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僕の世界が動いた日

 


 カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしました

 惰眠を貪っていた僕の身体に叩き付けられたのは、良く解らない口上の文句と、肋骨を軋ませる様な鈍痛だった。思わず僕は「グェ」と潰れたヒキガエルの様な情け無い声を上げながら、もぞもぞと被っていた布団から顔を出す。

「カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしましたっ!」

 左腕を折り曲げて手を軽く握り胸に当て、右腕は美しい曲線を描いて手を天に差し出し、顎を僅かに上げて右手の先を覗き込むようにポージングをとり、美しいソプラノの芝居掛かった口調で――残念ながら舌足らずで滑舌の悪い喋りではあるが――歌うように彼女は言葉を繰り返した。
 舞台女優を彷彿とさせる姿ではあるが、可愛らしいピンクを基調とした生地に、小さく可愛らしい熊さんが『クマー』と叫びながら、両手を挙げているマークが散りばめられているパジャマを着込んで、布団に包まっている僕を跨ぎながらの舞台演技では、逆に滑稽だ。
 いや、ココまで来たならコケテッィシュと言っても良い。

「……カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしましぇたっ!!」

 噛んだ。
 しかもちょっとだけ涙目だ。
 筋肉の変わりにプリンでも詰め込んだような二の腕がプルプルと震えているのが解るが、それでもしっかりとポージングは崩さない。
 その根性を取り立てて誇るべき所が無い事で有名な、我が大学の劇団サークルの連中に見習わせてやりたい。

「…………」

 ちらちら、じたばた、ぐりゃぐりゃ。
 無言の中で行われている行動を擬音で表すならこんな感じだろう。
 涙目になりながらも、僕に訴え掛けるように覗き見を繰り返し、痺れを切らしてきたのか両足の力を使って僕の身体の上で跳ねている。ちなみに『ぐりゃぐりゃ』は僕のベッドを、町を荒らしまわる怪獣のように行っている足踏みだ。

「――……薫ちゃん、それは如何言う意味なんだい?」

 何事に置いて冷静でかつ理論的であれ。
 と言う座右の銘を掲げている僕は、まだ上手く動かない思考に鞭打って彼女――薫ちゃんの求めている言葉を献上した。
 まぁ、薫ちゃんが『みょうちくりん』な言葉を投げてきた時は、その言葉の内容を話したくてうずうずと、慎ましいながらも夢と希望が山ほど詰まった胸を震わせているのが大概なので解りやすい。しかも、聞き返すまで無言の圧力――いや、無言で物理的な圧力を掛けてくるので解らない方がおかしい。
 段々と圧力が増してくる前に、僕は眠気眼で瞬きを繰り返しながら問いかけると、満足そうにふくふくと笑いを浮かべながら薫ちゃんは言った。
 少し垂れている大きな眼と、肩口で切り揃えているボブカットの黒髪を揺らしながら笑う顔は愛らしく、また猫っぽい。
 そう言う趣味を持ち合わさない僕でもとても可愛らしいと素直に思う。
 美少女である事は間違いないだろう。

「甘いだけでちっとも美味しくない。けれども、絶対に忘れる事が出来ない禁断の味なのです!!」

 自信満々に胸を張り、天真爛漫な笑顔で言われてしまった。

「へぇ、そうなのかい」

 それに対して僕はいかにも『感心してますよ?』とばかりに答えてみたが、お姫様は非常に不服そうだ。如何やら御要望の物言いとは違うらしい。
 布団の中から無理矢理右腕を引っこ抜き、後ろ髪を掻きながら一度咳払いをした。

「なるほど……――こいつは恐れ入った、君は天才だ!」
「えへへ……えっへんなのです!」

 僕が出来る可能な限りの大仰しく芝居掛かった声で薫ちゃんに言うと、満足してくれたのか笑顔を浮かべながらますます胸を張った。
 ――むねはれど、むねはれど猶けんきょな胸はかわらざり。
 宮沢賢治の短歌に合わせてそんな事を考えながら、僕は右手の人差し指を立てて薫ちゃんに指摘と質問をしてみる。

「けれども薫ちゃんは失念しているよ」
「……お兄さんはオバカさんなのですか?私は小学校4年生なのですから、違うのです」
「それは……随分な言いようだね。後、まるでゴミ屑を見るような眼で僕を見ないでくれるかな?」
「ゴミ屑だなんてトンでもないです!給食の後で片付けるスープのカンカンの中身を見ているような眼ですです」
「そいつは残飯だね」
「いえ、残念です」
 
 一転して捨てられている猫を見つめる様な眼で見られた。
 おかしいな、僕が善意を持って指摘する側の人間であった筈なのに、いつの間にか攻守逆転されている。しかも、薫ちゃんの言葉一つ一つが僕の言葉よりも心に突き刺さる内容になっている気がする。
 この心に響く感じは何だろう――薫ちゃんはエコーズのスタンド使いなのかと一瞬錯覚してしまった。

「大丈夫です、お兄さんがどうなっても私は信じてるです!」
「あの……薫ちゃん?」
「もう下は無いのですから、お兄さんは上だけを見続けて頑張って下さい!底辺から望む鉄板です!」

 僕に空を見る事すら許してくれないのか。
 僕は何処に囚われている身なのか解らないが、心は確実に絶望に囚われ始めている。
 薫ちゃんは胸元で両手を『グッ』と握り締めて本当に、本当に申し訳無いほどに真摯な眼差しで僕を見つめてくる。
 ――本当に僕は、小学四年生にそこまで言われるほどの駄目人間のような気がしてきた。

「もう、挫けそうを通り越して砕けそうだよ……」
「足を止める事を選んでは駄目なのです。どんな自分でも、自分を認める事が最初の大きな一歩と、先生が言ってましたですよ」

 正しい認識は前への一歩だけど、間違った認識は破滅への一歩。
 今の薫ちゃんは後ろに向かって全力疾走中だ。

「もう、それは良いから……。それに、さっき僕が言ったのは『7年(しちねん)』じゃなくて『失念(しつねん)』だよ。うっかり忘れたり、見落としている所があるって意味」

 このままだと話は軌道から外れた衛星のように、永遠に戻って来れない所まで飛んで行きそうなので、無理矢理話を軌道修正する。
 えらく遠回りをした気がするが、僕がそう説明すると薫ちゃんは小首を傾げて、ゆっくりと視線を宙に巡らせた。
 「あぅ」とも「えぅ」とも聞き取れる奇怪な鳴き声を上げながら、僕の言葉を飲み込もうとしているらしい。
 僕はそんな様子を見ながら待っていると、薫ちゃんの動きが一瞬完全に止まった。そして次の瞬間には何やら納得したのか、何度も頷きながら縁側に座る猫のような笑顔を浮かべた。
 毎度思う事だけど行動は犬っぽいのだが、笑顔だけは猫々しいな。

「なるほど。はい、理解したです!お母さんが女優さんの同じ髪型にしたとき、きっとお母さんは色々と『しつねん』していたのですね!」
「うん。……ん?」
「……えっと、聞き流して下さい」

 思わず頷いてしまったが、聞き流してくれと頼まれたからには聞き流そう。

「あぁ〜……と、どこまで言ったっけ……まぁ、良いや。取り合えず僕が言いたいのは、寝起きでそんな事を言われても、僕には何が何やらさっぱり解らないと言う事だよ」
「それは……――なるほど。はい、理解したです!お母さんが時折ですが連れて行ってくれる回転寿司に、たまに流れて来られるプリンのようなものですね!」
「うん。……ん?」
「……何でも無いのです」

 何と言えば良いのか――例えを聞く度に思う事だが、薫ちゃんの「理解した」と言う言葉ほどに当てにならない物は無い。
 いや、本当は理解しているのかも知れないが、毎回のように例えが色々と間違っているので判断の難しい所だ。
 本人が気に入っているのならば、僕が如何こう言うものでないのだけど。
 それは兎も角、薫ちゃんは何を僕に伝えたいんだろうか。

「って、お兄さん!なんで布団にまた入るんですか!」
「ぬふ?」

 うつらうつらと適当に思考を流していたら、もぞもぞと無意識の内にまた布団を被り始めていたようだ。
 どんな時でも欲求に素直な自分の行動に驚いたが、よくよく考えてみたらいきなり寝ている所を襲撃されたのだ。
 目蓋も重く、睡眠がまた足りないと身体が眠りを欲しているのも無理はない。

「薫ちゃん……春眠暁を覚えず」

 僕は息も絶え絶えにそれだけ伝えると、本格的に寝入ろうと右手で布団を頭の上に引き寄せる。

「駄目です!それに今は冬ですよ!!」
「時代を先取るにゅーぱわー」
「そんな言葉では誤魔化されないのです!起きて下さいー!おーきーてー!!」

 布団を引っぺがそうとしながら、大きな声を上げて最近良く目にする乗馬型のダイエット機具のように、僕の上で御機嫌なリズムを刻み始めた。
 アパートの壁が薄いので隣の部屋に筒抜けになっているのだろうが、大家の娘と言うイージスの盾を持つ薫ちゃんには関係無いのだ。
 如何にか構って上げたいのは僕としても山々なのだが、僕の身体が『メーデーメーデーメーディック』と叫びながら、長年の疲れが溜まっているので休ませてくれと肩を組んで訴えて来ている。
 今まで共に頑張ってきた仲間だ。
 僕としても出来る限りその欲求を叶えたい。
 布団をずらして、僕はもう一度顔を出してお姫様に心を鬼にして交渉を試みる。

「薫ちゃん、御願いだよ……僕は精魂共に尽き果てているんだ。どうか僕のチルタイムを奪わないでくれ」

 気分的に言えば『もう僕のライフポイントは0よ!』と言う感じだ。
 人を選びそうな例えだが適切な表現だと言う自信はある。

「ダーメッです、お兄さん!今日はお兄さんと遊ぶって決まっているんです!」
「そんな……ひどいなぁ。誰がソレを決めたんだい?」
「神様が決めたんです」
「そいつは困ったね……とは言え僕も、流石にそんな御大層な方は生まれてから今まで御見受けした事が無いよ。一体全体何処に居るんだい」

 僕がそう問い掛けると、薫ちゃんは穏やかな声で言った。

「――私の心に居ますです」
「貴方が神かよッ!」
「そんな、私は神じゃないですよ。それはまだ可能性の話なのです」

 可能性は在られるか。
 恥かしそうにてれこりてれこりとしている所を見ると、本気でそう思っているらしい。

「はぁ……かりに、遊ぶとしたら何をするんだい?」

 かりに、とは言ったものの事実上の敗北宣言。または開放宣言。
 僕はさめざめと泣く肉体と細胞達に謝罪をしながら、白旗を上げて睡眠に費やす筈だった時間を薫ちゃんに明け渡す事にした。

「――魔法少女!!」

 PS2とかの室内で遊べるものだと良いなぁ、などと思っていた僕の質問に対して、薫ちゃんは満面の笑みで元気良く答えた。
 その言葉を聞いて僕は真っ先に思った――なんてチュパカブラな発言なんだ。
 僕の全身から血の気が物凄い勢いで引いていくのが解る。
 勢い余って貧血を起こしそうだ。
 むしろ起こしたい。
 出来る事ならこのまま失神してしまいたい衝動に駆られる。
 ――他の小学4年生の女の子が言うならば可愛らしい発言なのだが、薫ちゃんが言うと洒落にならない。
 自分でも情けないとは思いつつも、半ば『ノリ』で会話していた寝起きの僕は、布団の中でもがもがと窮屈そうに暴れて、半狂乱になりながら叫んだ。
 何が何でも、その願いだけは叶えたくなかった。

「ちょ、僕は絶対に嫌だよ!それだけは勘弁して下さい!!それならまだ、洗ったばかりの手で公園とかの公共トイレのドアノブを触る方がまだマシだよ!!」
「その行為はお兄さんにとっては耐えられない事なんですか」
「うん、割と」

 潔癖症と言う訳では無いし、必要とあらば触りもするが、手を洗った後で明らかに汚いと解っているのに触るのは非常に好ましくないのは確かだ。
 触って欲しくばもっと清潔感を出せ。
 
「とにかく、それだけは断固として拒否するよ!――僕が休みたいって言ってるのも戦闘の影響なんだよ!?それに僕は引退した身だってば!」
「嘘ですッ!ウルフファングは不死身の戦士だって言ってたです!!」
「いや、言ってないよ!!」
「きっと心の中では言ってたんです!私には聞こえたです」
「自分の都合の良いように事実を捏造してはいけないよ!」
「ココでお兄さんが頷けば真実に為り得ますですよ!もぉ、何回も聞いてるですが、急に何で引退する事になったのですか!?」
「――ウルフファングは今度、ハリウッドで映画化にされる事になってね。著作権の問題で組織と折り合いが悪くなったんだよ。残念だけども薫ちゃんも、もう会う事は出来なくなってしまったんだ……次に会う時はスクリーンの向こう側さ」
「そんな真顔で嘘を吐かないで下さい!」

 21歳になる男と、小学4年生の女の子が大声を上げながらする様な会話では無いけれども、当人達は必死だ。それはもう呆れるほどに。
 ――これは別にアニメやゲームの話では無い。
 だからと言って、二人で同じ電波を受信しながらの会話と言う訳でも無い。
 現実は小説より奇なりと言うべきか――悲しき事に、会話の内容は全て事実なのだ。
 ウルフファング――それは僕が怪人をやっていた時の名前だ。
 何を馬鹿な、と聞いた人は十中八九そう思うだろう。残りの人は、非常に穏やかな笑みを浮かべて僕を見つめるだろう。
 だが、それでも事実なのである。


                      ∞     ∞


 ――僕には好きな人が居る。
 僕が通っている大学の一つ年上の女性で、愛して止まない、それこそ自分で言うのは何だが、愛し過ぎて僕自身が病んでしまった相手だ。
 『君の心は不治の病なんて生温い程に治療不可能な所まで病状が進行している。いっそ清々しく朽ちたまへ』とは友人の弁。
 前半部分は少し大袈裟な気はするが認めるとして、後半の物言いは非常に納得のいかないものではある――が、まぁ些細な事なので目を瞑ろう。
 大事なのは、僕が先輩を好きだと言う事実だけだ。
 先輩は相手の心を掴んで離さず、掴まれた相手が恐怖に身を竦める程に強い眼力を持つ怜悧(れいり)な顔の女性で、ゼミ室の隅々までを煙で埋め尽くす程に煙草を吸い続ける重度のチェーンスモーカーであり、また煙を吐き出しながらシャーロックホームズ全集を読む事を至上の喜びとする、フレームの無い眼鏡がとても似合う凛々しい女性だ。
 彼女の傍らに置いてある『FREITAG』のショルダーバックには、常に1カートンのマルボロと、ホームズ全集が3冊は入っている。
 僕は脚線美を強調しながら足を組み、煙草を吸ながら眼鏡を光らせ、本を読み進めるその格好良さに最初にやられた。
 そして次にやられたのは、先輩の興が乗った際に時々誘ってくる飲み会に連れて行かれた時だ。
 先輩はお酒が入ると普段は鋼の仮面の下に隠している、悪戯好きの少女のように可憐な笑みを浮かべながら身体を密着させ、何かとスキンシップを図ってくるのだ。
 その程度で陥落する程では無いと思われるかも知れないが、次の日にゼミ室で会った際、恥かしげに目を伏せて謝罪をする姿を見たならば口が裂けても言えやしない。
 その証拠に『それ』をやられた阿呆共(あほうども)が、そこらかしこに死屍累々と倒れており、心奪われた人形の山が叩き売りされる状態になっている。
 阿呆共とは言い方がひどいかも知れないが、実態を見たならば言わざるを得ないと納得出来る阿呆っぷり。
 僕もその一人だった言えよう。
 まぁ、望んでなったのだが。

 先輩を好きになった大まかな切っ掛けとしては、そこらに群がる阿呆と同じでそんな流れだ。それは否定しない。
 けれども、僕は他とは違ってそんな単純な事だけで深みに嵌った訳では無く、それ以外にも日常での会話や、厳しい口調と性格の中に隠されているさり気無い仕種や気遣いに、骨の髄までどっぷりとホルマリン漬けになってしまったと言えよう。
 今ならば言える――彼等以上に僕は愛すべき阿呆だと。
 一本螺子の緩んでしまった後は行動に移すだけだった。
 諸君、僕は君達の先を行く。
 心の中で一言残し、僕は群がるだけで何もしない、ただの阿呆に成り下がるつもりは無く――そこから先輩の外堀を埋める為の大学生活が始まったと言えよう。
 そこらかしこに偶然と言う名の必然を散りばめて、大学内で極めてさり気無い振る舞いをしながら、彼女の眼に留まる様に努めたのだ。
 そんな僕の弛まぬ努力と、誰かに起こった不幸の分の幸福が、僕に殺到していると錯覚を覚える程の強運のお蔭で、僕は彼女に何かと出逢うようになり、結果として親しくさせて頂く事が出来た。
 その時ばかりは、如何なる努力であろうと決して無駄にはならないと信じたものだ。
 親しく会話する仲に成ってから1年が過ぎ、より一層外堀を埋める努力にも力が入っていた頃、お酒が関わらなければ表情が変わる事が無い、とまで言われている先輩が、沈痛な表情を浮かべて僕に話しかけてきた。

 ――これぞ好機に違いない。
 
 その時の僕は生温く心地良い先輩との関係に逃げていた時だった。
 当時は全てに必死だったので解らなかったが、今になって思う。
 このままの関係でも別に問題は無いだろう。時間はまだまだある。外堀をもっと埋めて行かなければ――そんな風に自分に言い訳をして、決定打を打つ事を躊躇っていた。
 だからこそ、これを逃したらば僕は先に進む事が出来ず、倉庫で永遠に眠らされる小学校の時に工作の授業で作った人形のように成り下がる。
 ――それではあの阿呆共と同じじゃないか。
 そう心の何処かで確信めいた思いを持っていた僕は、一念発起の心持で先輩に「僕でよろしければ、幾らでも力になります」と真剣な表情で言った。
 その甲斐在ってか、先輩は普段は見せないような微笑を浮かべて、僕の右手を両手で包み込むように握り締めて、感謝の言葉と共に「黙って私に着いて来てくれないか」と言われたのだ。
 その時ばかりは、僕のフェロモンも普段の3倍位出ていたかも知れないと思った。

 そうして連れて行かれたのは、とある薬品会社の本社。
 頭にクエスチョンマークを幾つも浮かべている僕を尻目に、先輩は僕を導きながらその本社ビルの裏口から入って行く。
 そこから少し進んだ所に設置されてあるエレベーターに入ると、良く解らない手順でボタンを何度も叩き、動き出したと思った次の瞬間には――僕は意識を失った。

 そこからの話は長々となってしまうので割愛して話すと、僕が連れて来られたのは悪の秘密結社の本拠地で、先輩はそこの幹部だったと言う事だ。
 ちなみに先輩が幹部の位置に居るのは、先輩のご両親が幹部だったらしく、引退をする際に先輩に地位を丸ごと放り投げたらしい。

 その辺の事情はさて置き、何で僕が連れられて来られのかと言う理由は単純明快――人手不足ならぬ怪人不足。
 悪の秘密結社なのだから、適当に誘拐でもして改造してしまえば良いのでは、と思うだろう。
 本来ならそう在る筈なのだが――悪の秘密結社と言っても、動かしているのは結局の所は人だったのだ。蓋を開けてみると良い意味で人情的な組織で、道徳的に禁忌とされる事は行わないのをモットーとしているらしい。
 理由は『親心』――秘密結社と言えど普段から秘密基地の中で生活している訳では無く、大概が普通に家庭を持つ怪人や戦闘員が多い。また、家庭を持たない人間は、基地の独身専用の区画で生活する事も出来る。
 「彼女を連れ込む事が出来無いだけが難点かな」とシニカルに笑うのは先輩怪人である『ゲソルンダー大尉』の弁。
 皆が皆、何故か解らないけど気の良い人達が多く、子供を誘拐等と言う発想は自分の息子や娘等と置き換えてしまって如何しても出来無いらしい。麻薬等の類も同上の意見。
 そう言う意味では、悪の秘密結社も一風変わった職業ぐらいで考えて貰えれば幸いだ。

 ――とまぁ、良く言った所でやっている事は犯罪組織の『それ』である。
 如何言う基準かは全く解らないが、組織的な判断で悪徳であると判断した場所から金品強奪をしたりするのが主な仕事。
 何でも、それを元手に世界征服を試みるとか試みないとか。
 手始めに『コネ』と『金』と『組織票』に物を言わせて内閣を支配するとかしないとか。とても個人的な意見なのだが、下手な内閣よりも国を良くしそうな気がする。

 そう思えるのは入ってから言える言葉であって、初めて聞かされた時は到底信じれなかった。
 しかも聞かされた内容を要約すると『最近現れた魔法少女に怪人が多く倒されて人手不足なので怪人になってはくれないか?』だ。
 当然の事ながら僕は激しく狼狽してしまった。
 如何考えても正気を疑うような話では在る――が、僕はその話自体は信じていた。
 理由としては、先輩の言葉だから。
 この一言で事足りるだろう。
 僕の後ろには先輩が居て、僕の先にも先輩が居る。
 それでなくても元々嘘や冗談を言えない人だから僕は信じた――だから、混乱や嘲笑ではなく狼狽したのだ。
 そんな僕を尻目に先輩は淡々と、けれども言葉の端々に様々な感情を滲ませながら僕を説得した。


 そして次の日には
 僕は怪人『ウルフファング』と言う
 もう一つの顔を持つ事になっていた。


 理由としては――『男の子だから』と言う言葉で十分だろう。
 そんなこんなで改造されて、僕は晴れて怪人となり、その後の活動は様々なことを行ったのだが、そんな話は如何でもよろしい。
 何故なら、それはもう終わった話だからだ。
 期間としては7ヶ月――長かった様で短かったその期間を持って、僕は先週の始めに組織を辞めた。
 理由は度重なる『戦闘』――もはや戦闘とは呼べるモノでは無かったが、アレは確かに己の命を磨り減らす戦いであった――それが理由と言う訳では無い。
 一番の理由は、先輩が組織から居なくなったからだ。
 毎日必ず基地に顔を出していた先輩の姿2日程見えず、一目顔を見たくてウラウラと歩いていると、給湯室で女性戦闘員達の噂話で先輩が辞めるらしいという話を聞いた。
 なんでも理由は、寿退社。
 入院中の先輩怪人と一夜にして燃え上がるような恋に落ちたとか何とか。

 僕は言葉で表せない程に狼狽した。
 それほどに狼狽したので、上手い表現が思いつかない。

 とは言っても、僕も馬鹿ではない。
 『何事に置いて冷静でかつ論理的であれ』と常に心掛けている、近所でも評判の好青年だ。
 漫画の主人公にありがちな、勝手に自己完結をして結論を出すような馬鹿な真似はしない。
 流石に平常心ではいられなかったが、少し時間を置いて落ち着いた僕は、事実の真偽を確かめるべく先輩の下へ馳せ参じた。
 数時間後、運良く先輩を見つけると、真偽は如何か聞き出そうと挨拶も早々に「結婚が理由で組織を離れるというのは本当ですか?」と質問をした。
 それに対して先輩はいつも通りの毅然とした態度で「耳が早いな。その通りだ、後の事は宜しく頼む」と一言だけ残して足早に去って行った。
 ――その時、初めて口から魂が飛び出ると言う体験をするはめになった。
 驚愕のあまり抜け出した魂が戻ってくると、次の瞬間に僕は生きる屍と言っても差し支えの無い人間に成り果ててしまった。

 組織は気安い所であったが先輩も居なくなり、度重なる一方的な戦闘の後遺症で肉体の損傷も激しく、意気消沈とした僕では死んでしまうと思い、惜しまれつつも辞める事になり――今に至る。
 持ち直したとは言え、独りきりになると虚ろな気持ちになり、今でも呆然とした心持だけども、先輩が幸せになるならと未練を残しながら僕は幸せを祈りながら、一言。



 ――今でもお慕い申して居ります。



                      ∞     ∞


 つい数日前の事なのに、とても遠い場所に来た気分だ。
 そんな過去に思いを馳せて居る間に、如何やら薫ちゃんのテンションは『アゲアゲ』状態になっている。
 このままでは勢いで乗り切られそうだ。
 出来るだけ穏便に薫ちゃんに納得して貰わないといけない。
 僕は知恵を搾り出し、手当り次第に思い付いた事を喋ってみる。

「ほら、僕の後任になった『ヘルズホッパー少佐』だって強いだろ?」
「やだやだぁ!お兄さんが良いんです!!」
「薫ちゃん、御願いだから我が侭を言わないで。今だったらハーゲンダッツの割引券も付けて上げるよ?」
「お兄さんが良いの!!お兄さんが良いんです!!お兄さんとやりたい、やりたいですぅ〜!!」
「それは魔法少女として色々と不味い発言だよ」

 身体全身を使ってプリプリとしながら可愛く言っても、内容は『命(たま)』の取り合いだ。
 怪人である僕と、魔法少女である薫ちゃんの。
 魔法少女――そう、僕の天敵で在り、組織で恐怖と悪夢等、その他多くの『絶望』と言う名前の代名詞――それが薫ちゃんの正体だ。

 僕がそれを知ったのはつい最近の4日前で、組織を辞めて戦場に出なくなったと同時に、部屋へ押し掛けて来て、何で辞めたのかと泣き付かれた。
 その時に僕は初めて魔法少女の正体が薫ちゃんだと知ったのだ。
 詳しくは解らないのだが、薫ちゃんの優秀なサポート役で、見た目は猫で煮干し好きの『リャンボ(♀)』――随分前に、毛並みの良い猫を飼い始めたなと思っていたら、如何やらそこの頃から魔法少女を始めていたらしい――の分析能力と、戦闘があった次の日には毎回包帯を巻いている僕を見て、あっさりと気が付いたらしい。
 骨が折れた位じゃ超回復で何とかなる筈なのだが、それでも傷が治って居ないと言う理由は察して頂きたい。

 僕にとって薫ちゃんは小さい頃から知っている目に入れるのは流石に痛いけども、四六時中ずっと一緒に居ても飽きない程に大変可愛い妹だ。
 薫ちゃんは如何やら違うらしいけど、僕にはそれは今でも変わらないし、今後も変わらない――のだが、泣き付かれたその日以来、僕は何かに付けて戦闘に戻れとけし掛けられて来るのだけは勘弁して貰いたい。

「私はただ、大好きな人と一緒に、色々な思い出を作りたいだけなのです!それすらも私は許されないのですか!?私はあの日々を忘れれないです……」
「うん、そうだね。僕も忘れる事が出来ないよ――初めての任務で、天空から飛来する予告の無い『超遠距離』からの『高密度魔法弾』による射撃、あれで部隊は『壊滅』したからね。あの日以来、7ヶ月間ずっと続いた恐怖は忘れようにも忘れれないね」

 僕は戦闘中に戦った記憶が無い。
 おかしな話かも知れないが、それは事実でしかない。
 ――自分で言うのも何だが、僕は強い。べらぼうに強い。
 だからこそ地位による肩書きは無いにしろ、新参者でありながら部隊を率いて第一線で戦う事が出来た。
 怪人不足とは言え新参者に部隊を任せ無ければいけない程に組織としての基盤が弱くなっている訳では無い。
 神の采配か、悪魔の悪戯か、誰かの思惑か――傍迷惑な話であるが、それほどまでに僕は強い。
 お蔭で、今では人として『欠陥』してしまったと思うほどに、自分の危機に対して反応が鈍感になってしまった。良く言えば、太平洋並みの心の広さになったと言っても良い。
 トラックで跳ねられて死ぬ目に遭ったとしても、一時は恐怖を感じるだろうが、時間が経てば「どうせ治るのだから、まぁ良いか」と笑って許せる自信がある。
 非常に不味い位置まで来てしまった。
 下手をすれば戦闘で恐怖を感じないように脳を色々と弄られている可能性も高い。それも極めて。
 とまぁ――僕が心も懐も器も宇宙規模で大きな好青年だと言う話は置いておいて、結論を言えば、真っ当な魔法少女が居たならば僕は勝てるだろうと言う事だ。
 それに関しては妙な確信がある。

 そう――真っ当ならだ。

 魔法少女は意外と多くの存在が確認されているらしく、色々と種類があるらしい。
 拳や剣などで接近戦を主軸に戦うタイプ。
 イメージとして一般的な魔法少女のように魔法で戦うタイプ。
 ちょっと変わった所では銃を使う魔法少女も居るらしいのだが――薫ちゃんは『異端の極み』と言える場所に立つ超遠距離射撃で戦う魔法少女。
 薫ちゃんの攻撃は何処から狙っているのか解らず、雷の様な魔法弾が空を切裂いて必殺必中の一撃で降り注ぐ。
 それはこの世の地獄としか思えない光景だ。
 今まで何度も死に掛けてきた僕が言うのだから間違いは無い。
 先輩への愛が無ければ僕は死んでいたと、心底思う。
 逆に言えば、先輩への愛さえあれば僕は生きていける。
 きっと。
 多分。
 そこはかとなく。

「お兄さんとじゃなければヤル気が出ないです……」
「はっはは……はは……」

 もう乾いた笑いしか出せない。
 それで許せるのは僕が人として駄目だからか、薫ちゃんを心底可愛く思っているからなのかは解らないが、薫ちゃんも色々と駄目な所まで来てしまっているのだ。
 ちょっとした職業病――と言うと語弊があるかも知れないが、如何やら僕との戦いの中で薫ちゃんは人として宜しくない『味』を占めてしまったらしい。
 幼少の頃、好きな相手に構って貰いたくて意地悪をしてしまった事は無いだろうか。
 あれを思いつく限りに存分に、性質を悪くしたのが今の薫ちゃんの状態なんだろう。
 こう言う表現も如何かと思うが、相手の命を自分が握っていると言う状況に、倒錯的な魅力を覚えてしまったらしいのだ――。

「ぶぅ……お兄さんは意地悪です」

 ――等と言うのは勝手な僕の想像じゃないのだろうか。
 頬を膨らませながら、布団越しに僕の身体を叩いてくる姿を見ていると、そんな思いすら沸いて来る。
 こうして居る分には変わらず可愛い妹分なんだけどなぁ。

『――Deep Shit!Deep Shit!Very Wacky!』

「ちょ、な、何事だ!?」

 いきなりだった。
 聞いた事が無い、耳をつん裂く甲高い電子音が部屋に鳴り響く。
 僕は狼狽しながらも怪人としての生存本能によって、瞬時に身体の内側から膨れ上がった『モノ』を意識しながら身を強張らせた。
 
「あ、これは組織……お兄さんが居た所ですね。そこがまた悪い事をしようとして居るみたいで、コレが知らせてくれたんです」

 そう言いながらベッドから飛び降りて、胸元からネックレスらしきものを引っ張り出した。
 薫ちゃんが触れた事で音が鳴らなくなったソレは、青みの掛かった透明な水晶らしき物が埋め込まれている銀細工のトップだった。
 正直、小学生には少し不釣合いだな。
 そんな事を考えながら取り合えず僕も布団から出る。
 流石にこの状況で寝ていられるほど神経は太くない。

「うっ……」

 ブルッと来た。やっぱり、ちょっとだけ寒いな。
 少しだけ身体が震える。
 薫ちゃんが暖房を付けていたらしいので、部屋自体は暖かいのだが、寝る時はいつもトランクスとタンクトップの姿で寝ているので少しだけ肌寒い。
 凝り固まっている首を右に左にと動かしながら、ベッドの枕側に在るCDラックの上に掛けておいた『BLUE&BLUE』のデニムパンツを手に取る。
 二日連続になってしまうが、まぁ良かろう。

「ちょっと、窓を借りるですね」
 
 僕がよたよたとパンツを履いていると、薫ちゃんは今まで僕が寝ていたベッド横の窓を開けた。そして、何故か部屋の広さや外の様子を忙しなく確認し始めた。

「う、うぅ……寒いな」

 夜ほどでは無いが、冬らしい冷たく乾いた空気が部屋から熱を奪うように入り込んでくる。窓から見える今日の天気は快晴のようで、太陽が南中に差し掛かっている所を見る限り、今は12時頃かな。
 組織が動いている――薫ちゃんはそう言ったが、僕が部隊長をして居た頃はこんな時間から活動してなかった。人目もあるので、大概は深夜に差し掛かる少し前から行動をしていたのだが、この時間から動いていると言う事は、部隊はヘルズホッパー少佐の指揮の元に動いているのだろう。
 義理堅く情に厚い好感の持てる人なのだが、御爺ちゃん体質なのか夜早く寝て、朝早くから起きる為に、作戦の時間を日中に行う癖がある。
 まぁ、やる事をやってしまえば、朝だろうが夜だろうが関係無いと言えば関係無いんだけどね。

「――リリカル、マジカル、ロジカルギミック!!」
「え?」

 洗濯物の中から薄手のサーマルTを引っ張り出していると、いつの間にか薫ちゃんは良く解らない呪文らしきものを唱えて光に包まれていた。
 そう言えばずっと戦っていた筈なのに魔法少女姿を見るのは初めてだ。
 しかし――『リリカル』や『マジカル』は解るとして『ロジカルギミック』は魔法少女的に如何なものだろう。
 そんな事を考えながら見ていると、薫ちゃんに集まっていた光の粒子が眩しい光を起こして弾けると同時に変身が終わった。

 ゴシックロリータファッション――と世間では言うのだろう。

 薔薇の花をあしらったヘッドレスを頭に付け、過剰にレースやフリルなどの装飾が施されている黒を基調とした洋服で身を彩り、右手には何とも形容し難い歪な形のステッキらしき物を握っている。
 ボブカットの黒髪と小柄な身体に似合っており、愛らしさにより一層磨きが掛かっている。
 しかし、パジャマこそ少女らしい物の、普段はスカートを嫌ってデニムパンツ好み、ジップパーカーを着込んでいる姿を見慣れているだけに珍獣でも見たような気分だ。
 いや、絶妙に可愛いのは確かだけどね。
 本当に。

 薫ちゃんは最後の締めくくりとばかりに、左手で虚空を掴むような動作を行った。
 すると、ぬらりと何やら黒い布が出てきた。
 マントのようにも見える大きな布の『ソレ』を、薫ちゃんは両手で掴むと手早く全身を包んで目元だけを出す様にした。

「――色々と台無しじゃないかッ!?」

 『ゴスロリって何それ美味しいの?』とばかりの極悪非道の悪行である。
 ――裏切ったな!僕を裏切ったな!僕のときめきを返せ!
 そんな僕の心の叫びを無視して薫ちゃんはベッドに上り片膝を付くと、ステッキを握り締めた。
 変身の時同様に光の粒子がステッキに集まり、眩しい光を起こして弾けたのだが――僕は言葉を思わず失った。
 歪な形をしていたステッキ。
 アレの正体が何なのか、ようやく解った――銃だ。
 それも漫画やゲームでしか見た事が無いような、薬莢の排泄も、発砲後の反動も、望遠鏡の様に付けられた照準器の位置も、本来無視していけない構造や何もかもを無視した馬鹿でかい銃だ。
 常識も、整合性も、現実感も何も無い――ただ浪漫(くそったれ)を具現化した様な構造の3m近い狙撃銃(ライフル)が其処にあった。
 今の僕は非常に間抜けな顔をしている事だろう。
 茫然自失として言葉すら出ない。
 薫ちゃんは身長を遥かに超すその銃を「よいしょっと」の一言で肩に担いで、すっぽりと包まっている布の間から両手を出して、銃身の一部を窓に預けながら構えた。
 ――あぁ、戦争映画で見た事が在る。
 イメージとして瞬時に頭に浮かんだのは『アフガンの戦士:狙撃手』と言う言葉。
 現実感が無さ過ぎて、そんな言葉しか僕は思い浮かばなかった。

「神よ――私の指と眼に宿り、届け。全て伝える想いよ、彼(か)の勇気と本能へ……ですっ!」

 十数秒の『儀式』の後、祈るように呟き――引き金を絞った。
 その瞬間、僕は、確かに、確かに、閃光を見た。
 陳腐な表現だが、そうとしか言えない。
 光の奔流と言っても良い。
 空気を焦がす匂いと、鼓膜を直に震わせて耳の奥に残る小さな音を置いていった『それ』を追うように僕はベッドに上がり、身を乗り出して窓の外を見る。
 かなりの距離が在ると言うのに、放たれた閃光は目を忙しなく動かさなければいけない程の高速で空を縦横無尽に駆け回る――さながら龍の如く。
 ――なるほど、アレでは狙撃場所が特定出来ないわな。
 そんな事を思っていると龍が跳ね上がるように天へと昇っていく。
 視界からは見えなくなって、数秒の静寂後――龍は地上を目指して一直線に落ちていく。



 ――<ミョルニル:神の鉄槌>



 映像を見ていた組織の誰かが呟いたらしい台詞を思い出した。
 身体は小刻みに震え、無意識のうちに唾を飲み込んでいた――僕は『アレ』を喰らっていたのか。
 着替えたばかりのデニムのパンツが震える足に張り付いて、ひどく嫌な感覚だ。

「ふぅ」

 薫ちゃんは短く息を吐きながら、ベットから床へと舞い降りながら一瞬で銃を消して元のパジャマ姿に戻り――





「――あはっ」





 ――そして笑った。
 あまりにも無邪気に笑った。
 悪意の欠片も存在せず、狂気の片鱗も存在せず、異変なんて言葉がそもそも存在しない。
 無邪気過ぎて妖艶で、身体中の骨が全て氷柱にすりかえられたとかと思うほどに魂が竦んだ。
 小学生が浮かべちゃいけない表情(かお)を浮かべている姿は――やはり、どっかが破綻していた。

「――」

 早鐘のように鳴り響く鼓動を落ち着けるように、深呼吸を繰り返す。
 ――何を今更動揺している。
 個人的な理由で抜け出したとは言え、僕はそう言う世界を受け入れて生き抜いてきた人種じゃないか。
 恐怖するのは良い。
 驚くのも構わない。
 絶望する時だって在った。
 だけども――薫ちゃんを、薫ちゃんと認識出来なくなっては、僕は僕を許さない。
 『魔法少女』と言う名前の病に侵されて、薫ちゃんのベクトルがずれているのは前々から知っているじゃないか。
 落ち着け。落ち着くんだ。落ち着けって言ってるんだ。

「――」

 鼓動が緩やかになってきたのを感じながら、深呼吸を静かに繰り返す。
 もう少しで僕は大丈夫だ――何が在ったところで、何も変わらない。
 怪人になった事での僕が抱える事になった弊害――この時ばかりは感謝した。
 今の僕には脳を弄られようが、身体を弄られようが、何をされようが構わないが、僕達の関係に歪みが起こる事だけは我慢なら無い。

 歪むならば僕達で良い。

 ――何処かの誰かが言っていた。
 自分の身体に真っ直ぐ伸びる信念が折れたら、自分じゃなくなると。
 その時に自分は死ぬんだと。
 きっとそれは正しい。
 けれども、僕はこうも思う訳だ――少し歪んだ位じゃ人間は死なないし、変わらないものだと。
 深呼吸を何度も繰り返している内に、いつも通り『恐怖以外の全て』を受け入れ終えた。

「――……そんな砲撃を毎回撃っていたんだよね」
 
 しかし、しかしだ――僕もやはり人間な訳で、積極的に受け入れた身としても、ちょっとだけ見ちゃいけないものを見た気がしないでもなく、それに受け入れたからと言って、撃たれるのは心底嫌だし怖いのは変わらない訳です。
 何度も言うが『アレ』は地獄の釜に頭から突っ込んだような惨劇なのだ。
 だからこそ、両者共に破綻しているのはこの際目を瞑ってしまうとしても、納得出来ない部分もある訳で。
 ――僕は薫ちゃんが砲撃の快感で笑顔を浮かべようが、好きなハーゲンダッツのアイスを食べて笑顔を浮かべようが、蟻の巣に水を流し込みながら笑顔を浮かべようが否定するつもりは無い。
 何だけども――毎回砲撃されていた身としては、僕が薫ちゃんを否定しなくても、薫ちゃんは僕を否定していたのではないかと思ってしまう。

「その……なんだ。『アレ』を――僕って知った上で砲撃して居たって事はあれかな?薫ちゃんは僕に恨みでもあったのかな?」

 そう思わず居られない。
 逆の立場に置き換えて考えてみると、解りやすい。
 僕は薫ちゃんを『アレ』で撃つ事は出来るのか――いや、出来ない。
 最初は解らなかったので仕方が無いとしても、相手の正体が解った後、僕には嫌いな相手じゃなければあんな凶悪な、神をも殺せそうな物を撃てない。
 自分では結構良いお兄さんをやっていたと思う。
 薫ちゃんにも好かれていると今でも信じているのだが、人間何処で恨みを買っているか解ったものじゃない。
 気が付かない内に色々と傷つけて、それが砲撃に繋がったのではと思う訳で――心当たりとしては、借りていたビデオの上に『はぐれ刑事純情派』を上書きしたのが候補に上がる訳だが、如何なのだろうか。

「そ、そんなこと無いですッ!!」

 僕は『魚』と驚いた――『ギョッ』とも『ウオッ』とも驚いたと言う意味で。
 想像していた幾つかの予想に反して、薫ちゃんは勢い良く立ち上がって真剣なまなざしで僕を見てくる。
 そこには先程の妖艶な表情は無く、少しだけムキになって泣きそうになりながらも真剣な表情を浮かべている、いつもの薫ちゃんが居る。
 いや――『いつもの』じゃない。
 滅多に見る事が無いくらいに凄く真剣で、本当に思い詰めて、如何しても譲れない事を護る時の表情だ。
 最後に僕が見たのは2年前の夏、薫ちゃんのご両親が大喧嘩をした時に、二人の口喧嘩の中で零れた言葉に激昂した時に見た事が在る。
 その横顔に僕は驚きながらも見惚れていると、大きく息を吸い込んで叫んだ。



「私は、お兄さんが好きで撃ったんじゃないです!憎いから撃ったんです!!」


 
 ――そいつは完璧に致命的じゃないか。

「あ、間違い。逆でした」

 恥ずかしそうに呟いて、てれこりてれこりと笑った。
 なるほど、逆か。
 憎いから撃ったのではなく、好きだから撃たれたのか。

「――余計に状況が悪くなってるぅッ!!」

 流石、予想の斜め上に行く魔法少女。
 思わず絶叫してしまった。
 本日何度目だかもう覚えてない。
 絶叫健康法と言う本でも出版出来る程の絶叫っぷりだと自画自賛をしたい。
 しかし、もう、アレだ――そんな現実逃避にすら疲れてきたよ。
 今までの会話で僕が手に入れた結論は、何があっても僕は組織には絶対に戻らないと言う事だけだ。全てはそれに集約する気がする。
 組織の皆には悪いが、僕は命が幾らあっても足りそうにないのです。
 ――何より、薫ちゃんの愛は物理的に痛過ぎる。
 危機感に対してかなりの異常をきたしている僕が、思わず危機感を覚えているほどだ。
 むしろ、危機感程度で済ませて『この重さが心地良いかも』などと一瞬でも思った僕も色々と重症だ。
 リハビリと養生の隠居生活を至急開始しなければ、本当の意味で致命傷になりかねない。

「うぅぅ――」

 色んな事に負けそうで、僕はベッドの上で体育座りをしながら心の中で涙を流す。
 そろそろ心だけでは収まらずに、目から溢れてしまいそうだ。
 もしかしたら見えない小人が僕の部屋で玉葱を刻んでいるのかもしれない。

「むぅ、そんなに嫌ならばもう私からは頼まないですよ」
「え?」

 薫ちゃんはベッドに上って、蹲る(うずくまる)僕の頭を撫でながらそう言った。確かにそう言った――様な気がする。
 待て待て、早まるな僕。
 こいつは何かの幻聴かも知れない。
 落ち着いてもう一度尋ねるんだ。

「――薫ちゃん……今、何て言ったの?」
「ブロッケン一族には勝利の女神が中々微笑んでくれませんねって言ったんです」
「平然と嘘を言われたー!!と言うか、今までキン肉マンの話なんて一切触れてないじゃないか!?」
「お兄さん、急に奇声を上げては変な人に見られますですよ?近所の御迷惑です」

 薫ちゃんから振ってきたそれに、全力で突っ込みを入れたのにも関わらず、当然のように無視をされてしまった。
 本来なら万人が万人思い付かない、痒い所に手が届くような鋭い突っ込みを入れるのだが、ここは我慢のしどころだ。
 落ち着こう。
 落ち着いて、もう一度噛み砕いてゆっくりと問い掛けて見よう。

「あ……けれども、普段から普通じゃないお兄さんが普通だと逆に違和感を覚えるのです。なので、ご近所には私から謝って置きますので、どうぞ奇声を上げられて下さい」

 ――薫ちゃんの凄い所は、無邪気な所だろう。
 全くと言って良いほどに悪意も皮肉も無く、善意100%で純粋に僕に言葉を投げてくる――言わずもがな、絶望的なまでに性質が悪い。
 もしも、わざと言っているのであれば相当なものだろう。
 何が、とは明言はしないが。
 しかも、僕の頭を撫でる手により一層力が篭もってきている。

「そうじゃ……なくてね、薫ちゃん」

 普段なら挫ける所だが、これを乗り切れば、乗り越えれば。
 まだ見ぬ理想を掴む為――理想も何も無いのだが、自分を奮い立たせる為に言い聞かせる。

「僕の耳が正しければですね……嫌ならもう頼まないって言ってくれたと思うんだけど……言いましたよね?」

 思わず敬語になってしまった。

「はい、言いましたよ?」
「だよね、だよね!?よかったぁ……ちなみに、それって組織の事だよね!?」
「はい!」
「そうかそうか、うん!それは助かったよ!どうも薫ちゃんに御願いをされると断り難くてね!」

 一度目の切り返しは何だったのかとか、二度目は何でそんなに普通の返しなのか等、突っ込みたい所は色々とあったが、全く気にならない位に僕のテンションは上がった。
 その勢いに任せて今度は僕が薫ちゃんの頭を撫でてあげた。
  ――我ながら現金かも知れないが、それぐらいに心底嬉しかったのだ。
 僕は薫ちゃんから御願いをされるとどうしても断りづらい。
 可愛い妹分の頼みごとは、多少嫌なことであっても見栄を張りたくなるのが男心と言うか、兄心と言うか。
 そんな兄心を持つ僕としては、どんなに嫌であっても4日間毎日何度も御願いをされるのを誤魔化したり断ったりするのは如何も心苦しかった。
 その苦行から解放されると思うと、気分が良くなるのも仕方が無いだろう。
 別に、さっきの砲撃を見た後だから喜びが倍になっているとかそう言う訳じゃない。
 断じてない。

「えへ、えへへへ」

 気持ち良さそうに撫でられながら目を細めてる。
 しかし、アレだ。
 もう猫々しくて、本当に可愛いな畜生。
 今直ぐその小さな矮躯(わいく)を抱きしめて頬摺りをしたい気分だ。

「あの、お兄さん。その代わりと言っては何ですが……私、遊園地に行きたいです」

 何とも少女的発想。
 大変に可愛らしい御願いじゃないか。
 僕はもしかしたら、世紀最後の妖精を見ているのかも知れない。
 ココまで可愛過ぎると、国家権力に罰せられるのではないかと心配で仕方が無くなってきた。

「よしよし、いつでも連れて行ってあげるよ」
「えへぇ……なら、なら!出来れば今日だと嬉しいです!」
「よぉーし、それなら着替えたら連れて行ってあげよう」
「それと、それとですね、園内で一つのソフトクリームを二人で食べたいです!」
「間接接吻(かんせつせっぷん)程度ならお茶の子さいさいさ!」
「ジェットコースターに乗りたいです!」
「足りない分を補うシークレットブーツを贈呈しようじゃないか」
「観覧車でお兄さんと燃え上がるようなキスをしたいです!!」
「あ、それは無理だわ」

 僕は今までの流れをぶった切る様に、撫でていた右手を目の前でワイパーのように振りながら言った。
 非常に危うい所だった。
 もう少しテンポが加速していたら、思わず頷いていた所だろう。
 恐るべき魔性の魅力。

「もう、急に正気に戻らないで下さい!今だったらふしだらな行為と、赤ちゃんも付いてきますです!」
「……ここまで惑わされない誘惑も珍しいな」

 薫ちゃんは交渉とは何たるかを勉強した方が良いだろう。
 あきらかに身に降り掛かるのは非常に厄介な事だけだ。
 行動に伴う筈の結果が、行動と同時に手渡されるのだ。
 告白を受け入れて貰った瞬間にペリカン便で赤ちゃんを届けられるようなもの――誰だって全力で断るだろう。僕だってそうする。
 
「誰も触れた事が無いまっさらな花壇に、真っ赤な御花の咲く命の種子を植えることが出来るのは今しかないんですよ!」

 僕の人生の中で、薫ちゃんからこんな台詞を言われるとは夢にも思わなかった。
 しかし、今時の小学生の発想は成長著しく、随分と先進国らしい。
 これも高度成長経済の弊害なのかも知れない。
 それについては心当たりが無い訳でも無い。
 こないだランドセルを背負った発育が大変良い小学生の女子二人が、声を高らかに高校生の男子生徒が聞いても赤面する様な内容の会話をしていた。
 僕も赤面した。
 また、こうも思った。
 ――情欲を掻き立てる。
 近年稀に見る、貴重な現場を目撃出来た事を光栄に思うと同時に、どれ程までに少女マンガやBL小説等の表現が過激でかつ大胆なのかを認識出来た。
 正直、今時の小学生は進んでいるな、ぐらいの認識で甘く見ていたが――小学生、エロ過ぎであろう。エロ孔明と言っても良い。
 あの会話が僕を悶々とさせる為だけの孔明の罠でない事を切に願う。

 ――ちなみに、コレは実話である。

 それを考えれば薫ちゃんの台詞も、小学生の発想の範囲内なのだろうか。
 僕は色々な意味で何とも言えない心持になりながら、眉根を寄せて困っていると、僕が誘惑に負けそうに為っていると言う勘違いをしたらしく、これを勝機と見たのか薫ちゃんは不敵な笑みを浮かべて――

「……こうなったら仕方在りません。好きなだけ私の頬っぺたをプニプにする権利を贈呈しましょう」

 ――と言ってきた。
 僕は薫ちゃんに一体全体どのような目で見られているのだろうか。
 若干食指が動かされたのは否定出来ないが、それにしても変人に見られ過ぎだ。
 今日の会話の時点で『社会の底辺に居る、奇声を上げていないと違和感を覚えられる程の変人で、少女の頬っぺたに異常な執着を見せる馬鹿な男』と見られている。


 ――ち、畜生!!コイツは一体誰なんだよッ!!僕じゃない。僕と言う皮を被った変態じゃないか!!


 本当に思われているならば由々しき事態所の騒ぎどころじゃない。
 日常的にこんなやりとりを行っているが、冗談ではなく、もしかしたら日常的にそう見られているかも知れない。

「……ん?」

 今まで感じた事が無い得体の知れない恐怖を振り払おうと、眉間に親指と人差し指を当てて首を振っていると時計が見えた。
 いつの間に時刻は午後2時を過ぎている。
 僕の人物像の件に関しては今後の課題として、このまま薫ちゃんとじゃれているのも魅力的だが、お姫様のご要望である遊園地に行く時間がそろそろ無くなってしまう。
 
「取り合えず、キス云々は今度の機会に考えるとして、今日はもうこんな時間だし急いで準備をしようか」
「次の機会なのですか……」
「次の機会なのです、だよ」

 薫ちゃん、ごめんね。
 これが大人のずるい所なんだよ。

「さて、それじゃ僕も準備をするから……薫ちゃんも着替えてこようか?」
「それじゃぁ、一緒に行くですよ」
「え、何でだい?」

 そう聞き返すと、薫ちゃんの天使の微笑みは凍りつき、僕を指差しながらわなわなと震え始めた。

「わなわな……わなわなわなな」

 表現として出なく、「わなわな」と自分の口で言う人間を始めて見た。
 しかも少しだけ噛んでるし。

「わ、私が誘っているのに媚び諂った(こびへつらった)笑みで迫って来ないなんて……!」
「色々と誤解が残るような凄い言われようだね!?と言うか、君は本当に小学生かい!?」
「誤解なもんですか!いつもだったら私から誘わなくても『へへへ、今日はこの水色のソックスを履かせてやるぜ。どうだ、クルクルとドーナッツも作ってやる』などと迫って来るのに!!」
「事実無根の事を言うんじゃありません!」
「偽者!お兄さんを返せ!!」
「いやいや、僕がお兄さんだよ!?ご近所でも好青年で有名なお兄さんだよ!?」
「嘘です!お兄さんはもっと古い畳の臭いがするんです!」

 また一つ、二つと、僕のステータスボードに凄い内容が書き加えられる。
 本当の僕は少女の着替えには率先して参加しようとする人間らしい。しかも体臭は古い畳の臭いがするらしい。
 全く持って可哀想な人間である――小学生に虐めにあっている僕が。
 ――頑張れ、僕。負けるな、僕。

「うぅ……やっぱりちょっと挫けそうだ」

 品行方正を旨とする僕のガラスの心は、少女の悪意無き言動に汚されてしまった。
 傷付いた僕は、他人だったら絶対に近づきたくない位の陰気が、自分でも解るぐらいに身体から滲んでいる。
 あぁ――部屋の隅で体育座りをして一生過ごしたい。

「あ、お兄さんだ!!」
「…………」

 今確信した。
 薫ちゃんが僕の事を慕って「スキスキダイスキアイシテル」云々は置いておいて、僕は重度の変人か変態――もしくは変人でかつ変態として見られている。
 一体いつ頃から薫ちゃんの僕に対する認識が間違っているのか解らないが、今更では訂正しても直(すぐ)に認識を改めてくれる可能性はゼロに等しい。
 石を積み上げられる気持ちで、少しずつ改善していくしかない――まぁ、何と無く、ある程度積んだ所で蹴り飛ばされる予感がする。
 そいつは正しく越えてはならない三途の川なんだろう。

「まぁ……取り合えず着替えてらっしゃい」

 今日から僕は『仏陀(ぶっだ)』と名乗ろうか。
 悟りとは言えないかも知れないが、僅かながら何事にも左右されない心の持ち方を学んでしまった気がする。

「うぅ〜……結局着替えは手伝ってくれないですか」
「むしろ、手伝う程のモノじゃないだろう?」
「む、それは私の身体が大したモノではないと言うのですか?」
「如何してそこに繋がるんだい?」
「お友達の雪ちゃんにも『薫ちゃんの脹脛(ふくらはぎ)は犯罪だよぉ』と言われる程の発育振りですよ」
「残念ながら僕は脹脛に魅力を感じる人種じゃないよ。それこそ、僕はまるっきり幼女好きの変態じゃないか」
「はい、理解しているです。お兄さんはそんな事は無いです。幼女好きの変態では、まるでお兄さん見たいじゃないですか」
「だよねぇ。……ん?」
「あ、聞き流して下さいです」
「いやいや、今のは聞き流しちゃ不味いでしょ!?」
「うふふ……あは、あはは」
「…………」

 声高らかに笑いながら薫ちゃんはそそくさと部屋から出て行こうとする。
 ――何て天衣無縫な少女なんだろう。
 よほど遊園地が嬉しいのか回りを気にせずに全力で自分の道を走り抜けている。
 その疾走感は見ていて心地が良いものがあるが、それによって起こる人身事故の被害は僕に丸投げ状態だ。
 思わず溜息を零してしまった。
 楽しい会話には間違い無いのだが、最高速度で駆け抜ける薫ちゃんを相手にするのは少しだけ精神的に疲れる。
 これからは肉体的にも疲れる事になるのだろうけど、今日は朝から色々とありすぎた。
 睡眠途中で起こされたのは辛かったな。
 そんな事を思いながら溜息を吐いていると、ふと気が付いた。

「そう言えば――」
「はい?」
「僕に最初に言った言葉。アレはどういう意味だったんだい?」
「アレ……ですか?」
「うん――カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしました。だっけか?」
「あっと……その……えっとですね」

 呼び止めた薫ちゃんは、少しだけ困ったような表情を浮かべている。
 薫ちゃんにしては珍しく歯切れが悪い。
 もごもごと言うか、まごまごと言うか、口の中で小さなお菓子を大事そうに租借しているように言葉を口の中から出そうとしない。
 それで居て、僕の事を探るような眼で見つめてくる。

「そんなにジッと僕を見つめて如何したんだい?」
「ん〜……ちょっと」

 僕から話し掛けると、それを切っ掛けに言葉を零した。
 なるほど、言葉を篭もらせていたのは僕が少し身構えて居たからか。
 そう考えると、いつも通りのテンポで言葉を投げ掛ければ話しやすいのかも知れない。

「は、は〜ん。さては僕に惚れたかな?僕に惚れると火傷ちゃうよ」
「大丈夫ですです。私、手遅れですから――惚れ惚れし過ぎて火傷しちゃったですよ」

 笑顔を浮かべてそう言われたが――その切り返しはズルイなぁ。
 今度は逆に僕が言葉を詰まらせてしまった。
 解っているとしても、はっきり言われると凄く嬉しい――のだが反面、僕はとても困ってしまう。
 言葉や対応がしっかりしていて、幾ら愛らしいとは言え相手は小学生なのだ。
 薫ちゃんの好意を受け取る僕としては『将来、大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになる!』と言われてにやける、妹を溺愛する全国のお兄さん達の心境に近い。
 言ってしまえば僕は重度の『シスコン』なのだ。
 なので、こう言っては何だが、薫ちゃんに愛だ何だと言われても背伸びをしているように見えて微笑ましく思ってしまう。
 また、重度の変態でかつ変人と思われているとは言え、僕は薫ちゃんに随分と懐かれているのは事実な訳なんだけど――それが如何言うものなのか、いまいち判断がし難い。
 もしも――自分で言うのも恥かしいが――男女の『それ』で本当に好かれて、愛されているとしても、僕が「真剣な顔で好きな人が居るので、薫ちゃんの気持ちには応える事が出来ない」と切り出すのも如何かと思ってしまう。
 真剣な思いには出来る限り真剣に応える――それは解っているのだけど、色々と難しい所だ。
 笑顔を浮かべている薫ちゃんを見ながら、僕は思わず唸ってしまった。
 そんな事を本気で悩んでいるとは流石に解らないようで、にやけながら唸る僕を見て、薫ちゃんはキョトンと小首を傾げて、なにやら納得したように頷いた。

「お兄さんの頭では、さっきの私の言葉は説明不足で理解出来なかったのですね」

 ――なるほど、設定はしっかりと活かされているのか。
 僕の薫ちゃんへの誠意の込めた真剣な悩みなど何処吹く風。
 薫ちゃんの中の僕は、頑な程におつむの弱い人間として認識されているらしい。

「言い直します。私の純真無垢な心の御花畑は残らず焦土と化しました。大変な傷物になってしまったので、是非とも結婚を持って責任を取って下さいですです」
「随分と話が飛躍したね!!」
「ちなみに断られた場合は、泣いて喚いてご近所を走り回ります」
「最悪だ!!」
「少女の嘆きですから、多少の事実と異なっていても仕方が無いのです」

 ちょっと頭を捻っても思い当たらない位に悪質な文句だ。

「――と言うのは、流石に冗談です」
「……だよねぇ」
「お兄さんに其処までの経済力や男としての質を求めるのは酷と言うものです。なので、発想の逆転なのです――生涯を掛けて私がお兄さんを傷物にして責任を持って養うです!」

 生まれてから今までの人生の中で初めて耳にする、コレからの生涯でも聞く機会が無いぐらいに最悪の殺し文句だ。
 薫ちゃんは一生涯を棒に振る覚悟で僕を傷物にするらしい。
 全く持って洒落にならない――その言葉が随分前から心に秘めたものであるならば、既に僕を傷物にしようと幾度と無く実行されているのだ。
 最近の小学生は化け物か。
 末恐ろしいとはこの事だろう。

「大丈夫です。責任を持つと言ったからには、お兄さんが望む限り乳酸菌を取らない様にするのです」
「……それは大変な努力だね」
「だけども給食で『ミルメーク』が出た時だけは飲むのを許して欲しいなのです」

 申し訳ない表情をさせて逆に申し訳ない。
 何せ、それは無駄な努力だと言わざるを得ないのだから。

「薫ちゃん……僕は別に小さい女の子が好きと言う訳じゃないんだよ?」
「それぐらい私も解っているですよ、おにいさん」
「……なら良いんだけどね」
「小さい女の子『も』好きなんですよね?」
「いやいや!そう言う事じゃなくてね!?」
「うぅ〜……お兄さんの趣味は複雑です」

 僕はそんなに難しい事を言っているだろうか。
 薫ちゃんの耳の構造の方が複雑な出来になっている気がするよ。

「はぁ……取り合えず、着替えておいでデスよ」
「はーい」

 項垂れながら言った僕の声に元気良く返事をすると、玄関に座りながら靴を履き始めた。
 何でだろう――ドッと疲れた気がする。
 もう『カルピスでウーロン茶――』云々の話は遊園地で話せば良いや。
 興味は少しあるが、薫ちゃんがどれ程の意味を持ってその言葉を使ったのか解らないし、案外何も考えていない気もする。
 取り合えず今、深く掘り返す事じゃない。
 何より行く前から疲れても、仕方が無いだろうからね。
 このままでは行く前から気疲れで元気が無くなりそうだ。
 お気に入りの曲でも聞いて気分を落ち着けながら準備をしよう。
 気分的に聞きたかった『INO hidefumi』のCDは渡河君に貸しているし、何を代わりに聞こうか。

「――お兄さん。私はお兄さんが好きです」
「え?」

 何を言われたのだろう。
 急に言われたので驚いて僕は後ろを振り返る。
 薫ちゃんは靴紐を縛る手を止めて、背中を僕に向けていた。

「お兄さんは――私は悪い子です」
「……」
「お兄さんに好きな人が居る事も知っているのです。きっと、私は敵わないですし、お兄さんが私の事をそのように見て頂けない事も解っています……けれども、私はお兄さんが大好きです」

 何を言っているのだろう。
 誰に言っているのだろう。
 いやいや、何を馬鹿な事を考えているんだ――これは僕に対する言葉じゃないか。
 混乱しているのが自分でも解った。
 何で今なのか、僕のさっきの言葉を気にしているのか、何処かに伏線は張られていたのか――いや、そう言う事じゃない。
 これはそう言う事じゃない。
 違う、違うんだ。
 今までの薫ちゃんとは違うんだ。
 誰なんだ、本当に薫ちゃんなのか――好きだと直接言われる事があっても、こんな風に言われた記憶は無い。
 ましてや、好きな人が居る何て僕は言ってない。

「この感情が何なのか、どう言うものなのかは解らないです。けれども良いのです。私の世界に好きな人が居ること――それだけが全てです」
「…………」
「いつの間にか、私の世界はお兄さんだけです。お兄さん以外は何も要らない。ぬいぐるみも、アイスも、雪ちゃんや皆も――お兄さんだけ在れば良い」
「それは……――」
「――無理です。無理なのです。私だけのお兄さんになって欲しいと思った時も在りました。だけども……そんなの無理だって解っているです」
「…………」
「今のお兄さんはきっとそれも叶えてくれるかも知れない。けれども、駄目なんです」

 ゆっくりと立ち上がり、俯きながら囁いていた顔を上げて真っ直ぐに僕を見る。
 何と表現すれば良いのだろう。
 何と言えば良いのだろう。
 騎士、聖母、賢者、盲信者、狂人、娼婦――浮かんでは消えていく様々な言葉達。
 けれども薫ちゃんを表現する言葉はどの言葉も違うような気がした。
 全てのような気がするし、全てが繋がっていない気もする。
 如何しても表現するなら『乙女』――その言葉が限り無く近いかも知れない。

「だから――私は魔法少女になったんです」

 穏やかな笑みを浮かべながら、右手をゆっくりと胸に当てた。

「ココに――ココに居るんです……お兄さんが」

 言葉を繋げる。

「だから、ココが苦しくて、苦しくて、苦しくて……だけども、それが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて――お兄さんが好きだって、胸の『ココ』がいつも泣いているんです。それを何かで表現したかった――その時に出会ったのが『魔法』なのです」

 言葉を紡ぐ。

「だけどもそれだけじゃ足りなくて、私の心に入り切らない位に膨れ上がった『ソレ』は痛くて、痛くて……泣きそうになる位に痛くて……その痛みで実感をするんです――私はとっても幸せですって」

 言葉を呟く。

「だからお兄さんと戦っているんだって、解った時に嬉しかったんです。私の中で何かが変ったんです。そして気が付いたのです、知ったのです、想ったのです――この痛みをお兄さんに分けて上げたい!この幸せをお兄さんに知って貰いたい!!」

 言葉を、言葉が、言葉で――

「……そう思ってお兄さんを撃ち貫くのです」

 ――僕の心をゆっくりと貫く。
 なるほど――だから『届け。全て伝える想いよ、彼の勇気と本能へ』なのか。
 そう言う思いが篭められて居るならば、道理で必殺必中な筈だ。
 何処か遠くの方で、冷静な僕が足組みをしながら頷いている。

「そうして解ったんです。やっぱり私の世界はお兄さんだけです。要る要らないの問題ではなく、お兄さんだけで胸が一杯で、他には何も入れる事が出来ないのです。だから、お兄さんから何も頂きません。何も求めません――ただ、胸に入り切らない全ての私をお兄さんに差し上げるだけです」
「――」
「二人死を別つとも、魂が尽きようとも、私の全てをお兄さんに差し上げたい」
「――」
「心も、身体も、敵も、小指も、眼も、口も、皮膚も、血も、体液も、思いも、記憶も、味方も、髪も、生涯も、空気も、舌も、体温も、細胞も――私の全ての領土を、お兄さんに差し上げます」

 つまり、薫ちゃん――いや、彼女はこう言いたい訳だ。
 跪く――違う、平伏すと言っているのだ。
 極論を言えば繋がれたい――違うな、言葉を正しく言い直そう。
 彼女は『繋ぎたい』と言っているのだ。
 僕が繋ぎたいと思ってなくても、彼女が繋がれたいと言っている。
 つまりは、彼女の意思。
 自分の首に鬱血の跡が残るほどに首輪を締め付けて、紐を僕に持たせようとしているんだ。
 その光景の印象が如何であれ、そこに在るのは僕の意思ではなく、彼女の意思だけだ。
 何と言う――独占欲。
 僕の意思を払い除けての一方的な服従宣言は、一切合財、徹頭徹尾、全てを蹂躙して、無視して、拒否して、ただ「私を飼いなさい」と強要しているようなものだ。
 私を貴方の物語に書き込めと、私を貴方の因果に組み込めと、私を貴方の世界に囲い込めと――私が貴方の世界の一部だと。
 絶対の隷属と言う名の絶大な独占欲。

 なるほど。
 詰まる所、僕は侮っていたのだ――彼女を。
 お父さんの心境――などと言っていた自分を殴り飛ばして、八大地獄を上へ下へと引き摺り回したい。
 僕が知らぬ存ぜぬ等と戯言で場を濁している間に、行く所まで行き着いてしまっていたのだ。
 これはきっと、そう言う事なんだろう。

「……お兄さん」

 少しだけ泣きながら、呟くように言った。
 けれども笑顔は変らない。
 変らない、いつもと変らない――つまり、彼女は正常のまま狂ったと言う事だ。
 あぁ、僕の考えは間違っていなかった訳だ。
 ――確かに、僕の為に人生を棒に振る覚悟はあるらしい。

「こんな私をお兄さんは如何思いますか?」

 ――如何思うか。
 その質問に対して僕は如何すれば良いのだろう。
 どちらにしろ――如何なる訳でも無い。
 僕は受け入れるだけなのだ。
 そう、僕は恐怖以外の全て受け入れる。それ以上でもそれ以下でも無い。
 僕にとって薫ちゃんは薫ちゃんで、『彼女』であっても薫ちゃんは薫ちゃんなのだ。
 だから、僕から贈る事が出来る言葉は数少ない。




「取り合えず――毎回の事だけども、語彙の豊富さには驚いたよ。色んな意味で小学生の言葉じゃないなぁって思うかな」
「です……ですです」
「だけども……まぁ、あれだよ――恐れ入った。ありがとう。凄く嬉しかったよ」
「――――」

 


 普通なら重いだろう。
 重過ぎるんだろう。
 如何しようも無い程に、押し潰されて死にたくなる程に重過ぎるんだろう。
 だけども――相思相愛ならば、幾ら重くても重くなくなるのだ。
 とは言っても、僕はまだ女性として薫ちゃんの事は見れていないし、世間一般には通用しない理屈だろうけども、そんな事は関係無い。
 薫ちゃんの世界に僕しか居ないのならば、僕と薫ちゃんだけがそう思っていれば、満場一致の賛成可決で常識になりえると言うのが僕の考える理論だ。
 僕らだけの常識――または、僕だけの非常識。

「えへへ……泣いちゃいました」

 嬉しいのだろう。
 心底から嬉しいのだろう。
 僕が恥かしくなる位に薫ちゃんは嬉しそうに――それ以上に幸せそうに笑った。

「……ん」
「えっと、それじゃ私は帰りますです」
 
 投げ掛けて上げる言葉が見当たらず、僕はただ頷く。
 薫ちゃんはそんな僕に満足してくれたのか、はにかみながらパジャマの袖で眼を擦りながら、ドアノブに手を掛ける。
 そして――ノブを回した所で止まった。

「私はカルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしてたです」
「――?」
「今は少しだけ甘くなったです。もう、この味を忘れる事は出来ません。お兄さん――お兄さんも、ほんの少しだけ解ってくれる筈ですです」
「……それは――」

 ――如何言う意味だい。
 そう僕が尋ねる前に、薫ちゃんは振り返った。

「お兄さん、今日のお出掛けは無しです」
「え?」
「こんなに嬉しい事は一日一回だけで十分なのです。それ以上を望んでしまうと私はもっと悪い子になってしまうです」

 笑顔だった。
 僕にはそれ以外の感情は読み取れそうに無い。

「それではお兄さん。きっと、またこんばん会いましょう」

 そう言って出て行ってしまった。
 突然の事で僕は呆然として、如何する事も出来なかった。

「……一体何なんだ?」

 薫ちゃんの言った言葉の意味が良く解らない。
 具体性の無い、とても大雑把な助言を貰ったような心境と言えばいいのだろうか。
 僕が解った事は今日のお出掛けは流れた事だけだった。
 まぁ――丁度良い機会だ。
 表現のし難い、何とも言えない感じではあるが、流れてしまったものは流れてしまったのだから、空いた時間を有効に活用させて頂こう。
 全てを受け入れる――その言葉に嘘偽りは無いが、それを整理出来ているかと言えば、僕はこれっぽっちも出来ていないと自信を持って言える。
 その為の時間が欲しかったので丁度良い。

 薫ちゃんの思いはしっかりと受け止めて、僕は言葉を返した。
 それは間違いない。間違ってはいけない事だ。
 ――そこまでは良い。
 問題はしっかりとその想いと言葉を受け止めて、心から絶対に忘れてはいけないと言う事だ。
 それは『意識』するのとは少しだけ違う。
 言葉を理解しながら、言葉に流されないと言う事だ。
 僕の意思は、僕が決める。
 鋼の意思でそう認識しないといけない――とは言え、今度からはちゃんと『彼女』として対応しなければならないのも事実な訳で、僕は薫ちゃんを今度から少しだけ意識しちゃうのだろう。
 それでいて、少しだけドキドキとしてしまうのだろう。

「あぁ、そうか――僕は確かにロリコン『も』いけるのか」

 最悪のタイミングで、最悪な事実を認識してしまった。
 薫ちゃんと僕の間に流れていたさっきまでの空気とか決意とか、色々と台無しになってしまった感がある。

「……何か、とても不甲斐無い終わり方のような気がする。駄目だ……顔を洗おう。いや……風呂だな」

 ロリコン疑惑は消し去る事が出来そうに無いので、取り合えず目を逸らして置こう。
 それに、何事にも落ち着いて物事を考えるには風呂が一番だ。
 薫ちゃんへの対応とか、色々と真剣に考えなければいけない事は多い。湯船に浸かりながらなら、難しく考える事無く自然な自分の意見がまとまりそうだしな。
 そう思いながら、せっかく着たばっかりの服を脱ぐ為にサーマルに手を掛けた。

『――麗らかに揺られるツンツン氷柱からポタリポタリ』

 サーマルを捲くろうとしている最中で携帯がなり始めた。
 それに気づくと同時に、僕は怪人になった事で手に入れた無駄に優れた運動神経を活かして、紫電一閃とも居える速さで携帯を掴んだ。
 この曲は忘れもしない――先輩からだ。
 薫ちゃんの時とは違う意味で震える身体を落ち着かせる為に、深呼吸をする。
 先輩が好きだと言ってくれた曲の前半部分をループさせている着うたは、1週目を鳴り終えて2週目に突入した。
 早く出なければ電話が切れるぞ。
 緊張して居る僕自身に叱咤を送りながら耳に携帯を当ててボタンを押す。

「――先輩……ですか?」
「やは、私だ」
「……せんぱい」
 
 何だろう、この温度差は。
 勝手に僕が緊張して居ただけだから仕方が無いとは言え悲しいが、だけども安心した。
 もう、この曲は掛からないものだと勝手に思っていたから。

「久しいな、嘆息する事無く日々を謳歌しているかい?」
「はい、一応」
「それは実に結構。今年は悪質な風邪が流行って居ると聞く、くれぐれも拗らせぬ様に気を付けよ。冬至も近い事だし、柚子湯に入り南瓜を食べる事を推奨しよう」
「はっはっは……有難う御座います」

 社交辞令ではなく、僕は心底からお礼を言った。
 また、先輩と何気無い会話をしている。
 それだけで僕は嬉しくて小躍りしたくなる。
 ――薫ちゃんの事は、薫ちゃん。先輩の事は、先輩。
 自分にそう言い聞かせて、顔を出してこちらを見ている今まで感じた事が無かった後ろめたさや罪悪感に、無理を言って御帰り願った。
 何も変らない――自分ではそう思っていたつもりだったけど、確かに薫ちゃんは僕の心の、いつもと違う場所に住み着いてしまったようだ。
 僕も甘いと言うか、意思が弱いと言うか――まぁ、ある意味これが一番僕らしいのかも知れない。

「談笑も済んだ事だし、本題に入ろうか。君の身体に付いても常日頃から並々ならぬ興味を持っているとは言え、この様な話をしたくて電話をした訳ではない」

 一旦薫ちゃんの事を優しく移動させた後、先輩の言葉に耳を傾けて僕は苦笑した。
 僕の身体に並々ならぬ興味を持つ――非常に変った物言いだが、それに対して僕は苦笑を浮かべたが、冗談でないのは解っている。
 突然変異とまで言われる怪人としての僕の性能の良さは、人材不足の組織では如何しても解明したい所なのは良く解っているからだ。
 研究者であり、幹部である先輩は、何かと僕を使って検査をしていたのは、少しだけ胸が痛むが懐かしい記憶である事は間違いない。

「ははは……それは光栄ですね。で、本題とは何ですか?」
「ふむ、それを私に言わせるか。君も大層人が悪いな」
「僕は何かしたでしょうか」
「何かした――と言うなら、確かにした」
「……はぁ」
「単刀直入に御聞かせ願おう――何故ゆえに、組織を辞めるに至ったのだ?」

 一瞬だけ言葉に詰まった。
 確かに考えれば解る話だ。
 あの先輩に並々ならぬ興味を持たれる程の身体を持つ僕が、上の許可は貰ったとしても、個人的な理由で組織から抜けたのだ。
 引き入れた身としては直接理由を聞きたい所なんだろう。
 とは言え、先輩が結婚するのを知って絶望に打ちひしがれて意欲が湧かず、このままだと死にそうだと思って辞めました、などと言ったら先輩も怒るんだろうなぁ。
 死にそうだと思ったのは本当なんだけどね。

「それを是非とも聞きたくてね。君にとって不都合な事や、何らかの不備が組織にあったかい?」
「いえ……そう言う訳では無いです」
「ならば、金銭の問題かい?最近、球界の年俸増額がニュースで頻繁に騒がれているので解らんでも無いが、こちらとしては光当たる所に陰は在り、さめざめとうち泣いている者も居ると言う事実を察して頂けると助かるのだがな」
「…………別に、金銭とかそう言う事では在りません」

 何で僕はそこまで球界情報に左右される男と思われているのだろうか。
 先輩の前で野球の話をした記憶は全く無いのだが――と言うか、それ以前に僕はそこまで野球に興味を持っていない。
 
「となるとアレかい」
「アレとは?」
「女体(にょたい)」
「……」

 女体――何ともいやらしい響きだった。
 金と来たら、次に来る発想は『地位』か『名誉』だと予想はしていたが、流石に『女』まで話が飛躍するとは思わなかった。

「なんだ、違うのかい?」
「あぁ〜……――ちなみに、それを望んだ場合どうなるのですか?」
「もれなく私が付く」
「――」
「膝枕と耳掻きのオプションもつけてやろう」

 とても魅力的な発言だった。
 何だろう、この胸を締め付けるような想いは――そうか、僕は悔しいのか。
 先輩は意図して言っていないのだろうが、組織に居た時に言わなかった自分に対して、悔んでも悔み切れない想いで一杯だ。
 何で僕はそれをもっと早く要求しなかったのだろう。

「では一体何があったのだい?」

 珍しい。
 普段ならば、他人に対してそこまで興味を持たないのだが――ここまで積極的に介して、饒舌に喋りながら説得するのは普段のイメージから結びつかない。
 それに既に辞めている先輩が、組織内部で誰が辞めようと気にするとは思えない。
 そこまで考えて、僕は気が付いた。
 ――寿退社をした筈の先輩が何でそれを知っているのだろう。
 いや、知っているのは誰かに聞いたからかも知れない。
 しかし、そう考えればなおさら僕に理由を求めてくる先輩の行動が不可解だ。
 普通に考えれば組織に頼まれたのかも知れないが、それならば僕が辞める直前で止めに掛かる筈だ。

「しかし、どのような理由が存在するにしろ、私が姉の結婚式で組織を暫く離れている間の事だったので少々悲しかったよ」
「え?」

 ――あんですと。

「えっと……先輩の結婚じゃなかったのですか?」
「む、なぜ私が結婚をせねばならん。私はまだ処女だぞ」

 いや、そこまで聞いていません。
 それに、処女だからと言って結婚をしない理由にはならないだろう。
 しかし――そうか処女なのですか。
 ちょっとだけ嬉しいです。

「このままでは後7年もすれば妖精が見えてしまうな」

 それは男性の話です。
 いや、男性の場合は魔法使いになれる、だったか。
 
「知っているかい、外国では魔術を法律で戒めている国もあるのだよ。それを考えると、それにとって私の現状は由々しき事だとは思わないかい?」

 同意を求められても僕に如何しろと。
 お相手願えと言うならば、勇んで行きますが。

「ちなみにファーストキスもまだだ。もちろん父はノーカンとしている」

 正直、妙な流れの会話だった。
 この会話で得たものは、先輩の大っぴらに話してはいけない類の情報と、少しの興奮だけだ。
 そりゃ興奮はするよ。
 それはやっぱり、人間だもの。

「まぁ、良い。理由を」
「いや……あのですね」

 理由を、と言われても勘違いだと知った今では益々(ますます)言いにくい。
 正直に言うか、何とか誤魔化すか。
 清廉潔白を旨とする高潔な人格者でもある僕としては選ぶまでも無く――勿論後者だ。

「あぁ〜……いや、その、アレですよ。最近、人材不足も解消されてきましたし、それに今はヘルズホッパー少佐がいらっしゃいますでしょう?もう、僕は必要ないかなぁ……なんちて」

 はっはっは、と笑ってみるが、乾いた笑いしか出てこない。
 やはり、根が真面目で正直な僕には、巧みな話術と機転の利かせた嘘なんて吐ける筈が無い。
 図らずして、それを証明する事となってしまった。
 やっぱり――人間、本当に誤魔化したい時は切羽詰って上手く嘘なんて吐けないもんさね。

「ふむ――」

 先輩はそう言うと、何か考え事をしているのか黙った。

「少々待たれよ。こちらから連絡を入れる」

 そして、一言残して電話を切った。
 あまりにも突然の切り返しに僕は呆然として、電話を耳に当てたまま固まった。
 上手く誤魔化せたのだろうか。
 いやいや、あんなので誤魔化せるものか。
 もしかしたら逆に怪しまれて僕のことを調べているのだろうか。
 嘘を吐いたと言う後ろめたさも在ってか、どうしても悪い想像しか浮かんでこない。
 手持ち無沙汰にそわそわとしていると電話が鳴った。
 急に響いた音と震えに携帯を落としそうになりながら確認をすると、やっぱり先輩からだ。
 画面を見ると時間は気が付けば5分も過ぎていた。
 僕は「あわわ」と口にしながら、通話ボタンを押して電話に出る。

「……もしもしです」
「やは、私だ」

 相変わらず独特の挨拶と、変わらない声だ。
 ――この先が読めない。
 僕がこれから告げられるのは、どっちなんだろう。

「残念な御知らせが在る。大変不幸な事にヘルズホッパー少佐が死んでしまわれた」
「……え?」
「いやいや、参った。実に参った……青天の霹靂とはこの事か。実に惜しい事になった」
「――」
「おかげで実動隊の部隊長が空席となってしまった。人材不足とは、正しくこの様な状況で使うべきなのだろうね」

 日本語なのに日本語じゃない。
 僕には何を言っているのか解らなかった。

「えっと……」
「ウルフファング少佐――このような悲しい出来事になってしまって申し訳無い」

 喉の渇きと震えが収まらない。
 唾を飲み込もうとしたが、乾ききった喉が動いただけで違和感と鈍い痛みしか広がらない。
 それでも僕は喉を動かし続けた。
 そうすれば、この状況を少しでも飲み込めるんじゃないかと思って。

「こんな時に言うのは不謹慎なのかも知れないが、はっきりと言おうじゃないか。人材不足で困っている。出来る事なら私の為に戻ってきてもれないか?」

 何なんだ――何なんだこの現実は。
 如何して僕を混沌の坩堝に叩き落そうとするんだ。
 予想外なんてものじゃない。
 得体の知れないものが僕の身体を優しく、けれども段々と締め付ける様に巻きついてくる。関節と関節が、細胞と細胞が、歯車と歯車が、噛み合わなくなって来たかのように身体が震えた。
 今日は如何してこんなにも僕を混乱させるんだ。
 もしかしたら僕は夢を見ているのでは無いか――不気味な位に僕に都合の良い幸せな夢を。
 確信では無い。
 確信では無いけれども、如何やら僕は、先輩を必死で追い駆けているつもりで――いつの間にか追い越して、逆に追われていたらしい。
 僕の勝手な期待なのかも知れない。想像なのかも知れない。
 いや、想像かも知れないと言うのは間違っている。何てったって、想像が出来ないのだから間違っているか如何かも解らないじゃないか。
 僕は生きながらにして、死んでいるのでは。
 そして夢の中を彷徨っているのかも知れない。
 知れないけれども――

「――謹んでお受けします」
「大変結構な言葉だ。嫌いな煙を嗅いだのは無駄では無かった言う事か」
「……」
「では、さっそく顔を組織に顔を出してもらえると助かるよ。私はいつも通り煙草でも吸いながら心待ちにさせて頂こう」
「はい」

 どちらが追い越した、追い越さない関係無い。
 僕はやっぱり先輩が好きなのだ。
 先輩が先輩であり、先輩が心を失わない限り、例え何が在ろうと僕の気持ちは変らない。
 僕の物語の3分の1は先輩に預けている。もう1つは薫ちゃんに。
 最後に手元に残った手記は汚れてしまって文字が見えない。
 何か大事な事が書かれてあったような気もするけど、今となっては如何でも良い事だろう。

「そうそう、最後に一つ」
「……何ですか?」
「君は勘違いしているようだったのでね」
「結婚の事ですか?」
「いや、大学の事だよ」
「はい?」
「偶然と言う物の、一番単純な計算式を知っているかい?」
「偶然は計算出来る物なのですか?」
「もちろん出来るさ。この世で計算出来ないものは何も無い。あるのは計算の答えを出した所で、如何しようも無いものだけだ」
「そうですかね」
「そうなんだよ。で、偶然の計算式を君は知っているかい?」
「無知故に知りません」
「そうだろうね、君は知らない筈さ。だから教えて上げようじゃないか、この世で一番簡単な偶然の計算式」
「……」



「必然×必然=偶然――必然が2つあれば事足りると言う話さ。そこまで言えば君には十分だろ?」



「――」
「では、きっと、またこんばん会いましょう」

 電子音を聞きながら僕は暫く呆然とした。

「はぁ――」

 肺に溜まっていた、身体に悪そうな空気を全部吐き出す。

「なるほど――調和が取れた世界と言うものは素晴らしい」

 自嘲的な笑みを浮かべながら僕は皮肉を吐いた。
 何でこうも、僕が好きな相手はこうも一癖も二癖も在るのだろうか

「それにしても……やっちゃったって感じだよなぁ」

 アレ程に、もう成る事は無いだろうと思っていた怪人に僕はまた成り下がる。
 しかも、現状は刻一刻と変化し、特にこの数日間で問題が尋常じゃない程に熟成されてしまった。

「――僕はもう、魔法少女の正体知ってるんだよなぁ……」

 全てが闇のベールに包まれていた、絶対に防ぎようの無い障害と言われていた魔法少女の正体。
 ――知らなければ戦えた。
 いつものように無様に負けても良い。
 地獄の釜を覗き込むはめになっても仕方が無かった。
 けれども――知ってしまったのだ。

「僕が怪人になる事で、二人を満足させる事が出来るけど……」

 天秤に掛ける事が出来ない相手。
 林檎を綺麗に真っ二つに割って「どっちが好き?」と聞かれているようなものだ。
 僕にとっては、どちらも同じなんだから答えようが無い。
 そもそも天秤に掛ける事が間違っている。
 天秤の皿に納まるほど、僕にとっては小さな存在では無いんだ

「詰まる所、僕は自分の身を文字通り『犠牲』にして二人を満足させなければ行けない訳か……」

 骨が折れる――と、その程度にしか考えれない僕は、やっぱり色々と甘いのかも知れない。
 いや、人として何処かが確実に破綻しているんだ。
 だって、自分の命が如何とかよりも、薫ちゃんと先輩や先輩の言葉を思い出して、如何してもにやけてしまう僕はもう駄目なんだ。
 あぁ――隠居しても手遅れだ。僕はもう既に致命的だ。
 どちらも切り捨てる事が出来ずに、きっといつかは破綻してしまうだろう。
 僕自身も、この心地の良い関係も。
 一蓮托生、運命共同体。
 どちらが一方破綻しても、僕は死んでしまう。
 心が呼吸出来なくて死んでしまう。
 だから僕は片方を選ぶなんて事はきっと出来ないだろう。
 それに、これは選ぶとかそう言うものじゃないのだろう。
 状況だけ見れば苦々しいが、これが現実なのだ。
 全く持って旨味の無い状況だ。
 だからと言って僕には絶対に今、この時を手放したくは無い。
 先輩から離れたくないし、薫ちゃんを手放す気もさらさら無い。
 僕から二人を取ったら、何も残らないじゃないか。
 残るのはタンパク質と夢の残骸だけだ。



 ――お兄さんも少しだけ解ってくれる筈です。



 ああ、そうか――あの時の言葉はココに繋がるのか。



「確かに、これもカルピスをウーロン茶で割ったような恋ではあるのかなぁ」



 薫ちゃんの言葉を意識しているのか解らないが、そんな気もすれば、やっぱり相変わらず間違った例えをしているような気もする。
 だけども少しだけ――ほんの少しだけ解ったよ、薫ちゃん。
 僕は苦笑を浮かべながら、着替えたままの服装でベッドに身を投げる。
 幾等なんでも疲れた。
 少しだけでも休みたい。
 寝て覚めたら、状況が変わっているかもしれない。
 我ながら楽観的な発想ではあるけれども、今だけは現実逃避をさせて貰いたい。

「……いや、駄目だな」

 やっぱり僕は――現実が変っていて欲しくない。
 好きな二人が、僕の事を好きだと言ってくれている。
 それがどんな純愛だとしても。
 きっと、それほど嬉しい事はこの世には存在しないんだろうなぁ。
 そんな事を考えながら、僕は眠りに落ちる瞬間に、頭にふと浮かんできた言葉を小さく囁いた。


 

 
 薫ちゃん――確かに君は神様になりえる可能性は十分にあるよ。
 





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