石畳の上に立ち、敵を待つ。 気負いはある。緊張もしている。しかし、それがかえってネギには良い方向に働いているようだ。
ネギの顔は、甘っちょろい少年のそれではなく、既に戦う男のそれへと変貌を遂げつつあった。
任せておいても大丈夫だと判断し、横島はその少し後ろでポケットに手を突っ込んで立っている。
10歳という若さで一丁前に戦おうとするその気概には、横島も感心している。
己の目標のために、守りたい何かのために、正面切って難敵に闘いを挑むなど……その歳では普通考えられない事だ。
当然、横島が10歳の頃など、毎日遊ぶ事しか考えていなかった。いや、それは今でもあまり変わらないのだが。
とにかく、ネギの姿勢、生き様は、実に男らしい。カモが兄貴と呼び慕うのも理解できた。
「…援護もなしで、本当にいいんだな?」
「はい。大丈夫です。策がありますから。 それに、彼は魔法使いの事を、そして……父さんの事を侮辱しました。これはもう、僕の闘いです」
ネギの表情は険しい。 そうか、と頷くと、横島は前を見据えた。獣の気配が近付いている。
『…来たぜ! ぶちかましてやれ、兄貴ィ!!』
「ラス・テル マ・スキル マギステル!」
カモの激励には、始動キーの詠唱で応える。 竹林がざわめく。敵は近い!
「風精召喚(エウォカーティオ・ウァルキュリアールム)
剣を執る戦友(コントゥベルナーリア・グラディアーリア)!! 迎え撃て(コントラー・プーグネント)!!」
ネギの形を借りた風精が、敵の狗族の少年めがけて空を走る! ――が、しかし。
「こんなもんッ!!」
少年は、その四肢と、懐から取り出した棒手裏剣とでもって、いとも簡単に風精を蹴散らしてみせた。
やっぱ大した事ないな、と呟くが、その口角は吊り上がっている。闘いを愉しんでいるのだ。
魔法の加護もなしで風精を打ち砕くその体術は見事なものだが、ネギの狙いはそれではない。 詠唱は既に終えていた。機を見て、放つ!
「魔法の射手(サギタ・マギカ) 連弾・雷の17矢(セリエス・フルグラーリス)!!」
「う、おおッ!?」
間隙なく放たれた17本の魔法の矢! 少年は咄嗟にポケットから預かった護符を取り出し、直撃を避ける。
狙いは粗いが、その威力は充分脅威に値する。当たりどころが悪ければ、一撃でも危険だ。
この距離がマズイ。接近すればどうとでもなる。しかし、それであの横島とかいう男に出て来られても少し困る。
彼と戦うのが怖いわけではない。むしろ愉しみに思うが、一対一という戦況でないのが呪わしい。
血沸き肉踊る戦闘こそが少年の生き甲斐であるが、流石に自ら死地に飛び込むような真似はそうそう選びはしない。
しかしこの場合、少年には進むしか道は残されていなかった。この間合いでは、何もできないのだ。
全身の力をもって踏み込もうとする少年であったが、相手は既に戦士と化したネギ・スプリングフィールド。そうそう甘くはなかった。
顔を上げた少年の視界を、白い閃光が埋め尽くす!
「白き雷(フルグラティオー・アルビカンス)!!!」
「があぁあぁぁッッ!!?」
少年の脳天から爪先までを、雷が蹂躙する!
さすがにこれは効いたらしく、少年は力なく鳥居の上から倒れ落ちた。 確かな手応えに、カモの顔に喜色が浮かぶ。
『やったぜッ!! さすが兄貴! 遠距離からのフェイントを含めた3連発!!
対戦士魔法戦闘の基本がバッチリ噛み合いやがった! 奴ァ相当な猪武者だ! 教本通りにやりゃあ勝てるぜコイツぁ!!』
『いえっ、まだです!!』
ちびせつなの読み通り、白煙の中から少年が飛び出した。
ネギも慌てて始動キーを唱えるが、間に合いそうにない。 カモの表情から余裕が消え去り、その代わり、心底うんざりした、と言いたげに歪んだ。
『クソが! なんてタフなガキなんだッ!! 横っちマズイぜ! 援護をッ!!』
「…………」
横島は応えない。ポケットに手を突っ込み、その場に立ったまま、身じろぎもしない。
そうしている内にも、少年はネギに詠唱を許す間もなく懐に飛び込むと、その腹に拳をぶち込んだ!
「ッは……!!」
肺から根こそぎ空気が抜ける。絶叫を上げる事すら許されずに、ネギはただ、障壁を維持する事だけに意識を集中させた。
必死に耐えるネギを嘲笑うかのように、少年は宙に浮いたネギを右に左に殴ると、トドメと言わんばかりに蹴り飛ばす!
いいようにやられるネギを前に、カモとちびせつなは完全に焦燥の態を表している。
『な、何やってんだ横っち!? 兄貴がやられちまうぜッ!!』
『横島さん!! 援護を!!』
「…………」
必死の呼びかけにも応じず、横島はただ、倒れ呻くネギを冷静に眺めるばかり。
しかし少年の方は、戦闘に関与しない横島の態度を額面通りに受け取らないつもりのようだった。
ネギへの追撃の手を止めると、くるりと横島たちの方へ振り返り…
「今、愉しいとこなんや! 邪魔すんな! お前らはこいつらと遊んどけッ!!」
そう言って手を振りかざした少年の影から……真黒い犬が群れで飛び出す!
『ギャー!? い、犬キライ! 犬コワイ! 喰われる! 喰われるぅぅぅぅッ!!?』
『あ、いや、恐らくは式神のようなものでしょうから、食べられるような心配は……って、そんな事を言っている場合じゃないですね!?』
何か犬にトラウマでもあるのか、やたらと取り乱すカモ。冷静なようで密かに焦っているちびせつな。
横島は、ゆっくりとポケットから手を出すと、軽く溜息をついた。
「動物虐待は好きじゃないんだけど……なッ!!」
『ギャインッ!?』
横島が投擲したのは、何の変哲もない、ただの石つぶて。
しかし霊力が込められたそれは、5頭はいたであろう黒犬どもを一瞬にして影へと戻した。
少年が苛立たしげに舌打ちするが、横島の手はまたポケットへと差し込まれ、そこから動くような様子はない。
不審気に眉根を寄せる少年に、横島は気軽な口調で話しかけた。
「何やってんだよ、まだ勝負の途中だろ。敵から目を離してていいのか?」
『横っち!?』
『横島さん!?』
非難の視線が突き刺さるが、横島はあくまで動こうとしない。
少年は、満足気に笑った。
「なかなか話の分かるおっちゃんやんけ…」
「おっちゃんゆーなッ!!」
ムキーッ!と吠える横島を鼻で笑うと、少年は身を起こしかけているネギに追撃を始めた。
右、左のコンビネーションから廻し蹴り!石畳を削りながらネギは吹っ飛ぶ! もはや防御を取る事さえ許されない圧倒的な猛攻。実力の差は明らかだ。
「ハ、もう手ぇも上がらへんか……」
スポーツ、その試合でいえばもう勝敗は決しただろう。しかしこれは実戦である。
少年は更に間合いを詰め、ネギの髪を掴み体を起こすと、マウントポジションから容赦ない連撃を繰り出す!
「ハハハッ! 護衛のパートナーがついてへんと、西洋魔術師なんてカスと同じや!!
遠距離攻撃しのいで呪文唱える間ァ与えんかったら怖くともなんともないッ!!
チビ助ェ! 何のつもりか知らんけど、お前独りで俺と闘おう思たんは間違いやったなァッ!!」
「あ…う……ッッ」
反論できないネギを蹴り起こし、少年は拳を握った。
「終いや!! とどめッッ!!」
裂帛の気合と共に、少年の正拳がネギへと迫る……!
(ここだ…!)
もう決着かと思われたその時、ネギの眼がギラリと光った。 死中の活。勝てる筈のない接近戦の中での、唯一にして最後の勝機!
ネギの闘志は折れてなどいない。ただ、燃焼の時を待っていた!
「契約執行(シム・イプセ・パルス)0,5秒間(ペル・セクンダム・ディーミディアム) ネギウス・スプリング・フイエルデース――」
「な……ッ」
呟きのようなその声が、死に体のネギに力をもたらした。
防げる筈のなかった正拳を捌き、驚愕に固まる少年の顎を刈る!
「―――ッッッ!!?」
凄まじい威力に、少年の体は宙を浮き……致命的な隙を生み出した。 少年の下に潜り込んだネギの口から、静かに始動キーの文句が流れ、そして。
「闇夜切り裂く(ウーヌス・フルゴル) 一条の光(コンキデンス・ノクテム) 我が手に宿りて(イン・メア・マヌー・エンス)
敵を喰らえ(イニミークム・エダット)―――」
「な、に……?」
「―――白き雷(フルグラティオー・アルビカンス)!!」
零距離からの雷の炸裂!! 護符の加護もなく、膨大なエネルギーが少年を直撃する!
なす術もなく吹き飛び倒れ伏す少年。流石に立ち上がれない。 痛みに呻き這いつくばりながら、悔しげにネギ――勝者を見上げる。
「これが、西洋魔術師のッ……僕、ネギ・スプリングフィールドの力だッ!!」
「ぐッ……」
受けたダメージは軽くない。ネギは満身創痍でいながらも、その眼に宿る力はいささかも衰えていなかった。
知力の、そして戦略の勝利。単純に力で押す戦いしか知らぬ少年にとって、それは屈辱であり、そして新たな発見であった。
負けたら悔しい。それは当たり前だ。が、少年はもう、『西洋魔術師に負けたから悔しい』とは思わない。
勝利に浮かれるネギ達を視界に収めながら、少年は笑っていた。力と知略の闘い。それのなんと新鮮で愉しい事か!
このまま終わらせるのは勿体ない。もっともっと愉しみたい。それに、負けっぱなしというのは、いかにも性に合わないのだ。
痛みと痺れと疲労に軋む体を押して、少年は身を起こした。この胸を弾ませる喜悦を、より深めんがために。
「ま……待てやァッ!! まだ終わらんッ! 俺はまだ闘える……ッ!!」
『な゛……!? ま、まだ立ち上がるってのか!? しぶといにも程があるぜ……!!』
「そんな……」
『これは、まさか……!!』
「元気だねー。若いっていいねー」
戦慄するネギ達(一部除く)を尻目に、少年はゆっくりと立ち上がる。
心底愉しげに笑う少年の骨格が、メキリと変容を始め……その姿を、異形へと変える。
「ただの人間にここまでやられたのは初めてや……。さっきのは取り消すで、ネギ・スプリングフィールド……!
しゃあけど……まだ終わらんッ!! こっからが本番やで、ネギ!! 愉しい愉しい闘いの始まりやッッ!!」
白く染まった髪。縦に裂けた瞳。鋭く尖った牙。少年は、今や完全に異形へと、獣人へとその姿を変えた。
体に至っては、人間のカタチを取っていた頃の面影すらありはしない。 爪、筋肉、獣毛、尻尾、全てが獣。今、少年は、二足歩行する獣となった。
『獣化!! 変身しやがった!?』
『まずいですよ、これは!!』
「くっ……!」
悔しげに唇を噛み締めるネギ。魔力は底をつきかけ、傷を負った体は、とても戦闘に耐えうるものではない。
以前のネギであれば、ここで諦めていただろう。しかし、ネギはもうただの魔法使いの少年ではない。戦士だった。
初めて感じる杖の重みに眉をしかめながらも、闘志を消さずに前へ一歩踏み出す。
『何やってんだよ兄貴!? 下がれって! 兄貴はもう戦える体じゃねぇだろ!?』
カモが悲鳴じみた声を上げて忠告を寄越すが、ゆるりと首を振る。
違うのだ。戦えるとか戦えないとか、そういう話ではない。今は、戦うべき時なのだ。 戦う理由など、ただそれだけで充分だった。
「……大丈夫だよ、カモ君。何とかなる……ううん、何とかするから」
『兄貴……ッ!』
やっぱそう来ぉへんとな!と笑うと、少年の姿が掻き消えた!
爆発的な踏み込みに対応できていないネギの足下に、人外のものと化した鉄拳を打ち込む!
石畳がまるで爆撃されたように粉砕され、その余波でネギの体が軽く宙に浮く。先程とは比べるまでもないその威力に、ネギの背に戦慄が奔った。
(なんて攻撃、なんて速さだ…! 当たれば間違いなく――死ぬ!!)
更なる攻撃に備えようとするネギの前に――ふと、大きな背中が立ちはだかる。 横島は、顔だけネギに向けて、男臭い笑みを浮かべた。
「良く頑張ったな、ネギ。けど、ここからは……大人の仕事だ」
「で、でもっ!」
「いいから休んどけドアホ!」
渋るネギを拳骨で黙らせると、改めて少年と対峙する。
相手がネギから横島へ代わっても、少年の愉しげな笑みは収まらない。それどころか、ますます深くしているように見える。
事実少年は、愉しくて、嬉しくてたまらなかった。一日の間に強敵二人と死合えるなど、これ以上ないほどの悦びである。
「愉しませてくれそうやな、おっちゃんは……。征くでッ!!」
「おっちゃん言うなって、何回言やあ分かるんだ、よッと!」
一瞬の内に懐に入り込み繰り出される少年の拳を危なげなく捌く。
確かに迅く、その威力も高いのだろう。タフな横島といえど、あまり喰らいたくない攻撃だ。 しかし……当たらなければ、どうという事はない。
「オラァッ!! くッ!! この…ッ!! らァッ!!」
「よッ、ほッ、はッ、とッ」
かわし、避け、いなし、捌く。少年のラッシュは完全に読まれていた。
防御さえ取られる事のない完全な回避に少年は苛立ち、焦り、それが余計に拳を鈍らせる。少年は悪循環へ陥っていた。
自分では目で追う事さえできない攻撃をいとも簡単に手玉に取る横島に、ネギの口から感嘆の溜息が漏れる。
「す、すごい…! あんなに速い攻撃を……!!」
『凄ぇ凄ぇとは思ってたが…ったく、どういうヤツなんだよ横っちは……。
横っちは、気や兄貴から供給される魔力を使って、身体能力を補強できるハズだ。だが、今はそれをやってねぇ!
純粋に、体一つで戦ってやがる……! 人間業じゃねぇぜ!!』
ネギやカモは知らない事だが、ちびせつなには納得できる事だった。
カモは、横島の戦いを人間業ではないと評するが、それはある意味当然の事だ。 何故なら、元より横島は純粋な人間ではないのだから。
しかし、それであっても充分驚嘆に値する事なのは変わりない。攻防を続ける横島達を眺め、刹那は推測する。
『いえ……横島さんなら、可能な事なのかもしれません。 確かに、あの狗族の少年は迅い。しかし逆を言うなら、ただ迅いだけなのです。
攻撃の緩急、そして織り交ぜるべきフェイントが全くできていない。その動きも直線的で、単純なコンビネーションしかない。
それに横島さんほどの遣い手となれば、相手の視線、足捌き、殺気、筋肉の動きを読み、次の手を予測する事も可能でしょう。
次が読めている単純な攻撃など、いくら迅くとも当たるものではない。つまりはそういう事かと』
『簡単に言ってくれるけどよぉ……それがあんなに上手く行くもんなのか?』
『もちろん、言葉で言うほど簡単なものではないでしょう。
一撃でも当たれば危険、目視できるかすら危うい連撃の中に身を晒す……。
自らの命さえ危ぶまれる状況に、常人なら極度の緊張状態に陥り、必ずどこかにミスが生まれる。
しかし、そんな戦いを幾度も経験しているとしたら……それは既に、彼にとって危険とはなり得ない。
常在戦場の日々を送っていた横島さんにしてみれば、この戦いも、日常の延長線上にあるのかもしれませんね…』
『そりゃあ……何とも凄まじい話だな』
戦闘でさえ日常の一部。
そんな人生を送って来たであろう横島に戦慄を覚えながら、カモは意識を横島達の方へ戻した。
「クソがァ……! なんで当たらんねんッ!!」
「それが分からんようじゃあ、まだまだだってこった。
…しっかし、クソ面白くもねぇ戦いだな。このまま終わるようじゃつまらんし、ひとつ提案があるんだが」
「提案やと…?」
思いがけない横島の言葉に、少年の手が止まる。
「ああ。今から俺が一発殴るから、そしたらお前も一発殴ってこい。後はその繰り返し……要するに根性比べだな。
どうだ、男と男の闘いって感じだろ? 俺とお前の一騎打ちだ。燃えるだろうがよ」
『お、おいおい正気かよ横っち!? 相手は人間じゃねぇんだぜ! 不利に決まって…』
何を言ってるんだ、と叫ぶカモに、横島は不敵な笑みを返す。
「だから面白いんだろ? それに……所詮、犬ッコロが人間様に敵うわけないからな」
それを見て、少年は完全に頭に血が上った。
この男は狗族を、そして自分を侮辱した。上等だ。ならば目にモノ見せてやろうじゃないか。
「ええやんけ……吐いた唾飲まんとけやッ!!」
射殺さんばかりに横島を睨むと、全身に気を張り巡らせて完全に防御体勢に入る。
相手はいくら強いとはいえ所詮は人間。一度に与えられるダメージなど高が知れている。
この身は攻撃力はもとより防御にも優れている。一撃ぐらいは耐え切れる自信はある。
一撃耐えられればそれで充分だ。後は固く握ったこの拳で奴の顔面を砕いてもいいし、鋭く尖った爪で八つ裂きにしてやってもいい。
一撃だ。とにかくこの一撃を耐える。少年はぐっと歯を食い縛った。
「いつでも来いやァッ!!」
「じゃ、遠慮なく…」
カモ達が不安も露わに息を呑んで見守っているさなか、横島はふらりと一歩を踏み出した。
闘志も剥き出しに構えている少年のもとへ、まるで散歩をしているかの如く自然な足取りで歩み寄り、おもむろに右手を出す。
攻撃にしては勢いがない。少年も含めた一同が不審に思い始めたその時――横島の右手が、少年の胸倉を掴んだ。
「え……」
コツン。足下に微かな感触。足を掛けられたのだと気付く前に、少年の体は半回転し、背中から地面に叩きつけられた。
誰もが事の成り行きに呆然としている中、横島はいそいそと少年の体を跨ぐ。馬乗り。俗に言うマウントポジションだ。
その体勢から振り上げられる拳に少年は目を見開き、そこでようやく気が付いた。ハメられた!
「いや、悪いねホント」
「おまッ―――」
横島は拳に力を込める。少年の耳朶は、メリメリ、という異質な音を捉えた。
その音の源を目にし、思わず絶句。まるで巌のような横島の拳、それ自体も常人とは遥かにかけ離れたものではあったが。
それよりも目を引く異形は、横島の腕にあった。異常な筋肉の隆起が、厚手のスーツの布地を圧迫していたのだ。
少年のように体そのものを変質させたのではない。攻撃に用いる腕と拳だけが、ヒトのそれとは明らかに異なるモノに変化している。
何だ。何なんだこれは! 激情と、彼自身認めたくない感情、恐怖に牙を剥く少年の顔面に―――
霊力を込める事もせず、横島は異形と化した拳を叩きつけた!
一発!
「げアァッ!!?」
二発!
「――ッッが!!」
三発!
「ぉ……っぶ…!」
四発!
「ッ……ァ………」
五発!
「…………………」
ここに至り、少年は完全に沈黙した。
ぐったりとした少年の瞼を無理から開き、意識がないのを確認すると、拳に付いた返り血を拭いながら立ち上がる。
そして、皆の方へ振り向くと、横島はやれやれと溜息をついた。
「正直者が馬鹿を見る、ってか。嫌な時代だよなあ」
ネギの返事はない。何が起きたかのか理解しきれていない様子で、横島と倒れ伏す少年をきょときょとと見比べるのみ。
しかし次第に事態を飲み込み始めると、ネギは身をわなわなと震わせながら横島を見やった。
「あ、あなたは、なんてことを……!」
怒りを目に滲ませるネギを見やり、横島は肩を竦めた。
その歳と性格上仕方がないのかも知れないが、この程度の事で目くじらを立てようとは……あまりに青い。
やはりネギは未だ戦いの妙というものを心得てはいないようだ。ただ真正面からぶつかり合うだけが戦いではない。
自分の被害を最小限に抑えつつ、相手に最大限のダメージを与える。そこに潔さなど必要でないのだ。
その辺の事はカモもよく解っているようで、横島が何か口を開く前にネギを諭し始める。
『まァまァ、勝ったんだからいいじゃねぇか兄貴。ンな細けぇコト言いなさんな』
「け、けどっ! 今のはさすがに卑怯だよ! だって、約束したのに…!」
『卑怯も何もねぇだろうがよ、スポーツじゃあるまいし。生きるか死ぬかの世界なんだぜ?
そりゃあ兄貴はゴリッパな志を持ってるみてぇだがな、俺たちゃンな上等なもんじゃねぇんだわコレが。
泥を啜ってでも生きてぇって人種なんだよ。安全に勝つためにゃあ、手段なんぞいちいち考えてられるかってんだ』
「それは……確かにそうなのかもしれないけど…でもっ! あれはもう不意打ちや奇襲なんてものじゃなくて、騙し討ちじゃないかっ!」
なおも非難の声を上げるネギに、カモの目がすぅと細まる。
『……なんも分かっちゃあいねぇようだな。ま、確かに兄貴にゃあまだ早ぇかもしれねぇが。
なあ兄貴、戦いってぇのはな、アンタが考えてるほど綺麗なもんじゃあねぇんだ。
誰もが勝ち残るのに必死なんだよ。勝つためにゃあ何をしても許されんだよ。
正道を貫いて死ぬなんざ馬鹿のやる事さ。邪道に手を染めようとも外道に身をやつそうとも、最終的に勝てりゃあいいんだ。
卑怯上等大いに結構、罵りなさるはなお結構、てなもんさ。なあ、アンタもそう思うだろ?』
カモはちびせつなに同意を求めた。
ちびせつな、つまりは刹那は神鳴剣士、ネギの認識で言うところのサムライだ。当然、反論を返してくれると期待するネギであったが…
『それは流石に極論だと思いますが……まあ、言いたい事は分かります。
自分の命を、あるいはそれよりも大事なものを守るためには、何をしても構わないと私も思いますね。
いえ、正確に言うと、『何をしても許される』のではなく、『どんな事もする覚悟がある』という事なのですが。
何にせよ、戦いに奇麗事を持ち込むのはあまり感心できません。拘れば拘るほど戦いの幅を狭める事になりますし』
「そんな……!」
唯一味方だと思っていたちびせつなにも裏切られ、ネギは言葉を失った。
たとえ戦場であれ日常生活の場であれ、人を騙すなんてよくない事だ。そう思うのは間違いなのか。
罠にかけたり、策にはめるのとはわけが違うのだ。横島は決闘を汚した。それは許されざる事である筈。
決闘のルールは遵守しなければならぬ。それを破るは男の、人間の矜持を失う事。そう信じていたのに。
『そら見ろ! いいか兄貴、この際だからハッキリ言わせてもらうぜ。
兄貴にゃあ甘っちょろい部分が多すぎだ。年齢的にしゃあねぇ事だと思うけどな、一丁前に戦う覚悟があるんなら…』
「やめろアホガモ、大人気ない…」
追い討ちをかけるカモの首根っこを引っ掴むと、横島は疲れたように溜息をついた。
そして、俯いて眉根を寄せているネギに向き直ると、取り繕うように明るい声を出す。
「俺はこーゆーやり方大好きなんだけど、ネギは好きじゃない。それだけの話だろ?
どっちが正しいとかそんなこたぁどーでもいいし、そもそもこんな事に正しいも間違ってるもないしな。
何も、無理して真似する必要はないんだ。やりたいと思ったらやりゃいいし、ヤな感じだなと思ったらやらなきゃいい」
「は、はあ……」
納得したわけではないが、流石に自分の考えに自信を持てなくなり、曖昧に頷く。
ネギとしては、ああいったやり方を許す事はできない。が、それはやはり未熟者の甘えなのであろうか。
好意的に解釈すれば、あれもまあ戦術の内に入るのかもしれない。それで切り抜けられる場面があるのなら、全否定するべきではないのかも。
自らの甘さを貫くべきか、それとも先達の言葉に従うべきか。ネギは頭を悩ませる。
(どーも……やりにくいね、こりゃ)
そして横島は、場に流れる気まずい雰囲気に、面倒げに頭を掻いた。
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