでもなる。しかし、それであの横島とかいう男に出て来られても少し困る。
彼と戦うのが怖いわけではない。むしろ愉しみに思うが、一対一という戦況でないのが呪わしい。
血沸き肉踊る戦闘こそが少年の生き甲斐であるが、流石に自ら死地に飛び込むような真似はそうそう選びはしない。
しかしこの場合、少年には進むしか道は残されていなかった。この間合いでは、何もできないのだ。
全身の力をもって踏み込もうとする少年であったが、相手は既に戦士と化したネギ・スプリングフィールド。そうそう甘くはなかった。
顔を上げた少年の視界を、白い閃光が埋め尽くす!

「白き雷(フルグラティオー・アルビカンス)!!!」

「があぁあぁぁッッ!!?」

少年の脳天から爪先までを、雷が蹂躙する!
さすがにこれは効いたらしく、少年は力なく鳥居の上から倒れ落ちた。
確かな手応えに、カモの顔に喜色が浮かぶ。

『やったぜッ!! さすが兄貴! 遠距離からのフェイントを含めた3連発!!
 対戦士魔法戦闘の基本がバッチリ噛み合いやがった! 奴ァ相当な猪武者だ! 教本通りにやりゃあ勝てるぜコイツぁ!!』

『いえっ、まだです!!』

ちびせつなの読み通り、白煙の中から少年が飛び出した。
ネギも慌てて始動キーを唱えるが、間に合いそうにない。
カモの表情から余裕が消え去り、その代わり、心底うんざりした、と言いたげに歪んだ。

『クソが! なんてタフなガキなんだッ!!
 横っちマズイぜ! 援護をッ!!』

「…………」

横島は応えない。ポケットに手を突っ込み、その場に立ったまま、身じろぎもしない。
そうしている内にも、少年はネギに詠唱を許す間もなく懐に飛び込むと、その腹に拳をぶち込んだ!

「ッは……!!」

肺から根こそぎ空気が抜ける。絶叫を上げる事すら許されずに、ネギはただ、障壁を維持する事だけに意識を集中させた。
必死に耐えるネギを嘲笑うかのように、少年は宙に浮いたネギを右に左に殴ると、トドメと言わんばかりに蹴り飛ばす!
いいようにやられるネギを前に、カモとちびせつなは完全に焦燥の態を表している。

『な、何やってんだ横っち!? 兄貴がやられちまうぜッ!!』

『横島さん!! 援護を!!』

「…………」

必死の呼びかけにも応じず、横島はただ、倒れ呻くネギを冷静に眺めるばかり。
しかし少年の方は、戦闘に関与しない横島の態度を額面通りに受け取らないつもりのようだった。
ネギへの追撃の手を止めると、くるりと横島たちの方へ振り返り…

「今、愉しいとこなんや! 邪魔すんな! お前らはこいつらと遊んどけッ!!」

そう言って手を振りかざした少年の影から……真黒い犬が群れで飛び出す!

『ギャー!? い、犬キライ! 犬コワイ! 喰われる! 喰われるぅぅぅぅッ!!?』

『あ、いや、恐らくは式神のようなものでしょうから、食べられるような心配は……って、そんな事を言っている場合じゃないですね!?』

何か犬にトラウマでもあるのか、やたらと取り乱すカモ。冷静なようで密かに焦っているちびせつな。
横島は、ゆっくりとポケットから手を出すと、軽く溜息をついた。

「動物虐待は好きじゃないんだけど……なッ!!」

『ギャインッ!?』

横島が投擲したのは、何の変哲もない、ただの石つぶて。
しかし霊力が込められたそれは、5頭はいたであろう黒犬どもを一瞬にして影へと戻した。
少年が苛立たしげに舌打ちするが、横島の手はまたポケットへと差し込まれ、そこから動くような様子はない。
不審気に眉根を寄せる少年に、横島は気軽な口調で話しかけた。

「何やってんだよ、まだ勝負の途中だろ。敵から目を離してていいのか?」

『横っち!?』

『横島さん!?』

非難の視線が突き刺さるが、横島はあくまで動こうとしない。
少年は、満足気に笑った。

「なかなか話の分かるおっちゃんやんけ…」

「おっちゃんゆーなッ!!」

ムキーッ!と吠える横島を鼻で笑うと、少年は身を起こしかけているネギに追撃を始めた。
右、左のコンビネーションから廻し蹴り!石畳を削りながらネギは吹っ飛ぶ!
もはや防御を取る事さえ許されない圧倒的な猛攻。実力の差は明らかだ。

「ハ、もう手ぇも上がらへんか……」

スポーツ、その試合でいえばもう勝敗は決しただろう。しかしこれは実戦である。
少年は更に間合いを詰め、ネギの髪を掴み体を起こすと、マウントポジションから容赦ない連撃を繰り出す!

「ハハハッ! 護衛のパートナーがついてへんと、西洋魔術師なんてカスと同じや!!
 遠距離攻撃しのいで呪文唱える間ァ与えんかったら怖くともなんともないッ!!
 チビ助ェ! 何のつもりか知らんけど、お前独りで俺と闘おう思たんは間違いやったなァッ!!」

「あ…う……ッッ」

反論できないネギを蹴り起こし、少年は拳を握った。

「終いや!! とどめッッ!!」

裂帛の気合と共に、少年の正拳がネギへと迫る……!

(ここだ…!)

もう決着かと思われたその時、ネギの眼がギラリと光った。
死中の活。勝てる筈のない接近戦の中での、唯一にして最後の勝機!
ネギの闘志は折れてなどいない。ただ、燃焼の時を待っていた!

「契約執行(シム・イプセ・パルス)0,5秒間(ペル・セクンダム・ディーミディアム)
 ネギウス・スプリング・フイエルデース――」

「な……ッ」

呟きのようなその声が、死に体のネギに力をもたらした。
防げる筈のなかった正拳を捌き、驚愕に固まる少年の顎を刈る!

「―――ッッッ!!?」

凄まじい威力に、少年の体は宙を浮き……致命的な隙を生み出した。
少年の下に潜り込んだネギの口から、静かに始動キーの文句が流れ、そして。

「闇夜切り裂く(ウーヌス・フルゴル) 一条の光(コンキデンス・ノクテム)
 我が手に宿りて(イン・メア・マヌー・エンス) 敵を喰らえ(イニミークム・エダット)―――」

「な、に……?」

「―――白き雷(フルグラティオー・アルビカンス)!!」

零距離からの雷の炸裂!!
護符の加護もなく、膨大なエネルギーが少年を直撃する!
なす術もなく吹き飛び倒れ伏す少年。流石に立ち上がれない。
痛みに呻き這いつくばりながら、悔しげにネギ――勝者を見上げる。

「これが、西洋魔術師のッ……僕、ネギ・スプリングフィールドの力だッ!!」

「ぐッ……」 

受けたダメージは軽くない。ネギは満身創痍でいながらも、その眼に宿る力はいささかも衰えていなかった。
知力の、そして戦略の勝利。単純に力で押す戦いしか知らぬ少年にとって、それは屈辱であり、そして新たな発見であった。
負けたら悔しい。それは当たり前だ。が、少年はもう、『西洋魔術師に負けたから悔しい』とは思わない。
勝利に浮かれるネギ達を視界に収めながら、少年は笑っていた。力と知略の闘い。それのなんと新鮮で愉しい事か!
このまま終わらせるのは勿体ない。もっともっと愉しみたい。それに、負けっぱなしというのは、いかにも性に合わないのだ。
痛みと痺れと疲労に軋む体を押して、少年は身を起こした。この胸を弾ませる喜悦を、より深めんがために。

「ま……待てやァッ!! まだ終わらんッ! 俺はまだ闘える……ッ!!」

『な゛……!? ま、まだ立ち上がるってのか!? しぶといにも程があるぜ……!!』

「そんな……」

『これは、まさか……!!』

「元気だねー。若いっていいねー」

戦慄するネギ達(一部除く)を尻目に、少年はゆっくりと立ち上がる。
心底愉しげに笑う少年の骨格が、メキリと変容を始め……その姿を、異形へと変える。

「ただの人間にここまでやられたのは初めてや……。さっきのは取り消すで、ネギ・スプリングフィールド……!
 しゃあけど……まだ終わらんッ!! こっからが本番やで、ネギ!! 愉しい愉しい闘いの始まりやッッ!!」

白く染まった髪。縦に裂けた瞳。鋭く尖った牙。少年は、今や完全に異形へと、獣人へとその姿を変えた。
体に至っては、人間のカタチを取っていた頃の面影すらありはしない。
爪、筋肉、獣毛、尻尾、全てが獣。今、少年は、二足歩行する獣となった。

『獣化!! 変身しやがった!?』

『まずいですよ、これは!!』

「くっ……!」

悔しげに唇を噛み締めるネギ。魔力は底をつきかけ、傷を負った体は、とても戦闘に耐えうるものではない。
以前のネギであれば、ここで諦めていただろう。しかし、ネギはもうただの魔法使いの少年ではない。戦士だった。
初めて感じる杖の重みに眉をしかめながらも、闘志を消さずに前へ一歩踏み出す。

『何やってんだよ兄貴!? 下がれって! 兄貴はもう戦える体じゃねぇだろ!?』

カモが悲鳴じみた声を上げて忠告を寄越すが、ゆるりと首を振る。
違うのだ。戦えるとか戦えないとか、そういう話ではない。今は、戦うべき時なのだ。
戦う理由など、ただそれだけで充分だった。

「……大丈夫だよ、カモ君。何とかなる……ううん、何とかするから」

『兄貴……ッ!』

やっぱそう来ぉへんとな!と笑うと、少年の姿が掻き消えた!
爆発的な踏み込みに対応できていないネギの足下に、人外のものと化した鉄拳を打ち込む!
石畳がまるで爆撃されたように粉砕され、その余波でネギの体が軽く宙に浮く。先程とは比べるまでもないその威力に、ネギの背に戦慄が奔った。

(なんて攻撃、なんて速さだ…! 当たれば間違いなく――死ぬ!!)

更なる攻撃に備えようとするネギの前に――ふと、大きな背中が立ちはだかる。
横島は、顔だけネギに向けて、男臭い笑みを浮かべた。

「良く頑張ったな、ネギ。けど、ここからは……大人の仕事だ」

「で、でもっ!」

「いいから休んどけドアホ!」

渋るネギを拳骨で黙らせると、改めて少年と対峙する。
相手がネギから横島へ代わっても、少年の愉しげな笑みは収まらない。それどころか、ますます深くしているように見える。
事実少年は、愉しくて、嬉しくてたまらなかった。一日の間に強敵二人と死合えるなど、これ以上ないほどの悦びである。

「愉しませてくれそうやな、おっちゃんは……。征くでッ!!」

「おっちゃん言うなって、何回言やあ分かるんだ、よッと!」

一瞬の内に懐に入り込み繰り出される少年の拳を危なげなく捌く。
確かに迅く、その威力も高いのだろう。タフな横島といえど、あまり喰らいたくない攻撃だ。
しかし……当たらなければ、どうという事はない。

「オラァッ!! くッ!! この…ッ!! らァッ!!」

「よッ、ほッ、はッ、とッ」

かわし、避け、いなし、捌く。少年のラッシュは完全に読まれていた。
防御さえ取られる事のない完全な回避に少年は苛立ち、焦り、それが余計に拳を鈍らせる。少年は悪循環へ陥っていた。
自分では目で追う事さえできない攻撃をいとも簡単に手玉に取る横島に、ネギの口から感嘆の溜息が漏れる。

「す、すごい…! あんなに速い攻撃を……!!」

『凄ぇ凄ぇとは思ってたが…ったく、どういうヤツなんだよ横っちは……。
 横っちは、気や兄貴から供給される魔力を使って、身体能力を補強できるハズだ。だが、今はそれをやってねぇ!
 純粋に、体一つで戦ってやがる……! 人間業じゃねぇぜ!!』

ネギやカモは知らない事だが、ちびせつなには納得できる事だった。
カモは、横島の戦いを人間業ではないと評するが、それはある意味当然の事だ。
何故なら、元より横島は純粋な人間ではないのだから。
しかし、それであっても充分驚嘆に値する事なのは変わりない。攻防を続ける横島達を眺め、刹那は推測する。

『いえ……横島さんなら、可能な事なのかもしれません。
 確かに、あの狗族の少年は迅い。しかし逆を言うなら、ただ迅いだけなのです。
 攻撃の緩急、そして織り交ぜるべきフェイントが全くできていない。その動きも直線的で、単純なコンビネーションしかない。
 それに横島さんほどの遣い手となれば、相手の視線、足捌き、殺気、筋肉の動きを読み、次の手を予測する事も可能でしょう。
 次が読めている単純な攻撃など、いくら迅くとも当たるものではない。つまりはそういう事かと』

『簡単に言ってくれるけどよぉ……それがあんなに上手く行くもんなのか?』

『もちろん、言葉で言うほど簡単なものではないでしょう。
 一撃でも当たれば危険、目視できるかすら危うい連撃の中に身を晒す……。
 自らの命さえ危ぶまれる状況に、常人なら極度の緊張状態に陥り、必ずどこかにミスが生まれる。
 しかし、そんな戦いを幾度も経験しているとしたら……それは既に、彼にとって危険とはなり得ない。
 常在戦場の日々を送っていた横島さんにしてみれば、この戦いも、日常の延長線上にあるのかもしれませんね…』

『そりゃあ……何とも凄まじい話だな』

戦闘でさえ日常の一部。
そんな人生を送って来たであろう横島に戦慄を覚えながら、カモは意識を横島達の方へ戻した。

「クソがァ……! なんで当たらんねんッ!!」

「それが分からんようじゃあ、まだまだだってこった。
 …しっかし、クソ面白くもねぇ戦いだな。このまま終わるようじゃつまらんし、ひとつ提案があるんだが」

「提案やと…?」

思いがけない横島の言葉に、少年の手が止まる。

「ああ。今から俺が一発殴るから、そしたらお前も一発殴ってこい。後はその繰り返し……要するに根性比べだな。
 どうだ、男と男の闘いって感じだろ? 俺とお前の一騎打ちだ。燃えるだろうがよ」

『お、おいおい正気かよ横っち!? 相手は人間じゃねぇんだぜ! 不利に決まって…』

何を言ってるんだ、と叫ぶカモに、横島は不敵な笑みを返す。

「だから面白いんだろ? それに……所詮、犬ッコロが人間様に敵うわけないからな」

それを見て、少年は完全に頭に血が上った。
この男は狗族を、そして自分を侮辱した。上等だ。ならば目にモノ見せてやろうじゃないか。

「ええやんけ……吐いた唾飲まんとけやッ!!」

射殺さんばかりに横島を睨むと、全身に気を張り巡らせて完全に防御体勢に入る。
相手はいくら強いとはいえ所詮は人間。一度に与えられるダメージなど高が知れている。
この身は攻撃力はもとより防御にも優れている。一撃ぐらいは耐え切れる自信はある。
一撃耐えられればそれで充分だ。後は固く握ったこの拳で奴の顔面を砕いてもいいし、鋭く尖った爪で八つ裂きにしてやってもいい。
一撃だ。とにかくこの一撃を耐える。少年はぐっと歯を食い縛った。

「いつでも来いやァッ!!」

「じゃ、遠慮なく…」

カモ達が不安も露わに息を呑んで見守っているさなか、横島はふらりと一歩を踏み出した。
闘志も剥き出しに構えている少年のもとへ、まるで散歩をしているかの如く自然な足取りで歩み寄り、おもむろに右手を出す。
攻撃にしては勢いがない。少年も含めた一同が不審に思い始めたその時――横島の右手が、少年の胸倉を掴んだ。

「え……」

コツン。足下に微かな感触。足を掛けられたのだと気付く前に、少年の体は半回転し、背中から地面に叩きつけられた。
誰もが事の成り行きに呆然としている中、横島はいそいそと少年の体を跨ぐ。馬乗り。俗に言うマウントポジションだ。
その体勢から振り上げられる拳に少年は目を見開き、そこでようやく気が付いた。ハメられた!

「いや、悪いねホント」

「おまッ―――」

横島は拳に力を込める。少年の耳朶は、メリメリ、という異質な音を捉えた。
その音の源を目にし、思わず絶句。まるで巌のような横島の拳、それ自体も常人とは遥かにかけ離れたものではあったが。
それよりも目を引く異形は、横島の腕にあった。異常な筋肉の隆起が、厚手のスーツの布地を圧迫していたのだ。
少年のように体そのものを変質させたのではない。攻撃に用いる腕と拳だけが、ヒトのそれとは明らかに異なるモノに変化している。
何だ。何なんだこれは! 激情と、彼自身認めたくない感情、恐怖に牙を剥く少年の顔面に―――
霊力を込める事もせず、横島は異形と化した拳を叩きつけた!

一発!

「げアァッ!!?」

二発!

「――ッッが!!」

三発!

「ぉ……っぶ…!」

四発!

「ッ……ァ………」

五発!

「…………………」

ここに至り、少年は完全に沈黙した。
ぐったりとした少年の瞼を無理から開き、意識がないのを確認すると、拳に付いた返り血を拭いながら立ち上がる。
そして、皆の方へ振り向くと、横島はやれやれと溜息をついた。

「正直者が馬鹿を見る、ってか。嫌な時代だよなあ」

ネギの返事はない。何が起きたかのか理解しきれていない様子で、横島と倒れ伏す少年をきょときょとと見比べるのみ。
しかし次第に事態を飲み込み始めると、ネギは身をわなわなと震わせながら横島を見やった。

「あ、あなたは、なんてことを……!」

怒りを目に滲ませるネギを見やり、横島は肩を竦めた。
その歳と性格上仕方がないのかも知れないが、この程度の事で目くじらを立てようとは……あまりに青い。
やはりネギは未だ戦いの妙というものを心得てはいないようだ。ただ真正面からぶつかり合うだけが戦いではない。
自分の被害を最小限に抑えつつ、相手に最大限のダメージを与える。そこに潔さなど必要でないのだ。
その辺の事はカモもよく解っているようで、横島が何か口を開く前にネギを諭し始める。

『まァまァ、勝ったんだからいいじゃねぇか兄貴。ンな細けぇコト言いなさんな』

「け、けどっ! 今のはさすがに卑怯だよ! だって、約束したのに…!」

『卑怯も何もねぇだろうがよ、スポーツじゃあるまいし。生きるか死ぬかの世界なんだぜ?
 そりゃあ兄貴はゴリッパな志を持ってるみてぇだがな、俺たちゃンな上等なもんじゃねぇんだわコレが。
 泥を啜ってでも生きてぇって人種なんだよ。安全に勝つためにゃあ、手段なんぞいちいち考えてられるかってんだ』

「それは……確かにそうなのかもしれないけど…でもっ!
 あれはもう不意打ちや奇襲なんてものじゃなくて、騙し討ちじゃないかっ!」

なおも非難の声を上げるネギに、カモの目がすぅと細まる。

『……なんも分かっちゃあいねぇようだな。ま、確かに兄貴にゃあまだ早ぇかもしれねぇが。
 なあ兄貴、戦いってぇのはな、アンタが考えてるほど綺麗なもんじゃあねぇんだ。
 誰もが勝ち残るのに必死なんだよ。勝つためにゃあ何をしても許されんだよ。
 正道を貫いて死ぬなんざ馬鹿のやる事さ。邪道に手を染めようとも外道に身をやつそうとも、最終的に勝てりゃあいいんだ。
 卑怯上等大いに結構、罵りなさるはなお結構、てなもんさ。なあ、アンタもそう思うだろ?』

カモはちびせつなに同意を求めた。
ちびせつな、つまりは刹那は神鳴剣士、ネギの認識で言うところのサムライだ。当然、反論を返してくれると期待するネギであったが…

『それは流石に極論だと思いますが……まあ、言いたい事は分かります。
 自分の命を、あるいはそれよりも大事なものを守るためには、何をしても構わないと私も思いますね。
 いえ、正確に言うと、『何をしても許される』のではなく、『どんな事もする覚悟がある』という事なのですが。
 何にせよ、戦いに奇麗事を持ち込むのはあまり感心できません。拘れば拘るほど戦いの幅を狭める事になりますし』

「そんな……!」

唯一味方だと思っていたちびせつなにも裏切られ、ネギは言葉を失った。
たとえ戦場であれ日常生活の場であれ、人を騙すなんてよくない事だ。そう思うのは間違いなのか。
罠にかけたり、策にはめるのとはわけが違うのだ。横島は決闘を汚した。それは許されざる事である筈。
決闘のルールは遵守しなければならぬ。それを破るは男の、人間の矜持を失う事。そう信じていたのに。

『そら見ろ! いいか兄貴、この際だからハッキリ言わせてもらうぜ。
 兄貴にゃあ甘っちょろい部分が多すぎだ。年齢的にしゃあねぇ事だと思うけどな、一丁前に戦う覚悟があるんなら…』

「やめろアホガモ、大人気ない…」

追い討ちをかけるカモの首根っこを引っ掴むと、横島は疲れたように溜息をついた。
そして、俯いて眉根を寄せているネギに向き直ると、取り繕うように明るい声を出す。

「俺はこーゆーやり方大好きなんだけど、ネギは好きじゃない。それだけの話だろ?
 どっちが正しいとかそんなこたぁどーでもいいし、そもそもこんな事に正しいも間違ってるもないしな。
 何も、無理して真似する必要はないんだ。やりたいと思ったらやりゃいいし、ヤな感じだなと思ったらやらなきゃいい」

「は、はあ……」

納得したわけではないが、流石に自分の考えに自信を持てなくなり、曖昧に頷く。
ネギとしては、ああいったやり方を許す事はできない。が、それはやはり未熟者の甘えなのであろうか。
好意的に解釈すれば、あれもまあ戦術の内に入るのかもしれない。それで切り抜けられる場面があるのなら、全否定するべきではないのかも。
自らの甘さを貫くべきか、それとも先達の言葉に従うべきか。ネギは頭を悩ませる。

(どーも……やりにくいね、こりゃ)

そして横島は、場に流れる気まずい雰囲気に、面倒げに頭を掻いた。

京洛奇譚(16) 少女革命 投稿者:毒虫 投稿日:09/30-22:56 No.1374

「んで……どうしよっか、コレ」

気まずい雰囲気を払拭しようとしたわけではないが、失神し倒れ伏している少年をちょいちょいと指差し、横島。
ぶちのめしてから気がついたのだ。少年を倒したところで、無間方処の結界が解除されるというわけではない。
他の面々を見渡してみても、ちびせつなは困ったような顔を向け。
ネギはネギで、まだ考えに沈んでいるようだった。横島の声に反応した様子はない。
オコジョなりに考えてみたものの妙案を思いつくわけでもなく、カモはやれやれと肩を竦めた。

『ソイツに聞かねぇ限り、脱出方法も分からねぇんじゃあなぁ……。
 ま、アレだ。とっとと叩き起こして、拷問にかけるなりなんなりして訊き出すしかねぇだろ』

あんまりといえばあんまりな言葉に、流石にネギが現実に復帰する。

「ダ、ダメだよカモ君そんなこと! 
 それはもう、騙し討ちがどうのとかいう以前の問題、人間として最低の行為だよっ!」

横島の時よりも憤るネギ。
カモは空を仰ぎ、プカァと煙草をふかす真似をした。

『本気にすんなよ、兄貴。タチの悪ィ冗談ってヤツだ。
 実際のところは、なぁに、ちょいと手足を縛り、鈍器のようなものを効果的に活用しつつ、あくまで紳士的に交渉するだけさ』

「そっか、それなら安心……って、結局やる事変わってないじゃないかーーーっ!!」

シリアスな空気が一転、いつの間にか漫才を始めてしまった主従コンビに溜息をつき、ちびせつなは横島を見上げた。
いつになく余裕かましているこの男に、何か秘策でもあるのだろうと期待しているのである。
少し重たい視線に気付き、横島はぽりぽりと頬を掻いた。

「目ぇ覚めるの待ってるわけにもいかないだろうし……ま、しゃーないか」

ふう、と軽く溜息をつくと、横島は懐に手を突っ込み、内ポケットを探る。出て来たのは、一枚のお札であった。
何をするつもりなんだ、と皆の視線が集まる中、横島は札を点にかざし、摩訶不思議な文句を唄う。

「ほんだららー、ほんだららー! あー、ほんだららー!」

眉根を寄せ、異様なまでに真剣に、何度も呪文を繰り返す。
一心不乱に祈る横島を前に、仰臥する小太郎さえも忘れ、一同は顔を見合わせた。
ネギも、この時ばかりは横島に対する不審、自らの信念への疑問提起をさて置き、ただ困惑に囚われる。
ついに、本格的に頭をやられてしまったのだろうか。彼はもう、何だか取り返しのつかない領域にまで達してしまってようだ。
そう言えば、小太郎をタコ殴りにした時の横島は、いつもの陽気な彼とは少し雰囲気が違っていた。それと何か関わりが?
何の回答も得ないまま、ただひたすらに重い沈黙が圧し掛かる。

一方、横島は、己が身に生暖かい視線が突き刺さるのを感じ、一層強く声を張り上げる。
無論、気が触れてしまったわけではない。とにかく、頭上に掲げた札に注意が集まってくれればいいのだ。
念には念を入れ、更に怪しげな踊りまで加える。ネギが既に半泣きの態を晒しているが、努めて気にしないようにする。
しかし、いくらなんでもこれ以上は危険だと、人間としての尊厳が危険に瀕していると判断し、作戦を開始。

「ほんだらあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」

全ての気力を注ぐように咆哮すると、横島は天に札を放った。
その瞬間、皆の視線が宙を舞う札に集中したのを見て取り、横島は一行に背を向けると、胸の前でこっそりと文珠を作り出す。
入れる文字は……『破』でいいだろう。結界を『破』るのだ。イメージは固まった。
早速そこらに向かって投げつけると、作り手の意思を反映して発動。辺りが強い光に包まれる。

「ふ、ふわっ!?」

『くっ……! 横島さん、何を!?』

『目が、目があぁ〜!』

突然の事に動揺するネギとちびせつな。カモは大佐っぽく目を押さえていた。
しかし、光は一瞬。目をしばたかせながら辺りを確認したちびせつなが、何かに気付く。
穴、もしくは基幹を突かなければ破るのが難しい結界、無間方処のループが、跡形もなく消え去っていた。
束の間、呆然とするちびせつなだったが、どうやら先程の奇行がもたらした結果だと察すると、猛然と横島へ詰め寄る。

『い、一体なんなんですか今の術は!? というかあんな札、初めて見ましたよ!
 まるでミミズが熱せられたアスファルトの上にのた打ち回ったような不思議な書体。サンスクリット語でしょうか?
 しかし、基幹を突き崩したわけでもなさそうなのに、無間方処の結界がいともたやすく……! 陰陽術でもなさそうでしたが、あれは一体?』

「いや、まあ、なんつーか、アレだよアレ」

『アレ? 何の事です? ……もしや、青山にそんな術が伝わっていたのですか?』

「んー、そんな感じかな?」

ちびせつなは勿論、ネギやカモも加わり、物問いたげな視線を送ってくるが、横島は終始のらりくらりとはぐらかした。
別にネギ達の人格を疑っているわけではない。が、特に文珠の存在を教えて得る利益も横島にはなかった。
エヴァンジェリンの時、少し軽率だったかなと反省している分、どうしても慎重にならざるを得ない。
刹那だけならまだしも、ネギは特に年少ゆえに、何かの弾みで貴重な情報を洩らしてしまうとも限らないのだ。

少し開けた場所に出ると、一行は小休止を取る事にした。
倒したままの状態で放置している少年の事が気にかかるが、彼が目を覚ます頃には、既に親書を届け終えているだろう。
ネギの手当てを簡単に済ませ、さあそろそろ出発しようかとしたその時……ちびせつなの身に、異変が起こった。

『あ……!?』

ノイズのような雑音混じりに、ちびせつなの輪郭が揺らぐ。

「ど、どうしたんですか!?」

『い、いけません、本体の方で何かが…! 連絡が途絶え―――』

「え、あっ!?」

言い終える前に、ポン、と軽快な音を立て、ちびせつなが紙型へと戻ってしまう。
ひらひらと舞い落ちる紙型を器用に前足で捕まえると、カモは額に一筋、冷や汗を流した。

『コイツぁマズイぜ……。刹那の姐さんの方に何かあったな。
 同時期に仕掛けて来るたぁ、奴ら最初ッから戦力の分断を待ってていやがったか!』

「順当に考えると、向こうに例の呪符使いとゴスロリ二刀流の2人が行ってる事になるな。
 鶴子さんがいるから、まあ大丈夫だとは思うが……」

『2人だけだといいんだがな。
 まだ相手方の全容が掴めてねぇんだ、2人3人とぽこぽこ出てくる可能性もアリアリだぜ』

「心配ですね……。そうだ!」

心配げな表情を明るくし、ネギは、ぽんと掌を叩いた。




アキラは座り込んでいた。
大蜘蛛が出て来たあたりから繰り広げられた超展開に、まだ頭が追いつかないのだ。
生物学の常識を無視しくさった巨大蜘蛛。
見知らぬ少年の人智を超えた運動能力。
絵本に出て来る魔法使いのような、まるで得体の知れない力を揮うネギ。
宙に浮く生人形。喋るオコジョ。
命を懸けた戦い。
異形へと変身を遂げた少年。
気になるあの人の異様な強さ。そして、予想だにしなかった残酷な一面。
非日常。全てが理解不能。理不尽のカタマリ。
起こった事は夢ではない。夢であればどんなに良かった事か。
アキラは知ってしまった。何気ない日常も、薄皮一枚剥がせば、馬鹿馬鹿しいほど非常識な世界が顔を見せる事を。
自分が通っている学校の担任が、清掃員が、修学旅行先の他校の生徒が、狂った世界の住人だった。
踏み込んではならない領域。彼の言葉を、今更ながらに実感する。
これは俗に言う裏社会、犯罪の世界とは質が違う。文字通りの異世界なのだ。フィクションの中にだけあるべき世界。
『そちら側』に一歩足を踏み入れてしまえば、それまでの人生で築いて来た価値観が根底から覆される。
そして聡明なアキラは、余計な事実に気付いてしまった。
異形。異形。異形の存在。異形が街を闊歩しているのだ。我が物顔で。人間面して。
彼らはヒトを襲うかもしれない。殺すかもしれない。喰らうかもしれない。
事実がどうであれ、アキラには、その『かもしれない』がとてつもなく恐ろしい。
自分の隣にいる人間が、実は人間ではないかもしれないのだ。何を信じればいいのか。

「どうしよう……どうすればいい………?」

カチカチと歯を噛み鳴らしながら、アキラは逡巡する。
怖くなってしまった『あの人』の後を追い、とことんまでこの世界の裏を覗くか。
それとも、このまま取って返し、全てを忘れ、退屈ながら安全な日常に戻るか。
……言うまでもない。忘れられるわけがなかった。

「……………っ」

震える足に喝を入れ、危なっかしくも何とか立ち上がる。
倒れたままピクリとも動かない少年を一瞥して、アキラは歩き出した。
死んだように横たわる少年に、少しならず心配の念が湧くが、しかし助ける気は起きない。
介抱するのはいい。が、目を醒ましたところで、襲いかかってこないとも限らないのだ。
世界の裏側を見つめる覚悟はできたアキラであったが、流石に、直接的に関わる勇気などは持てなかった。

「………」

そっと、遠くの『あの人』の背を追う。
優しいのだと思っていた。いや、実際彼は、アキラには優しかった。
だが、見てしまったのだ。『あの人』は犬の少年を騙し、馬乗りになって何発も殴りつけた。
酷い、と思った。あんまりだ、と思った。少年は化物であったが、彼は大人であったのだ。
スポーツではなく喧嘩でもない、それはリアルな戦闘であったのだから、部外者の自分が口を出すべきではないとは分かっている。
しかし、アキラは暴力そのものが嫌いなのだ。可愛いと思っていたネギが、少し憧れていたかもしれないあの青年が戦う姿を思い出して、悲しくなる。
そう、アキラは悲しかった。怖いとも思ったが、それより悲しみが勝っていた。
彼らは何故戦わなければならなかったのか。本当に、戦う以外の選択肢はなかったのか。話し合いで解決はできなかったのか。
彼らの事情なんて、アキラはこれっぽっちも知らない。だが、何であれ、ネギや彼が暴力を振るう姿を見るのは……たまらなく嫌だ。
親しい人が傷つけられるのは勿論悲しい事だし、彼らが誰かを傷つけてしまうのも同じくらい悲しい。
少年は人間ではないのかもしれないが、言葉は確かに通じていた。だったら、戦いを避ける道もあったのではないか。
自分の考えは、彼らにとっては途方もなく甘いのだろう。笑ってしまうほど青臭いのだろう。だが、しかし。
ケンカはいけない事。そんなの、考えるまでもなく正しい筈。間違ってなんて、ない。

「……行こう。行かなきゃ」

彼らの後を追う。
追いついたところで、説教をするようなつもりなどない。そもそも、姿を現せるのかすら怪しいものだ。
だから、見極めようと思う。彼らの世界を。『あの人』が……きっと、本当は優しいのだという事を。
そう、彼は優しい。優しい一面を持っている。あれは、あの時アキラを心配してくれた彼の表情は、演技なんかじゃない。
少なくとも、自分を助けてくれた事は嘘ではないのだ。そう信じなければ、アキラはきっと、一歩たりとも踏み出せなかった。




白昼堂々の襲撃を受け、刹那は木乃香を連れてシネマ村へと避難していた。
入場料を払わなかったのには少し罪悪感が湧くが、緊急事態なので致し方ない。
それに、同行者の内で唯一事情を知っている明日菜も置き去りにしてしまった。勝手な話だが、彼女には他の面々へのフォローをしてもらいたい。
刹那の読み通り、今のところ、襲撃の気配はなかった。人目を気にしての事か、あるいは見失ってくれたのならば余計に助かる。
そして現在、刹那は、何やら楽しげな様子で店に入って行った木乃香の帰りを、往来で待っていた。
それとなく周囲を警戒しつつ、式神…ちびせつなに念を送ってみるも、既に連絡は切れているらしく、何の音沙汰もない。
あちらはもう狗族の少年だけで終わったのだろうと踏み、せめて手の空いた横島だけにでも救援を頼もうかと思ったのだが……。
仕方ない、ここで帰りを待つか、と結論に達した時、ぽん、と後ろから刹那の肩が叩かれた。

「あ、お嬢様? もうご用事は――ッ!?」

振り返った刹那の顔が驚愕に歪む。
刹那のすぐ後ろに立っていたのは、木乃香ではなく、巫女服を身に纏った妙齢の美女。
青山鶴子、その人であった。

「おひさしゅう」

「な……!? あっ、あの、あ……お、おっ、おおお久し振り……です…ね?」

完全にテンパってしまっている。
どこからか監視されているのは解っていたのだが、やはりこうして面と向かって話しかけられると流石に混乱する。
手をばたつかせて慌てふためく刹那。鶴子はさも愉快気に笑うと、そっと彼女の頭にその手を置いた。

「っ!?」

「………」

怯えたように硬直する刹那に、一瞬だけ寂しげな表情を浮かべ、すぐ何事もなかったかのように笑みを浮かべる。

「忠夫はんから聞いとると思いますけど、うちは全然、怒っとらんえ?
 うちはあんたを、神鳴流の技を外道に堕とすようなごんたに育てた覚えはありまへん。
 あんたは、自分の大切なもののために神鳴流を修めて、それを活かすために出て行った。
 もう青山の人間とちゃうかもしれへんけど……それでもあんたは、うちの弟子で、妹どすえ」

「つ、鶴子、さ……っ」

感極まり、刹那の目から涙が零れる。
鶴子は、嗚咽する刹那を、そっと優しく抱き締めた。
大切なものが一つ、この手の中に戻って来たように思える。
これも全て横島のお陰だ、と鶴子は信じた。彼がいなければ、刹那とは一生疎遠なままだったろう、と。
…涙が収まった後も、刹那は鶴子から離れようとはしなかった。懐かしい温もり、懐かしい匂いに、もう少しだけ浸っていたかった。
しかし……現実は、そう都合良くいかないものだ。

「せっちゃん、お待たせ〜〜〜……って、ほわぁ!? せ、せっちゃんと巫女さんがラブラブやぁっ!?」

「うぇっ!? お、お嬢様っ!! い、いえこれは違うんですっ!! ああいや、違わないけど違うんですっ!!」

お姫様に扮装した木乃香の帰還。
刹那は大慌てで鶴子から離れるが、そもそも何故自分がこうも慌てているのか分からない。
あわあわしている刹那があまりにも可愛くて、鶴子に悪戯心が芽生えた。
袖で口許を覆うと、わざとらしく、よよよっ、と倒れ込むように体を崩す。

「ひどい、ひどいわ……! さっきは、あんなにも激しく愛してくれはったのにぃ!」

「んなぁっ!? ふ、ふざけないで下さいよ鶴子さんっ!?
 ち、違うんですお嬢様っ!! この方は私の剣の師匠のようなお人で、決してそんな妙な関係ではっ!!」

「ははぁ〜ん…。要するに、師匠と弟子の禁断の愛、ちゅーやつやな?
 大丈夫やでせっちゃん! 世間の風当たりは強いやろけど、ウチはせっちゃんらのこと、応援するでっ!!」

「違います違います応援しないで下さいぃぃぃっ!!
 つ、鶴子さんもいい加減、悪質な芝居はやめふにゃああぁ!?」

「うふふ……うち、知っとりますえ。刹那、ここがええんやろ……?」

「ど、どこ触って……あぃっ!? そ、そこはダメっ!? 噛んじゃいやぁんっ!」

「うわぁ、すごぉ……」

後ろから刹那を抱き締め、刹那いわく『妙なところ』を妖しく蠢く鶴子の手。
必死にその手から逃れようともがくが、ますますドツボにはまっている、妙に扇情的な表情を浮かべる刹那。
顔を真っ赤にして、真昼間の往来で行われるイケナイ行為に釘付けになっている木乃香。
突如発生した桃色空間に、道行く男は全員前屈みにさせられた。




「あわ、あわわ……!」

「す、すごいです、修羅場です……。
 あれが世に言う三角関係……とは少し毛色が違うような気がしないでもないですが、とにかくカオスです…」

「こッ……こいつはくせえーッ! マリみて以上の百合のにおいがプンプンするぜーーーッ!
 こんなシチュには出会ったことがねえほどになァーーーッ!
 環境で百合になっただと? ちがうねッ! こいつらは生まれついての百合だッ!」

(あの人がアイツが言ってた凄い人……? なんか、とてもそうは見えないんだけど…。
 ああいや、そりゃまあ、別の意味で凄くは見えるんだけど、限りなく方向性間違ってるわよね)

物陰に隠れ、路地裏から刹那達を眺める視線が4対。
何とか木乃香達を探し当てたのはいいものの、場の雰囲気的にとても飛び出せない明日菜。どうすりゃいいのよ、とその引きつった頬が物語っている。
始めは、刹那と木乃香の関係を確かめるべくの事だったのだが、事は全員の予想の斜め上を進行中だ。
思わぬネタ到来のチャンスに、ハルナは目を血走らせて、どっからか取り出したスケッチブックに熱心に何かを描き込んでいる。
のどかは免疫がないのか顔を真っ赤にしてオロオロしている。何が行われようとしているのかは知っているが、流石に目にするのは初めてなのだ。
夕映は無表情ながらもその頬を朱に染め、食い入るようにくんずほぐれつの様相を凝視していた。
胸の動悸が、そりゃもう物凄い事になっている。何故こうも興奮しているのか、と夕映はふと我に返った。

(た、確かに私は、その、じょ、情事を生で目にするのは初めてです……。
 ですが、通常行われるそれとは違い、眼前の行為は女性同士というイレギュラーで、世間一般から著しく逸脱したものなのですよ!?
 何故そんなものを見て、私はこうも興奮しているのですか……? も、もしや、私にもそういう趣味が!? …って、アホですか私は!!
 わ、私はあくまでノーマルの筈です! 業界用語で言うノンケです! 女性同士の行為を見て興奮するわけが、興奮するわけが……)

まだじゃれあっている刹那と鶴子に視線を戻す。
夕映の思考を裏切り、未だ心臓は激しく鼓動している。
女性同士、というフレーズに……何故か夕映は、のどかに視線を向けた。
口に手を当て、熟した林檎のように全身を火照らせているのどか。友人の贔屓目をなしにしてもその姿は可愛らしいと思う。
自分には持ち得ないであろうその魅力に嫉妬する以前に、微笑ましくも感じ、気付かぬ間に夕映の胸が高鳴った……

「って、超絶アホですか私はあぁぁ!! 何故こんな時にのどかの事を!?
 確かにのどかは可愛らしくて、顔を真っ赤にして悶えている表情はこの上なく魅力的ですが……って、これは違う! 違うんです!
 わ、私にはそんな趣味は……のどかをそんな風に思っているなどと、あるわけが……あ、あるわけが……ある…わけ……が……」

親友の事を深く思えば思うほどに、自分の手にかかり悶えているのどかのイメージ映像が輪郭を確かにしてゆく。
もはや完全に茹ってしまった夕映の顔は、赤くなったり青くなったり、忙しく色を変えている。
なお、いつもの彼女らしくなく頭を抱えて悩み狂っているのだが、鬼気迫る勢いでデッサンに没入しているハルナは、一切目を向ける事はなかった。
のどかも、クラスメイトの艶姿をその目に焼き付けた瞬間から、思考回路がフリーズしてしまっていて、隣で何を叫ばれようが分からない。
明日菜に至っては、もう何が起ころうが私の知ったこっちゃないわよと全てを丸投げしている。

「お、おかしいです、こんなはずでは……!
 この際、私が男性に対してあまり良くない印象、先入観を抱いている事は認めましょう。
 近い将来、それなりに成長した自分が男性と手を繋いで仲睦まじくしている様子が全く想像できない事も認めます。
 しかし……しかし、だからといって、それがイコール同性愛に繋がるかといえば、答えはノーのはず!
 恋愛感情とは、人の心の機微とは、そんな単純なものでは……いえ、もしかしたら自分で気付いていなかっただけで、先天的に…
 ひょっとして、生れ落ちてから今現在に至るまで、ただの一度たりとも恋愛対象として男性に興味を抱いた事がない、というのは、もしや……?
 あ、あくまでこれは可能性の議論です。ですが、これまでの要素を検討すると、どのように考えても、『それ』である確率が最も高い…」

もはやパニック状態にある夕映は、昨日の今日、ネギ(偽)に迫られてドキドキした事など完全に忘れてしまっていた。
そしてとある結論に達しかけ、夕映はまた刹那達に視線を移す。
彼女らはもう身を離し、拗ねているような刹那の機嫌を2人がかりで何とか持ち直そうとしているように見える。
しばらくそんなやり取りが続き、最終的には刹那も根負けしたようで、苦笑を浮かべながらも木乃香に連れられ、貸衣装屋に入って行った。
女性同士であるのに、社会的に見てマイノリティである筈なのに、彼女らの表情に陰は見当たらない。
とても楽しそうで、とても自然で、とても明るくて……そんな生き方もあるのかもしれない、と夕映は思った。思ってしまった。

(そうです、私は重大な事を忘れていました……。
 人間の感情は、自らが制御できるものが全てではない、という事を。
 そして、他人にどう見られようとも、当事者達が幸せであるなら、彼ら彼女らは幸福なのです。
 私は……まだ認めるわけではありませんが……そういうのも、悪くないのかもしれませんね……)

こくり、と頷く。
こうして少女は、道を踏み外した。

京洛奇譚(17) 鶴と鬼 投稿者:毒虫 投稿日:10/04-23:15 No.1397

貸衣装屋から出れば、刹那は新撰組の隊士になっていた。
木乃香はお姫様、鶴子は扮装の必要もないので巫女さんのままだ。
傍から見れば刹那は美少年にも見えるため、少年剣士が2人の美女を侍らしているようにも見える。

「チョイスに文句はないのですが……ゆ、夕凪が死ぬほどそぐわない…」

新撰組隊士の腰に差さる、身長ほどあろうかという野太刀。
あまりにも不自然な格好に軽く肩を落とす刹那の前方では、木乃香と鶴子が仲よさげに談笑している。
2人の立場上、知り合いかとも思ったのだが、これがどうも初対面らしい。誰とでもすぐ打ち解けられる木乃香の性格の賜物か。
何となく会話に入りづらいなあと思っていると、恐らく刹那達と同じく修学旅行中であろう女生徒達が、きゃあきゃあと声を上げながら近寄って来た。
どうやら、刹那を美少年と思っているらしい。写真を撮らせてくれとの申し出に、木乃香は快く頷いた。
ツーショットという事で必要以上に密着して来る木乃香に、刹那は頬を染めて戸惑う。

「あら、うちは仲間外れどすか…。ふふ、妬けますなぁ」

「か、からかわないでください……」

鶴子に散々おちょくられつつも、撮影は無事終わる。
写真のデータもろてええどすか?と何故か自分の写っていない写真を求める鶴子。
もしかしてカップルやと思われたんかなー?といやに楽しげに笑う木乃香にツッコミを入れつつも、刹那の心は充足していた。

(私の横で、このかお嬢様と鶴子さんが笑っている……この私に笑みを向けてくれている……。
 もう……こんな日は、二度と来ないと思っていた。お嬢様には近づけず、鶴子さんからは厭われていると思っていた。
 でも、簡単な事だったんだ。話しかけてみれば、2人はちゃんと私に構ってくれるんだ。
 お嬢様に正体を隠しているのは心苦しいが、それさえ知られなければ、きっと、ずっとこんな日が続く……)

取り戻した明るい世界。望んだ日々。
木乃香が、鶴子が、そして自分が、楽しく明るく笑っていられるこの状況。
嬉しい。本当に嬉しかった。諦めていたのだ。自分は一生日陰者でいよう、陰からお嬢様を守り続けられればそれでいい、と。
それが一時の事とはいえ、こうして日の光の下に出られた。この時ばかりは、自分の身分、出自も忘れたい気分だ。
刹那の、木乃香と鶴子を見る視線は、とても暖かい。が、ただそれだけではない、複雑な光を帯びている。
傍から見ている人間……いつの間にか人数を増やしている傍観者達からすれば、そんな刹那は格好の話の種であった。

「桜咲さんを抜かして、このかと巫女さんが妙に親しくッ……。
 こ、これは意外な展開ね! 読者(?)の意表をつくカップリング、もう誰が誰に寝取られたのか判らないッ!
 複雑に絡み合った百合の茎、それは3人を、もう取り返しのつかない泥沼へといざなう……。
 くぅーっ! イケる! こりゃイケるわッ! 昼ドラの原作本になるのも時間の問題ねッ!!」

「…修学旅行が始まってから、ハルナが加速度的に壊れていってるです……。
 いえ、今はそれより、あの3人ですね。個人的には、桜咲さんとこのかさんのペアを応援したいところです」

鬼神の如き狂貌を浮かべ、妄念に駆られるように、もはや肉眼では確認できない速度でスケッチブックを線で埋め尽くすハルナ。
夕映はそんな彼女にドン引きしながらも、3人のドロドロの愛憎劇(夕映主観)の行く末を見守っている。
途中参加組の朝倉和美は、興味深そうな表情を浮かべつつも、いつもの取材根性を発揮できていない様子。

「んー……。確かにアヤしいし、気になるんだけど……。
 なんと言うか、私の記者としての直感が、あの巫女さんには下手に手出ししない方がいいって訴えてるんだよねー…」

アゴをさすりながら呟く。
これまで危ない橋を渡って来たのかどうか知らないが、とにかく危機回避能力は冴えているようだ。

「ったく、どうなってんのよこの状況は……!?
 あたしがいなくてもこのかのヤツ随分楽しそうだし、なんかノリ的に割り込めない空気だしっ!
 なんか最近、あたしの存在意義がかな〜り薄まって来てる気がする……」

額に手を当て、虚ろな目でヘコむ明日菜。
魔法が一切通用しないとか、ネギの魔法の事をいの一番に知ったとか、色々アドバンテージはあるのに…!と愚痴を零す。

「…………………あぅ」

一方のどかは、未だに現世に復帰できていなかったりする。夕映に手を引かれ、何とかついていっている状態だ。
必然的にのどかと手を繋ぐ事になった夕映の頬が必要以上に赤く、手を握る力がいやに強いのはこの際気のせいだという事にしておこう。

…と、あまり状況を把握できてない村上夏美が、何か来たよー、と往来を指差した。
夏美が言うのは、人通りの多い往来を、物凄い速度で飛ばす西洋風の馬車。
時代背景的にこれは正解なんだろうか、と一同が首をひねる間もなく、馬車は刹那達3人の前で急停車した。
お嬢様が轢かれたらどうするんだ!と抗議しようとして上げた刹那の顔が、驚愕に染まる。

「お……お前はッ!」

馬車の主……西洋の貴婦人の扮装をした少女、その顔は確かに二刀流の刺客、月詠のものだった。
すぐさま構え、戦闘体勢に入る刹那に、月詠はシャン!と謎の効果音を発しながら馬車から飛び降りる。

「どうも〜、神鳴流……やなかった、そこの東の洋館の、お金持ちの貴婦人にございます〜〜〜。
 今日こそ借金のカタにお姫様をもらい受けに来ましたえ〜〜〜」

「な、何? 借金だと? ど、どういう事ですかお嬢様?」

「せっちゃん、これ劇や劇。お芝居やで?」

木乃香に指摘され、思い至る。
月詠は、芝居に見せかけ、堂々と木乃香を拉致するつもりなのだ。
無論、それを許せる筈もない。

「そうはさせんぞ! このかお嬢様は私が守るッ!!」

「キャーー! せっちゃんかっこえー♪」

むぎゅっ。

「はうっ!? な、何だかふにっとやーらかいものが腕にぃっ! お、お嬢様ぁ!?」

密着する木乃香に刹那が四苦八苦していると、月詠は、ほな仕方ありまへんな〜、と妙に弾んだ口調で言うと、手袋を脱ぎ。刹那に向かい投げつける。
何のつもりかと身構える刹那だったが、手袋が届く事はなかった。その前に、鶴子が空中で捕まえていたのである。
己の意図を邪魔され、むうー、と可愛らしく頬を膨らませる月詠に、鶴子はのほほんと笑いかける。

「邪魔してしもて、すんまへんなあ。
 けど、この子もお姫さんもみぃんな、うちのもんどすから♪」

「な゛ッ……! つ、鶴子さん!?」

まさかの宣言に慌てふためく刹那。どよめくギャラリー。
しかし月詠は、刹那の零した台詞を、しっかりと聞き取っていた。
『鶴子さん』。刹那との繋がり、腰に差した野太刀、そして身にまとう巫女服。
瞬間、月詠の口が、まるで亀裂のようにパクリと割れた。
間違いない。アレは青山鶴子だ。あの青山鶴子だ。青山鶴子と闘える!!

「く――――くふ、くふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

喜悦の笑い。
まるで狂人の様を見せる月詠に、鶴子の眉根が寄せられる。
悟ったのだ。この娘は、その内に鬼を飼っている。いや、既に中身はその鬼に喰らい尽くされているかもしれない。
思う。この娘を斬るのは自分の役目だ、と。鬼を……人から外れたモノを狩るのが、青山の役目ゆえに。

「…気色悪い。その笑い方、やめえな。
 それより、場所の指定ぐらいしてほしいんどすけどな。
 まあ、このまま始めてもよろしおすけど……色々、不都合な事もありますやろ」

鶴子の言葉に反応したのか、月詠の狂笑が止まる。
しかしその口は、笑みの形に歪んだままだった。

「そうどすなあ……30分後、場所はシネマ村正門横『日本橋』……で、どないどす〜?」

無言で頷く。
それを見て、月詠の笑みは、より一層深まった。

「ウチ……いっぺんでもいいから、歴代の青山の中でも最強と言われた人と、どうしても手合せしたかったんどす〜。
 ほんま、夢叶えてもろて嬉しいわ〜〜〜……。今から想像するだけで楽しいどすな〜。
 神鳴流最強の剣は、どんな太刀筋を見せるんか……ウチの剣がどこまで通用するんか……ふふ、考える事がようけあるわ〜」

プレゼントを待つ子供のように純粋で、それでいて快楽殺人者が浮かべるような薄ら寒い笑みを浮かべると、月詠は馬車に乗って去って行った。
比較的間近でその笑みを見て、木乃香は体の奥底から恐怖した。思わず刹那に寄りかかってしまう。
あの笑みは、まともな人間が作れるようなものではない。堕ちた者、狂ったものだけが浮かべるモノだ。
自分とは絶対に相容れぬもの。自分にとって害にしかなりえないもの。見ているだけで怖気が走る。

完全に怯えきっている木乃香を支えながら、刹那は苦悩していた。

(お嬢様、こんなに恐がって……。
 月詠……アレはもう人間ではない。ヒトがヒトの皮を被った何かに怯えるのは、古より刻まれて来た生存本能がさせる業。
 もしお嬢様が私の正体を知ってしまわれたら……見てしまわれたら……お嬢様は、私に対しても、こんな風に………)

それは恐怖だった。
木乃香が自分を指差し、『バケモノ!』と怯え泣き叫ぶ。悪夢以外の何物でもない。
刹那には、鶴子や学園長のような理解者や、横島のような同類がいる。木乃香に縁を切られようと、決して孤独にはならない。
しかし……これはそんな次元の問題ではなかった。木乃香に嫌われたくない、木乃香を失いたくない、その想いだけが募る。
そうして、怯える木乃香を、あるいは不安に震える自分を安心させるように、その腰に軽く手を回すが、その行為さえ罪悪感が伴う。
自分はバケモノなのだ。ヒトの皮を被っているが、その実態は半妖なのだ。木乃香はそれを知らないから、こうやって近くにいてくれるだけで。
刹那には、今の状況は、自分をこんなにも頼りにしてくれている大切な人、その信頼を全て裏切っているように思えた。




当事者達の複雑な心境とは対照的に、傍観者組の方は大いに盛り上がっていた。
意外な人物の登場により、三角関係が四角関係へ……そしてそこへ来て、巫女さんの爆弾発言である。
巫女さんのハーレムに貴婦人風の少女がちょっかいを出したのか。
ハーレムを形成しようとしている刹那を中心に揉め事が起こっているのか。
それとも、3人で木乃香を取り合っているのか。
もう、人間関係が複雑すぎて、そして得ている情報が少なすぎて、あの4人の相関図が全く読めない。
月詠の狂態が傍観者組の死角にあった事もあり、彼女らにはこの騒動が色恋沙汰、恋の鞘当であるという認識しかなかった。

「ス、スゴイスゴイスゴイスゴイスゴイスゴイッッ!!!
 ああもう、これから更に登場人物が増えるなんて一体どうなってんの!? 下手なドラマより複雑だわよこれはッ!!
 それに、ヒロインのチョイスが分かってらっしゃる! まあ、主人公は剣道少女の桜咲さんとして……
 おっとり系同級生に年上の美人巫女、年下の天然系お嬢様! この3人が修学旅行中に一堂に会して……それなんてエロゲ?
 これはチャンスなのよ! 天啓なのよ! このチャンスを掴んでビッグになれという漫画神・手塚様のご宣託なんだわッ!!」

興奮のあまり、まるでキマってしまったジャンキーのように目を血走らせ、ハルナは漫画神のブロマイド片手に踊り狂っている。
ありがとうございます手塚様ッ!!と涙まで流しながら狂喜するハルナは、もはや悪魔に取り憑かれているようにしか見えない。
他の面々は、在りし日のハルナの面影を遠く感じた。自分達が知っている彼女はもういない。

「むー………流石に人間関係が把握できなくなってきたですね……。
 とりあえず、他の3名がそれぞれこのかさんに程度の差はあれ好意を抱いている……という事でしょうか。
 下衆な勘繰りですが、湧き出る好奇心を抑えるのは難しいです。私もまだまだ修行が足りないですね。
 ……それにしても、のどかの手はどうしてこうもやわらか……ゲフンゲフン! な、なんでもないですっ!」

自らを諌めながらも、夕映はあの4人の人間模様を観察する事は止められそうもないと判断した。
そこには、この件に集中していれば、さっきから自分が親友に抱きかけている説明しがたい感情の事を忘れられるかも、という思惑もある。
…まあ、握った手を離さず、ずっと胸をときめかせているこの状況では、まさしく無駄な足掻き、焼け石に水でしかないのだが。

「うーん、桜咲はこのかの事が好きで、けど巫女さんの事も満更じゃない、って感じかな?
 それで、新しく出て来たあの子の事は、知ってるけど仲良くしたい相手ではない、と。
 他の3人に関しては、流石に私でも、今手元にある情報だけでは予測できないかなー。
 まあともかく、未だにあの巫女さんだけはちょっと引っかかるもんがあるんだけど、こんな面白そうな事、放っておく手はないね!」

ま、記事にしなけりゃ大丈夫でしょ、と自分の中で決着をつける和美。

「アイツって……敵、だよね?
 まさか、こんな所に来てまで仕掛けてくるとは思ってなかったけど……こうなった以上、あたしもこのかを守らなくちゃ!!」

腕まくりし、鼻息も荒く飛び出す明日菜。
それにつられ、ただ覗き見しているだけだった他の面々も、一斉に駆け出す。
そして、てんやわんやの末、何故か皆で刹那の恋(?)を応援しよう、という事になってしまったのだった。




皆で貸衣装屋に駆け込みコスプレした後、一行は決闘場所目指して歩みを進めていた。
最初は見知らぬ鶴子をどう扱えばいいのか計りかねていた一行だったが、話してみると存外気さくな人物だと判明し、話が弾む。
下らない雑談が一段落すると、和美はさり気なく鶴子に質問した。

「…そういえば、決闘って青山さんがやるんだっけ。大丈夫なんですか?」

「平気どす。うち、こう見えて剣道やってますから。
 まあ……やってるゆうても、嗜む程度なんどすけど」

いけしゃあしゃあと答える鶴子に、刹那は内心舌を巻いた。
鶴子の剣が『嗜み』程度であるのなら、この世に剣士と呼べる遣い手は誰一人として存在できない事になるだろう。
しかしそれにしても、妙な事になってしまったものだ。まさか鶴子が月詠と剣を交える事になろうとは。
まあ、その方が刹那としても、木乃香の護衛に専念できるし、クラスメイトの前で力を揮う事にならないしで都合がいいのだが。
そんな事をつらつらと考えていると……刹那さん刹那さん、と聞き覚えのある声を耳にして、刹那は少し驚きながら周囲を見回した。
そうして目に入ったのは、宙に浮いている、ネギをかたどった2頭身のぬいぐるみのようなものと、その上に乗っかっているカモ。

「ネギ先生! どうやってここに!?」

「えっ!? ネ……ご、ごほん!」

こそこそと小声で捲し立てる。明日菜も気付いたようで、驚いて大声を出しそうになって、慌てて咳払いしてごまかした。
ネギは、『ちびせつなの紙型を使って』と簡単に言ってのけたが、本来、それは容易な事ではない。
西洋魔術師であるネギが、陰陽術の一つである式神使役の術式を理解し、自分なりに再現してみせたと言うのだ。
言うまでもないが、西洋魔術と陰陽術の技術体系は全く異なる。それを、僅か数分で実際に使用してみせるとは……。
横島の人間離れした戦闘力の影に隠れがちだが、ネギは確かに天才なのだなあと、刹那は改めて思い知らされた。

『まあ姐さんが驚くのは分かるが、これが兄貴なんだよ。
 今はそれより、状況を把握してえ。一体何があったんだい刹那の姐さん?』

「それが……いえ、もう始まるようです。実際に見てもらった方が早いでしょう」

「始まるって……そういやあたし、まだ状況があんまり掴めてないんだけど…」

戸惑いがちな明日菜に対応する間もなく、禍々しい気配を感じ、刹那は振り返った。
車が2台通れるかといった道幅の橋。弓なりになったその頂点に立つは、既に二刀を手にした月詠。
一行は既に目的地に到着していたのだ。鶴子が皆を代表するように一歩踏み出し、刹那は木乃香を庇うよう立ち位置を変える。
ネギとカモも事態を把握したようで、その表情に緊張を走らす。やっぱ敵襲かよ畜生、とカモは苛立たしげに舌打ちした。

「ふふふふふ……♪ やっと来てくれはりましたな〜〜……。
 ああ、夢にまで見た青山鶴子が、こうしてウチの目の前に………。感慨深いもんがありますなぁ〜。
 この感動、この喜悦、言葉では表しきれへん……いや、言葉なんて無粋どすな〜。とにかく、愉しみましょか〜〜〜〜♪」

心底嬉しそうに笑むと、月詠は両の手の二刀をちゃきりと構える。
それに対し鶴子は、何のつもりか、腰の野太刀を鞘に収めたまま抜くと……それを、刹那に手渡した。

「つ、鶴子さん……?」

戸惑う刹那に、鶴子は振り返りもせず。

「野良犬相手に表道具は用いまへん……ちゅうわけでもあらへんのどすけど。
 まあ、斬る前に喋らすことがありますよって。刀つこたら、手加減しても殺してまうわ」

何の感情も交えずにそう言い放つと、軽い足取りで橋へと歩を進める。
刹那からは見えなかったが、鶴子の相貌には、ただ凍てつくような戦意のみが浮かんでいる事だろうと、容易に想像できた。
青山鶴子はこと戦いというものを楽しまない。敵は彼女にとって何の脅威にもなりえず、それはただの障害であるからだ。
障害を取り除く作業のどこに楽しみを見出せるのか。そう、鶴子にとって敵の打倒とは、単なる作業以外の何物でもなかった。
刹那は、鶴子よりむしろ、彼女の無機質な戦意を向けられてなお笑っていられる月詠の方に戦慄を覚える。
戦場の中にある鶴子の眼光は、質量さえ伴う。戦意、殺意の込められたそれは、体の自由を奪うのだ。
しかし月詠は動じない。人であれば、獣であれば怯えるしかないそれを、むしろ愉しんでいるように受け止めている。
それから考えられる事。月詠は人でもなければ、獣でもない。では何なのか。考えるまでもない。彼女は―――

「―――鬼め」

苦々しく呻く刹那に反応するように、月詠は袖から幾枚もの呪符を取り出した。
狂気と狂喜とで濁った瞳を刹那達の方へ向けると、にたりと笑う。
この視線に、当初助太刀すると息巻いていたハルナ達も、その背筋を凍りつかせた。悟ったのだ。この少女は狂っている。

「せっかくの死合やのに、邪魔されたらかないまへんからな〜〜…。
 刹那センパイとそのお付きの方々には、ウチのかわえぇペット達の相手でもしてもらいましょか〜〜」

言って、無造作に呪符を宙にばら撒くと……
次の瞬間には、煙と共に、デフォルメされた妖怪、付喪神が大量に出現した!

「ひゃっきやこぉーー♪」

「なっ……!」

一般人を巻き込むつもりか、と問い質す前に、月詠曰く百鬼夜行の集団はハルナ達へと雪崩れ込む!
今のところ、服を脱がしたり、悪戯めいた行為しかしていないが、いつ攻撃に転じるか分かったものではない。
ここはクラスメイトを守るために戦うべきか、と思うが……振り返れば、そこに月詠に怯える木乃香の姿がある。
迷ったのはほんの一瞬だけだった。刹那にとって、優先すべきものは決まりきっているのだ。

「……ここは鶴子さんに任せましょう!
 逃げますよ、お嬢様! ネギ先生と神楽坂さんは後方の確認をお願いします!」

『は、はいっ!』

「任せなさいっ!!」

「え、でも……」

刹那は木乃香の手を取り、走り出した!
木乃香は百鬼夜行に襲われおおわらわのクラスメイト達が心配なようだが、今は彼女らの事を気にかけている場合ではない。
木乃香を守る。それだけが、刹那の唯一にして絶対の願い。己に課した誓い。
見捨てる形になるクラスメイト達の事は心苦しいとは思う。しかし、木乃香の安全と比べれば、どうというものではなかった。




言葉もなく対峙する。
月詠は二刀を油断なく構え、その顔に凶笑を貼り付け、少しでもこの時を愉しむかのように、摺足で少しずつ間合いを詰める。
一方鶴子は、少し腰を落とし、半身をずらした体勢で、月詠が自らの間合いに入り込むのをただじっと待っていた。
じり、じり、じり、と、2人の距離が縮まるごとに、その間の大気が、闘気に中てられぐにゃりと歪む。
そして、およそ2歩分の距離を詰めたところで、月詠が動きを見せた。

「その空の両手で何ができるか……見せてもらいますえ〜!」

横に跳び、橋の欄干を蹴ると、月詠は滑るように宙を飛び、鶴子に躍りかかる!
二刀という違いはあれど、その構え、気の練り方から、月詠が次に繰り出す技が鶴子には見て取れた。斬鉄閃だ。
その名が表す通り、斬鉄閃は鉄をも斬り裂く必殺の剣。まともに喰らえば、たとえ青山鶴子といえどもただでは済まない。
しかし鶴子は無手である。気も纏わぬ状態であれば剣ごと相手を両断する剛剣を、一体どう捌くというのか。

と、その時――鶴子の右手が、存在しない刀を掴んだ。
およそ無手の格闘技を揮うにはあまりに似つかわしくないその構えは、抜刀術のそれに酷似している。
青山神鳴流・虎拳――。それが、この奇妙な構えを基本とする拳術の正体であった。
かつて濃尾より流れて来た一人の剣士が青山に拾われ、そのせめてもの礼にと教授した、今は存在しない流派……虎眼流における無手の術。
拳ではなく、まるで虎の鉤爪の如く曲げられた手、その手首を当てるという、他に類を見ない格闘術。
並大抵の修練では、極めるどころか修得する事すら難しいそれは、青山の中でも既に廃れた技術の筈だった。しかし鶴子はこうして構えている。
その構えから何が繰り出されるのか、どれだけの射程があるのか、月詠には予測できないまま、鶴子は完全に月詠の間合いに入った!

「にとーれんげきざんてつせーん♪」

のほほんとした掛け声とは裏腹に、その斬撃は苛烈だ。
刹那を相手取った時と比べ、その剣には勢いがあった。一刀の下に斬り伏せんという強い意志が篭っていた。
常人では目視する事すら難しいその斬撃を……しかし鶴子は、完全に見切っていた!
抜刀するかのように鶴子の右手が動き出す。上方より振り下ろされる、まず一刀。
それを躱しざま、剣を握った拳の甲を叩く!

「……ッ」

月詠の眼が見開かれる。逆手に小刀を握った左の甲が陥没してしまった。折れた骨々が顔を覗かせている。
それでも月詠は怯まない。脳髄を突き抜けるこの痛みこそが、闘争を更に盛り上げるエッセンスとなるのだ。
激痛は、この闘いは常に死と隣り合わせなのだという事を実感させる。だからこそ愉しい!
左手はもう使いものにならない。小刀を取りこぼしつつ、しかし月詠は次撃にこそ全てを懸けた。
尋常ならざるダメージを受けた筈の月詠だが、その動きは初太刀を放ったその時よりもむしろ冴え渡っている。
胴を両断せんと横薙ぎに振るったそれを、あろう事か鶴子は、左の二指でいとも簡単に刀身を掴み。
指に気を通わせ、尋常ならざる握力を発揮、月詠の刀は、中腹から、いとも簡単にぽきりと折れた。
折れず曲がらずを矜持とする日本刀。しかもそれは、外道とはいえ神鳴剣士が振るう特別製のものであったのに。
ありえない、あってはいけない事態に、しかし月詠の笑みが深まる。なんてバケモノだ。人間ではない。実に素晴らしい!
ぶわ、と月詠から吹き付ける鬼気が増したのを感じる。鶴子は悟った。この少女は今、完全に鬼に喰われた。
鬼とは澱みきった人心より出でしモノ。それが形をなす前であらば『斬魔剣・弐の太刀』で断ち斬る事ができたが、もう遅い。
悪しきものは斬る。生かしてはおけぬ。だが、月詠には訊かねばならぬ事が山積みなのだ。ここで命を絶つのは簡単だが、そうもいかない。
殺してはいけない。生かしてもいけない。ならば、どうするか。答えは既に出ている。簡単な事だった。
得物を失った月詠であるが、その眼に諦めなど微塵も見られない。現に彼女は、無手で鶴子に挑みかかって来ている。
逆立ちしたって敵わない事を解った上での突貫なのだろう。理性を失った鬼に、引き際など存在しない。
終わらせねばなるまい。鶴子は一歩踏み込む。すると月詠が貫手を放つ。それを避けるように姿勢を低くし、斜め前に更に一歩。
地面すれすれの姿勢から、半回転しながら跳躍寸前といったところまで身を起こす。その際、鉤爪の拳が、長い髪と一緒に弧を描き。
遠心力を加え、過不足なく気を加えられた虎の拳が、反応しきれない月詠の背を、気のガードを破って―――穿つ!

「――――ッッ!!?」

月詠の口から、声にならない悲鳴が漏れる。
鶴子の拳は、月詠の脊髄を、その脊椎のみを的確に破壊せしめた。
全身不随となっても何らおかしくない負傷を負わせたが、しかし命に支障は全くない。
生かさず殺さず捕縛するという難しい条件下の戦いを、鶴子は最も手軽な方法で実現させたのだ。
鶴子と月詠ほどの腕の差があれば、もっと安穏に済ませる事もできたろう。
しかし、神鳴流の技を外道に堕とした輩にかける情けなど、生憎鶴子は持ち合わせていなかった。
神鳴流とは、即ち魔を狩る刃。牙持たぬ人々を守る盾。人が振るう剣なのだ。決して、澱みに喰われた鬼が持つ武器などではない。
本来ならば月詠の命、彼女の闘争心から生まれた怪物を、今この場で断ち斬っておきたいところであったのだが。
死んでしまっては、鶴子はともかく、呪術協会などが困るのだ。彼女の背後関係など、洗いざらい明らかにしなければならない。
それは、彼女が生きて……否、死んでいなければ、たとえ意識があろうとなかろうと、調べる手段などいくらでもある。
生きた脳から記憶を引きずり出す。そんな外法は、東西問わず、この裏社会には存在した。

「口ほどにもない……。剣鬼になんぞ成り下がるから、こないなことになるんえ」

人間の魂、人間の矜持、人間の意志を持つ者が振るうからこそ、神鳴流は強いのだ。
軽く溜息をつくと、鶴子は月詠を肩に担ぎ、辺りを見渡し、そこに木乃香の姿がない事に気付いた。
木乃香が戦いに巻き込まれるのを恐れ、刹那が連れ出したのだろうか。しかし敵方の全貌が掴めないこの状況、その判断は誤りだと思える。
後を追った方がいいか、と思いかけたが、鶴子はすぐにその考えを捨てた。貴重な情報源である月詠を放置しておくわけにはいくまい。
西の姫君の身を案じていないわけではい。しかし刹那は、愛しのお嬢を守らんがために、長年血の滲む修行をこなしてきたのだ。
甘っちょろい考えであると自覚はあるが、それでも彼女の腕を信じたい。否、共に使命を果たす仲間として、ここは信じておくべきだ。
それに、万一しくじったところで、恐らく横島が何らかの保険をかけていてくれている事だろう。鶴子はそう信じ、そっと狂乱から離れる。
幸いながら、鶴子と月詠の戦いは、ハルナ達と百鬼夜行のどんちゃん騒ぎに隠れ、あまり注目を浴びていなかった。
ハルナ達が気がつくと、既に鶴子達の陰を完全に見失っていた後だった。

京洛奇譚(18) 胸に誓いを 投稿者:毒虫 投稿日:10/07-23:40 No.1412


刹那は木乃香の手を引き、疾走する。
その表情に浮かぶは焦燥。まさか、白昼堂々襲って来るとは思っていなかった。
周りに人目がある状態でも襲撃があるならば、一体どこに逃げ込めばいいと言うのか。
いや。そもそも、あの場から離れたのは、果たして正解であったのだろうか。過去の事を顧みる暇などないが、ふと疑問が頭をよぎる。
あの時は使命感に任せ、愚かな事に、深い考えもなく戦場から離脱してしまったが、敵方からすれば、これで戦力の分断が成った事になる。
青山鶴子という最強の抑止を失った今、敵はここぞとばかりに追撃戦を仕掛けてくるのではあるまいか。そしてその時、自分はお嬢様を守りきれるのか。
守る気概はある。が、物事、精神論のみで上手く運ぶわけはない。実質、現在まともな戦力は刹那ただ1人。これで凌げるのか?
後ろを振り返り、木乃香の姿を視界に入れる。答えは出た。守れる。守ってみせる。楽観に過ぎると冷静な自分が警告するが、黙殺。
己よりも強い相手に敢然と立ち向かった、あのネギの姿を、刹那は憶えていた。
やれるやれないの問題ではない。『やる』のだ。刹那は木乃香を、守ってみせる。

ふつふつと胸の奥から熱い何かが湧き上がるのを感じたが、それより。
木乃香が呼吸に喘いでいるのを察すると、刹那は少し足を緩めた。

「……少し休みましょうか」

『あ、は、はい』

「ん、そうね」

ネギの式神(ちびネギ)と明日菜が頷く。酸素を取り込むのに必死な木乃香は、返事を返す余裕さえない。
一本路地に入り込むと、刹那は足を止めた。続いて、木乃香がその場にへたり込む。
明日菜に介抱されている木乃香に申し訳なく思いつつも、周囲の気配を探るが……何とも言えない。人が多すぎるのだ。
気の抜けない状況に、刹那は歯噛みしていた。

(人目があるからと油断していた私が馬鹿だった……! 奴らは初日から、そんな事など大して気にかけていなかったというのに!
 …いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。この状況をどう切り抜けるかを考えなければ。敵が月詠だけなら話は早いのだが)

いかな月詠といえど、相手はあの青山鶴子だ。勝てる道理がない。もう決着がついている頃だろう。
しかし、親書を奪いに来たのは狗族の少年のみだと式神を通して己の目で確認している。例の呪符使いの姿が見えない。
先程も考えていた事だが、鶴子と別れてしまったこの状況、敵にとってはこの上ない好機となった筈。
次に考えられるのは、やはり襲撃だろう。木乃香1人になるのが相手の理想だったのだろうが、それでも護衛が刹那のみという有利は変わらない。
先日のように、人間大の式神を2体も3体も出されたら、刹那も流石に隙を作らざるを得ない。
それに、残る敵は呪符使いのみとは限らないのだ。最悪の場合、10人単位の組織である可能性も考えられる。
これからどうするべきか、と思い悩んでいるのは、何も刹那に限った事ではなかった。

『……どうするよ、刹那の姐さん。こりゃあちょいとヤベェ状況だぜ。戦力が姐さん1人だけってのが何ともきちぃ。
 アスナの姐さんも一応、出来損ないの仮契約を行使すりゃあ、戦力に数えられねぇ事もねぇが……いかんせん素人だしな。
 それに、言うの忘れてたんだが、横っちに連絡があってよぉ。鶴子の姐さんは月詠を青山の連中に引渡しに行くそうだ。しばらく帰って来れねぇらしい』

「そう……ですか」

大きすぎる戦力が欠けたのは痛いが、鶴子を恨む気持ちなどは微塵もない。
彼女は彼女の仕事をしているだけだ。元より、木乃香を守るのは刹那の使命。はじめから助けを期待しているようでは務まらない。
それに、思い上がりだろうとは思うが、ひょっとしたら鶴子は、刹那の腕を信じて任せてくれたかもしれないのだ。
刹那にとり青山鶴子とは、即ち姉であり、雲上人である。剣神にも等しい彼女の信頼を少しでも得ているのだと思えば、この上なく誇らしかった。
が……それにしたって、この状況には厳しい報せである。今は、誇りなどよりも、確実な戦力の方が欲しかった。

『え、えっと……その、だ、大丈夫ですよ! それだけ刹那さんが信用されてるってことですよ、きっと!』

「……ありがとうございます」

必死になって慰めるちびネギに、苦笑を返す。

『しっかし……マジメな話、どうするよ?
 俺っちとしては、これから至急横っちをこっちに向かわせて、それまで俺らはコソコソ隠れ逃げ回るって案を推したいんだが』

「確かに無難な案とは思いますが、それは敵も真っ先に考え付いているでしょう。みすみす見逃してくれるとは思えません」

『じゃあ、思い切って迎え撃つというのは…』

『勇敢と無謀を取り違えちゃいけねぇぜ、兄貴。
 こっちゃあ頭数だけは無駄に揃ってるが、そん中でマトモに戦えんのは刹那の姐さんしかいねぇんだ。
 あ、いや、姐さんの実力を疑ってるわけじゃねえんだぜ? だがよ、やっぱ……戦いは数だよ兄貴!ってこった』

「ええ。認めるのは少し悔しいのですが、カモ君の言う通りです。
 無論私も、命に代えてもお嬢様をお守りする覚悟ですが……数で圧されたら、流石に厳しいと言わざるを得ません」

『そう、ですか……』

「……歯痒いわねぇ、もう!」

「???」

一同、ううむと考え込む。
回復した木乃香も、真似してこくりと首をかしげてみた。
場にそぐわず、何となく微笑ましい空気が流れる。
が、それも束の間。刹那は殺気を感じ、木乃香を庇いつつ上方を仰ぎ見た!

「…おつかれさん、長い逃避行もこれで終いや」

屋根の上に悠然と立つのは、件の呪符使い。
追いつかれた…! 刹那達の間に緊張が走る。

「月詠に追い込みかけさせるつもりが、まさかあんなバケモンが出て来るとは思いもせんかったわ…。
 当初の計画は狂ってしもたけど、ここで邪魔もん始末すれば予定調和やなぁ?」

邪魔者…すなわち刹那達を見下ろし、くふふ、と嗤う。
そんな風に余裕を見せておきながら、呪符使いには隙がない。
呪符使いの背後に人間大の式神が次々と召喚されるのを厳しい目で睨み、刹那は思案する。
逃げるか? …正直、逃げ切れる可能性は低い。が、決してゼロではない。ネギもカモも明日菜もいる。
それに何より、自分がいる。木乃香達を逃がした形で戦えるなら、刹那には勝機があった。
それでも、敵がもういないとは限らないが……たとえ1%でも可能性が残されているのなら、そちらに賭けてみるべきだろう。

「…ネギ先生。見かけだけですがあなたを等身大にします。
 そして神楽坂さん。預かり物を好きに扱うのは気が引けますが、これを。何もないよりはマシでしょう。
 申し訳ありませんが、このかお嬢様を連れて安全な場所まで逃げてください。お願いします…!」

『え……』

「これって……」

小声で呟くように告げ、明日菜に鶴子から預かった刀を渡すと、返事も待たずに印を組む。
それを合図に、呪符使いの式神達が殺到する!

「キャーヤ!」

『わ…っ!?』

ボン!と軽い爆発が起き、煙が収まると、先程までぬいぐるみサイズだったネギが、等身大の上、何故か忍者になって登場した。
術の結果を確認するでもなく、刹那は夕凪を抜き、一声。

「早くッ!!」

「……あとで合流するわよ! 待ってるからねっ!!」

『このかさん、僕についてきてください!!』

「あ、せっちゃ…」

有無を言わさず、ネギが木乃香の手を引き離脱し、しんがりを務める形で明日菜がその後に続く。
舌打ちして、後を追おうと足を踏み出す呪符使いだったが、その鼻先を気の刃が掠めた。

「たとえこの命に代えても……ここから先は通さないッ!!」

「あっちゃぁー……。あかんなぁ、今のセリフは。死亡フラグ立ってしもたで?」

軽口を叩きながらも、その瞳の奥には燃え滾るような殺意が見え隠れしている。
袖から呪符を取り出す呪符使いを見据えながら、刹那は強く夕凪の柄を握り締めた。
斬り伏せる対象は4つ。相手は前衛後衛のバランスが取れたパーティー。状況は大いに不利だ。しかし覆してみせる。
木乃香のため。木乃香を守るため。そのためならば、刹那はどこまでも強くなれる。不可能などない。倒せない敵などない!

「雄オオオォォッッ!!!」

幼き日の誓いを果たすため、刹那は戦場を駆ける!




刹那に代わり木乃香の手を引きながら、ネギは懸命に走っていた。
安全な場所。観光地の往来で決闘を挑んでくる敵を相手に、そんな所が存在するのか。
ネギは『安全な場所』がどこにあるのか分からないまま、それでも懸命に走る。とりあえず、敵から離れなければ話にならない。
式神の体には体力、呼吸の概念はない。ネギは時折後ろの木乃香を気遣いながら、延々と走る。

『このかさん、大丈夫ですか? もう少しです、がんばって…!』

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はっ……っん……う、んっ……」

高下駄に何重にも重ねた着物。お姫様の扮装は、ランニングにはあまりにもそぐわない。
呼吸を乱し、汗を掻きながら懸命に走る木乃香、。身の危険を感じ必死になりながらも、何度も何度も後ろを振り返った。
残して来た刹那の事が気にかかるのだろう。心配なのだろう。罪悪感を感じているのだろう。
ネギの肩に乗りながら、カモは険しく眉根を寄せる。

(刹那の姐さんは、歳の割にゃあかなりの遣い手だ。引き際を心得てるなら、別に心配はいらねぇ。
 が、姐さん、お嬢様の事となると途端に猪武者になりやがるからな…。熱くなって、囲まれてんのに戦って、っつう最悪の事態も考えられる。
 十把一絡げの術師ならともかく、あの呪符使いとその使役する使い魔…シキガミ、とか言ったか。あいつらの力はホンモノだ。
 勝てんのかよ、姐さんは……。糞ッ、言えるかよ。姐さんが死ぬかもしれねぇ、なんてよう。ンな事、どのツラ下げて言えってんだ、畜生が!
 …いや、今は下らねぇ口をこぼしてる場合じゃあねぇやな。刹那の姐さんが、それこそ命懸けで作ってくれたこの時間を活かすんだ!)

刹那は命を懸けて戦っている。
ネギも実体さえあれば、迷う事なく刹那に加勢していただろう。
横島だって、この場にいれば間違いなく戦いに参加する筈だ。
戦いに関しては素人で、そもそも一般人である明日菜でさえ、必要があれば親友を守るために体を張って戦うだろう。
しかし、自分はオコジョだ。非力な小動物だ。戦えない。戦わない。戦う力がない。
否、それ以前に恐いのだ。戦いが、怪我する事が、死ぬ事が、その全てが何より恐い。ゆえに戦う気が起こらない。
カモのできる事といえば、戦闘に向けての仮契約などのサポート、危機の事前察知、それを生かした撤退のナビゲート。このくらいだ。

(俺っちだって、兄貴や横っち、刹那の姐さんに憧れるさ。
 正面切って敵と戦って、鮮やかに倒してのける。イカすじゃあねぇか。男の夢ってヤツだよなァ。
 俺っちだってそうしたかったさ。これでも雄だからな、初めッからこんな生き方を選んだわけじゃあねぇ。
 けどな、悲しい事に俺っちァ所詮ただのオコジョよ。小動物なんだ。人間の前じゃ、糞ほどの力もねぇ。ゴミみてぇなもんさ。
 敵わねぇ。あの呪符使いにゃあ敵わねぇ。敵わねぇなら―――逃げるッ!! そんでもって兄貴達も逃がすッ!!
 情けねえよなァ。カッコ悪ィよなァ。けどな、ンなこたァ俺っちが一番ッ、分かってんだぜ畜生がッ!!)

それがカモの生き方であった。戦い方であった。
情けない。それでもいい。愛すべき人間の役に少しでも立てるなら。
故郷では鼻つまみ者だった。誰からも顧みられないような存在だった。まるで存在しないかのような扱いを受けていた。
そんな自分を―――ネギは、救ってくれたのだ。見出してくれたのだ。認めてくれたのだ。
この恩は必ず返す。義理は果たさねばならない。そうしなければ、自分は真のクズになる。
現在の立場、道化めいた役どころに思わない事がない筈もない。しかし、どんな形であれ、ネギが必要としてくれるならそれでいい。

今するべき事とは即ち逃げる事。そう信じ、カモは周囲の気配を探査する。
少しでも異常な気配があれば逃げる!少しでも不穏な空気を察知すれば逃げる!とにかく逃げる!逃げる!逃げる!

(それに、何の役に立つのか分からねぇが……いざとなりゃあ、コイツがあるしなッ)

カモの背負う小さな小さな風呂敷。
その中には、横島から渡された『奥の手』が入ってあった。




愛刀を振るう。首尾よく熊鬼の片腕を斬り落とす事に成功。
しかしその隙に反対方向から猿鬼の拳が迫り、それをバックステップで躱し。
2体の式神と距離が開いたところで、屋根の上の翼持つ式鬼から強弓で射られたが、紙一重、夕凪で叩き落とした。
刀を振り切った体勢に、今度は放水車で狙い撃たれたかのような凄まじい水流が到来し、遂にその攻撃を喰らってしまう。

「ッあ……!!」

なす術なく、漆喰の壁に叩きつけられる。衝撃が背中から脳天に衝き抜けた。
痛い、と実感する前に、刹那は無意識的に体の各所のチェックを始める。
胴体にダメージがあるものの、骨・内臓には影響なし。壁に打った背中にも、別段異常はない。
痛みも結局のところ、行動を阻害するほどのものではなかった。大丈夫、何も問題はない。さあ、戦闘を続行しよう。
今だと言わんばかりに殺到する式神2体。壁にもたれかかったような体勢から、刹那は一呼吸で地面ギリギリまで身を沈めた。
一拍を置いて、猿の拳が先程まで刹那が身を預けていた壁に穴を開ける。その時には、既に夕凪の切っ先は猿の背中からその顔を覗かせていた。

「ひとつッ!!」

猿の内腑を抉るように刃を寝かせ、そのまま薙ぐ。敵はその巨躯を薄っぺらい紙に戻した。
呪符使いの舌打ち。と共に放たれた札が中空で燃え上がり、業火となって刹那を襲う。
飛び退こうとしていた熊の胸倉を掴むと、刹那は有無を言わさず炎の中に蹴り込んだ。
クマー!?と間抜けな悲鳴を上げ炎に包まれる熊鬼を一瞥すると、刹那は跳躍し、一閃!
不恰好なまでに大きかった熊鬼の頭は、2つに分かれた。

「ふたァつッ!!」

軽い爆発を伴い、熊鬼は紙へと姿を戻す。
しかし跳躍したのは失敗だったようだ。刹那が地に足をつける前に、煙を切り裂きながら、凄まじい勢いで一本の矢が迫る!
刹那は目を見開いた。駄目だ、これは避けれない。ならば、と中空で身をよじる。
そして鬼が放った矢は、当初の狙いの心臓から外れ、刹那の左肩を貫通した!

「ぐぅ…ッ!!」

出かけた悲鳴を噛み殺す。してやったり、と呪符使いの口が歪んだ。
これはまずい。刹那は思った。呪符使いとの距離、およそ十数メートル。完全にあちらの間合いだ。
この距離では水流、火炎、電撃、何でも当たる。次、何か大きいのが来るとアウトだろう。
しかし左腕はもう上がらない。片手で夕凪を振る事もできるが、威力は落ちるし、遠当の照準もずれる。
とにかく力が足りない。ならばどうするか。……簡単だ。不足している分を補えばいい。刹那にはその手段があった。

(なるべく使いたくなかったが……そんな温い事を言っていられる状況じゃないな!)

鬼が次の矢をつがえるより、呪符使いが呪を唱えるより早く、刹那は忌まわしき力を解き放つ。
異端の力が、妖の血が全身に行き渡り、そしてそれは刹那の背を突き破り、翼となってその姿を現した!

「な……なんやそらぁッ!!?」

呪符使いがその光景に気を取られ、追撃の手を止める。その間に、刹那は翼を羽ばたかせ、中空で体勢を整えた。
解放された烏族の力は、刹那が憂鬱になるほどに強い。普段はそれを憎ましく思うが、今この時だけは自分の出生に感謝したいと思う。
物心ついたその日から厭うていた力も、木乃香を守るためだというのなら、何の躊躇いもなく揮う事ができる。
しかしやはりこの姿は、ヒトの範疇から逸脱したこの翼は、いつまでも生やしておきたいものではない。
ゆえに、終わらせよう。一刻も早く終わらせよう。刹那は夕凪に気の力を込め、そして。

斬空閃!

ロクに構えもせず、矢を放とうとしていた鬼を斬る!
正式な型を踏まえていなくとも、力を解放した今では、式神1体を屠るには充分な威力があったようだ。鬼は両断され煙に消えた。

「みイィッつゥッ!!」

振り向きざま、肩に刺さる矢を適当なところで斬り落とすと、刹那は呪符使いめがけ、滑るように空を走る。
敵は忘我から復帰していたようで、既に札を構えている。しかし表情に余裕はなく、色濃い焦燥と苛立ちのみが浮かんでいた。
さて、水か来るか火が来るか。はたまた新たな式神か。何が来るにしろ、一刀の下、斬り伏せるのみだ。刹那は真正面から突っ込む!

「ちィッ! お札さんお札さん、うちを逃がしておくれやす―――」

「これで……ラストォォォッッ!!!」

術を発動させようとしている呪符使いに、刹那は振り被った刀を、全力で袈裟懸けに振り下ろした!
それは技でも何でもない、ただ迅さのみを追求した剣。普通なら障壁で止められるような軽い剣だが、人外の力をもってすれば人間を両断せしめる。
まるで稲妻の如き剣閃が、未だ札を構えたままの呪符使いの体を―――するり、と通り抜けた。

「!?」

何が起こったのか解らない。
勢いにつられ、空中で体勢を崩すが、刹那は視線だけは呪符使いから外さなかった。
今しがた斬った筈の呪符使いの体は、ゆらりと陽炎のように揺らめくと、大気に霧散するように形を崩し、遂には完全に消え去った。
嵌められたか、と思ったが、反撃はない。混乱したまま地に足を下ろし、油断なく構えて辺りを見回す。気配は……ない。

「逃げた……のか?」

戸惑いがちに呟くものの、無論、返事はない。
最後にもう一度だけ確認すると、刹那は目を閉じ、力を鎮めた。純白の翼がするすると収納される。

「ッく……!」

封印し直すと、一気に重力が戻って来た。夕凪を取り落とし、力なく壁に身を預ける。
肩が熱い。血が流れている。止血せねば……と頭では思っているのだが、体が全く動かない。

「傷の…手当てを……いや、それより……お嬢様は……早く………行かな……けれ…ば………」

壁づたいに移動しよう、と思ってはいるのだが、現実の刹那はずるずると腰から崩れ落ち、地に倒れてしまう。
力を使いすぎたのか、血を失いすぎたのか、あるいはその両方か。とにかく、もう指一本動かす力さえない。そして―――

「お、嬢……さ―――」

刹那の意識は、闇に呑まれた。

京洛奇譚(19) その男、究極につき 投稿者:毒虫 投稿日:10/11-22:59 No.1430

ネギ達は木乃香の回復を待ち、また遁走を開始していた。
先の遭遇地点からある程度離れ、まだ新手が現れる気配はない。そのため、少しペースが落ちている。
その事に少し不安を覚えるカモだったが、明日菜はまだしも、木乃香に疲労が溜まっているのだ。無理は言えない。
終わりの見えない体力の消耗、そしていつ襲われ命を奪われてもおかしくないというこの状況からの心労。そろそろ限界だろう。
それでも止まる事は許されなかった。刹那の想いを無駄にする事はできないのだ。どこへ向かっているのかも分からぬまま、一行は闇雲に走る。

先頭を走るネギが角を曲がろうとした瞬間、カモの全身の毛がびしりと逆立った。
人一倍強い防衛本能が告げている。危険だ。この先はヤバイ。逃げろ。今すぐ逃げろ。とにかく逃げろ!

『兄貴ッ!!』

力の限り叫ぶが、時既に遅し。ネギはもう、危険な気配のする路地に足を踏み入れてしまっていた。
そしてネギは、その路地に入ると同時に立ち止まった。呆然とその先を見据える。
カモの位置からはネギの視線の先に一体何があるのかは分からないが、それでもロクなものじゃないという事は判る。
まさに絶体絶命の危機だ。このきな臭い空気から察するに相手は只者ではなく、そしてこの場にまともな戦力はない。
全てを捨てて自分一匹だけでも逃げ出したい衝動に襲われるカモだったが、なんとか踏みとどまり、勇気を振り絞って自らも路地に入り。
そして目に映ったのは―――

「な……なんなのよ、コイツ……」

慄然とした明日菜の呟きが聞こえる。
カモと木乃香はもはや声を発する事もできず、ただ身を凍らせていた。
一行の前に立ち塞がったのは、丁度、見た目ネギと同じくらいの年頃の白髪の少年。
外見に奇異があるわけではない。皆を圧倒させるのはその身に纏う雰囲気と、素人にも感じられる魔力の息吹だ。
裏の世界に生きる者の中でも、更に闇に入った者だけが放つその空気を、少年はこの歳にして既に持ち合わせている。
それを額面通り受け取るか、更に深読みするならば、眼前にいるソレは見た目通りの年齢ではないという可能性も挙げられる。
魔物めいた妖気。常人離れした魔力。人間にしろそれ以外にしろ、脅威である事は火を見るより明らかだった。

「……無駄な争いをする気はない。近衛木乃香を差し出せば、他は見逃してあげよう」

何の感情を交えることなく、少年は淡々と告げる。
その言葉がブラフではない事は誰が見ても判った。少年の瞳には、余裕も嘲りも何も映ってはいない。
木乃香以外の面々には何の興味もないのだ。邪魔をするようならば排除するし、しないのならば何かする必要もない。そう暗に告げている。
カモは舌打ちしたい気分だった。こういう手合いが一番やりにくい。余裕綽々でいてくれれば、その油断に付け込む隙もあるのだが。
本能的に危険を感じ取りじりじりとあとじさる木乃香を、魔力を込めた眼光でその場に縫い付けると、少年は一歩踏み出す。

「僕もそう暇なわけじゃないんだ。結論が出ないようなら、勝手に事を進めさせてもらうよ」

戦る気だ。この少年は一片の躊躇もなくネギ達を叩きのめし、木乃香を奪い去って行くだろう。明日菜は、突き刺さる悪意に恐怖した。
今すぐにでも這いつくばって命乞いをしたい衝動に駆られる。絶対に敵わないと、少年の眼を見るだけで、嫌というほど実感できる。
全て放り出し、逃げ出してしまおうか、と考えるその一方で。思考の隅の隅、本当に小さく小さく、明日菜は己に疑問を提起した。
彼は、木乃香を攫った後、何をするのだろうか。自分には想像がつかないが、きっとロクな事にならないだろう。親友はきっと泣いてしまうだろう。
木乃香が泣く。不条理に屈し、絶望に身を投げ出す。そして自分は、その様を直接見る事もなく、日常に回帰しのうのうと日々を暮らす。
そんな事が許されていいの思っているのか、神楽坂明日菜?

(……決まってるじゃないのよ)

そうとも。答えなど、わざわざ考えるまでもなく決まっている。
明日菜は、刹那から渡された、妙に長くて、持ち運ぶのも億劫なほどに重い刀の柄を握った。
力だ。これは、この刀は、不条理に立ち向かう力なのだ。理不尽をブチ壊す力なのだ。
自分は無力だ、と諦めていた。足手纏いにしかならない、と。だが今はどうだ?
後ろを振り返る。そこにあるのは、ネギの緊迫した表情と、思いつめたような顔をしているカモと、怯えきった親友の姿があった。
彼らは皆、戦えない。戦う力がない。自分にはある。では、やる事はひとつしかあるまい。

「き……来てみなさいよ。このかを奪ってみせなさいよ。その前に、このあたしが! アンタを! ぶった斬ってやるんだからッ!!」

刀身がやたらに長い分、鞘を抜くのに手間取り、相当格好悪い形になってしまったが、それでも明日菜は抜刀した。
重い。切っ先がゆらゆらと揺れる。怖い。少年が怖い。人を殺すための道具を振りかざしているこの状況が怖い。
見栄を切る余裕などあろう筈もなく、何とか少年に刃を向ける明日菜の腰は引けていた。これではヒロインには程遠い。が。
それでも、明日菜は憤っていたのだ。手前の勝手で木乃香を攫おうとする少年に憤っていた。望まぬ力を押し付けられた親友の運命に憤っていた。そんな彼女を救えない無力な自分に憤っていた。
その正しい怒りがある限り、明日菜は退かない。一歩たりとも退いてやらない。正しき憤怒の前には、生命の恐怖なぞ知れたものだった。

「……へえ」

未熟に過ぎる戦意を向けられ、少年は感嘆とも嘲りともつかぬ声を漏らす。
それはあくまで無表情、無感情だったが、彼が纏う雰囲気がガラリと変容したのを、カモは敏感に感じ取った。
先程まで、彼は自分達を適当に叩きのめし、戦闘不能にするだけのつもりであったのだろう。
しかし今は違う。少年は本気だ。実力を出し切ってくるとは状況上思い難いが、少なくとも殺しに来る事は間違いない。
明日菜が素人で、野太刀など扱えないのは、そのへっぴり腰を見るまでもなく判る。しかしこの場合、重要なのはそこではなかった。
『闘う意志を表明している』というその一点がマズイのだ。少年に油断はない。獲物がたとえ兎であれど、手を抜く事はないだろう。
実際、明日菜が刀を抜いたその時から、少年の纏う雰囲気が変わった。これは紛れもなく、戦闘の予兆だ。
明日菜は、今はそう断言するのも難しいくらい『こちら側』に関わってしまったが、それでも一応一般人だ。戦わせるわけにはいかない。
そう判断したからこそ、カモは『最終手段』を実行する事に決めた。木乃香を守るため、というよりむしろ、明日菜を戦わせないために。
カモは明日菜の事を好いていた。いや、妙な意味ではない。彼女の……こう言っては語弊があるかもしれないが、男気に惚れたのだ。
打算など一切なく、ただの思いつきや成り行きで、人のために命を張り、人のために涙を流せる人種。カモは彼ら彼女らに憧れを抱く。
そういう心を持ちたい、持てるとは思わない。自分はただの、心身ともに小汚いオコジョであるから。
だから、せめて。人の力を借りてでも。彼らを、輝ける人間達を―――守りたい、と思うのだ。

(頼むぜ、横っち…!)

首に背負っていた風呂敷を広げると、中から淡く翡翠色に光るビー玉のようなものを取り出す。その中には『呼』と文字が入れられていた。
横島から預かったものなのだが、そもそもこのビー玉もどきが何なのか、その使用方法さえもカモは知らされていない。
ただ、ピンチに陥った時に強く助けを求めれば、必ず助っ人が現れると、それだけ教えられている。
眉唾ものの代物だが、カモはまさに藁をも掴む気持ちで前脚で玉を強く握り締めた。少年は、もうすぐそこまで迫っている。

『神様でも仏様でも何でもいいッ、何でもいいから助けてくれ!!
 俺っち、こんなトコで死にたくねえよッ! みんなも、こんなトコで死んでいい奴らじゃあねえんだッ!!』

無茶苦茶な祈り方だったが、それでも願いは聞き届けられたらしい。突然、玉が強い光を発し、辺りは閃光に包まれた!
流石に少年も手で顔を覆い、軽く眉根を寄せる。

「目潰し…。これで逃げられるとでも―― ぐ、うッ!?」

最後まで言い切る前に、少年の体は吹っ飛んだ!
空を舞いながら、少年は状況を整理する。確かに今、恐るべき密度の気が込められた攻撃、おそらく蹴りを喰らった。
実際に相対した限りでは、情報通り相手方にまともな戦力は既になかったように見えたのだが…。
もしや、あの中に召喚魔法の遣い手、もしくは式神使いがいたとでもいうのか?
厄介な事になった、と考えを巡らせながら着地する。閃光は収まった。少年は自分に攻撃を加えた相手を見据え―――硬直した。




――その少し前。

意識を式神の方に飛ばしているネギを守る形で休憩していた横島の上着のポケットが、突然淡い光を放ち始めた。
出番か、と疲れたようにぼやきながら手を突っ込み、取り出だしたるビー玉状の物体、文珠。その中心には『応』の一文字。
『応』の文珠。それは、カモに預けていた『呼』と合わせ、初めてその効果を発揮するのだ。
置いていくのはマズイかな、と思ってネギを抱え込み、カモの『呼』びかけに『応』じる。
一際強くなった閃光が全身を包み込むその前に、懐から仮契約カードを取り出し、アーティファクトを呼び出し腰に巻き、横島は力の限り咆哮した!

「クロス・アウッッ!!」




光とともに現れ、一行のピンチを防ぎ、白髪の少年を退かせた男。
網膜が焼かれるほどの光もなりを収め、その姿が白日の下にさらされる!

顔の下半分を隠し、風にたなびく赤いマフラー。
完全に人間離れした、どこか金属を思わせる質感を持った異形の筋肉。腹に巻かれた変身ベルト。
そして唯一局部を隠す、日本の伝統的なアンダーウェア。その名もFUNDOSHI。前垂れには『漢』と見事な書体で染め抜かれている。
胸にサラシを巻き、ティクビを隠しているのだが……丁度、両のポッチのところに『良』『心』と大きく文字が。逆効果である。
この緊迫したシーンや、これまで積み重ねて来たシリアスな感じが、なんかもうこれだけで全て台無しであった。
感情の欠片すらも覗かさなかった少年も、微かに目を見開き、口を半開きにしている。呆気に取られているようだ。
対照的に、カモや明日菜は『またか…』と呆れが混じった表情でうんざりしていた。露出狂か。やはり露出狂なのかこの男はっ。
一同の視線を一身に集めながら、フンドシ男はビシッ!とそれっぽいポーズを取った。

「三千世界の美女と美少女の味方、ヨコシマン改め……
 不本意極まりない仮契約のもとたかだか10歳のガキにいいように使いッ走られる悲劇のパートタイムヒーロー、ヨコシマン・パクティオー!!
 美少女を救うためとはいえ無理矢理呼び出された感があってイマイチ気分が乗らないが、それでも一応こうして見参ッ!!」

ポージングだけはキメつつも、やはりそのオーラにどこか覇気がない。
そんな横島…もといヨコシマン…もといヨコシマン・パクティオー(以下ヨコシマンP)を、カモは来てくれた事に感謝しつつも半眼で睨んだ。

『オイオイ、そんなテンションで大丈夫なのかよ横っち、もとい変態かめ…もといヨコシマン・パクティオーのヤツ…。
 兄貴からもなんか言ってやれよ。………兄貴? どうして黙って……あれッ!?』

返事のないネギを不審に思って振り向き見れば、そこには誰の姿もなかった。 
一体どうした事かと慌ててあたりを見渡せば、ヨコシマンPのすぐ後ろに主の姿が。
何だかんだ言って兄貴もやる気マンマンじゃねぇか。だが、その借り物の姿じゃなぁ……と思ったのだが。
よくよく見ると、ネギは忍者のコスチュームからいつの間にか普段の背広姿に戻っていた。即ち、今のネギは実体なのである。
これもヨコシマンPの仕業なのだろうが、本人が転移して来た事も含めて説明できない。まさか転移魔法を使ったわけでもあるまいし。
…まあ、これは後々追求すればいいだろうと思考を停止させ、カモはとりあえずネギを下がらせた。魔力が枯渇している状態では戦えない。

『兄貴ッ、訊きてぇ事は色々あるが、今はそれよりヨコシマン・パクティオーの援護だぜ!
 まだキツイだろうが、そこをこらえて魔力供給してやんな。今度の敵さん、今までとは格が違うみてぇだ』

「それなんだけど、カモ君…。僕にも分からないんだけど、勝手に僕の魔力がヨコシマンさんに供給されてるみたいなんだ」

『ハァ!? オイオイそりゃあどういうこったよ? ンなメチャな話、聞いた事ねぇぜ』

「そ、それが……」

ネギの話を聞くにつれ、カモの驚きは深まっていった。
なんでも、ヨコシマンPはあの扮装自体がアーティファクトで、それを維持するのに主の魔力を勝手に消費しているというのだ。
こんな無茶苦茶な話、ネギは勿論の事、カモも聞いた事はない。これでは、どちらが主だか分かりゃしない。
ふと気になって横島の仮契約カードを確認してみて、カモは更なる驚愕に襲われた。

『な、何だこいつァ…』

今朝見た時には、横島らしきシルエットが佇んでいる、というあまりにもパッとしなかった絵柄が一転…
フンドシ姿も雄々しいヨコシマンPが、夕陽を背に腕組みして仁王立ちしていた。しかも、華々しいキラカード加工だ。
カモは頭痛さえ感じた。仮契約カードの絵柄が変わるなどと言う話は初耳だし、キラカードになるなんてのも聞いた事がない。
横島という男、つくづく規格外だとは思っていたが、まさかここまで飛び抜けた常識外れだとは思わなかった…。

(ここまでいくと、すげぇッてぇよりむしろアホらしいな……。
 なんてぇか、物凄い能力を力一杯間違った方向に使ってる気がするぜ。ま、それが横っちらしいっちゃあらしいんだがよぉ)

驚きは呆れに変わり、口唇は苦笑の形に歪む。
ある程度予想はしていたろうが、まさかここまでアレな扮装で来るとは思っていなかったのだろう、ぽかんと口を開けている明日菜を見やり、カモは心底から同情した。
自分でさえ理解できないこの状況、つい先日まで一般人であった彼女からすれば、まさに人外魔境の領域であろう。
それでなお、木乃香の目からヨコシマンPを隠すべく目隠ししているのは流石だった。アレは、中学生の少女にはあまりにも目の毒だ。

「え? なになに? どーしたんアスナ? さっきの声の人、誰ぇ?」

「………訊かないで、お願い」

声に哀愁が滲む。そこには少女の後悔がありありと見て取れた。ああ、あたしってばなんでこんなのと関わっちゃったんだろ……。
明日菜の切実な悲嘆をよそに、ヨコシマンPは何ら恥じる事なく少年と対峙する。
始めの内こそやる気なさげにしていたが、少年の実力を察したのか、先程までとは場に流れる緊張感が全く異っている。
構えもせずに睨み合う2人の戦士。いつまでも沈黙が続くかと思われたが、意外にも先に少年が様相を崩した。

「見苦しいね……。時間も差し迫っている事だし、早々に始末させてもらうよ」

「言ってくれる。そう簡単に行くか……その身をもって確かめろッ!!」

少年が爆発的な踏み込みを見せると同時に、ヨコシマンPも、それに応えるように間合いを詰め。
一息もつかぬ間に両者の距離はゼロとなり、2つの拳が交錯する―――!

(……?)

一瞬後。少年は首をかしげた。おかしい。拳の先に伝わるべき衝撃が来ない。
それだけならまだしも、攻撃を外したであろう自分の身にも、何らの痛みも降りかかって来ない。
眼前に敵の姿はなく、しかし背後に気配はない。瞬きにも満たぬ間で、あのフンドシ男はどこへ消えたというのか?
そして………うなじに感じる、やけに生暖かく、微妙なぬくもりのやわらかい感触は何だ?

「これは……水風船…?」

むにょり。触ってみると、いやに生々しい感触。
と、少年の手首ががしりと握られた!

「それは私のおいなりさんだッ!!」

「ッ!?」

慌てて振り返るが、探し求めたその姿は既にない。
ヨコシマンPは、フハハハハ!と哄笑を上げながら空に舞っていた。
少年の明晰な頭脳が混乱をきたす。今のは一体どういう状況だったのか?
首筋に……その、なんだ、『男のおいなりさん』を当てられていたようだったが、肩に体重を感じなかった。
ならば彼は、どのような体勢で先程のような精神攻撃をやってのけたのか。まさか、中空で静止していたとでもいうのか?
あまりにもあまりな展開に、戦場にありながら少年は戦いを忘れていた。その隙をヨコシマンPが見逃す筈もなく、少年の首にしゅるりと何かが絡みつく!

「!」

反射的に外そうと試みるが、気(のようなもの)で恐ろしく強化されたただの布は千切れない。
奴の狙いは何だ。このまま首を絞めるつもりか。捻じ切るつもりか。それとも、この状態から投げ技へ繋げるのか。
結論から言うと、そのどれでもなかった。胸のサラシを少年に巻きつけ、塀上に固定し、ヨコシマンPは不敵に笑う。

「喰らうがいいッ! 究極秘奥義――」

言うと、ヨコシマンPは伸び切ったサラシを跨いでポージング。
まさか…!と青褪める少年をあざ笑うかのように、そのまま一気に急降下!

「地獄のタイトロォォォォプッッ!!!」

「な…ッ!!?」

少年は言葉を失った。
迫り来るおいなりさん。男の臭い。
迫り来るおいなりさん。弾ける汗。
迫り来るおいなりさん。テラテラ光る筋肉。
迫り来るおいなりさん。何故かサワヤカに笑うヨコシマンP。
迫り来るおいなりさん。迫り来るおいなりさん。迫り来るおいなりさん。迫り来るおいなりさん。迫り来るおいなりさん!

(げ、限界だ……!!)

そう、限界だった。時間的に。それよりも精神的に。
おいなりさんが顔面クラッシュする前に、少年はポケットから小瓶を取り出し、蓋を開けてその中身を地面にぶちまけた。
それは見た限りただの水で、少年の足下に小さな水溜りが出来る。何のつもりか、と一同の首がかしぐ。

「ここは退かせてもらうよ。この決着はいつか…」

「あ…!」

誰かの驚きの声が漏れる。
少年の体が、まるで底なし沼に呑み込まれるかのごとく、水溜りに沈んだのだ。
誰もが予想外の展開に身動きが取れない中……ついに、小さな水飛沫を上げて少年は水の中へ消えた。
そして目標物を失ったヨコシマンPは、空中でバランスを崩し、のわぁーッ!と叫びながら頭から地面に落下。
めきょりとヤバげな音が聞こえたり、その首が曲がってはいけない方向に曲がってたりするのだが、一同は何も見なかった事にした。
しばらくの沈黙の後、カモの舌打ちが空々しく響く。

『水を触媒にした空間転移…。かなりの高等魔法だ。厄介なヤツが出てきやがったぜ、畜生がッ』

「く、空間転移…」

ごくり、とネギは生唾を飲み込んだ。
魔方陣を用いぬ空間転移。深く考えるまでもなく、今の自分では及びもせぬ高等魔法だ。
これだけで先程の少年の実力の高さを思い知らされる。まともに戦りあって、まず勝ち目はないだろう…。
エヴァンジェリンやヨコシマンならともかく、まだ駆け出しの魔法使い、そのタマゴである自分が正面切って戦える相手ではない。
しかし、少年は自分と同じくらいの年頃だった。エヴァンジェリンの例もあるから断定はできないが、それでもネギは悔しかった。
天才だともてはやされ、それに驕る事もなく、努力を重ねて来たつもりだった。その自己認識の、いかに甘かった事か。
努力が足りない、と思う。度の知れた自己鍛錬では間に合わない。それこそ命懸けの修行をしなければ、自分の周りのどの戦士にも追いつけない。
京都に赴いてからの戦いの中で、ネギが真に勝利を収めたことなど、ただの一度だってありはしなかった。やって来た事といえばサポートのみだ。
己の力だけで倒したと思った狗族の少年は、実力の全てを出し切ってはいなかった。トドメを刺したのは、結局横島だ。
それに、この戦いにしたってそうだ。借り物の体に意識を宿していた時、戦えもしない明日菜を敵の前に押しやってしまっていた。
あの時点で自分にできる事が何もなかったのは認めよう。しかしネギが許せないのは、彼女の自己犠牲を止められなかった自分自身であった。
自覚はなかったが、仕方がないとさえ思っていたのだ。自分は体を持たず、カモが戦えよう筈もなく、木乃香に至っては論外であったあの状況。
その中にあり、一応は自分と紛い物の仮契約を結んでいた明日菜、彼女こそ残された唯一の戦力だとも無意識の内に考えてしまっていた。
彼女も守るべき生徒のひとりであるのに。戦闘においてはただに素人である事を知っていたのに。藁を掴む思いで、頼ってしまった自分がいた。
許せなかった。ネギは自らの甘さを、軟弱さを、依存癖を許せなかった。ネギは教師であり、その前に紳士でありたいと思っている。
紳士が女性を矢面に立たせるなど、あってはならぬ事だ。年齢や状況など関係ない。紳士道とはそういったものだ。
これでは駄目だ。この程度でマギステル・マギになぞなれるわけがない。偉大な父の背中も、いつまで経っても見る事さえ叶わない。
力が足りない。努力が足りない。覚悟が足りない。全てが足りない!

ネギは強烈な強迫観念に襲われていた。
誰が見たって10歳の少年にしては異常な努力を積み、才能も有り余るほど持っているのだが、いかんせん周囲の人間が特別すぎるのである。
その特別優秀な戦士達を、ネギは基準に置いてしまった。それも、彼らが重ねた年月を考慮に入れる事なく。
異常な目標基準の中、ネギは必死になってもがき続ける。それが吉と出るか、凶と出るか……。


俯いて沈んだような表情を見せるネギに気付く者は、この場にはいなかった。
白髪の少年やヨコシマンPが与えたインパクトがあまりにも強かったせいもあるが、今はそれより重要な事があった。

「…せや! せっちゃん! せっちゃんは!?」

弾かれたように振り返り、木乃香がおろおろと周囲を見回す。その様は、母を捜す迷子の子供に似ていた。
刹那がいない。後で合流するとの約束だったのに、結構な時間が経った今でも、彼女が現れる気配はない。
彼女の剣の腕を信じないわけではない。約束を破るような人間ではない事も分かっている。しかし……嫌な予感を拭う事はできなかった。
最悪の結果をそれぞれ思い浮かべ、皆が沈痛な表情を張り付かせて俯く。木乃香は小さく息を呑んだ。

「そ、そんなわけ……そんなわけあらへんやんかっ!! せっちゃんはっ、せっちゃんは……っ! せっちゃんっ!!」

足下ももどかしく、木乃香は駆け出した。その表情には不安と焦燥が色濃く現れている。

「あ、こ、このかさんっ!」

「ちょっと、このかっ!!」

慌てて、ネギと明日菜がその後を追う。
白髪の少年を撃退したとはいえ、まだ完全に危険が晴れたわけではないのだ。
しょうがねぇえな、と苦笑するように鼻から息を抜き、いつの間にか人知れず復活していたヨコシマンPも走り出し…

『…待てや横っち。ナンボなんでも、その格好はマズイぜ』

「わ、私は横島忠夫などというナイスガイではないッ! その名もヨコシマン・パクティオー!」

『や、それはまあどーでもいーんだけどよぉ。流石にコスプレじゃあ通らんぜ。お縄もんだ、そりゃあ』

「……や、やっぱそうかな?」

『ッたりめぇだろ。鏡見た事ねぇのかよ』

「そっか、そうだよなあ…」

こそこそと物陰に隠れ、ヨコシマンPは小さく『アベアット』と呟いた。



一方その頃、呪術協会総本山に程近い山林の中。

「き、消えた?」

突然姿を眩ました一行に、大河内アキラは呆然と立ち尽くしていた。
必死の思いで追いついてみれば、安心する暇もなくまた置いてけぼり。
引き返そうにも、道々にはあの人間だか狼男だかよく分からない少年が未だに倒れているかもしれない。

「ど、どうしよう……」

進退窮まったアキラの口から、長い溜息が洩れた。