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 ――村上直仁(むらかみなおひと)、享年28歳。死因、心疾患。

 汚れも影も無いただただ白い部屋に、同じように真っ白なガウンを身に着けて、気が付けば私が立っていた。その理由が解らず疑問を浮かべると、何故か自分が死んで居る事を自覚させられた。
 声が聞こえた訳でも、頭に言葉が響いた訳でもなく、漠然と理解してしまった。
 それは根拠とするものが無く、簡素な紙に突拍子も無い内容を書かれて渡されたようなもので、この部屋と同じように現実味の乏しいものではあったが何故か心にしっくり納まった。

「……さて、行くか」

 驚くほど自然に言葉が零れた。
 何故そんな事を私は思っているのだろう――その不意に湧いた感情は泡沫(うたかた)のように一瞬で弾けて消えて行き、直ぐに水面(みなも)は平素と変わらず静かなものとなった。実に不思議な感覚だった。

 部屋には各方角に一つずつ扉があったが、私は迷わず自身から見て右手にある扉を出た。
 扉を潜ると、部屋と同様に不自然な程に白い通路が伸びている。通路の幅は成人男性が4人程度ならば横に並んで歩いても問題ない位に広く、天井はそれなりの高さがあった。
 ただ奥行きは先が見えない程に伸びている訳ではなく、歩いているとY字路が見えてきた。
 歩く、歩く、歩く。幾重にも分かれる幾つもの通路を道に迷う事は無くただ歩く。
 時折、自分と同じ様な真っ白なガウンを身に着けた人達とすれ違うが、それが男性なのか、女性なのか、若いのか、老いていたのか、全てが漠としていて思い出す事が出来ない。
 きっと相手も同じなのだろう、そう思えた。
 誰かが居る事は認識しているのだが、何故か声を掛けようと言う気がおきない――いや、その発想が浮かばないのだ。

「――■い■■」

 何も代わり映えの無い通路を歩く。苦も無く、楽も無く、何も無く。
 どれ程の時を、どれ程の距離を歩いただろうか。
 それすらも解らない――ただ、時折ふと声がするのだ。

「――なん■■まっ■ん■■よ」

 両親の声、友人の声、親しかった人の声。何を言っているのかは上手く聞き取れないが、その声を聞くと胸が熱く涙腺が緩みそうになる。堪え切れずに泣きそうになり、悲しみから動きがひどく鈍くなったが、足だけは意思とは無関係に止まらず動き続けた。

「……ここ、か」

 やっと辿り着いたこの扉が通路の終着点なのだろう。
 何処のビルにでもあるような飾り気の無い何の変哲も無い扉。最初の部屋で見た扉と全く同じ作りをしている。
 扉と右手に視線を泳がせながら、何度も掌を握り締める。
 そんな僅かな逡巡の後、私はゆっくりとドアノブに手を掛けた。
 この先に何があるのか――それは何か解らないが、私の全てがここで終わり、ここから始まるのだろうな。そんな言葉で説明する事の出来ない確信めいた予感が扉を開ける事を躊躇させる。

「ふぅ……」

 このままでは仕方が無い。
 深呼吸を何度か行い、息を吐き出しながら扉を開けて部屋へと一歩踏み出す。

「――」

 視界に入ってきた光景に思わず息を呑んだ。
 そこは最初に居た部屋と色彩も構造も何一つ変わらない。それでも違う部屋だと私は直ぐに解った。
 部屋の中央に置かれている机や椅子、そう言った変化もあったのだが、それらの物を些細な変化と斬り捨てる程に私の意識を奪われたのは、一人の女性だった。

「御待ちして居ました、直仁さん」

 風鈴の音のように、心地良い声色で彼女は私の名を呼んだ。
 透き通るような白い肌、肩口まで伸ばされて波打つ金色の髪、端整な容姿、口元に浮かべる微笑――白生地に金色の刺繍を施されたアカデミックドレスのような衣服を身に纏い、その背からはあらゆる表現の範疇を越える純白の二対の翼。
 
「――」

 天使。
 そう表現するのは簡単ではあるが、この息を呑む想いをその単語だけで表現するのは如何にも憚られた。
 この状況を前にして、私は何を言えば良いのだろう。何を尋ねれば良いのだろ。疑問もそれに対する答えも、余りにも茫洋とし過ぎていて思考が纏まらない。
 足の裏に感じていた境界線が歪む、そんな無重力を感じた。

「戸惑うのは仕方が無い事です。安心して下さい」

 直視した現実を何処かで受け入れ、また何処かでは認識すら事すら危うい、そんな二律背反の感情の波に如何する事も出来ず呆然と立ち尽くしていた私に、彼女はそう言って口角を柔らかく持ち上げる。

「曖昧に、そして歪に纏まった答えをちゃんとした形に整える為に私がここに居ます。だから不安に思わないでどうぞ、こちらの席へお座り下さい」
「あ……はい」

 不意に戻った地に足が着く感覚と同時に、随分と間抜けな声が出してしまった。
 その途端、晴れ舞台や美人の前で失敗をしてしまった時に感じる、胸から広がるあの特有の羞恥心に襲われて、私は足早に彼女に誘われるまま部屋の中央へと向った。







「改めて宜しく御願いしますね、直仁さん」
「……宜しくお願いします」

 この状況は一体何なのだろう――そんな疑問よりも私は、小さな机を挟んで正面に座る彼女との距離の近さに、有象無象のあらゆる言葉が脳内でひたすら空回りしている。思考と言う概念すらも吹き飛びそうだ。
 女性は如何にも苦手だ、美人ならばなおの事。昔から「死んでも性格は直せない」と揶揄する言葉があるが、あれは本当なのかも知れないな。

「まずは最初にこの空間の説明と、少しだけ私自身に関してお話しますね。魂で状況を把握されている今の直仁さんならば、靄(もや)のように霧散している情報を言語に形を変えるだけで十二分に理解される筈です」

 彼女はそう言うと少し伺うように私を覗き込み、僅かな間を開けた後、笑みを浮かべて何かに納得するように頷いた。私の顔を見て、それ以上の何かを覗き込まれた様な印象を覚えた。

「私は直仁さんが思う所の『天使』と呼ばれる存在です。人付きの天使ですので固有の名前はありませんが『エル』と呼んで頂ければ特に問題無いは無いかと思います」

 そう言われて思い出す。
 『エル』と言う単語イコールで『天使』と言う意味にはならないが、普通名詞に『エル』と付ければ全て天使の名前になると書かれていた本があったな。
 だからと言う訳ではないが「やっぱり天使なのだな」と、妙に納得した。
 そして彼女――エルは「説明の内容は直仁さんの知識と認識に合わせて説明しますので、その点は御了承下さい」と前置いた後、ゆっくりと喋り始めた。

「ここは現世と『次の世(せ)』へ繋ぐ為の狭間のような場所です。改めて言うのは正直心苦しいのですが、直仁さんは現世に置いてお亡くなりになられ、その結果この場にいらっしゃいます」
「……」

 自覚があるとは言え第三者、それも天使に言われるとなると、胸に言いようの無い『ぬめり』のようなものが染みていく。
 それは水溜りで不気味な光沢を放ちながら広がっていく油のようだった――そう表現するのが一番近いかも知れない。

「……直仁さんの立場を解っていながら言うのもヒドイ事ですね……本当にごめんなさい」

 死んだと言う事を自覚する事は確かに辛い。
 しかし、それは既に受け入れた事実なので、痛みを覚えるほどでは無かった。それよりも今の私にはそれ以上に私はエルさの悲しげに歪む表情を見る方が辛かった。
 死んでいるせいか相手の感情がダイレクトに伝わるのだろう、だからこそどれだけエルさんが自身の発言に後悔をしているかが解り、逆に申し訳無いとさえ思える。

「いえ、気にしないで下さい。その、なんです……自覚も理解もありますので」
「……ありがとうございます。それでは改めて話を続けますね――と言っても、説明もそこまで多くは無いのですが」

 エルが小さな花が咲くようなそんな笑顔を口元にたたえると、思わず私も笑みを浮かべた。
 互いが繋がっていると錯覚を覚える心地が良さ。生前にこの空気を感じ合える相手が傍に居たならば、きっと私は恋に落ちていただろうと、そんな妙な確信すら覚える。

「この狭間で気が付かれた方は自身の死を自覚して頂くと同時に、指定された場所へと向って頂きます。この過程には色々な意味があるのですが、大きな目的としては自覚した死を自分の中で整理、消化、理解等を行う為の時間としての役割があります」

 なるほど、と納得をしてしまった。
 あの通路を歩き、広義の意味で『未知』だらけの状況に対する不安や恐怖、困惑等の負の感情が消えて行ったのを思い出す。
 確かにあの過程がなく急にこの部屋で眼が覚めて居たなら、こんなに落ち着いた心境で話をする事など出来なかっただろう。

「そして、直仁さんのように部屋に辿り着かれましたら、この様に説明や今後の事を話し合い、その結果に基づいて『次の世』へと向わって頂きます――と言うのが大まかな説明になります。ここまでで何かご質問はありますか?何でも聞いて下さい」

 この場所が何なのか、如何言った状況なのかは理解できたので、言葉に甘えて本筋とは関係の無い疑問を尋ねてみる。

「ちなみに死んだ人間全員と対話するのですか?」
「はい、行います。もっとも『条件を満たした』と言う前文が付きますが、殆どの方はこう言った場を設けられます、それが私達の役割ですので。それに、数を正確には把握していませんが、人間の皆さんよりも私達の数は多いですので然程大変な事では無いのですよ」
「……そう言えば、昔書いた本にも書いていた記憶がありますね」

 人間よりも天使の人数が常に多いと言うのは、数は違えどその前提はどの本も同じだったな、そういえば。

「そう言った点では、人間の方々が書かれた本は鋭い所を突いていると言えますね」

 そんな言葉と一拍を置いて、エルは表情を柔和なものから少しだけ強張らせ、ゆっくりと口を開いた。

「直仁さん――先程の説明を踏まえて、今後の事に関して少々ご説明させて頂きます。まず、前提として貴方には幾つかの選択肢があります」
「選択肢……ですか?」
「そうです。まずは一つ目ですが、これは輪廻の輪に加わりもう一度この世界で生を授かると言うものです」

 そう言ってエルはゆっくりと頷くと、おもむろに手を目の前まで持ってくると人差し指を立てた。

「皆さん一人一人の生前の行いによって、ある程度の条件を課したり、叶えたり差し上げます。具体的には容姿や種族、産まれる環境等ですね。もう一つは、輪廻の輪から一度外れる方ですね。直仁さんに解り易く言えば『天国』へ行かれると言う選択しですね。そして三つ目が――」

 そこで一言区切り、エルさんは三本の指を立てるとおもむろに口を開いた。

「この地球ではない違う次元の世界――異世界へ行って頂く、と言う選択肢です」
「……異世界ですか?」
「その通りです」
「……」

 随分と話が急に胡散臭くなったものだ。
 それが私の正直な感想だった。
 異世界――それはまるで、そこらかしこに転がっている小説のような話じゃないか。夢があると言えば夢がある話なのかも知れないが、それにしても想像の斜め上を行く話だな。

「……如何やら理由を説明した方が宜しいかも知れませんね」

 表情に出ていたのだろうか、それとも感情が伝わったのだろうか、エルは楽しげに笑顔を浮かべて自分を見つめて来た。
 何となく、その瞳に全てを見透かされているような気がした。いや、事実としてきっと見透かされているのだろう。

「……お願いして宜しいですか?」

 考えを読まれているのかどうか、その答えがどうかはさて置き、疑問が解決出来るならばそれに越した事は無い。

「異世界に送るのは一方的では無く、私達が様々な世界へ人を送っているように、逆に様々な世界の方々をこの地球へ招いています。理由としては、そうですね……かなり乱暴な言い方になりますが解りやすく言うと、人間で言う所の『血が濃くなる』のを防ぐ為ですね。広義の意味で言えば、皆さん全員は同じ地球人ですから」
「あ〜……なるほど」

 口で「なるほど」と言ってみたものの、納得出来る内容かと言われると上手く理解していないので困るが、多少は想像しやくはなった。
 つまる所の『近親』で血が濃くなる事によって起こる弊害を取り除く為の処置なのだろう、多分。

「地球人同士で結ばれる事によって人間の皆さん、また地球自体にどのような悪影響を及ぼすのか、具体的な内容を噛み砕いて説明するのは少々難しいので割愛しますが、千年単位で見ると悪い方向へ向うのです」
「……随分と解り易く説明して下さるんですね」
「円滑な対話の基本は、如何に相手の目線で話せるかと言う点ですから、そこを考えればさほど難しい事ではありませんよ。それに何度も説明している事ですから」

 本当に頭の良い人間の授業と言うのは、相手の思考や知能に合わせた説明を出来る人間であると言うのは本当なのだな。
 またそう言った気遣いが出来るのが『出来た人』と言う奴なのだろうなと、そんな事をふと思った。

「話が逸れてしまいましたが、そのような理由の為に地球から異世界へ人員を送り、地球は異世界から人を向い入れています。ちなみにこの場合ですと、どちらにも特典を御付けしています」
「特典ですか?」

 エルが言った気になった部分をそのままオウム返しのように尋ねると、珍しく言いよどんで苦笑を浮かべた。
 もっとも、数秒程度のものではあったが言葉に詰まっていた。

「その……それこそ小説で良くお眼に掛かる類のモノだと思って下さい。他の世界の環境に合わせて、その世界で生きる上で有利な能力、または技能等を授ける形になります。これは両世界間での決まり事となっていますので、異世界を選ばれる場合は遠慮はなさらずに貰って下さい」

 そいつは凄いな。それこそ本当に小説のような話だ。
 転生と言うジャンルを切り開いた先駆者達の先見の明に恐れ居ると言った所だろうか。
 あまりにもあんまりな話の内容に、失笑はしないが思わず眉を顰めてしまった。

「そう呆れないで下さい。これは本当の話なのですよ?現に、この世界に来られた方は、さまざまな分野等に置いて素晴らしい能力を発揮されています」
「……例えばどんなのですか?」
「言ってしまえば『どんなのでも』ですよ。簡単に言えば、あらゆる分野で秀でているとされている方、偉業を成し遂げられた方、成果を残している方――そう言った方々の3分の1は異世界からこの世界に来られた方です」
「……それは多いのですか?」
「3分の1と聞くと少なく思えますが、比率で言えば異世界の方が1に対して、地球圏の方は5500ですからね」
「それはまた……なんとも言えませんね」

 本当に何とも言えない。あらゆる意味で、だ。

「少し解り易く言えば、それが異世界へ行かれる方への『餞別』『準備金』『謝礼』そう言った類のモノですから。産まれ故郷から見知らぬ土地へ移り住むのですから等価交換の見解からしても、十二分に釣り合いが取れていると言えるんですよ?」
「ん〜……そうなんですか、ね?如何にも話を聞く限り、見返りが大きい気がしますが……それだけのモノを頂けるのであれば皆がそう言って望むのでは無いですか?」

 私がそう尋ねると、意外にもエルは小さく首を横に振った。

「それが現状で言えばそうでも無いのですよ。幾つか問題点がありまして……まず第一に条件があります」
「条件、ですか?」
「そうです。まずは一定以上の善人である事、人格面で問題が無い事、死因が自殺ではない事」
「……善人の基準が厳しいのですか?」
「直仁さんが送られた人生であれば、十二分に条件は達成されていますよ。と言っても、先程言いました『条件』と言う部分に話が戻るのですが、条件外の方はそもそも狭間を通らずに、直仁さんの知る所の『閻魔』と呼ばれる方々が居る『裁判所』に通されますので、こうやって対話が設けられている時点で他の皆さんも条件を満たしているのですよ――ここだけの話ですが真っ当に生きる、今の方々はそれすらも出来ない方が意外と多くいらっしゃるようで……」
 
 哀調を帯びた声でエルは呟いた。
 ニュースや周りの情報を聞く限りでは確かに真っ当に生きるのが難しい世の中だったのかも知れない。
 しかし、その話を聞いてもやはり疑問だけが募って行く。
 確かに昔よりも『真っ当に生きた人間』と言うのは少なくなったかも知れないが、所詮は微々たるものである筈だ。
 私のような人生程度ならば、大概の人間が条件を満たしているだろう。そんな人間の中には異世界に魅力を少なからず覚える人間は居ると思えるのだが。

「……ちなみに、ですが――私は真っ当に生きたと言えるのですか?」

 他の人間はさて置き、何よりも聞きたいのは『私が平凡な人生を歩めた』と評価されている事だ。
 自分でもこの一点に関しては悔いしか残らないが――私は親よりも先に死んでしまっているのだ。
 身体が元々弱かったからとは言え、随分と親不孝な事をしたと思っている。そんな自分が『真っ当』と言っても良いのだろうか。
 それを抜きにしても親より先に死んだ者は報いとして、賽の河原で石を積むと言うのが定説としてある事を考えると、私は如何言った位置づけなのだろう。
 そんな疑問を問い掛けると、エルさんはまた微かに悲しそうな顔を浮かべて、先程よりも心なし小さくなった声で答えてくれた。

「私達も自らの意思では無い、生を望みながらの不可抗力な死であれば咎める事は致しません。善い行いとは言えませんが……」
「人の死は、神が司っているのですか?」
「その問いに関しての明確な答えを私達は持ちません。場合によりけり、と言うのが答えでしょうか?私達とは言え、人の生き死にを全て決めている訳では在りません。少し話は変わるかも知れませんが、私達は全ての因果関係を調べる事は出来ても、把握する事までは出来ないのです。アカシックレコードと言うものがありますが、それを使って瞬時に調べ出す事と、全てを記憶して把握すると言う事は別物なのですよ」

 確かにインターネットや図書館のデータベースを使いこなして様々な情報を瞬時に取り出せても、それは知識があるのとは違うからな。
 自分と同じ基準で考えて良いのかは解らないが、イメージとしてはそんな感じで良いだろう、きっと。

「……また話が逸れてしまいましたが、そもそもの条件が合わない方が全体の一割として、他の異世界に行かれる方が少ない理由を説明していきますね」
「そうでした……ね、続きをお願いします」
「えーとですね……異世界に行かれない方の理由なのですが、まずは天国へ行かれる方が居る点ですね。肉体を捨てて魂だけの存在になり、あらゆる面で抑圧されていた部分が解き放たれますので……今までのストレスや人間関係での苦労から開放された反動でそのまま天国へ向われる方がいらっしゃいます」
「と言うと、天国と言う場所はそう言った悩みが解決されている環境……なんですか?」
「完全に、と言うのは難しいですが多少は緩和されている環境かと思います」

 一体全体どんな場所なのだろうか。詳しく聞くのが興味深いような、怖いような、微妙な気分だ
 取り敢えず解ったのは、仕事のストレスや人間関係で悩んでいた人達にとっては、確かに天国は何の特典よりも魅力的に見える場所だと言う事だな。

「異世界での転生では様々な面で優遇されているとは言え、必ずしもそれが『イコール成功』に繋がる訳ではありません。それは他の世界から地球に来られた方々にも当て嵌まります。先程お話した、所謂『勝ち組』の方々ですが、その方々は異世界から来られた方々の半数の人数になります。残りの方々は、才能や技能を与えられても過信し驕り、人間関係での悩み――生を営む上で欠かせない部分で挫折や苦労をされていました」
「まぁ、それはそうでしょうね」

 当然と言えば当然な話だな。
 もっとも、それでもスタートラインが違うのであれば十分な恩恵と言えるだろうし、流石にそこまでは神様も面倒を見切れないのだろう。

「そう言った面を嫌い、天国に行かれた方は多くいらっしゃいます。それに、天国に行かれたからと言って、もう転生出来ないと言う訳ではなく、自身が納得されてからまた輪廻の輪に加わって頂く事が出来ます。ただ、その場合は異世界への転生は出来なくなるのですよ。幾ら特典を与えられているとは言え、その人の魂に未知への好奇心や探究心などが無いと、双方にとって悪い結果しかない場合がありますので」

 そこまで言うとエルは何か気が付き、少し慌てたように「だからと言って、天国が駄目だと言う訳ではありませんし、向かわれたからと言って向上心が無い、性格が如何と言う訳ではありませんからね?あくまでも基準として設けているだけですからね?」と矢継ぎ早にあたふたと弁解を始めた。
 別にそんな風に思っては居ないのだが、と思いながらもその様子に和みつつ、フォローを入れるタイミングをわざと遅らせてみた。

「えー……とですね。コホン――話を続けます」
「どうぞどうぞ」

 私の相槌に一瞬だけ動きが止まるが、直ぐに何事も無かったかのようにエルは話し始めた。取り乱したと言う事実が天使としての矜持に少しばかり触れたものなのだろう。

「そして異世界への転生を選ばない理由の最後は……現世に未練がある方です。ここに来られるまでに生前の両親、御友人等の声は聞かれましたか?」
「……はい」
「あの声を聞かれて未練を持たれる方が多くいらっしゃいまして……大概の方は、出逢う事はもう無いと解っていても地球へ戻られます。半数以上の方がこれに該当します、そしてこれが異世界に行かれる方が少ない一番の理由ですね」

 それは、凄く解った。単純な理由だがすんなりと納得出来た。
 思い出すのは通路を歩いていた時に聞こえた両親や友人達の声。
 私も両親に、友人に会いたい。
 その願いはある、理解も出来る。
 しかし何故――私はそこまで渇望をしているのだろうか。
 そう考えて、無性に悲しくなった。虚しくなったと言っても良い。
 あれだけ大事に思っていた筈の両親に、形振り構わずに会いたいと強い欲求が湧いてこないのだ。

「自分は未練が――」
「そう言う訳ではありませんよ。貴方は一度、転生されてますから」

 思わず零れた言葉はエルの言葉で遮られた。
 溢れ出しそうだった私の感情を、優しく押し止めてくれるような力強い言葉だった。

「……最初に御話しましたが、全てには因果関係と言うものがあります。この場合、直仁さん――貴方の死の原因は、前回の転生の際に取り決められた事でした」
「――前回の、転生?」

 話の急な転換に驚きながらも、その内容に興味が少しばかり移った。
 前世。
 そんな事を考えもしなかったが確かにそう言うのがあるのだろう。
 この状況や説明を聞けば、前世と言うものが確かに存在するのだと否が応でも納得出来る。
 とは言え、だからと言って自身の前世の話を持ち出されても、直感的に感知するような、所謂「ピンと来る」ものは如何にも来ない。

「……寿命、特に短命な人の理由としては単純に食事や生活環境等もありますが、先天性の物の場合は転生時の条件が原因になります。この場合は人に転生出来るほどの功徳を積んでいなかった場合、もう一つは条件が困難であった場合の代償として――直仁さんの場合は後者ですね」

 そこまで言葉を繋げると、エルさんはふと笑みを浮かべた。
 それは気が付けば差し込んだ陽だまりのような暖かい笑み。

「前回の転生の際に、直仁さんは幼い頃に両親を亡くして居ました。そして両親へ孝行をしてあげる事が出来なかったのをひどく後悔されて、次ぎに生まれ変わるならば同じ両親の元で息子として生きたい強く願われていました。その願いを叶えるには、輪廻の輪に入っていたご両親を同じ時代に生を授け、縁を結び巡り合わせ、二人がもしも結ばれたのであればその子供として産まれる――これだけの条件を整えるには、色々と代償が必要でした」

 ああ、そうだ。確かに私は――僕はあの時、願った。
 それは正しく未練だった。後悔だった。
 解っていた。けれども、それでも僕は未練に縋り、未来を想い、彼女に願ったのだ。
 
「その願いが叶っているからこそ、直仁さんは若くしながらここにいらっしゃいます。寿命の他にも願いを叶える代償として色々と支払われているのですが、それを後悔されていますか?」
「……いえ」
「……そう言って貰えると解っていました。そして安心しました――覚えていらっしゃらないと思いますが、実は前回の転生の際に御手伝いをしたのも私なんですよ?」

 エルさんは笑みを浮かべた。
 それは前回と同じ、何も変わらない柔らかな笑みだった。

「……えぇ、そうでしたね」

 ほんの僅かではあったが、前世を思い出すと言う妙な体験をしたものだ。
 そうか、私の身体がこんなにも虚弱だったのは前世の願いを叶えた代償だったのか。
 ストンと胸につっかえていた何かが落ち、綺麗に嵌った音が聞こえた。

 私の身体はひどく弱かったが、決して不幸ではない本当に平凡な人生だった。
 確かに勉強も得意ではなかった、運動は負担が多すぎて思うように出来なかった、人付き合いが苦手でクラスの中心に居るような人間でもなかった。また何か秀でた所があるかと言われれば言葉に詰まる。
 顔も整っているとはお世辞にも言えなかったし、三流の大学を出てからはブラック企業に勤めて仕事に終われる日々。 
 それでも気心知れた友人は居たし――何よりも両親とのとても仲良くやっていた。
 一緒にご飯を食べ、買い物をし、些細な事で喧嘩をし、何か良い事があれば我が事のように喜び、共に笑い、家族の絆を育んで来れた。
 あぁ、そうだ。私は確かに悲しいし、元の生活に戻りたいと思う。
 親よりも先に死んだ事は、幾ら時が経っても後悔し続けるだろう。最後の最後で、私はとんだ親不孝者になってしまった。
 だと言うのに――それでも残る満足感。きっと、本当に願っていた事が叶っていたからだろう。
 未練はある。だが、それは引きずらずに背負っていけるだけのものだ。

「――」

 知らず知らずの内に涙が零れた。ここへ来てから何度か涙が零れそうになった事はあったが、流したのは初めてだった。
 ――死んでも、涙の熱さだけは変わらないのだな。
 そんな如何でも良い事が可笑しく、少しだけ笑い、また涙が零れた。

「……異世界に行った方が地球の為なのか?」

 一通り泣き終わった後、私は前触れ無く唐突にエルに聞いた。
 もっとも流石に泣き顔を見られたのが恥ずかしく、俯いて袖口で涙の後を拭きながらの質問になったが、そこは仕方が無いと言う事にしておこう。

「そうですね。出来ればそうして頂けると嬉しいですが……だからと言って無理に選ぶ必要はありませんよ?地球が衰退と言う坂を転がるには、少なく見積もっても後1万年程度は猶予がありますから……普通に輪廻の輪に加わっても、問題は無いかと思います」
「いや……異世界へ行こう。新天地を目指すと言うのも悪くは無い気がしてきた」

 満足の行く人生――とは胸を張って言えないが、少なくとも前世に対して恨めしい気持ちは無い。むしろ、このまま輪廻の輪に加わる事を選択すれば、私はまた両親に会いたくなるだろう。

「ただ――自惚れかも知れないが、自分が死んでとても両親が悲しんでいる筈だ……だから、悲しみを乗り越えて二人には幸せにはなって貰いたい。特典の代わりと言っては何だが、如何かそのように取り計らってくれないだろうか?出来れば、私の記憶は消さないで欲しいがね……たまには思い出して貰えるとやはり嬉しいのでね」

 そう言って私は言った。笑って、言えた。

「大丈夫ですよ。そう言った願いであれば、私が何とかします。だから現世の事は任せて、貴方は新しい未来だけを考えて下さい」

 エルもそう言って笑った。
 前回の時と同様の、とても頼もしく見える笑顔だった。




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