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「全く持って難儀な……」

 机仕事と言うのは如何して、こうも疲れるのであろうか。
 やっとこさ打ち終えた書類を保存し、アリクイの顔に似た天井の染み模様を見上げた。
 そして噛み終えた後に長時間放置されたガムの如く凝り固まっている眉間を指で解し、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

「――先輩、どうぞ」

 達成感からの気の緩みであらぬ方向へ思考を飛ばしていると、ふいに背後から軽やかな声と共に、見るからに冷えていると解る水滴の付いたスポーツドリンクを机の上に置かれた。
 こう言った気の利いた事をするのは――何人か心当たりが在るが、その中でスポーツドリンクを選ぶ人間を一人しか私は知らない。

「お、気が利くな。ありがたい」

 そう言って振り返ると、やたら笑顔の中性的な美少年――後輩である『菊地 真(きくちまこと)』が予想通りに立っていた。

「へへへっ……気にしないで下さい。大した事じゃ無いですから」
「解っとらんな。大それた事をされるよりも、こう言う細やかな事の積み重ねの方が嬉しいものなのだぞ?丁度喉が渇いていた所であったしな」
「そ、そうですか?――へへへ」

 そう言って褒めてやると、真は照れたような笑顔を浮かべながら忙しなくワシャワシャと頭を掻いた。
 ふむ、相変わらずの犬の如く有様也。きっと尻尾があったならば、はち切れんばかり振っているであろう――ここまで喜ばれると、感謝のし甲斐もあると言うものだ。
 そんな事を思いながら、微笑ましい気持ちで小さく笑った。

「しかし、今日も早いな。下見に出るまでには大分時間があるではないか」
「え?あ、そうですけど――それを言ったら先輩もじゃないですか」
「私は正社員だからな。仕方あるまい」
「それを言われたら何も言えないですけど……あ、また書類を頼まれたんですね?」
「こらこら、その推測で相違無いが、人様の画面を勝手に盗み見るのは些か感心せんぞ?」

 苦笑を浮かべ、軽く背伸びをしながら画面を覗き込んできた真を軽く嗜める。

「あはは、今度からは気を付けます」

 しかし、私の言葉も真には馬耳東風と言った所で、意に介さぬとばかりに小さく笑いながら窒素(ちっそ)よりも軽いであろう謝罪の言葉を零した。
 会社側の人間としての体裁の為に『取り敢えず』注意しただけの身としては、はっきりとした快闊な態度を取られると、それ以上何も言えず許してしまうしかない。
 全く持って『ずるい』性格をして居る奴だ。

「それにしても、プロデューサーが事務仕事をするって言うのも珍しいですよね?」
「如何なのだろうな。耳にせんのは確かでは在るが……まぁ、仕方あるまいさ。後ろ盾が在るとは言え『新設』の事務所である事には変りなし、事務仕事を出来る人物が『小鳥(ことり)』さんと『律子(りつこ)』、そして私の三人しか居らんのだからな。仕方が無いと言わざるを得ない状況ではある。が……まぁ、少々、苦労が絶えぬな」

 アイドル事務所『625(りつこ)プロダクション』――元アイドルである『秋月律子(あきづきりつこ)』が社長となり新設した事務所である。
 と――言えばアイドルを引退し、未知への探究心から大海原に果敢に乗り込んだ様な、然も(さも)恐ろしく凄き事の様に聞こえるが、実情は若干ではあるが手堅く、多少の事では転覆せぬような確りとした土台がある。話が大きいと言う意味では確かではあるが。

 アイドルを引退後にプロデューサーとして活動しながら、新ブランドの立ち上げを新たな目標として、日夜労働に勤しんでいた律子に『高木順一郎(たかぎじゅんいちろう)』社長が話を持ちかけて来たのが事の始まりだった。
 既に大手事務所となっていた『765プロ』が、異彩を放つ個性的なアイドル達を中心とした同系列の『新ブランド』として子会社設立の話が上がったのだが、その際に社長が「アイドル達も個性派とするならば、社長も個性的では面白味が無い」と言う発想から、最も適切な人材と言う事で選ばれたのが律子だった。ある意味、765プロダクションの新たな『事業開拓の一環』と言っても良い。

 もっとも、律子が常々夢に向かって才能を磨き、努力を怠らずに居た姿を知っていたので選ばれたと言うのも事実だろう。
 また、アイドルに対して惜しみない愛情を注ぐ『顔の甘い』社長な上に、律子に関して言えばアイドルになる前に社長の補佐――厳密に言えば違うのだろうが、秘書紛いの事をして居た経歴もあり、贔屓と言う訳では無いが、社長もアイドルに転向した当時も良く気に掛けていたので、その点も絡んで居るのかも知れない。
 とは言え『考えが甘い』訳では無いのが社長の尊敬出来る所だろう。
 社長の独自の言い回しである「ティンと来た!」と言う『悉く外れが無い』神懸りな直感と、律子のアイドル引退後1年間の間に行ったプロデューサーとしての手腕や、今まで積み重ねて来た会社経営の勉強や知識を信じての決断であったのも間違いでは無い。
 アイドルとプロデューサーとして協力してトップアイドルまで上り詰めた頃から――若干自分に甘い部分もあったり、理詰過ぎて自分が納得行かなければ前に進めないと言う事も合ったが――他の担当したアイドルとは違い、現場での臨機応変の対応で頭の回転も切れもあり、私がプロデュースをして手を引っ張って行くと言うよりは、常に互いに意見を出し合って近い立場で高め合いながら二人三脚で戦っていた記憶がある。
 当時から片鱗を垣間見ていた私としては、楽観的かも知れないが律子が事務所を任されたと聞いた時、然程不安は無かった。
 むしろ、あれだけ大成を修めて、日々精進をして居る律子自身の方が大いにうろたえていたのが印象深い。普段は『ハッタリ』や『度胸』と言ってるが、根っ子の部分で『謙虚』と言うか『卑屈』と言うか、相も変わらず自己評価が低く、ほろりと弱気が零れる性格は中々直らぬようだ。

 他にも様々な細かい紆余曲折を得て事務所を構えるまでになるのだが――つい数ヶ月前に社を構える人間としての社長の最大の譲歩として、まだ弱小プロダクションだった頃の小さな事務所と、幾人かの『自分達に縁のある人材』と新たな門出に立つ次第にあいなった。
 その一緒に移籍して頂いた『人材』の一人が、私も律子も気心知れた縁深い相手であり、会社を興す上で非常に心強い方が『音無 小鳥(おとなしことり)』と言う物腰や表情、雰囲気の柔らかな美人の女性だった。
 時折動きを止めて物思いに耽る事が屡(しばいば)ある為に機敏な印象は無いのだが、要点を上手く抑えるのがとても得意で、内政のノウハウもある非常に優秀な方である。小鳥さんが居なければ625プロが軌道に乗るのが1週間は遅れていたと思える程である。その有能さ、推して知るべし。

「えへへっ」
「……何だ、その物言いたげな含みある笑みは」
「いやぁ〜、そう言う割には随分と楽しそうだなって思って」
「む、そんな顔をしてたか?」
「そりゃもう!」

 笑顔で断言をされると、誤魔化す予断無くすんなりとその事実を飲み込めた。
 確かに苦労ながらに私は現状を楽しんでいるのだろう。
 若輩であった私が新人プロデューサーとなり汗だくになりながらも、気持ちの良い疲労と充実した毎日――立場が違えど、あの時のように苦労しながらも日々を新鮮な気持ちで謳歌出来ている。
 移籍してきた幾人かのアイドル達は元より、落ち着いて来たとは言え一からの事務仕事に笑顔を浮かべながら捌いている小鳥さん。
 律子も勉強して居たとは言え、まるで勝手の違う慣れない社長業を営みながらも、明晰な頭脳を活かして時折TVにコメンテーターとしての出演もこなしているが、皆一様に楽しげなであるのは間違い無い。
 おかげで社長仕事も私が手を付ける嵌めになっているが、律子としては本来の『約束』通り私を社長に据えたかったらしいので、ある意味都合が良いらしいが。

「楽しそうと言っても――こうやって先輩達を見ていると、やっぱり仕事って大変だなって思いますよ」
「まぁ、な。充実しているとは言え、大変なだからこそ『仕事』と言うのだからな。と、だからと言って態々(わざわざ)張り切る必要は無いぞ。真は十分に頑張っているからな」

 最後に「その点は誤解するではないぞ」と、一言付け足す。

「とは言え――しかし、本当に人生とは儘為らぬ(ままならぬ)ものだな」

 そう言葉を零しながら、しげしげと真を見てしまった。

「えっと……何がですか?」
「いやな、本来ならば、このような事務所仕事に勤しむ事無く、煌びやかな舞台に立てるチャンスもあっただろうに。元々の確か……男性誌のモデルで」
「あー……そうです、よ?」
「それが何故か、雑用のバイトとしているのだから……全く摩訶不思議だな」

 如何言う経緯があったのかは知らないが、女性のアイドル以外にも『男性のアイドル』も手を広げてみようかと言う話で社長がスカウトをして掴まえたのが、目の前の真であった。
 が、蓋を開けて見れば新設プロダクションの事務雑用全般を熟(こな)す立ち位置に物の見事に収まっていたのだ。
 色々と事情があったと言う話だったが確か、理由は――

「しょ、しょうがないじゃないですか。ボクの家は親が厳格なんで、雑誌に載っているってばれたら何言われるか解らないんですから」
「バイトも本来は許されぬ、だったな?」

 何とも古風な――表現すれば良いのか。
 何と無く社長の思案が、まだ在りそうな気がして為らないが、それに関しては詮索しても仕方が無かろう。
 企業としては如何と思うが、そう言う会社だからこそ上手く行っている部分もあり、またこう言った事柄『では』社長の采配に間違いは無いだろう。
 それに、その御蔭で真と縁が持てたと思えば然程気にするような事柄では無いだろうからな。

「そうなんですよ……こう言った機会でも無いと、切っ掛けが無かったですし……」
「そうか、そうか。しかし勿体無かったな。メンズモデルとも為れば、女子も選り取り見取りに色恋沙汰を咲かせれたろうに」
「あー……ボク、あんまりそう言ったのに興味が無いので」
「――」

 絶句。言葉を失う。
 そう言った表現は、今のような状況に使うのが適切なのだろう。

「な、何でそんなに驚くんですか!?」
「有り得ん。有り得んであろう」

 そう、ありえんだろう。
 ありえぬだろうさ。
 ありえぬだろうて。

「そ、そんなに驚く事なんですか?」
「そうだともさ!真位の年ならば、四六時中頭でピンク色の妄想を垂れ流し、ひめもすダラダラと『けしからん』事を妄想しては、布団の上で枕に齧り付きながら呻吟が如くに嗚咽を漏らすのが古くから習わし――男子学生の本来の在るべき姿であろう!」
「先輩、それはいつの時代の話ですか?そもそも、そんな時代が存在したんですか?」
「む……僅かばかりの誇張があったが――」
「僅かでもないような……」
「――まぁ、真位の年齢ならば、恋人云々は置いても、バイトにかまける暇も無かろう?」
「ん〜……そうでも無いですよ?」
「そんな筈は無いだろ、学友との付き合いもあるだろて?例えば、男子便所で肩を組み合わせて『誰某(だれそれ)が可愛い』だの『誰某の胸が新型』だの『誰某の尻が夢に出てくる』等と阿呆面を付きあわせたり」
「……先輩はそんな事をやっていたんですか?」
「勿論だとも。健全な学生生活、学問への熱意等は唾棄すべき『モノ』と声高らかに、現実から眼を背け、日々を遊ぶように狂っていた」
「……狂ったように遊んだ、の間違いじゃないんですか?」
「遊ぶように狂った、で間違いないな。あの罪深き所業の数々は今思い出しても不可思議であるなぁ」

 しみじみと過去を夢想するがドレもコレも阿呆丸出しで、少なくとも感傷に浸れそうな思い出など何一つ見当らない。うむ、これはこれで、良し。

「まぁ、その様な私の築いてきた礎はさて置き――最近は事務所に入り浸りだろ?金が無くとも友情は育める、学校生活を蔑ろには決してするなよ?」
「解ってますよ。バイトが無い日は友達と元気に遊んでますから」

 そう言って小さく笑った後、少し照れ臭そうにしながら呟いた。

「まぁ、最近はバイトが楽しいってのもあるんですけど――それに、先輩が思っている以上に僕は色々と育んでいるんですよ?」
「ほぉ――例えば?」
「先輩と僕の絆とか」
「――」

 中々如何して、こやつは『にくい』事を言うではないか。
 話の隙を見てはちょいちょいと仕掛けて来る。
 やはり、けしからん程にこしゃくな奴だ。

「――ふむ、ならば良し」
「あれ……先輩照れてますか?」
「……莫迦者が」
「えへへっ――」

 くだらない話に付き合ってくれる友人と言うのは、日常でも、職場でも、場所問わず、例え年齢が離れていようとも大事なものである。
 それが自分を慕ってくる、気の良い後輩ならばなおの事。
 そう言った意味合いでは、真の言葉も無碍に否定は出来んのかも知れんな。とは言え、肯定するのは些か憚られるが。
 しかし――真は何時まで、呆け(ほうけ)ながら笑っているつもりだ。

「真、何時までも気味悪く笑っていないで、今日は現場に一緒に行くのだぞ?下見の準備を整え――」
「あ、それならもう終わりましたよ。先輩が書類を作り終わっている間に。モチロン先輩の準備も終わらせて置きました!」
「……前言撤回をせざるを得ないな。お前は気の利く優秀な奴だよ」

 しかし、そうなると随分と時間が余る。
 書類も存外に早く終わったので、準備が完了しているとなると、殆どやる事が無い。
 このまま真と話し込んでいるのも悪くは無いのだが――

「ふむ」

 ――今しがたの時刻は11時過ぎ、か。

「そろそろ昼飯時だな」
「あ、そうですね。それを聞いたら少しだけお腹が空いて来ちゃいましたね」
「然らば、下見の時に行く前にラーメンを奢ってやろう。丁度今回の会場の近くに鶏殻出汁が逸品の美味い醤油ラーメンを出す店があるのでな、紹介して進ぜよう」
「え、本当ですか!?へへっ、やっりぃ〜!」

 そう言って嬉しさを表すように右腕を振りながら小さくガッツポーズらしき動作をした――毎回気になるのだが、癖なのだろうか。
 律子が両手で拳を『ギュッ』とするのや、小鳥さんがふとした拍子に夢現に浸ったりする事や、他の面々も何かしら癖があるのを考えれば、比較的可愛らしいものではあるが。

「けど……良いんですか?」
「ん、何がだ?」

 下らぬ事を考えていた数瞬の間に何があったのか、気が付けばつい先程の様子とは一転、何が起こったのか解らないが妙にしおらしくなっていた。
 如何やら『女心と秋の空』とは言ったものだが、男心も移り変わるのが最近は早いらしい。実に、難儀な。

「いや、ボク……毎回奢って貰っているようが気がして」
「あぁ――なるほど。得心が行った」
「え?」
「いや、何でも無い。独り言だ」

 ――しかし、妙な所を気にする奴だ。
 まぁ、無遠慮な人間よりは何倍も可愛げがあるにしろ、礼儀が正しい分、年上に対してまで要らぬ気遣いをしてくる。そう言った意味では、少々融通が利かぬのが難点か。

「遠慮する必要は無いんだぞ?それが先輩と言うものだ、気にするな。もしも気にするのであれば、今度自分の後輩に同じ事をしてやれ。それだけで十分だ」
「でも――」
「それにな、こう言う時で無ければ先輩面出来んだろ? 『上を立てる』と言う意味でも、たまには良い格好させるものだ」
「……それじゃあ、遠慮無く御馳走させて貰います!」

 そこまで言うとやっと納得したのか、いつも通りの爛漫な笑顔とよく透る声で威勢良く頷いた。

「応ともさ。さて、ならば行くから道具を持ってきてくれ」
「はいっ!それじゃ、ボク、準備した物を持ってきますね!」

 元気の良い返事をして駆けて行く真を眼の端に入れながら、椅子から立ち上がり窓から外の様子を覗いてみる。

「暑そうだな――今日はちとばかし、骨が折れそうだな」



                  アイドルマスター 真SS
            『始まりはそれぞれに有るからこそ面白い』



 骨は骨でも、セットを支える『背骨』が折れるとは――
 
「予想外とはこの事か……」

 もっとも、報告で伝わって来たよりも大した事は無かったので僥倖と言えよう。
 真には1時間以上掛かると言っていたが、正味10分で事が片付いたのには拍子抜けした部分もあるが、助かったと思うべきだろうな。
 念入りに補強をするだけで明日のイベントは問題無なさそうであった。
 イベント内容に合わせたそれなりの規模の『箱』を貸し切ってのイベントだけに、こう言った些細な事でも、敏感に反応するようになっていたかも知れない。

「まぁ、コレで明日の春香(はるか)のイベントは波を荒立てる事無く、無事に行きそう……だろうか?」

 春香――『天海 春香(あまみ はるか)』は765プロで私が受け持っていたアイドルの一人だ。
 そして、今回の移籍で私が625プロに動いた際に、わざわざ一緒に移籍――と言えば系列は同じなので御幣があるのだが、現時点では弱小プロダクションである所に身を寄せてくれた心強い仲間である。
 ランク的には『ニアA』や『BとAの中間』と言った所で、トップアイドルと言っても過言では無い。特筆すべき点は、極端な二面性を演じる事が出来る『表現力』だろう。
 また、その表現力の虜となった、懐深く統率がとれた根強い『ファン』の多さでは765プロ内でも肩を並べる者は居ない。

「しかし、今回のイベントもそうだが……まさかココまでとは、な」

 春香との付き合いは長いのだが、最初からプロデュースしていた訳では無く、元々はCランクから伸び悩んでいた所を自分が受け持ったのが始まりだった。
 当時から何故か一部からの根強い人気を誇っていたが、全体的に高い水準で纏まっていたとは言え個性的な部分が無く――訂正を一部するならば、歌唱力が個性的ではあったが――良くも悪くも癖が無く、中傷的な表現では『無個性』とまで言われていた時期があった。
 だが自分には春香に誰よりも長い『のびしろ』があると信じていたのだが、如何にも『取っ掛かり』が見付からなかった日々が続いた。
 そんな中、それなりに『魅せる』事が出来る時代劇の配役が決まった。
 ここで垂らされている糸を上手く手繰り寄せるべく、実際に剣術をある程度『修め』させて見ては演技に気迫が乗るのではと思い、社長の伝手で『虎眼流』なるレッスンの時間を減らし、役作りにドラマが始まる大分前から剣術を学ばせたのだが――それが転機だった。
 何事も解らぬものだと改めて思う。
 物を置いて居ない平坦な場所で転ぶと言う類稀なる特技を習得している春香は、剣術に於ては比類なき才能の持ち主だったらしい。当主である岩本氏に『麒麟児也』と云わしめた程である。
 私も両眼でその剣術の鋭さを確認したが、その瞬間――雷が正中線を突き抜ける様な錯覚をした。それは、春香の絶大なる『武器』だと確信したからである。
 剣術が、演技力が、では無い。
 即ち――構築力。
 それは春香と言う『染まる事無い純白』と言う本質を『個性』として見る余りに見落としていた盲点。
 そう春香の『純白』とは――何色にも染まり、その色合いによって千差万別な世界観を『根』から構築する事が出来るのだ。
 それは真綿に水を染み込ませる様に吸収する事が出来る力とは違った『異才』であった。

 それに気が付き、思い当たる節も在り、その直感に自信が在ったとは言え、すぐさま曲から衣装に到るまで、ドラマの直前に間に合うように手配したのは性急過ぎたと今でも反省をして居るが――それが功を奏した。
 読みが当たった。
 飾らぬ人柄。屈託の無い明るい笑顔。
 白の似合うアイドルと言う概念を打ち壊す奇策。
 それは――真逆の世界観。

 背徳的でおどろおどろしい曲調に乗せるのは、狂気を孕んだ常識を逸脱した歌詞。
 普段とは真逆の黒を基調とした禍々しい衣装と、場違いも甚だしい日本刀を帯刀。
 妖しくも艶やかな世界を演出し、意図的に流し目などを撮るように頼んだ。
 
 『白』から最も遠く、最も近い色――『黒』の印象を与える妖艶で、退廃的な春香が、それらが統べて『春香』と言う枠に嵌った。

 世間の反応は予想通り――いや、予想以上の衝撃を与え、反響と残響を残した。
 また、時代劇中での剣術の演技は、剣客としての春香から放たれるの『真剣』を伝え、相乗効果で反響は高らかに鳴り響き、十二分の効果を得た。
 そこから流れが変った。
 本来の清純なアイドルとしての春香、新しく生み出された黒のカリスマとしての通称『春閣下』――どちらかに絞るのではなく、どちらも『春香』と言う『二面性』を貫く事によって極端な印象の落差によりファンの心を文字通り『絡め捕る』事に成功した。

 ――もっとも、当初は「これは幾らなんでも酷いですよ!」と、本人を『少々』説得するのに苦労し、『王道的なアイドル』を目指す春香は、これまた『僅かに』涙を流したとかしないとかそんな事も在ったが、最近は『春閣下』と呼ばれるのが満更では無い様子だ。
 所謂、春香にとって正攻法と呼ばれる手段では無かったかもし知れないが、それでも親友である『千早(ちはや)』と肩を並べたかったのかも知れん。

「あぁ――もう着いてしまったか」

 明日の事、春香の事、そして千早の事などを考えて歩いていたら、あっと言う間に事務所に辿り着いてしまった。

「それにしても……汗臭くて敵わんな」

 事務所に入った途端、風が無くなったせいか、自分からオーラのように漂っている臭いに顔を顰めてしまう。
 最後まで手伝うと言っていたが、真を先に帰して正解だったかも知れんな。
 同性とは言え、この臭いは心象に余り宜しく無い。
 
「む、真はまだ居るのか?」

 事務所のソファーの上に脱ぎ捨てられたジャージが掛かっていた。

「……シャワー室か?」

 快晴で日照りが強く、気温もそれに伴って大分上昇した所為で、箱の中が蒸し暑かった事を考えるに、水でも浴びて汗を流しているのだろう。
 大した物ではないが、うちの事務所にも簡素なシャワー室位ならばある。
 もちろん、男女別々だ。
 ――御蔭で嬉し恥かし、キャピピフフなハプニングが無いのが残念で仕方が無い。

「私が鬼畜系エロゲーの主人公で無い事を幸運に思うのだな、諸君!」

 と、何度扉を睨み付けて妄念を唾棄して来た事か。
 ――まぁ、8割がた冗談ではあるが。
 仮にも、苦楽を共にして居る大事なアイドル達である。
 偶然ならばまだしも、自ら率先して何かしたいとは毛頭思わない。偶然ならば、偶然ならば未だしも、だ。

「ふむ……そう言えば真とは裸の付き合いがまだだったな」

 数少ない職場の男同士である。
 男同士ならば一度ぐらいは裸の付き合いと言う物をせねばならないだろう。
 何と無く、そうしなければいけない気がしてきた。

「どれどれ、真の『息子(サム)シングエロス』を確認してやるか」

 意気揚々と自分のロッカーから、こういった時の為に常備している予備の衣服を取り出し『SHAZNA(シャズナ)』の『すみれ September Love』を口ずさみながら事務所を出る。

「……む?」

 シャワー室に近付くにつれて、妙に違和感を覚えた。
 はて、何が――

「あぁ、そうか……女性用から音が聞こえるのか」

 と呟いた瞬間、事の重要さを認知してしまった。
 待て――これは一大事と言っても過言では無い。
 私の人生史に於ける未曾有の大事と言えよう。
 何故ならば、この時間帯に残っている人間は私と真しか居ないのだ。そして、私がココに居て、尚且つ女性用のシャワー室が使われていると言う事を考えれば、自ずと答えは出てくる――真は、秘境である、女性用のシャワー室を、使用して、いるのだ。

「ロリコン『でも』ある私が自らを律し、苦行に耐え抜き、自制して居たと言うのに――何と羨ましい。転じて、怨めしい」

 何よりも――

「いや、むしろ良くぞ遣り遂げた!!その心意気良し!」

 これで『注意』と強固な免罪符――と言う名の桃源郷行きの切符を握り締め、堂々と入れるではないか。
 いや――待て、早まるな、私。
 正気に戻れ。理性ある、良識あるからこそ人間であろう。

「私が喜んで如何する――違うだろ、思春期真っ盛りの男子学生が、私の大事なアイドル達が普段使っているシャワー室に侵入して居るのだぞ!その意味の重さを理解しろ!」

 冷静になれ――私はこれから、男の身でありながらニライカナイ(女性用シャワー室)へ侵入すると言う、不埒な悪行三昧を行った真に対して、プロデューサーとして、会社の人間として、何よりも人生の先輩として、道を踏み外して居るかも知れない真に激越な説教をせねばなるまい。
 いや、それでは生温い。大人として、きっちりとした制裁を与えんといかんだろう。

「心を鬼にするのだ――」

 『ガゴンッ!』と、静けさを漂わせる廊下に音が反響した。

「手始めに――チンカチンカに冷えたひゃっこい『にゅうぎゅう(牛乳)』でも持っててやるか」

 私は社会の歯車である以前に、一人の人間でありたい。
 うむ、何と無く私が正義な気がしてきたではないか。

「よし、全ての準備は整った――いざ逝かん」

 男としての本懐を遂げる為に、兵糧の準備と心構えを終えた私は意気揚々として、遠き理想郷(アヴァロン)の扉を開いた――

「よぉ、ご機嫌だな、兄だ……」

 ――瞬間、思わず身体が硬直した。
 脳が、筋肉が、細胞が、総じて活動を止めた。
 ドムン――と、手元から零れ落ちた牛乳瓶がシャワー室の床に敷いてあるマットの上に落ちて鈍い音を立てた。
 
「え――」

 視線の先に居たのは確かに『真』だった。

 いつも先輩と私を慕ってくれた、後輩。
 いつも気を利かせて仕事を手伝ってくれた、後輩。
 何故かときどき妙にボディタッチをしてきた、後輩。
 社会勉強として厳選したありとあらゆるジャンルのAVを貸し与えた、後輩。
 貸した次の日から妙に態度が余所余所しくなった、後輩。
 
 振り向いた、その『後輩』である真の体は――『女性』特有の曲線でなぞられた身体だった。



                    ∞          ∞



「――ひどいですよ」
「いや、その……済まなかった、な」

 謝りながらも内心「妙な事になって来たな」と、いまいち冷静になれずに居る私が溜息を零した。

「――」

 喉まで上って来た言葉を「安易に発しては感情に振り回されてしまう」と無理矢理飲み込み、眉間を右手の指で押さえながら雑念を払うように首を振う。そして現状を整理する為に、思考を働かせて大雑把に思い出す。
 時を遡る事、数十分程前。
 アイドル達が使用する女性用シャワールームから聞こえる音を耳にし、密に吸い寄せられる蜂のように誘われ――もといバイトである少年『菊地真』が使用しているのではと思い、私が嬉々として乱入したのが今に至る『混沌』の原因となった。
 意気揚々と扉を開け放ち乗り込んだまでは良かったが、不意打ちで『まざまざ』と見せ付けられた予想を超えた現実に思わず声を上げてしまい、互いにてんわんやと騒ぎ立て、無駄に体力を消耗した後で互いにやっと我に返り、そそくさと事務所へと戻ってきたのだが――。

「――しかし」

 口の中で転がすように呟きながら机を挟んで私の対面に座り、マグカップに入ったホットミルクを飲んでいる、見慣れた筈の後輩を観察するように視線を上から下へと動かす。
 
 シャワールームでの騒ぎで着替え用の服を『お釈迦』にしてしまった為に、私の予備のTシャツとジーンズを着せているのだが――私は体躯の大きな方なので、真が着るとかなり余裕のある『だぼだぼ』で着崩した格好になり、風呂上りの為か妙な色香が漂っている気がしてならない。
 いや――違う、か。
 それも原因の一つだろうが、最大の要因は『今まで隠されていた身体の曲線』が見て取れたからだろう。
 今まで気が付かなかった私の目が節穴と言われても仕方が無い程に。

「――女、であるよな?」
「……」

 そう、女だった。
 少女と言うには成熟しており、女性と言うにはあどけなさが残る――そんな雰囲気を持つ女の子。

「――女、だよな」

 今度は疑問ではなく、断定する様に呟いて見たものの、その言葉は直に形を崩して霧散してしまいそうな程に脆い音だった。
 中性的な美少年だと思っていた後輩が実は男装の美少女であったとは、今時の漫画やドラマでも早々御眼に掛かれぬ様な、一昔の古典的な――むしろ、今ならば新鮮さすら覚える中々意表を突かれる展開である。

 そんな目の前の現実を把握しようと努めるものの、思考が所謂『第三者の視点』で他人事のように受け止めているのは、まだ地に足が着かぬ状況で何処か混乱している部分があるのだろう。

「しかし、如何したものかな……」

 この状況。真が女であると言う事実。
 何故、性別を偽っていたのかと言う理由。
 不意に呟いたその言葉が、現状に於ける心情の全てが集約された想いだった。

「――」

 私の言葉にマグカップを持つ手が止まり、僅かに俯き加減になっていた真は小さく震えた。その姿は突然聞こえて来た雷鳴に怯える猫のようにも見えた。
 先程までは件の騒ぎで言葉を互いに豪雨のように投げ付け合っていたが、両者落ち着き場に留まる空気が静かになるにつれて、不安が心中に到来してきたのだろう。
 自分が逆の立場ならば、同じ様に今後の展開への悪い想像や様々な感情が胸中に忍び寄り、それらに埋もれ始めて居るだろう。
 表情は解らないが、真もそう言った思いを抱いているだろう事を何と無く読めた。
 それぐらいは解る程度の付き合いをしてきたつもりである。

「……本来ならば問い詰めねばならぬ所であるが」

 ゆっくりと言葉を吟味するように言葉を口にしたが、腹積もりは決まっていた。
 何にも悩む事は無い。

「今回の一件の全てを――」
「え?」
「――不問とする、べきだろうな……多分」

 そう言ってやると、力の弱いバネに弾かれたように真が顔を上げ、目を丸くしながら驚いて私の顔を見てきた。

「大方、怒鳴り散らされた上に事情も碌に聞き入れられぬと思っていたのだろ?」
「えぇ……まぁ」
「本来ならばそうすべきなのだろうが……今回ばかりは例外だ。まぁ、私の早計ならば、もう一度話し合いをしなければ為らぬがな」
「それはその……なんでです、か?」

 その疑問はきっと正しい。
 私も間然する所が無いとは流石に言えぬ。

 別に、真だから目を瞑る訳では無い。本来ならば厳重な処罰をするべきだろう、自分も本来ならばそうして居る。それが『元から偽っていた場合』ならば、だ。

「理由は簡単だ。真をスカウトしたのが高木社長だからだよ」
「あ……」
「自ら性別を偽り勤務して居たならば話は違ってくるが、真の場合は『社長がスカウトした』と言う前提だからな――何か目的があるにしろ職場の事を考えれば『女が男装をして』と言うのはどの様な状況を垣間見ても利点が無いだろうて」

 男装してでなければいけない――と言う何らかの稀有な事情があったとしても、その場合はスカウト等と言う、有るかどうか解らない『モノ』に頼らず自らの意思でバイト等の応募をするだろう。
 いや、そう言った事を踏まえずとも単純に、女である真が男性としてスカウトを受けたならば、その後の話し合いで必ず食い違いが出てくる筈なのだ。
 そこで疑問を持った段階で社長が尋ねるか、または自ら誤解を解こうとするれば、真が女だと言う事が判明するだろう。

 男性としてスカウトされた後で、自分の性別を含む情報交換を双方で行い、その同意の上で男性として性別を偽り――何らかの目的があって『ココ』に居ると見て良いだろう。
 社長の良く解らぬ思考回路と、真の良識的な思考回路を踏まえた上で考えるに、それが一番確率が高い気がしてならない。
 少なくとも真の反応を見るに、如何にも社長が絡んで居るのは確実であるだろう。
 他の人物や、他の会社ならば先ず有得ぬ真っ先に削除する選択肢だと言うのが怖い所である。
  
 元々、私は可笑しいとは思っていたのだ。
 『有能』か『無能』か如何かはさて置き、新設プロダクションの雑務をこなすだけのバイトを社長の采配を持って働かせて居る時点で、別の思案を含む何か『裏』があるとは勘付いてはいた。
 然し、それにしても予想の斜め上へ螺旋を描きながら突き抜けて行く展開過ぎやしないだろうか。
 
「まぁ、そんな『ややこしい』理由は脇に於いて置いてもだ――短い付き合いではあるが、真が理由も無くこんな事をする人間ではない事は私が良く知っているからな」
「先輩――」

 場の空気を軽くしようと本音半分で似合わぬ言葉を言うと、何処か感極まった様子で真が私の事を見詰めてきた。
 
「……」

 感覚に訴え掛ける強い視線に、何とも言えず思わず一瞬眼を反らした。
 元々、真に対して中性的な美少年と印象を持って居ただけあって、女性と認識すると身体の曲線が見える所為もあってか、凛々しさと愛らしさが二律背反する『モノ』が上手く調和が取れている美少女にしか認識出来ず、年齢差が有るとは言え如何にも妙な感情を持て余してしまう。

「あの……急に如何したんです?」
「あ、あぁ……済まん。少し呆けてしまったな、気にしないでくれ」
「え、あ、はい」

 そう言って小首を可愛らしく傾げながら頷く真から視線を外し、何かを誤魔化すように咳払いを軽く吐く。
 真の性別が女性だと認識する事に問題がある訳では無いのだが、如何にもまだ自分の中でまだ戸惑っている部分があるのだろう。
 
 それ以上でも、それ以下でも無い。
 また、性別が如何であれ、今の私には関係無い。
 そんな自己暗示めいた言葉を繰り返す。

「まぁ、アレだ。社長の思案が色々とあったのだろうが、状況が状況だけに流石に『ココ』へ至るまでの経緯を語って頂けると助かるんだが……如何だろう?」
「もちろんですよ。ただ――」
「ただ?」
「ちょっとだけ……ちょっとだけ呼吸を落ち着かせて下さい。一から話したいんで、何から話せば良いのか整理出来なくて……済みません、先輩」

 そう言って申し訳無さげに俯く。

「いや、気にするな。私も些か動揺をしているしな、ある程度自身の整理が出来たら、真の言葉でゆっくり話してくれれば、それで良いさね」
「はい……やっぱり先輩って優しいですね」
「莫迦者、今更気が付いたか」

 そう言って小さく笑ってやると、真も笑みを返してきた。
 普段通りのやりとりで、少しは心に余裕が出来てくれた様である。

「――」
「――」
「――うん、大丈夫」
 
 少しの沈黙の後、真は自分に言い聞かせるように呟いて頷くと、ぽつりぽつりと語り始めた。

「ボク……元々はメンズモデルとしてスカウトされたのは知ってますよね?」
「ああ」
「それ自体は良かったんです。男の子に間違われて、今まで何度かスカウトされた事があったので――ただ」
「ただ?」
「社長の誤解を解いた後、何を思ったのか急に『むむむ、ティンと来た!君、アイドル候補生にならないか?』って言ってきて」
「あ〜……うん、なるほどな」

 確かに社長が言いそうな事だ。
 突拍子も無い上に、年甲斐も無く茶目っ気がある人だからな。

 そんな事を考えながらも「しかし」と、口の中で言葉を転がす。
 それだけの『モノ』を、真の中に見たと言う事なのだろう。
 普段が普段なだけに妙なテンションと、気さくな人柄が前面に出ている社長だが、何事にも老獪な見極めが巧く、人物の本質を見る目は業界屈指と言われている。
 もっとも、それ以上に傍から見れば啓示を受けている様にしか見えない『悉く外れが無い』と言う神懸り的な直感に頼り過ぎる部分があるが――それが真を前にして突如と降りて来たのだろう。

「急に言われて戸惑ったし、それに何回も言いましたけどボクの家って本当に厳格なんです。だから断ろうって思ったんですけど――」

 そこまで言って一呼吸を置くと、僅かに逡巡するかのように視線を動かした。

「ボクって……ほら、女の子らしく無いじゃないですか」

 根を寄せて少しだけ自嘲気味に笑みを浮かべると、真は努めて音の軽い言葉を零した。
 こう言う事に関しては相変わらず、不器用だな。
 そう思わずには居られぬ程に、私の両目には痛々しく見えた。

「ん……あ、あぁ」

 だからと言って声を掛けるのも如何かと思い、言葉を濁すように曖昧に頷いた。
 言葉だけで否定してやるならば簡単だが、そもそも私は真が女だと言う事実すら気が付いて居なかったので『らしい』『らしくない』と言う問いに答える事が出来ない。
 今は話の腰を折らずに話を進めるのが一番宜しいのだろう。

「こんな風になったのも全部、父さんのせいなんです」

 私の反応を気にした風では無く、自分の内にある感情を発散するかのように少しだけ怒気を孕んだ言葉を真は呟く。

「父さん、本当は男の子が欲しかったんです。その影響もあって、小さい頃から空手を習わされたりして、男らしく為る様に育てられました」
「ふむ……」
「それに不満があった訳じゃないです。運動は好きですし……」

 そこまで言うと、語尾の切れが悪くなる。
 腹に一物有る物言いである。

「それ以外に不満があった、と?」

 言葉に詰まっている真の背中を押してやる。

「……はい。その御蔭で、ボクが物心付く頃から女の子らしい事をしようとすると、毎回決まって妨害を入れてくるんですよ。服装だって、スカートとか買っても没収されるし……一番女の子らしい服装が学校の制服って可笑しいじゃないですかッ!」

 興奮を抑えきれずに真は少し身を乗り出しながら、訴え掛けるように言ってきた。

「それは……何と言うか」
 
 ――言葉に出来ないな。
 人様の家庭事情なので言葉を口にするのが憚れると言うものあるが、単純に何と言えば良いのか困る所だ。

「あ……す、済みません」
「いや、気にするな」

 そんな私の様子を、自分が感情に任せたのが原因と思ったのだろう。
 罰の悪そうに、また少し恥らうように頭を掻きながら腰をソファーに深く下ろすと、気を落ち着けるように深く息を吐いた。

「だから――」
「……」
「だから逆に憧れてたんです、アイドルに」

 真のその声は、万感の想いが込められた呟きにも、想い焦がれるが故の悲愴な呟きのようにも聞こえた。

「なるほど、な」
「あんな華やかな世界で、可愛らしく踊れる女の子になりたいって……そんな夢を見ちゃったんです」
「ふむ――」
「そしたら、そしたら社長が、アイドル候補の候補として働いてみないかって。仕事の内容は今のボクがこなしているような内容だけども、直(じか)にアイドルに会う環境で空気を感じ取って貰って……いずれは、って」
「ほぉ」

 何かを感じ取ったのか、それとも話の中で見抜いたのか――基本的に女子供には無類に優しい社長なので、色々な思慮を含めた上での結論だとは思うが、少なくとも真にそれだけの配慮をしても良い位の『資質』を見たのだろう。

「随分と無茶な事を言う人だな、って思ったんですけど……バイトを探していたのは本当だったので『女は度胸、何でもやってみなくちゃ!』って思い切って話を受けたんです」

 そう言って、真は右手を小さく振りながらガッツポーズをいつものように見せてきた。
 全てを話してスッキリとした、と言った所なのだろう。

「今では、社長から話を受けて良かったって心の底から思ってます。先輩にもこうやって出会えた訳ですし。けど……やっぱり、夢は夢だって解っていても、皆さんを見てると自信を無くしちゃいますよ」

 私に向けてくる笑顔は、いつもより少し弱々しいが変らぬ快活な笑みと思っても良いだろう。
 やはり真は湿った空気よりも、軽やかな空気の方が似合っている。

「あ、先輩!何で笑ってるんですか!?」
「いやいや、ついな、つい」
「もぉ、そう言って誤魔化て……ボクと他のアイドルを比較して居たんでしょ?」
「そいつは深読みのし過ぎと言うものだ」
「むぅ……怪しいなぁ」

 そう言って目を端に寄せながら真は覗き込むように見てくる。
 その仕種を見て「あぁ、なるほど」と、妙な納得をした。
 ――男心も移り変わりが早いのかと思っていたが、真の性別が判明した今『女心』ならば致し方が無いか。
 どちらにせよ、実に難儀な。

「はぁ……くっそぉ〜、やっぱりボク、色気無いですよね。身体だってほら、筋肉がついて全然女の子らしくないですし」

 薄手の生地越しに、自身の胸やら腿やらを触れながら確かめるように触っていく。
 先程の会話でも解っていた事だが、如何やら自分の身体や性格に劣等感(コンプレックス)に近いモノを抱いているようだ。

「そんな事は無いぞ?」
「あははっ……そう言って貰えて嬉しいですけど、大丈夫ですよ、自分でも解ってますから。クラスの女の子とかと話してて解ってた事ですけど、僕がアイドルに成れたとしても格好良い王子様見たいな役回りだって。『塚系』って言えば良いんですかね?」
「あぁ〜……」

 それは確かに、的を得ている。
 整った顔立ちと、そんじょそこらの男よりも男前な性格。
 真の学友である『女学生達』ならば、夢中になるであろう。
 そこは「モテないで居ろ」と言うのが難しい話かも知れぬな。

「だけど、だけども夢を見ちゃいますよ――可愛いお姫さまって夢を」

 そう呟く言葉は先程よりも重い響きでは無かったが、それでも憧れと、諦めの混じった呟きだった。

「格好良い王子様……ねぇ」

 確かに普段の真の性格や容姿を見ていれば、そうかも知れないが。

「先輩も……そう思います、よね?」

 自分の評価は解っているとばかりに気丈に振舞いながらも、不安と僅かな期待を込めて上目遣いで覗いて来る真からは『格好良い王子様』の姿は見て取れない。

「実直な意見を言わせて貰うならば……可愛いお姫様では無いだろうな」
「……」
「しかし、格好良い王子様、と言うのも違うな」
「え?」
「そうだな、あえて言うならば――『格好良いお姫さま』と言う奴かな」

 思い出されるのは『手塚治虫』先生の描かれた『リボンの騎士』のヒロインであると同時にヒーローであった『サファイア』と言う主人公。
 そこまで言ってしまえば極端かも知れないが『普段の真』と、『先程までの真』の両者の差(ギャップ)を思い出すと、何と無く『格好良いお姫さま』と言う表現が一番的確な気がしたのだ。

「格好良い、お姫さま?」
「そうだな」
「とは言え女としての真の部分を知らぬから何とも言えないので、何と無くだがな。そこらへんは、今後を見て行けば追々答えが見えて来ようて」
「今後、ですか……そ、そうですか。えへへへ」

 何が嬉しいのかは今一良く解らないが、機嫌が良くなって来たのか明るい笑みを浮べ始めた。
 これは――追撃すべきと判断する。
 様々な事があり過ぎて、少なからず気も落ちていよう。
 今のうちに真の機嫌を良くして置くべき。

「それに、今まで気が付かなかった私が言うのも何だが、真が女だと聞いても全く違和感が無いからな。何せ、元々が美人な顔立ちだからな」
「せ、先輩、本当ですか?」
「おいおい、そう疑ってくれるな。私が真に虚言を弄した事があったか?」
「それは、その……けど――」
「現に、話を聞いている途中、お兄さんはドキドキものだったぞ?」

 誇張は入っているかも知れないが嘘は言って居ない。
 それに、真は『可愛い』と言う感じでは無いが『美人』と言う表現は強ち(あながち)間違っては居ない。『麗人』と言うには、少々幼過ぎるが。

「あはっ、へへへ……」

 圧勝。
 そんな二文字が脳裏に見える程に、劇的に真の表情が変化した。
 置き所が無いのか忙しなく両手は動き、破顔一笑と言った面持ちで、口元を綻ばせて真は満面の笑みを浮かべながら、照れに照れている。
 それ故に出た一言だったのだろう。

「その、実はボクが社長にバイトをしてくれと言われた理由があったり……」
「ぬ?」
「実は、社長に先輩の監視も頼まれていたりして……」
「何っ!?」

 真の口から『ほころり』と思わぬ事実が転がり落ちた。
 寝耳に濁流と言った心境である。
 思わぬ発言に反射的に腰が浮き上がった。

「具体的には伝えられませんでしたけど、社長は『私も彼には色々と助けられたので、とやかく言いはしないが、彼は原子核だから何が起こるか解らない。何かあったらば、その都度報告して貰いたい』って言ってましたよ」
「社長……」
「そう言えば、原子核って何なんですかね?」
「――」

 それは誰よりも私の方が知りたい。
 ――信頼はされているかも知れないが、信用はされて居ないのだろうか。
 今までの数年間を疑ってしまいそうになる発言に、思わず天を仰ぐ。
 それよりも、あらぬ誤解を招くような物言いは勘弁して貰いたいものだ。
 大方の予想だが、社長が言っている業界内での情の通じ合い――端的に言えば恋愛事だろう。

 ふと思い出すのは、社長が嬉々として語った業界内での御法度に対する話。
 マネージャーとタレント。
 プロデューサーとアイドル。
 またはそれに類する組み合わせ。
 昔よりアイドルと言う偶像に傷を残すと恋愛事は揉み消されていたが、如何にも『あの事件』を切っ掛けに風潮が幾分か変ったと言う。
 勿論、マスコミにも匂いを嗅ぎ取られるような、それこそ爪先から頭の先までどっぷりと恋愛事にのめり込むようなモノならば即刻排除される。
 然し、恋をする事で輝き、仕事にも熱が入り、結果的にアイドルとしての魅力が引き立つ場合もあるらしい――その如実な例として挙げられるのは、記憶にもある『歴史的トップアイドル』が恋愛を原動力に、想い人を支えに揺ぎ無いほどの金字塔を打ち立てた事件だろう。
 事件、と言う言葉は語弊があるかも知れないが、少なくとも業界関係者の間では『事件』と言っても差し支えの無い衝撃だった、と聞き及んでいる。
 なので、マスコミの問題にならない程度には見てみぬ振りをして居ると聞いていたが――それ以外にも、社長は色々と楽しんでいる節がある。
 私もそう見られているとしたならば――

「あっと、そのえっと……あ、そうだ、先輩!」
「ん、ああ、何だ?」
 
 思案に耽っていた私に真の声が聞こえて来た。
 その表情から、私を気遣って話を変えようとしているのが見て取れる。変らない不器用ながらの心配りに、少しだけ頬が緩むのを自覚した。
 仕事の面では、あれだけ器用に立ち回れるのに変った奴だ。
 
「ん、何だ?」
「よ、良ければで良いんですが……アイドルのレッスンとか受けさせて貰えないですか?」
「そいつは……アイドル候補生になるのが踏ん切りついたのか?」
「それは、その――」

 そこで言葉が詰まった。
 話を変えようとしたのは良いが、これと言って何か話題になるようなものを用意しておらず、結果として思わず本音が零れた――と推測する。
 その読みは当たらずとも遠からず、間違いでは無かろう。

「忙しい……ですよね?」

 戸惑いながら上目遣いで覗き込んでくる真は、寂しげに見つめて来る猫のそれであった。
 抗える訳が無い。

「……次の日に仕事が立て込んで居ない場合を条件に、仕事終わりであれば、な」
「え、良いんですか!?」

 思わず声を荒げてこちらを見てくる。
 その表情は驚きと、少しの期待に満ちていた。
 私が受けるとは思っても見なかったと言う所だろう。

 この話の流れを私が『激流の如く』と思わずに、すんなりと受け入れれたには少々の訳がある。
 もっとも、それは「思い返せば――」と言った文章が、話の始めに来るが。
 そんな事をついと考えながら、真の反応に対して私は笑みを浮かべながら口を開いた。

「……アイドルの衣装を着てみたいと言うのもあるんだろ?何せ、今話題の『暴歌ロイド』――だったか?それの人形をニニョニニョしながら買っていた程だったしな」
「えっ!?し、知ってたんですか?」
「知っているも何も……仕事の帰りに隙を見つけて買って来ていただろ。隠したいと思うならばその様な横着をするな」
「ううぅ〜……って事は、今まで『男』の僕がそう言った趣味だと思っていたんですか!?」
「まぁ、そうなるな。当時は『随分と可愛らしい物を……』と思っていたが、少女趣味だろうが何だろうが、他人に迷惑を掛けぬならば存分に楽しめば宜しいと、生暖かく見守っていたさ」

 そういったことに対して余り偏見は無いので何とも思わなかったし、本人が隠しているようだったので触れないで置いていたが、今ならば突っ突いてやっても良いだろう。
 身振り手振りを加えて慌てふためくその姿を楽しむ。
 ――当分はこのネタで弄らせて貰おう。
 仕事終わりに多少とは言え時間を割くのだ、これぐらいの事は許されるだろう。

「と言うか、事務所に置いてある女性向けのファッション雑誌やらも熱心に熟読しては、阿呆みたいにニニョニニョしている時もあっただろ――隠す気は無いものだと思っていたが」
「いっ!?え、あっと、それは……」
「まぁ、そんなに慌てふためくな。むしろ喜べ、そう言った事に興味あるのは『アイドル候補生』とは言え武器になる。」
「……え?」
「それに今の反応を見るに、やはりこの世界に興味は人一倍以上であるようだしな。やりたいんだろ――『アイドル』って奴を、な?」

 そう言って笑みを浮かべながら真の事を見る。

「――はいっ!」

 真も私の表情から何かを察したのか、真剣な表情で大きく頷いた。

 伊達や酔狂と言うのも否定はしないが、それだけで真に付き合ってやる訳では無い。
 社長が見極めた、真の資質と言うものを見てみたくなったのもある。
 そして、私自身が感じた真の潜在的な力を。
 原石を見つけては磨きたくなり、そしてどの様な輝きを魅せてくくれるのか気になってしまうのは我ながら難儀な性分である。
 常々「この業界でしか生きて行け無いのでは?」と、思ってしまう。
 そして、それも悪く無いと心の奥で笑っている自分が居るのも自覚している。

「良し、如何なるにせ全力で取り組むぞッ!――さすれば、アイドルと言う世界を僅かながらに魅せてしんぜよう。取り合えず、今日から私の事はプロデューサーと呼ぶ事から始めるとするか?」
「えへへへっ……はいっ!全力で頑張ります、せん――プロデューサー!!」

 そう言った私はきっと笑っているのだろう。





 何せ、目の前の真が輝かんばかりに笑っているのだ。
 間違いなかろう。





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